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「先輩、大丈夫だから腕離して。さすがに苦しい」
「…ごめん」
おずおずと離れた身体に安堵し、すうっと息を吸った。
「じゃあ、帰ります」
立ち上がりながら言った。後ろは振り返らない。自分が今どんな酷い顔をしているかわからないからだ。
「え、やっぱり帰るの」
「遊んでばかりいたら大学の勉強についていけなくなりますよ」
「ハジメみたいなこと言うね」
「心配してるんですよ。留年しないといいなって」
「そんなへまはしないよ」
「そっか。それなら安心です」
一歩踏み出すとねえ、ともう一度腕を引かれた。
「なんでこっち見ないの?」
もう勘弁してほしい。来る物拒まず、去る者追わずではなかったのか。
こちらの感情など二の次で、自分の欲求を満たすためだけに傍に置いていたくせに。
放っておいてほしいときに限って彼は自分を引き留める。
肩を掴んでぐるんと回転させられ、床に視線を固定させた。
「…泣いてる?」
「泣いてません」
証明するように顔を上げ、瞳に力を込めて彼と向き合った。
「怒ってる」
「怒ってません」
子どものような応酬に自分たちは何をしているんだと呆れる。
「どうしたの。何か気に障ることあったなら言ってよ。景吾いつも我慢するし」
「そんなのないです。大丈夫です」
「嘘だよ。どうしたの」
空気読めよと理不尽な怒りが湧き上がり眉間に皺を寄せた。
怒りに任せて口を開き、言葉を発する前に我に返って閉じた。
「なに?俺のことは気にしないでなんでも言って」
言ったら最後だと思う。だけどどうせこれが最後だ。二人で会うことなんて二度とないだろう。
気付くと悩んでいる自分が馬鹿らしくなる。こんなに感情をぐちゃぐちゃにされるのは彼が悪いのではない。自分が勝手に振り回されているだけだ。
なら言いたいこと言ってすっぱり彼に嫌われようじゃないか。
「…先輩は俺のことどうしたいんですか?」
「え?」
「突き放したり必死に引き留めたり、過去のセフレにそこまでする価値ないと思います」
「…そんな、セフレなんて…」
煮え切らない答えなのに納得した。型に嵌めようなど思っていない。
環境が変わっても自分の都合で呼び出すから落ち込んだら全力で励ましてね。アフターケアはしないけど。他にも何人かそういう相手は作るよ。でも恋人じゃないんだし、束縛はしないでね。自由でいたいから。
彼の気持ちを勝手に解釈したが、概ね合っていると思う。
「大学生になったんだし、女性はたくさんいるでしょ。こんな高校生相手にしなくたって」
「…普通の友だちなら大学生とか高校生とか関係ないじゃん」
「悪いけど俺は身体の関係を持った人と友だちにはなれません」
世の中には肉体関係があっても友人関係を築ける人もたくさんいるけど、自分はニュートラルに対応できない。
「いや、友だちとも違くて…」
「じゃあなんですか」
「…景吾から連絡ないと寂しいし、嫌なこととか、辛いことあると景吾を思い出してた。景吾はいつも大丈夫ですよって笑ってくれたなって。美味しい物食べたら景吾に教えてあげたいと思ったし、服見ても景吾に似合いそうだなとか…」
途切れ途切れ紡がれた言葉に目を見開いた。
そんな風に感じていたなど知らなかった。
彼の中に自分が存在していたと知っただけで喜びで胸がいっぱいになり、いじめ過ぎたことを後悔した。
もしかしたら―――。
僅かな希望が芽生え、すぐに床に転がるピアスに視線を奪われ我に返る。
また勝手に都合のいいように解釈するところだった。そういう存在は自分だけではないかもしれないし、人間いくらでも嘘がつける。
自分は嘘が苦手だが、世の中には平気な顔で他人を欺ける人は巨万といる。
「……先輩、大学で友だちできた?」
「…できたけど…」
「そっか」
ゆっくりしゃがんで滑らかな曲線を描くパールをひょいとつまんだ。
「じゃあ、その"友だち"を大事にしなよ」
彼の手をぐっと引き寄せ掌にころんとピアスを転がした。
「ばいばい」
灰色の扉を開けると後ろから待ってと声が響いたが、打ち消すように急いで扉を閉めた。
駅までの道順など覚えていないが唇を噛み締めて走った。
もう二度と振り返らない。堂々巡りはやめにしよう。
どちらかが強い意志で離れなければ、自分たちは泥沼から這い上がれない。
彼は自分がほしいのではない。あなたは愛されてる、あなたは必要とされてる。そんな承認欲求を満たしてくれる人間を傍に置きたいだけだ。
あの可愛らしいピアスの持ち主もきっと彼の心の隙間を上手に埋めてくれるのだろう。
きっと自分が寮につくまでの間に傷ついた心を癒してくれる彼女を腕に抱くのだ。
どこか吹っ切れたような気がした。そう思い込まないと自分を保てないからかもしれない。
感情が溢れぬよう、心を平らに薄く引き伸ばして何かから逃げるように足だけを動かした。
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