3


「元気だった?」

問われ、はっとして先輩を見た。
彼は頬杖をつき、ふわりと優しい笑みを見せている。
不毛な関係を続けていたあの頃とは違い、なにかを吹っ切ったような清々しい表情だ。
彼にそうさせる誰かがいるのかもしれない。
膝の上でぐっと拳を作り、大きく頷いた。

「相変わらずうるさいって言われるくらい元気です。先輩も、元気そうで…」

「ああ、うん。入学してしばらくばたばたしてたけど、最近少し落ち着いたかな」

「そうですか。髪型も変わったから一瞬誰かわからなかったです」

へらりと笑いながら簡単に嘘をついた。
髪が変わろうが服が変わろうが彼を見つける自信がある。
もう自分はあなたに何の感情もありません。そんな演技をするのは想像以上にきつい。
ゆうきが言う通り逃げた方がよかったのかも。針の上で正座させられている気分だ。

「ああ、これね。ハジメにうるさく言われてさあ。大学生なんだからもう少しどーのこーのって」

「会長に…」

「社会人でもないんだからいいじゃんって言ったんだけど、あいつうるさいからさあ」

会長との友情は変わらず続いているようでほっと安堵する。
そんな心配をせずとも梶本先輩は友人が多いけれど。でも、本心を曝け出せるのは会長しかいない気がした。

「すぐく似合ってると思います。なんか、頭良さそうというか…」

「えー、それって前は馬鹿に見えたってこと?」

「いやー…」

あはは、と笑って誤魔化したが、梶本先輩は相変わらず当たりがきついとぼやきながらがっくりと首を垂らした。
会長とは違い知的には見えなかったが、それでもどこか品があった。金色の髪の毛にピアスをしていても、ふざけた髪飾りをつけていても。
以前の彼でも充分魅力的だとは思うが、今はそれに理知的な雰囲気も備わって隙がなさそうに見える。

「景吾はまたゆうき君と同室?」

「いえ。クラスは同じですけど」

「へえ、意外。仁のことだから過保護に景吾と一緒にすると思ってた」

「俺もそれ狙ってたんですけどねー。木内先輩そこまで甘い人じゃなかったです」

くすくすと笑う表情に見惚れそうになって自分の太腿をぎゅっと抓った。

「それ、美味しそうだね。遠慮しないで食べて」

トレイに放っておいたベイクドチーズケーキを指さされ、いただきますと手を合わせて口に放り込んだ。
食事は楽しむ主義なのに味がわからない。上手く飲み込めず喉につかえて一口食べるごとにアイスティーで嚥下させた。

「美味しい?」

「…はい」

「景吾が食べてる姿を見るのが好きだったな。すごく美味しそうに、幸せそうに食べるし、箸の持ち方とか魚の骨のとり方とかすごく綺麗だった」

優しい瞳で問われ、その正体を理解した。彼は過去を懐かしんでいるのだ。
過去は美化されるらしい。
お互いを傷つけてぶつかるだけだった自分たちの思い出も、彼にとっては綺麗な映画のように編集されているのだろう。
こちらは過去にできず苦しんでいたが、彼はあっさり前に歩き出せたのだ。
だからこんなに穏やかなんだ。嫉妬や独占欲、言葉にできない汚い感情、そういったものを捨てた彼はこんなにも綺麗だ。
彼にとって自分は然程大切な思い出でもないが、忘れるには早すぎるものといったところだろうか。
理解した上で彼と対峙したのにちくちくと胸が痛む。

「…今日、なにか用事があったんですよね?俺、忘れ物とかしました?」

振り切るように、少し早口で言った。

「…ああ、うん。そうなんだ。宅急便で送り返すのもなんだかなあと思って。元気な顔も見たかったし」

「すいません。俺全然気付かなくて。気付かないってことはいらない物だったのかな」

苦笑すると梶本先輩の顔から一瞬笑顔が消えた。

「…どうだろ。でも、勝手に捨てちゃ申し訳ないから。ちゃんと持って来ようと思ったんだけど、うっかり家に忘れちゃったんだ」

「そう、ですか」

教科書の類ならもう新しい物が配られたのでいらないし、制服やジャージもきちんと揃っている。小物類は特別お気に入り以外はなくしても仕方がない、で片付けられる。
彼の部屋に痕跡を残すようなヘマをした覚えはないし、一体なんだろうと首を捻る。

「なんなら捨てて構いません。宅急便とか、わざわざ大丈夫ですし」

「それは俺が決められないなあ。悪いけど、景吾に時間あるなら俺の部屋にとりに行っていい?」

「…はい」

彼は決まり、と嬉しそうにし、何かに急かされるように自分のトレイを持って立ち上がった。
慌てて自分も飲みかけだったアイスティーを空にして彼の後ろに続く。

コーヒーショップから駅まで他愛ない話しをした。
通学に便利な場所を選んで部屋を借りたこと。一人暮らしにはまだ慣れず、自炊ができていないこと。でも洗濯は寮生活で慣れているから完璧にできること。
新しい世界に踏み出した彼の話しは楽しくもあり、同時に寂しかった。
住む世界が違えてしまったと実感させられる。
最寄駅を抜け、十五分ほど歩くと彼が一棟のマンションを指差した。

「あれだよ。少し古いけど学生向けだから家賃もそこそこで少し広いんだ。内見のときも姉が隣からでしゃばってきて恥ずかしいのなんのって…」

「ああ、わかります。自分の姉も同じ感じです」

「すごいパワーだよね。女の人に頭が上がらないのは弟の悲しい性だね」

「ですね。俺も結婚したら奥さんの尻に敷かれそうですし…」

「あはは、右に同じくー」

梶本先輩はうきうきとした様子でマンションのエレベーターに乗り、三階で降りた。
ドアレバーを開いた向こうは小さなキッチンと扉で仕切られた先に六畳程度のリビング。リビングと続く横開きの扉の向こうが寝室らしい。

「意外と庶民的…」

ぽつりと呟くと梶本先輩は喉を鳴らして笑った。

「俺庶民だよ?ハジメといるからって俺も金持ちだと思った?」

「いえ、なんとなく雰囲気に品があったので…」

「えー、あんなふらふらしてたのに?」

「ふらふら…はしてましたけど」

ずばっと毒舌を吐く度に彼はけたけたと笑った。その感じ懐かしいと呟きながら。
靴を脱いで室内に入る先輩を眺め、自分は框に座った。

「なんでそんなところにいるの?入りなよ」

振り返るとちょいちょいと手招きされ、お邪魔しますと小さく呟き遠慮がちに室内に入る。
適当に座ってという言葉に恐縮し、ローソファーの端に小さくなった。

「あった。これ」

アクセサリーを入れる小さな巾着を差し出され両手で受け取った。
中を覗くとインダストリアルにつけていたロングバーベルピアスだ。見た瞬間にそういえばつけていないことを思い出し、自分の耳に触れた。

「いつもつけてたし、お気に入りだったんじゃないかと思って」

「そう、ですね」

気に入っていたはずなのにつけていないことにも気付かなかった。
セックスするとき、邪魔だし、危ないと言って彼が外していたのでそのまま放置していたのだろう。痕跡を残すつもりはなかったのにまぬけだ。

「ありがとうございます。わざわざとっておいてくれて」

「ううん。それは景吾の耳にあった方がいいしね。俺が持ってても怖くてそんなとこにピアス開けられないし」

「意外と平気ですよ」

「うえ。絶対痛いのに」

「慣れますよ」

「景吾は痛みに強いもんね」

言葉の中に別の意味が含まれているような気がして表情が固まった。
手酷く抱かれ、散々痛いと喚いた日々を連想させられる。

「…まさか。痛いのは大嫌いです」

ことん、と倒れそうになる心を気力だけで持ち直し、じゃあ、と口にしながら立ち上がった。

「…もう帰るの?」

「はい。先輩も忙しいでしょうし、迷惑になりますから」

「迷惑なんてそんな…。久しぶりに会ったんだし、もう少しゆっくりしていけばいいのに。コーヒーでも淹れようか?」

「いえ。先輩が淹れたお茶を飲んだら頼もうと思いませんよ」

茶化すように笑い鞄をぎゅっと握った。

「俺、コーヒーなら少しは上手に淹れられるようになったんだよ」

玄関に向かう背後で、母親にテストの点数を自慢したい小さな子どものように縋られる。
ここで振り返ったら以前と同じ関係に堕ちてしまいそうでぐっと拳を作った。

「…景吾?」

呼びかけには応えず框に座って靴を履いた。

「景吾!」

腕を後ろから引かれバランスを崩した身体を後ろからすっぽりと包まれた。

「…なんか言ってよ」

肩に乗せられた彼の額がすりすりと動く。咄嗟に頭を撫でそうになり、浮かせた腕をだらりと床に落とした。
鉄製の灰色の扉を見ながらこの人は本当にどうしようもないと思った。
感情をコントロールできない子どものようで、それがとても可哀想で手を差し伸べたくなる。
よしよし、と慰めて気分が晴れると自分の手をぱっと離して別の人の元へ走る。
都合のいい存在、というやつだ。彼を全肯定して全身で好きだと語る自分は甘えるのに丁度よかったのだろう。

「逃げるみたいに帰らないでよ。俺景吾にひどいことしないって約束したよ。大丈夫だよ」

見当違いな言葉に苦笑が零れる。無理矢理組み敷かれるのを恐れているのではない。今度同じようなことがあったら殴ってでも止める。
身体の繋がりなどいくら繰り返しても構わない。身体だけなら。
だけど自分は身体を繋げた分心もほしがってしまう。遊びの恋愛にはほとほと向いていない。彼と自分は相性というものが最悪だった。
彼を想いたくない。過去に縛られたくない。全速力で走って梶本先輩の影など見えないくらいにがむしゃらになって、そうしたら少しは早く忘れられると思っていたのに。
釣り合い人形のイメージが浮かぶ。
自分の心を中心に右に揺れて、左に揺れて、どちらかにバランスが傾くと簡単に倒れる玩具。
彼の声だったり、言葉だったり、ぬくもりだったり、小さく、簡単なもので呆気無くバランスが崩れる。
好きだ、好きだ。やっぱり自分はこの人が好きだ。
嘘がつけない馬鹿正直な性格が嫌になる。本心を上手にコーティングして隠せるくらい大人になるにはあとどれくらい時間が必要だろうか。
首に巻きつけられている梶本先輩の腕をぽんぽんと優しく叩いた。

「…やっぱりまだ俺のこと怒ってるんだよね。景吾は優しいから笑ってくれるけど」

「そんなことないですよ。大丈夫」

「本当?」

「本当」

「よかった」

彼は隙間を埋めるように肩に回している腕にぎゅうっと力を込めた。
放っておけない。ダメな男にはまる女性の心境が理解できる。できちゃいけないことだけど、本当は優しくて、傷つきやすくて繊細で、そんな彼を知っているからこそ無碍にできない。
ふと、タイル張りの玄関の端がきらっと輝いたように見えてそちらを凝視した。
それは小粒のパールをあしらったピアスだった。
一瞬呼吸を忘れ、波が引いていくように心がしんと静かになった。どう考えても女性物だ。
ああ、また自分は簡単に騙されて。だから同じことを繰り返す。なのに経験から勉強できずにループしてばかりだ。
嗤笑のように不完全な笑みが浮かぶ。

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