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「……景吾…」

ぽつりと呼ばれた声に金縛りにあったように身体が固くなった。
その口で、甘さを孕んだ声で名前を呼ばれるのが非現実に感じるほど彼は記憶の中の人になっていた。

「久しぶりだね。生徒会室に来るなんて珍しいね。何か怒られるようなことした?」

ぴんと張った糸のような空気を解すような揶揄する口調にはっとした。

「…いえ。すみません、お邪魔だと思うので帰ります。会長にもそう伝えて下さい」

背を向けると待ってという声と腕が伸びてきた。

「一に用があるんだろ?もうすぐ帰ってくると思うし…。それとも俺と一緒の空間にはいたくない?」

振り向くとこちらを窺うような目があった。
心の中で大きな溜め息を吐く。またこの目だ。これに見られると弱い。ここで振り解けないから自分はいつまで経ってもこの人の都合のいい玩具にされる。わかっていても心は言う通りにならない。

「…いえ。そんなことないですよ」

極力明るい声で言ったが、その言葉の本音は彼に伝わっているだろう。

「お茶淹れるよ。緑茶とコーヒーくらいしかないけど。どっちがいい?」

「じゃあ緑茶で」

応接ソファに座るよう指差され、彼は給湯室に消えた。
がちゃがちゃと陶器が擦れる音がしたあと、小さな盆に湯呑を二つ乗せて戻って来た。

「はい。お茶なんて淹れることないから手間取っちゃった」

置かれた湯呑を覗き込むと随分と濃い緑をしていた。これは緑茶というより抹茶の色に近い。

「…いただきます」

文句は言わず一口飲んだがやはり濃い。爽やかな苦みというよりも強烈な押し付けのような苦さがある。
梶本先輩も一口飲んでまずいと湯呑をテーブルに置いた。

「なにこれ。お茶ってこんな味になるっけ」

「お茶の葉入れ過ぎたんじゃないですか?」

「そうなの?よくわからないからたくさん入れたけど。難しいんだね。お茶って」

いつもどうしているのかと思ったが、先輩が生徒会室にいるのはまれだし、いたとしても高杉先輩あたりが率先してやってくれそうだ。その結果、お茶の一つも淹れられない副会長になったわけだが、自分もうまくできる自信はないので文句は慎む。
このお茶も別に飲めないわけではないし、捨てるのは勿体無いので飲みましょうと言った。

「えー。捨てていいよ。胃がおかしくなる」

先輩は自分はパスと湯呑を端に寄せたが、彼から与えられるのが珍しくて、自分のために行動してくれた過程に喜びを感じて、こんなお茶一つが特別なものに思える。重症だ。

「有馬の淹れたお茶が恋しいよ…」

「有馬、先輩…?」

名前と顔は知っているが彼に関する情報はそれだけだ。

「有馬は茶道をやってるからお茶淹れるのがすごく上手なんだよ」

「へえ。茶道ですか…」

結構なお手前でという漠然としたイメージしかわからないが、敷居が高い習い事は有馬先輩の雰囲気によくお似合いで意外とは思わなかった。

「俺も飲んでみたいな」

「滅多に淹れてくれないけどね。五十回くらいお願いしたらしつこさに負けて淹れてくれるかも。冷たいんだよ有馬は」

先輩は唇を尖らせ、まったく…。とごちるが、生徒会のメンバーはなんだかんだで個性豊かで楽しそうだ。自分がその中に入りたいかと言われると絶対に嫌だけど。

「梶本先輩も珍しくお仕事手伝ってたんですか?」

嫌味を込めながら笑顔で言うと酷いと泣き真似をされた。

「ま、もう卒業だからね。最後くらいちゃんとしようと思って」

「すごいじゃないですか。偉いです」

「わあ。普通のことしただけで誉められる俺って相当クズじゃね?」

それには特に返事をせず苦いお茶を啜った。

「何か言ってよ!無言の肯定しないでよ!」

ふふ、と笑いながら誤魔化すと丁度良く会長が戻った。

「遅くなってごめん。あれ、翼いたの」

「いたよ!」

「帰ったかと思った。なんだよ。翼がいるなら部屋でお茶した方がよかったね景吾君」

「はは」

「なんだよ一まで。景吾も否定してってば!」

先輩はどうせ俺なんて…。と膝を抱え始めたが、会長はそれに無視をして菓子をテーブルに広げた。

「しょうがないから翼も食べていいよ」

「言われなくても食うわ!」

湯呑を見つけた会長が経緯を察し、お茶の一つも淹れられないなんて、から始まり些細な口喧嘩を開始した。
自分は参加せず、物珍しさでそんな二人を眺めながらチョコレートを摘んだ。

梶本先輩と会ったら心臓が止まるんじゃないかと思っていた。
だけど実際そんなことはなくて、頭で考えるよりも普通に振る舞うことができる。人間ってすごい生き物だ。
凝った細工が施されたチョコレートを摘む。
口に放ると一瞬でほどけ、舌を撫でるような上品な甘さだけが残る。
自分の気持ちもこのチョコレートみたいだったらよかった。
見た目はとても綺麗で繊細で、些細な力ですっかり消えてしまうような。実際は踏んでも潰してもなくならず、躓いて転ぶ原因になる石と同じで、放り投げても放り投げても同じ場所に戻ってくる。足掻くのをやめれば楽になれるのに、しつこく対峙するから余計に気になる。

口喧嘩をする二人を後目にぼんやりと箱に手を伸ばし続けていると最後の一つになってしまった。

「…なんか、俺ばっかり食べてすみません」

梶本先輩はともかく、会長とはそれほど親しいわけではない。こちらも一応遠慮という感情はある。はしたない子だと罵られないだろうか。

「いいんだよ。景吾君に食べてほしかったんだから。僕は一つで十分だし」

「そうそう。一は家に帰れば菓子なんて山ほどあるんだから」

二歳なんて大した差ではない。三十歳も三十二歳も些細な違いだろう。なのに十代の二歳はその実十歳ほどの差があるように感じる。例えばこんな場面で。
朗らかに嫌味の一つも言わず後輩に分け与えようとする姿勢に余裕を感じる。
それとも自分が子どもすぎるだけなのだろうか。
ああ、きっとそうだ。恋愛一つもまともにできない子ども。今時小学生でも恋人がいるというのに。

「…すいません、ぼんやりしてると食べ続けちゃって」

苦笑すると会長は自分の机から別の小さな箱を二つ取り出してこちらに差し出した。

「これもあげる。いつも休憩につまんでたんだけど、景吾君が食べた方がお菓子も喜びそうだ」

「ありがとうございます」

「景吾を餌付けしないで下さい」

「餌付けなんて言ってるからお前はクズなんだよ。僕は純粋に景吾君に喜んでもらいたいだけ。他意はない」

「絶対ある。一に他意がなかったことなんてないね」

「性格悪いなお前」

「お前には言われたくないね」

また始まった。この二人はいつもこんな調子なのだろうか。
それとも受験のストレスでぴりぴりしているのか。

「まあまあ…」

立ち上がって二人の肩をぽんぽんと叩いた。大人の余裕なんて思ったがあれは撤回しよう。この人たちは自分たちでもしないような子どもじみた喧嘩をする。

「俺そろそろ帰ります。会長ありがとうございました。とても美味しかったです。理事長にもお礼を伝えて下さい」

「えー、景吾帰るの?じゃあ一緒に帰ろうよ」

「お前はまだ仕事残ってるだろ」

「明日やる」

「お前の明日は信じない。今やれ」

二人はいやだ、やれ、の応酬を繰り返し、呆れを通り越して可哀想になってきた。

「梶本先輩、卒業までもう少しですから最後くらい頑張って」

言うと、先輩はこちらを見て不貞腐れたように俯き、わかったと小さく呟いた。

「さすが景吾君。この馬鹿の操縦が上手だ。助かったよ」

「いえ。それじゃあ」

「景吾、今度!今度一緒に帰ろうね」

「はいはい」

苦笑しながら手を振った。
今度なんてあるのだろうか。卒業式までもう日がない。ただでさえ三年は自由登校だというのに。
リップサービスというやつだろうか。強姦紛いに手酷く抱いても笑顔を向ける自分を憐れんで最後くらいいい思い出をと。
だとしたらなんて残酷な人なのか。
気持ちに応えられないなら全力で嫌われるよう仕向けるのが優しさというものではないか。
中途半端に飴を与えられれば最後の欠片にすら縋ってしまいそうになる。いや、きっと縋るだろう。だから怖い。
"思い出の中の人"というカテゴリーに入れる準備をしていたのに、そんなもの一瞬で木端微塵になった。
また一から梶本先輩を過去に変える手順を踏まなければいけない。
それはとても辛く、滅入る作業だ。だがここで踏ん張らなければもう恋なんてしないと、先輩のように曖昧な関係を好む人間になってしまう。
しんどい、辛い、自分という人間が塗り替えられていくようだ。

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