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二月も下旬だというのに、今日は朝から風がなく日差しが強かった。
木枯らしに身体を小さくして過ごしていたので、春が間違ってやってきたような陽気に嬉しくなった。
それは自分だけではなかったようで、昼休みを教室で食べ終えると外で遊ぼうと楓が言った。ぐるぐるとマフラーを巻き、文句を言う蓮と秀吉の手をとって楓が走って行く。
「俺らも行くか」
「俺はパス。寒いじゃん」
「そう言わず。今日は温かいし、太陽浴びないと身体に悪いんだぞ」
絶対に暖房の近くから離れてなるもんかという強い気合を見せるゆうきの腕を引いた。
マフラーとコートを着せてやり渋々といった様子の彼に苦笑する。
楓たちは一足先にサッカーボールでリフティングしながら落としたら罰ゲームと騒いでいる。
ゆうきはベンチに腰掛け途中で買った温かいお茶を両手で包んだ。
「お前は行かないのか」
「うーん。たまにはお兄さんぶろうかと」
「なんだそれ」
「子どもを公園で見守る親的な」
「そんなの景吾には誰も期待してないぞ」
「だっていつもゆうきが保護者役じゃん。俺もそれやりたい」
「…ああ、そ。好きにすればいいけど」
とは言ったものの、黙って座っていると寒さが滲みる。身体を動かせばこのくらいなんてことないのに。
「寒い」
「だから言っただろ」
呆れたように言われたので、ゆうきが持っていたペットボトルを取り上げてそれで暖をとった。
「温かい…」
するとゆうきはブレザーのポケットからカイロを取り出した。
「ゆうき何個あったかグッツ持ってんの」
「いっぱい」
「服も何枚着てんの?もこもこしてんじゃん」
「コートいれて五枚」
「おじいちゃんかよ…。それで暖房からも放れないんだからすごいよお前。寒いならもっと贅肉つければいいのに」
「つけてる。これでも年々太ってる」
「ほーう」
とてもそんな風には見えないので胡乱な視線を向ける。
木内先輩もゆうきの細さを心配してたくさん与えているらしいが、ゆうきは欲張りではないのでいつも一つでいいと言うらしい。
自分が木内先輩の恋人だったら美味しいご飯を山のようにご馳走してもらい、酒池肉林の日々を楽しんだだろう。
神様はきっといて、欲深い人間の元にその欲を際限なく満たせる人は宛がわれないようできている。
「……もうすぐ卒業式だな」
躊躇いがちな声色に、何を言わんとしているか察した。
「…そうだね」
「お前は梶本と…。その…」
「別になにもないよ。先輩は受験で忙しかったし、冬休み前から会ってない」
「そうか」
梶本先輩との間のいざこざは誰にも話していない。
ゆうきも木内先輩との出来事を話さないし、二人が今どんな状況かも知らない。一緒に下校したり、木内先輩が部屋に遊びに来て上手くいっているのだと間接的に知る程度だ。
「…今のまま卒業になっていいのか?」
「…うーん。痛いとこつくねえ」
「お前のことだからはっきりさせないと気が済まないんじゃないかと思って」
お互い、視線は楓たちに向けたまま話した。表情が見えると余計な感情を孕んでしまいそうになる。特にゆうきは。卒業前に先輩を一発殴るとか言いそうだ。
「そうだねえ。そういう性格だと思ってたけど、先輩のことに関してはまあ、このまま終わりでいいかと思ってる。元々始まりもふわふわしてたし、そもそも始まってたのかも疑問だし。俺が諦めれば終わりなんだから、梶本先輩じゃなくて俺の問題だしね」
「…そっか」
「うん。きっつい片想いしてたなあっていつか笑い話しになるといいけどな」
「……大丈夫。お前はすごくいい奴だから、女にモテる」
「あ、それゆうきが言う?嫌味じゃね?」
「俺はモテたことなんてないし、嫌味じゃない」
「そうかなー。ゆうきが無関心なだけで想いを寄せてる女の子がいるかもよ?」
「どこに?こんなむさ苦しい男子校の中にいるのに?」
「それは、街で見かけたりとか、電車が一緒になったりとか、文化祭で見たとか、出会いはたくさんあるんだから」
「ふーん」
いまいちぴんときていないのが伝わる。
冗談ではなく、淡い恋心や憧憬を抱いている女の子が数人いてもおかしくないと思う。彼はまったく興味がないし、木内先輩で手一杯だと言うだろうけど。
「神様って不公平だなあ。モテたい俺はモテないのに、すかしてるゆうきがモテるんだもん」
小さく溜め息を吐いた。
「だからモテないし、すかしてない」
むきになるゆうきの頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。
やめろと言いながら手を振り払われ、細い髪が絡まっているのを一生懸命ほどいている。
その姿に微笑み立ち上がった。
「そろそろ戻ろっか」
楓たちは罰ゲームが蓮に決まったようで笑いながら手を叩いている。
「…ゆうき、ありがとな」
「……おう」
短く小さな返事に柔らかな感情が含まれているのを知ってる。
不器用で、無精で下手くそ。硬い鎧をまとっていて、だけと中心は優しく柔らかく真っ白。一本芯が通っていて自分を見失わない。そんなゆうきの性格がとても羨ましいと思う。
「授業始まるから戻るぞー!」
楓たちに声をかけ、汗を拭う姿に笑みが零れた。風邪をひかないといいけれど。
放課後、賑やかな教室の中で携帯を操作して数件のメールに返信をした。差出人は友人からだったり、家族からだったり様々だ。
今日は遊びの誘いがないので大人しく寮に戻り、途中だった漫画の続きを読もう。頭の中で予定を整理しながら携帯をポケットに入れた。
「景吾、客」
楓に肩を叩かれ指差された方に視線を移す。
扉の外側に立つ梶本先輩と視線が絡まり、彼は笑顔で手をあげた。
なんの約束もしていないはずだが。寝惚けて彼に変なメールでもしたのだろうか。
不安が渦巻き行くのを躊躇うとこっそりとゆうきが行って来いと背中を押した。逃げるなと言われているようで、男らしい自分でありたいという理想をぎゅっと握って先輩に近付いた。
「急にごめんね。一緒に帰ろうって言ってただろ?だから迎えに来たんだ」
梶本先輩は制服を着ているが、三年は自由登校なのでわざわざこのために学校に来たらしい。
あんな些細な口約束。もっと守ってほしい約束は他にあったのに。
「…そうでしたね。じゃあ一緒に帰りましょうか」
辛気臭くならぬよう、これが最後なのだからと鼓舞して笑顔を見せた。
寮に着くまで並んで歩く。その足取りは彼も自分も躊躇うようにゆっくりで、見慣れた景色がセピア色に霞んだ。
寒いですね。受験お疲れ様でした。合格しているといいですね。
他愛もない会話で場を持たせる。首に巻いているマフラーを表情を隠すようにぐいと押し上げた。
絶対に中身を知られてはならぬパンドラの箱を抱えているような緊張感がある。最後に希望が残ったというが、残念ながら自分の箱の中に希望は一筋もない。
悟られぬよう、気取られぬよう、じりじりと近付く別れなど微塵も痛くないのだと笑って、笑って、だけど合間にふと疲れて無表情になってしまう。
「じゃあ、先輩またね」
ロビーについて心の底から安堵した。あと少し。あと少しだけでいい。暴れたがる心を鎮める。
手を振ると先輩も笑顔で応えてくれた。
よかった。最後までちゃんと自分でいられた。皆の目に映る相良景吾でいられた。
部屋に入り、一人きりになったら頭を抱えて唸るかもしれない。行き場のない想いを発散するように。
つま先を眺め、男らしくいたいと願ったのに上手くできない自分が情けないと思った。
恋をして初めて知った。自分は案外女々しいと。これじゃあ女の子にモテなくてもしょうがない。
自棄になりそうで、だけどそれじゃあ自分が更に傷つくだけなので、男とは何か木内先輩の元で修業でもしようかとぼんやり考えた。
とりあえず今日はゆうきに少し甘えさせてもらおう。何があったか言わずとも、元気がなければ彼は自然と甘やかしてくれる。
眉を少し寄せ、瞳を震わせ、滅多に見せない切ない表情で唇を噛み締めながら頭を撫でてくれるのだ。
明日は来るし、明後日も来る。泣いても叫んでも先輩は卒業し、ぼんやりとした想いは届かず消えていく。
人生は上手くいく方が少ないらしい。特に恋愛に関しては。高校生になってやっと知った。
自室に入り、鞄を適当に放り投げた。急いで暖房を付けコートとブレザーを脱ぎ捨てる。
ベッドに腰掛け肘を腿につけながら頭を抱え込んだ。
扉が開いたので、ゆうきー、と情けない声で呼ぶ。人が近付く気配があり、ぽんと頭に手を置かれた。
「…ゆうき君じゃなくてごめんね」
予想外の声に慌てて顔を上げた。
「…なんで」
「…ごめん、勝手に入って。もう少し話したくて」
情けない表情を隠すようにセーターの袖口で口を覆い顔を背けた。
心の準備をしないと感情が決壊してしまう。いつも通り、なんの意味も含ませずさようならを言えたのに。またねと、ありもしない次をわざと示唆して。
自分の努力をことごとく蹴散らすこの人が憎い。もう少し話したいなんて、何を話せというのだ。こちらはこれから二年間同じような毎日を過ごすだろうし、先輩は新しい世界に足を踏み入れる。残される者の気持ちなどお構いなしだ。
「景吾、あんな最後じゃ嫌なんだ。ちゃんと話そう」
「…なにを、話せってんですか。話すことなんてもう…」
とても顔なんて見れないし、こんな情けない顔を見せるわけにもいかない。
身体を捻じるようにして背を向けた。
ベッドが軋み、彼が近くに腰掛けたのだとわかった。
「やっぱり俺のことまだ怒ってる?」
怒ってる?
怒ってるよ。あの時のセックスが原因ではない。弄んで最後まで鎖を離さない行為にだ。
愛しいと思った倍の力で憎しみが生まれる。愛憎は紙一重らしい。
綺麗に別れたかった。喧嘩なんてしたくない。なのにもうどうしていいのかわからなくて泣き叫んでめちゃくちゃに殴りたくなる。
何も答えずにいるとそっと後ろから抱き締められ、反射的に身体が強張った。
「ごめん。本当に悪かったと思ってる。反省したし、もうあんなひどいこと絶対にしないから」
見当違いの謝罪を受け、言葉尻を捕えて皮肉を言いそうになる。
「だから…。だから…」
先輩は次の言葉を探して項垂れた。
だから、なんだというのだ。また従順な玩具になってほしいとでも言うのだろうか。
「だから、なんなんですか…」
搾り取ったような声が出た。震えそうになって慌てて唇を噛んだ。
「だからまた暇潰しに付き合えってんですか…」
「…景吾…」
「もう、もうやめて下さい。謝ったりしないで下さい。優しくなんてしないで下さい。抱き締めたりなんて…」
目の縁に涙が溜まり、ぎゅっと強く瞑った。
怒りで涙まで出るなんて本当にどうしようもない子どもだ。
「ごめん。泣かせたかったわけじゃなくて、俺は――」
「最後くらい…。最後くらい俺をこっぴどく振って下さいよ。最低な奴だったって。なんで好きだったんだろうって、そう思わせて、下さいよ…」
セーターでぐしゃぐしゃになった顔を覆って涙を吸い込ませた。
最悪だ。最後の最後に泣いて、本音をぶちまけて、先輩に八つ当たりして。
自分が一方的に好きになって、遊びの関係に甘んじて、なのに勝手にそれ以上を求めて。
梶本先輩は悪くない。先輩の言葉に迷うのも、行動に傷つくのも、笑顔にときめくのも、全部全部自分の勝手だ。恋人同士じゃないのになにかを望むなんて間違ってる。
なのに言葉が止まらない。
「さよならなんて改めて言われて、俺どうすればいいんですか。ぼんやりしたまま別れてなんとなく忘れるつもりでいたのに」
「…ごめん。俺の我儘でまた傷つけて。景吾の笑った顔が見たいのに、真逆のことばっかしちゃうなあ…」
呆れたような溜め息を吐き、先輩はもう一度ごめんと呟いた。何度目の"ごめん"だろう。
この部屋に来てから謝ってばかりだ。
ぐすぐすと鼻を啜り激情が静かに沈んでいくのを待った。怒りの次には後悔が顔を出す。なんてひどい最後にしてしまったのだ自分は。
笑ってほしいと彼は言ったが、それは自分も同じで、謝ったり後悔なんてしてほしくない。
謝られた分だけ自分との関係は間違いだと言われている気がする。
「…すいません、泣いたりして」
まだ間に合うだろうか。彼を笑顔にできるだろうか。
今からでも綺麗な最後にしたくて、色んな感情は端に寄せて口角を無理に引き上げた。
「先輩、あのときのこと怒ってませんよ。大丈夫です」
回された腕に手を添えて先輩に向き合った。彼ははっとしたようにこちらを見て、ぐにゃりと顔を歪ませた。
「…無理しないで怒っていいんだよ」
「やめて下さい。俺女の子じゃないし、あれくらい平気ですから」
喧嘩別れが一番嫌で、ぱりぱりとひびが入る心を奮い立たせた。
後で散々泣いたとしても、今まで穏やかに梶本先輩に笑った努力を無駄にしたくない。
彼の記憶に自分が残る隙間はないだろうが、僅かな間でも可愛がっていた後輩、くらいに思ってもらえればいい。それ以上なんて望むもんか。
彼がどんな言葉を欲しているのか知らないが、気にしてない、大丈夫だと言えば心残りがなくなるなら何度でも言おう。
ばりばり、ぱらぱら、表面の壁が剥がれて心が剥き出しになる前に終わらせよう。
「気にしてないです。本当ですよ?だからそんな顔しないで。泣きそうになるのは大学落ちたときだけにして下さいよ」
「ひどいなあ、景吾は…。本当に受かるか落ちるかぎりぎりだってのに」
「はは。大丈夫ですよ。きっと受かってます。梶本先輩は運がいいから」
「…そうだね。そうだといいな」
迷子の子どものような表情から、穏やかな笑顔に変わったので安堵した。
激情に呑まれると自分たちはなにをするか、何を言うかわからない。再び波が来る前に上手にコントロールしなければ。特に梶本先輩はそれが苦手らしいから。
「先輩、元気でね」
きりがない空気を断ち切るように言った。
梶本先輩は口を開き、けれどなにも言わずにうん、と笑った。これでいい。どんな感情を抱えていようが幕引きは潔く、綺麗な方がいいに決まってる。
先輩が立ち上がったので自分も扉まで見送った。最後、最後と言いながら何度この人と顔を合わせたかわからない。だけど、物理的に離れれば未練たらたらで会うことすらできない。
「あのさ…」
先輩は扉の前で振り返り、もう一度身体を抱きしめた。
怖がらせないような、優しい抱擁なのに心がずきんと痛くなる。
「…今までありがとう。俺、お前と一緒にいられてよかった」
耳元で囁く声に、水位が急激にせり上がる。
泣いてたまるかと眉間に皺を寄せて耐えた。最後の思い出が泣き顔なんて絶対に嫌だ。
「…俺もですよ。楽しかったし、色々勉強させてもらいました」
「うーん。ちょっと嫌味がこもってるな」
「ばれましたか」
「…俺のこと好きだって言ってくれてありがとう。こんな俺を」
「…先輩はいい男です。優しいし、おもしろい。好きになってくれる人はたくさんいます。もし彼女ができたらうんと大事にしてあげて下さい」
「…うん…。うん…」
身体を離す気配がないので、彼の背中をぽんぽんと優しく叩いた。それを合図と受け取ったのか、ゆっくり身体が放れていき、彼は優しく微笑んだ。
「元気でね」
「先輩も」
どちらも"またね"とは言わなかった。ああ、これで本当に最後なんだ。
ぱたりと扉が閉まる。一人になった部屋で、扉から視線が外せず呆然とした。
短い別れの挨拶は曖昧な関係を絶ち切るには十分だった。
子どものように泣いてやろうと思ったのに、彼が放れると涙は引っ込んだ。身体中の水分が消えたようにからからだ。心は痛みを感じる前に乾燥し、ひびが入ってそのうち砕けて砂になる。風が吹いて全部飛んでいって、何もなくなった場所にまた新しく色んなモノを詰め込んでいく。
誰かと別れるたび、これを繰り返すのだろうか。
曖昧な始まり、呆気ない終わり。梶本先輩との関係はすべてぼんやりしているが、一つだけ確かなのは自分の初恋は実らなかったということだ。
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