Stay foolish



ゆっくりと閉まる扉を呆然と眺めた。
伸ばされた腕は彼を引き留められず空中で行き場をなくしている。
左手の上に転がるピアスに視線をやり頭を抱えた。
追い駆けたいが一瞬の迷いのせいで、今から走っても景吾を探し出せない。
細く、長い溜め息を吐き出したとき、ポケットに入れたままの携帯が鳴った。
発信元も確認せずに乱暴に電話に出る。

『翼、今家か?』

声の主はハジメで、なんてタイミングが悪いんだとうんざりした。

「家だけど」

『よかった。今お前ん家の駅の近くにいるからちょっと寄るわ』

「ああ、そ…」

ぶつりと電話を切り、廊下の壁に凭れ、ずるずるとしゃがみ込んだ。
左手を開けてもう一度ピアスを見る。誰の物かわからない。この部屋に来たことがある女性は姉か大学の友人が数名。
それもやらしい目的ではなく、男女合わせて数名で宅飲みして、きちんと終電までに帰ってもらった。
断じて触れていないし、セックス自体、強姦紛いに景吾を抱いてから一度もしていない。
刑場で罪の告白をする罪人のように心の中で誓って嘘ではないと言った。本人に言わなければ意味はないのに。
だけどそれを景吾に言ってどうするのか。きっと彼はもう自分の言葉を信じてくれないし、「だからなんですか?」なんて言われた日には死にたくなる。

「お前鍵かけろよ」

ぎぎ、と嫌な音を立てながらハジメが顔を出した。

「今客が帰ったとこなんだよ」

「ああ、女か」

「景吾だよ!」

名前を言うとハジメは目を丸くして、次に思い切り顔を顰めた。

「お前はまた景吾君を追い詰めてんの?」

「そんなことしてない」

「どの口が言うのやら」

「俺って本当に信用ないよね。多方面に」

「そういう生き方してる代償だろ」

「まあ、そうだけど…」

三角座りの膝の上に額を乗せ、意味もない言葉と溜め息を吐いた。
ハジメは勝手に部屋に入り、探し物を見つけたようでまた玄関に戻ってきた。

「じゃあな」

「ちょ、ちょっと!見るからに落ち込んでんのにどうした?とかなし!?」

「いや、どうせお前が悪いんだろなあと思って」

「うわあ。お前本当に冷たいよね。親友の大ピンチだってのにさあ」

「話し聞いてほしいなら聞くけど、お前の味方なんてしないからな」

「聞く前から決める?」

「景吾君とお前の問題なら百パーお前が悪い。ちゃんと謝れ。以上だ」

「早い早い。結論早いよ。ちゃんと聞いてよ」

ハジメは心底面倒そうな顔を隠しもせず目の前に胡坐を掻いて、手短にと吐き捨てた。
先程までの経緯と女性物のピアスを見せるとふん、と鼻で笑われた。

「自業自得」

「なんで」

「日頃の行いが悪いせい。お前がもう少しまともなら言い訳する時間くらいはくれるだろ?」

「それは…そうかもしれないけど」

「つーかさ、お前なんなの?景吾君じゃなくても思うぞ。一体なにがしたいんだこいつは、って」

「大学行ったからって急に連絡なくなったりとか変じゃん。前みたいに話したり遊びに行ったりしたいじゃん」

「それはどういう立ち位置で?景吾君もそこが引っかかるんだと思うけど?お前も薄々わかってるだろうけど。わからないなら心底馬鹿だし、そんな馬鹿につける薬はないね」

「きついなお前!」

「景吾君はお前をちゃんと見てくれてたのに蔑ろにし続けて、はっきりとした言葉も言わずにやっぱり景吾がいないとだめなんだ、って都合よすぎだろ?」

返す言葉もございません。
自分が悪いのは百も承知。もう景吾には二度と連絡しない方がいいと思った。自分の都合で振り回していい子ではないとわかっていたし、高校最後の方など一緒にいても景吾から笑顔が消えていた。大輪の向日葵が萎れていく様を見ているようで胸が痛んだ。
なのに彼を見るとどうしても手を伸ばしたくなる。こちらに向かって笑ってほしいと願ってしまう。
その度自分の苦い過去を思い出し、伸ばした手を拳に変えて耐えていた。
結果、散々振り回して一生分傷つけただろう。強姦紛いに抱くなんて最低の極みだし、そんな風に身体を奪っても景吾の心は離れていくとわかっていたのに。

「わかってるだろ」

ハジメの語調が厳しくなり、彼に視線を移した。

「もうわかってんだよな」

もう一度確認するように言われ、ぐっと喉を詰まらせる。

「それでも怖いならもう二度と景吾君には連絡するな。なんなら今番号消してやるよ。仁や涼にも絶対教えんなって言っとくから」

「それはちょっとひどくね?」

「ひどくないね。ほら、携帯寄越せ」

「やだよ」

「翼。どっちかしか選べないんだぞ」

「……じゃあもう景吾にはちょっかい出さない」

どちらかと言うならそれが一番いい。自分は恋愛に向かない。綺麗で、ふわふわと柔らかい愛で相手を包むなんて無理だ。
自分はすべてを欲しがってしまう。乱暴に心を掴みにかかって相手を傷つける。
頭の奥、脳を直接揺さぶるように細い泣き声が響く。この声。何年経っても忘れられない。
足先を見詰めるようにすると無言だったハジメが溜め息を吐いた。

「そんなラインとっくに超えてるだろ。僕は景吾君なら大丈夫だと思うけどね」

なにも言えないでいるとハジメは髪を掴んで無理に顔を上げさせた。

「いつまでそこにいんの」

彼の真摯な瞳は静かに燃え、数秒見詰め合って降参と白旗を振るように視線を逸らした。

「…お前、本当にきついわ…」

「愛の鞭ってやつ?」

「愛ねえ…。葵さんに全部注いでるから他に分ける愛なんてないと思ってた」

よっ、と掛け声を出しながら立ち上がった。

「博愛主義なんだよ。こう見えて」

「ああそう!はいはい!」

むかつくのでしっしと手を払ってやった。
ハジメは上質な革靴をはきこちらを振り返る。

「お前はそんな格好悪い奴じゃなかったよな。あれから何年経ったと思ってる。いい加減立ち直れよ。今まで気遣って言わなかったけどマジうざいんですけどー、うけるー、って感じ」

いきなり女子高生の口調で言われ、ふっと笑ってハジメの肩を拳で叩いた。

「わかってる」

短く言うと、彼はふんと不遜に笑って部屋を去った。

「…わかってんだけどなあ…」

頭を両手で抱えてぼつりと言った。
進学し、女性からそれとなく誘われてもまったくそそらない。そんな気分になれない。思い出すのは景吾ばかりで、きっと今頃彼はクソみたいな男に捕まったなあ、なんて嫌な思い出として封をしているに違いないと想像した。
連絡できなかったのは怖かったから。着信拒否されてるかもしれない。二度と電話しないでくださいとか言われたらどうしよう。
彼の前では平気な顔を作るのに苦労した。笑ってくれるし、普通に話してくれるけど、どこか他人行儀なよそよそしさを感じ、ああ、自分は過去の人になってしまったのだと思った。
それが悲しくて、もう一度満開の笑顔が見たくて引き留めた。
だけど結局怒らせて、君を考えてたと言った矢先に女性物のピアスが出てくるなんて、調子のいい男だと思われただろう。
わかってる。切ろうとしても切れないもの。切りたくないもの。離したくない、傍にいてほしい、彼がどんな生活を送っているのか気になってしまう。
これが恋というものなのだろう。今まで見ないように目を背けてきたけど、たぶん前から心の端っこに存在した感情。
今更どの面下げて、と思う。好きなら大事にするのが当然だし、態度で表すものだ。
過去の自分を振り返ると信じてもらえない。自業自得。悔いてもそういう男だったからしかたがない。
見ぬ振りを続けた最低な思い出がちらつく。瞬間、全身が粟立ち指先から冷えていく。昔はそこで途切れた。だけど今は違う。先輩、先輩と笑顔を振りまく彼が脳裏に浮かぶ。
ずんずんと遠慮なしで心に入り込まれるのに不快に感じさせない、不思議な子だと思った。
おもしろがっているとそれはいつしか心地良さに変わり、暗い場所を好んで歩いていた自分に光りを当ててくれる存在になった。
―――僕は景吾君なら大丈夫だと思うけどね。
ハジメの言葉が耳の奥で響き、鞄を掴んで立ち上がった。理性で押し殺しても本能が欲しがる。心が勝手に引き寄せられる。
駅まで走りながら景吾に電話をかけたが繋がらない。
今度は仁に連絡し、お願いだから繋がってくれと願うと数コール目で間延びした声が聞こえた。

「仁!景吾から連絡あった!?」

『ないけど』

「お前今どこ」

『寮だけど』

「俺も今からそっち行くから。景吾に会いたいんだ。でも連絡つかなくて」

『はあ?まーた景吾怒らせたのかよ』

「説教はハジメにされたからもういい」

『あのさあ、なんで俺がこんな面倒な頼み聞いたかわかる?いい加減にしろよ、二度目はねえぞって意味を込めて引き受けたんだけど』

「わかってる。これが最後でいい」

『本当かよ。ゆうきがぷりぷり怒って目も合わせてくれないんだけど』

「それはお前らの問題だ」

『それくらいお前の印象がクソってことだよ』

「お前ら兄弟は本当にさあ…」

言葉を区切り、声色を落とした。

「ちゃんとする」

『…マジで、マジで最後だぞ。今回逃したらお前は本物のクズだからな』

「わーかってるよ」

『あーあ。俺はいつからこんなお人好しになったんでしょ。また連絡するから急いで来い。じゃあな』

ぶつりと電話が切れたのと同時に駅につき、慌てて電車に乗り込んだ。


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