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腕を引かれたまま、ぼんやりと後ろをついて歩いた。
何も考えたくないし、なにもしたくない。指先一つ動かすのも面倒で、世界のすべてがどうでもいい。

「ついた。少し休もうね」

彼は保健室の扉を開けながら頭を小さく撫でた。

「光ちゃーん。この子具合悪いって」

「相良君?珍しいね。そこのベッド空いてるからとりあえず寝て」

保健室など滅多に利用しないし、自分で思った以上に顔が青かったらしい。光ちゃんは少しも疑った様子もなく心配してくれた。
大人しくベットに横になれば、水戸先輩が布団を首までかけ、布団の上から胸をとんとんとリズムをとって叩いてくれた。

「…まったく、あいつは悪い先輩だね」

彼は揶揄するように言って、俺も人のこと言えないけど、と付け足した。

「…なんで、助けてくれるんですか」

「えー。なんでって言われても困るな」

少しの間考えた様子で、当て嵌まる言葉が思いついたように瞳を開けた。

「放っておけないから、かな」

「放っておけない…?」

「そ。なんていうかなー。生後間もない犬が危険と知らずに動き回るのをはらはら見てる気分っていうの?」

「…犬に例えられると微妙です…」

「あは。まあまあ」

「……じゃあ、楓は?」

問うと、水戸先輩は苦笑しながら俺の髪を撫でた。
その笑顔はとても、とても苦しそうで悲しかった。

「……それは秘密」

でも、と口にしたかったが光ちゃんがカーテンを開けたのでそれ以上は聞けなかった。

「はーい、水戸君は教室戻ってね。もうすぐ授業始まるよ」

「俺も具合悪ーい」

「馬鹿言わない!受験生でしょ!」

「ほんとだって。具合悪いから同じベッドで寝てていい?」

光るちゃんはぽかっと水戸先輩の頭を小突いた。

「きついなー。保健室の先生って言ったらさ、大きなおっぱいと色気があって、優しく男子高校生に手取り足取り――」

「漫画の読み過ぎ。現実は男だし色気もないし、優しくもないの!わかったら教室戻る!」

水戸先輩ははいはい、と溜め息を吐いた。

「んじゃ、またね」

彼は右手を軽く上げ、後ろを向いた。咄嗟に手を伸ばしブレザーをぎゅっと掴んだ。

「あの、ありがとうございました」

「…うん。早くよくなるといいね」

手を離すと今度こそ去った。
熱はないようだから、眠れるようなら眠ってと光ちゃんに言葉を掛けられ、真っ白く清潔なカーテンで仕切られた箱の中天井を見上げた。
一時間で考えを纏めてだらしない顔はやめて寮に戻ろう。
ゆうきは自分の変化に敏感だから、特に気取られないように。
考えるまでもなく、最初から答えは決まっているのだけど。
梶本先輩は好きになってくれないし、自分はそれでも諦められなかった。
いつか振り向いてくれるかもしれない。こんなに想っているのだから、好意は目に見えない糸になって彼の身体に巻きついてくれる。
馬鹿みたいな期待をしていた。
世の中好きでは形を作れない恋など山ほどある。
そんな当たり前のことも知らなかった。好きだと言われれば自分も好きになるような単純な性格だから。
自分の好きは彼を通り過ぎるのに、彼の好きという言葉は鎖のように重く、身動きをとれなくする。
楽しいばかりを集めたい。幸せと笑いたい。自分を大事にしたい。
当たり前にできていた日常が今はとても遠い。
恋ってやつは、こんなに苦しくて悲しいものなのか。だとしたらもう一生恋などしたくない。
独りでいいから自分を幸福だけで飾りたい。

こっそりと溜め息をはいた。
大馬鹿者の自分は一歩動くのが怖くて、彼に触れる距離に身を置きたかった。
辛いばかりだと知っているのに、どうしてその場を離れられないのだろう。
とても不思議だ。なぜ彼を好きだったのか。
嫌いになる理由はたくさんあっても、好きになる理由がない。
なのに恋は理由なんてものを欲しがらない。曖昧にゆっくり心を占めていく。
だけどこのままでは自分はだめになる。
自棄っぱちになって自分を散々傷つけて、最後には涙も枯れてしまうだろう。
ゆっくりと瞳を閉じた。
快適な温度に保たれた室内。教室よりも柔らかい照明。ぱりっと清潔なシーツ。遠くで光ちゃんがペンを走らせる音がする。
だんだん意識が細くなる。こんなときでも眠れる図太さがありがたかった。



「……景吾」

遠くで呼ばれながら身体を揺すられた。
低く柔らかい声は聞き慣れたものだ。起こされたくはないがもっと聞いていたい。
その声が自分は大好きだった。

声の主の顔を思い浮かべてはっと目を開けた。寝惚けている場合ではない。
勢いよく上半身を起こした。悪い夢でも見たかのように心臓がうるさく鳴った。

「起きた?」

「…なんで先輩が」

「心配だったから」

当たり前でしょ、と言いたげな瞳から視線を逸らした。
心拍数が上がる。耳のそばに心臓があるように音が響く。高揚ではなく、恐怖でだ。
水戸先輩のことで詰られるに決まっている。
心配して損をしたと吐き捨てられたくせに、自分はほいほい水戸先輩の手をとった。
やはりわかっていないと怒られる。

「…すいませんでした。もう大丈夫です」

冷や汗を掻きながら言った。教室へ戻ろう。とにかくこの場から逃げよう。
布団をばさりと払いのけ、立ち上がろうとしたが、肩を乱暴に押され再びベッドに倒れ込んだ。
身体を脚で挟まれ、両腕を頭上で拘束される。

「なにを――」

「景吾、さっきのあれ、なに?」

口調も声色もいつもと変わらない。だけど氷を突き刺されたように痛い。

「俺から水戸に心変わりでもしたってわけ」

首を絞められるような感覚に言葉が出なかった。
出たとしても彼には伝わらない。
無言を肯定ととったのか、彼はふうん、と呟いた。

「…景吾は誰のモノだっけ?」

耳元で囁かれ、ぞっと背中に悪寒が走った。
声を出したいのに薄い息ばかり漏れる。
何か言わなきゃ。ここから離れなきゃ。本能が怖いと言っている。
限界のない緊張感に頭の中が白んでいく。

「誰のモノだっけ…」

確認をするように問い掛けられ、震える唇を開けた。
梶本先輩のモノだ。言えば解放される。なのに死んでも言いたくないと心の片隅が訴える。

「…答えられない?」

先輩の指がつっと首筋をなぞる。首を逸らすと掌で首を圧迫された。
本当に殺されるのではないか。思ったが、手は離れ、梶本先輩は自分のネクタイをとるとそれで腕を拘束した。

「な、なにするんですか」

やっと音になった言葉はたぶん震えていた。

「だって景吾が答えてくれないから」

彼の中に住む狂気が彼も自分も呑み込もうとしている。

乱暴に下肢を露わにされ、強引に快感を引き出そうと不躾に握られ、そのまま強く扱かれた。

「や、めてください…」

「いや?」

「い、や。嫌です…」

「そうかな?こんなに溢れてるのに…」

こんな時でも素直に反応する身体が浅ましい。気持ちと身体は別の場所にスイッチがあるのだろうか。
水音が聞こえるたびに耳を塞ぎたくなる。

「……やめて、下さい…」

ぎゅっと瞳を閉じた。

「せんぱ…。やめて…」

「もうイきそうで震えてるよ?それなのにやめてほしい?」

頷いた瞬間、根本を強く握られ痛みで眉が寄った。

「い、たい…」

「イきたいだろ?お願いしたらイかせてあげるよ?」

首を左右に振った。そんなの絶対にごめんだ。
こんな自分にもプライドがある。強姦紛いの行為に身を委ねてたまるものか。
屈しない。身体は好きにされたとしても、心は屈してやるもんか。

「強情だなあ。このまま突っ込まれたい?」

身体が更に強張った。慣らされても痛く、苦しいのに。
想像できぬ痛みが恐ろしい。かといって梶本先輩に屈するのは許せない。
どちらも選べないし、選びたくもない。

「…俺だって傷つけたいわけじゃないんだよ?だからほら、言って」

「…先輩とは、こんな、ことしたくないっ…」

言った瞬間、彼はぴたりと動きを止めた。恐る恐る瞳を開ける。見たのは一切の色がない表情だった。
洞穴の更にその闇のような瞳に喰われそうになる。

「景吾は俺のだって何度も何度も言ったのに。どうしてわかってくれないんだろう…。なんで水戸なんかを選ぶんだろうね」

繊細で長い指で髪をさらりとすくわれる。

「身体に教えないとわからない?」

猛った先輩の欲望があてがわれた。

「ひ――」

やめろと身体を捻じったが簡単に抑えつけられる。
喉を反らせて襲いかかる痛みに生理的な涙が滲んだ。

「っ、や、やめ…!痛い…」

「そうそうその顔。すごく可愛い」

「う、ごくな…」

「動かないと終わってあげられないよ」

声にならない悲鳴が漏れる。
身体を半分に裂かれていく。ぬるりとした感覚はきっと血だろう。
こんなことなら望む言葉を言えばよかった。
だけど自分はこんな仕打ちをうけるような罪を犯しただろうか。
なんだっけ、なんだっけ、なにを間違えたんだっけ――。
涙が次々と流れるのを感じながらぼんやりと思った。

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