5




「……最悪…」

目が覚めて一番に呟いた。身体がぎしぎし悲鳴を上げている。
傍らにあった腕にはきっちりと縛られた痕もある。それなにと聞かれたらどう言い訳しろってんだ。

「…景吾。ごめん。大丈夫?」

梶本先輩は傍にあった椅子に座りながら髪を撫でた。
いつもの表情、いつもの瞳に戻っている。凌辱して気持ちが晴れたのか。
ふざけんな。叫んでやりたいのに、疲労と痛みで思考も麻痺する。

「…大丈夫に見えます?」

力なく言うと、もう一度頭上からごめんと呟かれた。
ふっと溜め息を吐く。謝るくらいなら最初からするな。
謝られなければもっとむかつくけど。
これは数日寝込む羽目になりそうだ。夜には熱も出るかもしれない。
何故自分がこんなひどい目に遭って、荒んだ想いをしなきゃいけない。
人には心があるとこの人は知らないのか。無理矢理身体を開かされて、ただでさえ男同士は負担が大きいというのに。
こんな簡単に捨てられる紙屑のような扱いを受けて。なんだってんだ。
手酷く抱かれたことは何度かあるが、こんな非情で強姦まがいのものは今回が初めてだ。
そんなに自分の玩具をとられるのが嫌か。
代わりはどこにでも売っているし、もっと自分好みを探せばいい。
なにをすれば、なにを言えばこの人が満足するのかわからない。

「動けないよね。送るから」

背中に手を差し込まれ上半身を起こした。腰にぐっと痛みが走る。

「無理、もう少し休ませて下さい」

「…ごめん」

傷つけられたのはこっちで、泣きたいのもこっちだ。
なのに先輩は捨てられる間際の犬のような目をする。
悲しみの中に懇願と期待が混じり、主人が掴むリードが離れても力の限り追いかける。
その先には絶望しかないのに。お前は捨てられたのだと言われるのを恐れて現実を直視できない小さな生き物。
この人の抱える闇は手に余る。自分のような子どもで恋愛初心者が気軽に近付いていい相手ではなかった。

「…飲み物とか買って来る?それとも…」

「…じゃあ薬。薬下さい。鎮痛剤」

ここが保健室でよかった。
いや、ちょっと待て。自分は血を流した。学校の備品にそんなものをつけて大丈夫か。
恐る恐るシーツに目をやったが、最初に眠ったときと同じく綺麗なままだった。
確かにひどい有り様だったのに。
薬を持って戻ってきた先輩に聞いたら、意識を失っている間にすべて片付けたと言われた。
万が一光ちゃんに知られたら説教じゃ済まないだろうな。ああ、面倒くさい。
とりあえず薬を飲み、いつまでもここにいるわけにもいかないので先輩の肩を借りながら立ち上がった。

「おんぶする?」

「冗談やめて下さい」

意地でも一人で帰ってやる。なんて思ったがどんなに意地を掻き集めても無理だ。
一歩歩く毎に雷が身体に直撃したような痛みが走る。
校内を抜けるだけでかなりの時間を使った。立っても痛い、座っても痛いでもう殺してくれという状況だ。

「俺の部屋に連れてくね」

「自分の部屋に帰ります」

「だめだよ。熱とか出るかも。ゆうき君にもなんて説明するの」

「誰のせいで…」

「うん。だから、俺が面倒みるよ」

部屋なんかに行って同じことをされたら今度こそ身体が壊れる。

「もう何もしない。約束するから」

散々約束を破る人間の言葉はなんと軽いことか。
胡乱な目で見ると、本当、絶対だと言われた。
確かに先輩の言うことも一理ある。ゆうきになんと誤魔化せばいいのか。彼は目ざといから。

「…なにかしたら大声で叫んでぶん殴りますからね」

「うん」

ゆっくり、ゆっくり歩いてやっとのことで部屋についた。
ベッドに寝かせられ、制服からパジャマに着替え、飲み物をベッドサイドに置き、空調を整えて。すべて先輩がやってくれた。まるで貴族のお坊ちゃんになった気分だ。

「俺、ここにいてもいい?」

彼は床に座ってベッドに腕をつきながら言った。

「なにもしないなら」

「しない。しないよ」

主人に喜んでもらいたくて一生懸命芸をする犬のようだ。
いつも飄々と余裕たっぷりなくせに。

「…少し寝ます…。すごく、疲れてる…」

「うん」

この人の前で無防備になって大丈夫か。された仕打ちを忘れたのか。
片隅が警告するが、どうせ動けないし、きっとこの人は本当になにもしないと思う。
簡単に信じてしまうからこんな悪い男に引っかかるんだな。自嘲気味な笑みが零れた。



瞳を開けると部屋は闇の中で、しんと寂しい空気があった。
ふと隣を見ると少しだけ間をあけて先輩が眠っていた。いつの間に入ってきたのか。
喉がひどく乾いていて、ベッドサイドの水に手を伸ばしたが痛みで引っ込めてしまった。
薬などとうに切れているだろうし、市販薬を飲んだくらいじゃ治まらない。

「景吾?どした…」

もぞもぞと動いた気配で梶本先輩が身体を起こした。

「水と薬を…」

「ああ、うん。言ってくれればよかったのに」

寝起きとは思えない素早さで用意して、上半身だけ起こして飲み込んだ。
こんなに至れり尽くせりは小学生のときインフルエンザにかかって以来だ。
この人にも罪悪感というものはあるのか。
いつも好き勝手抱いて、終わったら帰れと追い出すくせに。

「少しはよくなった?」

梶本先輩は小さな照明をつけてからベッドに腰掛けた。

「…たぶん」

「…そっか」

好き勝手怒鳴ってやりたいのに、そんな苦しそうな顔をされると何も言えない。
だからお人好しとか、馬鹿と周りに言われるのだ。
普通なら殴って罵倒して二度と顔を見せるなという場面だ。
だけど胸が痛い。眉根を寄せて寂しそうに笑う表情を見るたび不憫に思う。
もう無理だと思った傍からこうしてこの人を気にしてしまう。
何度逃げてもすぐに容易く腕を掴まれる。
見えない糸が足に絡まっていて、どうやったって同じ場所に手繰り寄せられる。
堂々巡りを繰り返し、歪な輪から抜け出せない。
心の中でピンポン玉が跳ねている。あっちにぶつかって、今度は別の壁にぶつかって、そうやってずっと定まらずに、心を削ぎ落としていく。

「眠れそう?」

「はい」

「一緒に寝ていい?」

「…それは…」

「なにもしない。約束する」

ぎゅっと手を握られ仕方ないと頷いた。
背中を向けるようにすると背後から抱き締められ、身体が強張った。

「せんぱ――」

「こうするだけだから。お願い」

背中に額を当てられ、まるで安心感を求める子どものようだと思った。

「…景吾、許してくれる?」

ぼそりと呟かれ、暫く考えた。
無言の時間に梶本先輩の緊張が伝わる。

「…許すっていうか…。終わったことはどうしようもないです。なかったことにはできないし」

自分はこの人とどうなりたいのだろう。
友人、恋人、それとも――。
どれもこれも違う気がして、けどどれも当て嵌まる気がする。

「…水戸のこと好きなの?」

「なに馬鹿な勘違いしてんですか。ありえないです」

「でも……。じゃあ俺のこと嫌いになった…?」

その問いに大袈裟に溜め息を吐いた。

「先輩、俺の性格知ってて言ってるでしょ」

「そんなことないよ」

「いーや、絶対そうだ。俺がそんなことないですって言うと思ってる」

「…そんなこと…」

それ以上口を開こうとしないので、少し虐めすぎたかと思った。
自分はそれ以上に虐められているが。

「嫌いになりたいです」

言うと抱き締めていた梶本先輩の腕が強張った。

「先輩のことすっぱり嫌いになりたいです。ひどいことされたから、ひどいこと言われたから、だから嫌いって単純な理由で」

馬鹿と言われてもいい。楽しければ好き、そうでなければ嫌い。それくらい心がシンプルにできていたら。

「だけど…。実際そう簡単にはいきません。もう二度と顔を見たくないと思った次の瞬間に会いたいと思う。俺、こんな面倒くさい奴だって初めて知りました」

「……景吾…?」

「…だから、先輩のことすげーむかつくし、身体がよくなったら一発殴りたいけど、たぶん嫌いにもなれないと思います」

「…馬鹿だな、景吾は」

口ではそう言うが、安堵した空気が伝わってくる。先輩こそ馬鹿だ。好きな子を虐めたい小学生でもあるまいし、嫌われたくないくせに酷い真似をして、俺の気持ちを試しているようだ。

「ほんとですね。自分でも思います」

「…景吾…」

彼はくぐもった声で名前を呼んで、それっきり何も言わなかった。
歪に重なって、心が伴わないセックスでは距離を縮められないと知っているのに、それでも俺は彼の体温を求めていた。
熱が解けたら心の殻も溶けてくれるなんて錯覚して。なのに終われば最初以上の虚しさが残る。それの繰り返しだった。
それは彼も同じだったのかもしれない。無理にで組み敷けば繋ぎとめられると。
自分にも覚えがあるから彼ばかりを責められなかった。
一度複雑に絡まった糸を解くのは苦労する。
自分たちはその糸の中心でもがいている。誰も助けてくれないし、自分を救うこともできない。

目前には冬休みが迫っている。きっとこの部屋を出たら先輩は俺に会いにこない。そんな気がする。


身体が熱くて目を覚ました。背中に梶本先輩の気配がする。片腕を腰に巻きつけられ、身じろぐとぐっと力を込められた。
起こしたかと思ったが彼は寝息を立てていて、無意識のうちの行動だと知った。
眠ってもなお隣の気配を放したがらないなんてまるで子どものようだ。
起こさぬように腕の中からすべり抜け、ベッドに腰掛けた。少し動いただけで身体の中心から裂くような痛みが走る。
腰に片手を当て、いたた…。と独り言を漏らす。
脱ぎ捨てられたブレザーを拾い、音を立てぬよう注意を払いながら先輩の部屋を出た。
扉に背を当て大きく溜め息を吐く。
歩くのもしんどい。寮にエレベーターがあったらよかったのに。
何度かその場で深呼吸を繰り返した。部屋に戻ったら平気な顔をしなければ。
身体の痛みに蓋をして、少しでも気取られぬよう笑おう。だから少しだけここで休もう。
そうは言っても廊下は人の流れがある。じろじろと怪訝な視線を向けられるので自由に溜め息すら吐けない。
寮生活を苦痛と感じたことはなかったが、一人になる自由を与えられないのは辛い。
扉から背を放し、心の中でがんばろうと呟いて一歩足を踏み出した。

「景吾君?」

慌てて顔を上げると氷室会長の姿があった。分厚い紙の束を脇に抱えて朗らかに微笑んでいる。

「こんばんわ」

今が何時かもわからないが適当に挨拶をした。
知人に会いたくなかったが、学園や寮にいる限りその可能性はどこにいても付き纏う。

「翼に何回電話かけても出なかったのは景吾君と一緒だったからか」

困ったように笑い、すみませんと謝った。

「いやいや、景吾君が悪いわけじゃないから。翼は中にいる?」

「はい」

俯きがちに返事をし、失礼しますと頭を下げた。
会長に背を向けたが、後ろから腕を引かれた。

「景吾君大丈夫?もしかして体調悪い?」

「いえ、大丈夫ですよ!」

会長は心配性だなあ、なんて揶揄しながら笑った。

「…翼に無茶されてない?僕が説教しとこうか?」

「なに言ってんですか。大丈夫ですよ。俺男ですよ?体力には自信あるし」

「そっか。そうだね。ごめんね変なこと言って。またね」

「はい」

廊下を歩きながら情けなくて涙が溢れそうになった。
定まらない心が憎い。どうして白黒はっきりしてくれないのだろう。
自分にはいつだって中間はなかった。決断も早く、失敗したら笑って、成功しても笑って、そうやって少しずつ賢くなろうと思っていた。
なのに梶本先輩への気持ちだけは輪郭が曖昧で掴めなくて、消えたり、大きくなったり、固くなったり、日々形を変える。
その変化についていけず、まんまと振り回されて右往左往した挙句傷つく。

大好きな物がたくさんあった。大好きな人もたくさんいた。
心はそういったもので溢れていて、僅かな隙間で梶本先輩への気持ちが芽生えた。なのに今は野放図のように彼ばかりが溢れていく。

「…しんどい」

自然と言葉が漏れた。音にすると妙に納得した。自分はこの恋に疲れ果てている。

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