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楓の顔をみて安堵して、辛くなって、歯痒くて、けれど毎日変わらずに過ぎていった。
梶本先輩にはあの日から会っていない。
連絡がきても一切無視をした。
今は余計な問題を抱えたくない。自分までぼんやりしてしまう。
問題すべてを掻き集めてぱたんと蓋をした。そうしたからといって解決されない。わかっているけど、今は勘弁してほしい。
楓は日に日に痩せていくように見え、笑顔は絶やさないがその瞳には重く、辛苦の色が見てとれる。
何をすべきか、してあげられるか。
答えは見付からず、結局香坂先輩の影を思い出さぬよう傍にいるだけだ。
みんな、楓の力になろうと思えば思うほどに空回りしている。何もできない自分達を悔しく思う空気が漂う。
問題は楓だけに限ったことでもない。
ゆうきにお前もしっかりしろと説教をされた。同じようなことになったら今度こそ水戸を殺すかも、と物騒な物言いをするので、慌てて大丈夫だと言った。
水戸先輩がなにを考えているのかわからないが、怖ろしいというよりも、もうどうだっていいやという投げやりな虚無感があった。
綺麗な身体でもあるまいし、梶本先輩は恋人でもない。操を守る必要はなく、自分など野球ボールのように水戸先輩と梶本先輩の間を放り投げられる存在だ。
ボールの意志など関係なく、二人の間で転がされている。
そのボールはその辺で容易く買えるもので、価値なんてもんはなく、投げ終われば泥の上に捨て置かれる。
自分をそんな風に卑下して生きたことはない。でも今はそれくらいどうでもいい。
実際、楓たちには言っていないし、知られてもいないけれど、水戸先輩と会話することもあった。
それは購買部の仕事をしている時や、寮でたまたま会った時。
水戸先輩と仲良くする気は更々ないが、声をかけられれば無視もできず当たり障りのない会話程度を持った。
水戸先輩と梶本先輩が同じ目をしているからかもしれないし、水戸先輩が執拗に優しく接するからかもしれない。
購買部の仕事を終え、たくさんの食料を腕に抱えたまま階段を上がった。
早く皆に合流しよう。楓にたくさん食べさせてやらなければ。
いつもなら独り占めするが、彼が欲しがったものはすべてあげよう。
「景吾」
後ろから名前を呼ばれ、踊り場で足を止めた。
「久しぶり」
誰かはすぐにわかった。梶本先輩だ。
ゆっくりと振り返る。彼はズボンのポケットに両手を突っ込んだままこちらに近付いてきた。
「…お久しぶりです」
正直会いたくなかった。いつもと同じ笑顔を作って急いでいると告げた。
「ご飯、一緒に食べようよ」
腕をきつく握られ抵抗する間もなく向かい合う形になった。
「でも、俺楓のところに行かなきゃ…」
「たまには俺にも構ってよ。楓君には皆がいるでしょ?」
「…でも…」
「景吾、お願い」
口調は丁寧だが握られた腕に力を込められた。
痛い、と咄嗟に音になりそうで、慌てて口を噤んだ。
逃げ場はなさそうだ。無理に引き摺られればきっと敵わない。
「…わかりました」
言った瞬間ぱっと手が離れた。
「よかった」
こっち、こっちと手招きされ、先輩の後をついて行く。
このままダッシュで逃げてしまおうか。一瞬思ったが逃げたら後から酷く詰られそうだ。
辿り着いたのは三年の教室から然程離れていない空き教室だ。
三年の教室が並ぶ棟に来ることは滅多にないので、初めて入る場所だった。
人通りは少ないが、ゼロではないので安堵した。
「さ、じゃあご飯食べよっか」
「…はい」
連絡を無視したことをきつく問い正されるだろう。
一度や二度ならそんなこともあるかと思える。でも十回以上無視をした。
部屋まで来たかもしれない。でも楓の傍にいたので部屋を空けている時間の方が多かった。
無言でパンを齧る先輩の放つ不機嫌オーラに食欲が萎んでいく。
楽しいお昼休みだというのに地獄に落とすなど神様もひどい奴だ。
一つ目のパンを食べ終え、ビニール袋をぐしゃぐしゃにしながらねえ、と言われた。
「俺のこと避けてるよね」
単刀直入に言われ、ぐっと喉を詰まらせた。
なにを言っても嘘になるので正直に頷いた。
どうせ嘘や誤魔化しは下手で馬鹿正直に顔に出るから意味がない。
「どうして?」
戒めるようなものではなく優しく問われた。
もっと乱暴に責めればいい。そんな風に問われたらこちらも強気になれない。
「…わかりません」
「わからない?わからないのに無視するの?」
「ただ…。なんとなく会いたくなかった…」
先輩の目を見る勇気はなく、俯いて食べかけのパンをじっと見た。
「…俺のこと、嫌いになったの?」
一瞬の間のあと聞かれた。
「…わかりません」
「景吾さっきからそればっかりだね」
吐き捨てられ身体が強張った。
でもわからないものはわからない。
自分の気持ちを持て余している。綺麗にすっきり整理できたら苦労しない。
誰だってそうだろう。矛盾を抱え、自分を見失い、もがいて答えに辿り着く。
梶本先輩には理解できないかもしれない。人を好きにならないのだから。
「俺、景吾になんかした?」
思い当たるふしなどないらしい。
色恋にまつわる心を知らない先輩らしい。恨めしい言葉はいくらでも出て来る。だけどすべてを呑み込んだ。彼になにを言っても、だからなに、と一蹴されて終わる。
「…なにもしてません」
細かく説明したところで理解はできないだろうし、そもそも俺のこと好きじゃないくせに、なんて今に始まったことじゃない。
前から彼は恋人じゃないと正直に言っていた。
それなのに彼に誠意を求めて拗ねている自分が悪い。梶本先輩はなにも変わっていない。
今まで好きだから目を逸らしていた都合の悪い現実を直視して、その瞬間、身体からも心からも空気が抜けてしわくちゃになった。
もう立ち上がれない。頑張れないと思ってしまった。
「…もしかしたら、先輩を追いかけるのがしんどくなったのかもしれません」
彼は曖昧な態度ばかりで、自分がもうやめようと思った時に限って優しさを与えて、だからずるずる想い続けた。
景吾が好きだよと言われるたびに嘘でも嬉しかった。
その意味が自分の好きとは違うとしても。
自分は都合のいい相手で、それでも従順に後をついて回って、その忠義を好きだと言っただけなのに。
俺をたったの一度もその瞳に映してくれなかった。
「…だから、俺を避けてたの?」
「かもしれません」
「……景吾、俺を怒らせないで」
地を這うような低い声に反射的に顔を上げた。
「景吾のこと心配してたんだよ。水戸は景吾を諦めないから。何度連絡しても繋がらないし、部屋にもいないし、なにかあったのかもしれないと思った」
思いもよらぬ言葉にぽかんとした。梶本先輩が自分を心配なんて、悪い冗談だろうか。
「ご、ごめんなさ――」
「なのに、そんな下らない理由かよ…」
「…下ら、ない?」
「ああ。下らない。心配して損した」
梶本先輩は吐き捨てるように言って、髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回した。
相当怒っているらしい。
自分の思慮が足りなかったのだろう。なんにもありません、大丈夫です。くらいのメールをすればよかった。きっと自分が悪い。
なのに下らないという言葉が胸を貫通して、全身の血がどくどくと嫌な音を立てて流れている。
そうか。彼にとって俺の恋は下らない些末な出来事なのか。
悔しくて唇をぎゅっと噛んだ。自分が馬鹿みたいだ。
惨めすぎて逆に笑いたくなる。
「見てると危なっかしくて苛々するんだよ。水戸が楓君になにしたか知ってるよね。なのに何で普通に話したりするの」
当然の言い分に身体を小さくした。
何をしたか知ってる。次は自分だと宣言されたことも理解している。
だけど自分は梶本先輩に散々手酷く抱かれてきた。今更水戸先輩に同じようにされてたところで対して違いはない。
びくびくと怯えて暮らすより、腹を括った方がいいと思った。
隠れたって逃げたって捕まるときは捕まる。男同士でも碌に抵抗できないときがある。そう教えてくれたのは梶本先輩なのに。
心配だと言いながら現実はそんなもんだと知らしめたくせに。
問題点を反らして梶本先輩を責めるのは間違ってる。なのに悔しくて仕方がない。
「何か言ってくれないか」
「…すいません」
「そうじゃなくて…。どうしたら景吾はわかってくれるの。そんなこともわかんないほど馬鹿だったっけ?」
ああ、うるさい。もう放っておいてくれ。
梶本先輩に感情を掻き回されたくない。せっかく蓋をしたのにまた溢れてくる。
「お取り込み中のところ申し訳ないんだけど…」
こんこん、と扉を叩く音と同時に背後から声がして、振り返れば水戸先輩が扉に凭れていた。
「……またお前か…」
「邪魔して悪いね。けど、後輩いじめはよくないなー」
にこやかに笑いながらこちらに近付いてくる。
「お前には関係ないだろ」
「確かに。でも景吾君今にも泣きそうだし、可哀想じゃない」
ね?と肩に手を置かれた。
泣きそうになどなってない。涙なんて出ない。
ただ諦めの乾いた風が心を通り過ぎただけ。
一つの言葉も、少しの愛情も好意もなにもかもが梶本先輩には届かないと知っただけだ。
「俺が怒るのはそれなりの理由がある。いいからお前どっか行けよ」
「行けって言われても…」
水戸先輩がこちらに視線を向けたので、虚ろな目で見返した。
「…景吾君、こんな奴放っておいて俺と行こう」
左手を差し出され、ぼんやりとそれを見詰めた。
水戸先輩は世界中の悲しみから子ども守る母のように大丈夫だと言う。
「……おいで」
魔法のようにゆっくりと言葉が届く。じんわりと温かい。
優しく笑う水戸先輩の双眸には確かに俺が映っていた。
蜜に引き寄せられる蝶のように水戸先輩の手をそっと握った。
「景吾!」
梶本先輩に怒鳴られ、反射的に手を引こうとしたが、それ以上の力で水戸先輩に握られた。
「悪いね梶本」
「水戸…」
「梶本、お前はほんとに何もわかってない。俺が付け入る隙を与えてんのはお前自身だぞ。ま、せいぜい自分のなにがいけないか足りない頭で考えるこった」
水戸先輩は楽しそうに俺の腕を引いて歩き出した。
「景吾!」
梶本先輩が俺の名前を叫んだけれど、それははるか遠くから聞こえる別れの言葉と似ていた。
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