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帰りの車内でゆうきは一切言葉を発しなかった。
頬杖をつきながら窓の外を眺め、ずっとなにかを考えているようだった。
マイナス思考に捕らわれ、余計な答えに辿り着かなきゃいいけれど。

「カヨさんただいまー」

靴を脱ぎながら声を張り上げると、カヨさんがエプロンで手を拭いながら丁度今アマンディーヌが出来上がったんだと柔らかく笑った。

「おー、美味そうな匂いする」

「自信作ですよ」

家の中がこういう匂いで包まれていることに幸福を感じる。
温かい食事の匂い、洗いたての洗濯物の匂い、甘いお菓子の匂い、換気した直後のお日様の匂い。
出迎えてくれるカヨさんや家族は笑顔でおかえりと言い、それを当たり前に受け取ってきた。
それらのすべてがゆうきにとって非現実だった。
多少予想していたが、本や映画で齧った程度の不幸と、現実の不幸は比べ物にならない。
家に行き、ゆうきの父親と対峙し、ゆうきが十六年間でどれほどの傷を作ったのか、考えただけで泣きそうになる。

「アマンディーヌは昼食のあとになさいますか?」

「そうしようかな。昼飯はなに?」

「消化に良いものとおっしゃってましたので、ささみのお粥と金目鯛の煮つけを作りましたよ。あとは常備菜をお出ししましょう」

「うまそー」

ダイニングテーブルに着き、三人でいただきますと手を合わせた。
ゆうきはぼんやりと昼食を眺め、蓮華を持ったまま動かない。

「…お身体の調子が悪いんですか?」

カヨさんが心配そうにゆうきを覗き込む。

「あ、いえ、大丈夫です」

慌てて蓮華で粥を掬い、口に放り込んだが、無理をしているのだとすぐにわかった。

「無理なさらないでください。またいくらでも作りますから」

「いえ、本当に大丈夫です。すごく美味しい」

ぎこちない笑みはゆうきにとっての精一杯だ。
カヨさんもそれは理解していて、そうですかと笑って頷いた。

「誰かと昼食を食べられるのは幸せですねえ」

「カヨさん嬉しいこと言ってくれるじゃん。もっと帰って来ようか」

「それは嬉しいです」

「あ、でも俺らがいたらカヨさんもっと忙しくなるな。あっちこっちから我儘が飛んでくるから」

「それが幸せなんですよ、私は。孫と一緒にいるみたいで。ゆうきさんも」

ゆうきに向かって、ね?と微笑むカヨさんに、ゆうきは気恥ずかしそうに口を引き結びこっそり鼻をすすった。
ぎりぎりまで絞って、擦り切れて、からからになった心にカヨさんの言葉や態度や雰囲気は最高の薬になると思う。
だからカヨさんには頭が上がらない。こういうとき、男はなんて無力なのだろうと思う。
食事を終え、カヨさん自信作のアマンディーヌを食べた。
初めて食べると言ったゆうきに、気に入ったらこれから何度でも作るとカヨさんは胸を張った。
ゆうきは食べるのが勿体ないと戸惑いながら少しずつ大事そうに口に運び、何度も美味しいと言った。
そのたびカヨさんが満面の笑みを見せ、実家にゆうきを連れて来て本当によかったと心底思った。

「カヨさん、俺ら暫く部屋にいるから、カヨさんも休んでてよ」

「はいはい。お言葉に甘えてテレビでも見てます」

ふっと笑い、ゆうきの腕を掴み二階の風呂に押し込んだ。
あの短時間で衣服や身体に酒の匂いが染みついた。
ゆうきはこの匂いに敏感なので、早く消し去ってしまいたかった。
一緒に入り、まだ身体も心も上手に働いてない様子の彼をゆっくり温め、ベッドにそっと横たえた。

「休め」

「…眠くないけど」

「横になってるだけで休息になんの」

「じゃあ、隣にいて」

言われなくともそうします。
悪戯っぽく笑いながら隣に滑り込む。こちらに身体を向けた彼の腰に手を回し、ぎゅうっと引き寄せた。

「……カタはついたって言ってたけど、どうなったの」

「金渡してゆうきに近付きませんって約束した。お前は?身体とか平気か?」

「思ったより平気……この前はぶっ倒れたのにな。なんでだろ」

「理由なんてなんでもいい。平気ならそれでいい」

「……うん。お金、返すな」

「いいよ」

「そういうわけにはいかない」

「つってもなあ……」

ゆうきの全財産をかき集めても足りないだろうし、返してほしいなんてこれっぽっちも思わない。
自分が勝手にしたことだし、ただの大きなお節介。
金はまたいくらでも集めればいい。だけどゆうきはこの世に一人しかいない。
何に換えても、何を捨てても選ぶほうなど最初から決まってる。

「いらないってわかってる。でもそれじゃあ俺の気が済まない。巻き込んだ挙句尻拭いまでさせて、もうどうしたらいいかわからない、申し訳なさすぎて、このままじゃあんたの前から消えてしまいそう」

「……んー、じゃあ毎月百円ずつ返す?」

「ひゃ、百円?」

「そう、百円」

「それどれくらいで完済できんの?」

「一生かかっても無理だな。利子ばっかり膨れ上がるやつ」

「利子……闇金よりたち悪い」

「そうだよ。木内バンクはたち悪いんだよ」

「じゃあもう二度と借りない」

拗ねたように言うのがかわいくて、くすりと笑い、抱きしめた身体をゆっくり揺すった。

「だから一生俺のそばにいて」

「……そんなの意味ない」

「なんで」

「一生なんてわからない。約束なんてできない。あんたから離れるかもしれない。だってみんな結婚しても離婚する。神様の前で誓ったのに」

「だからって意味がないわけじゃない。誓った瞬間が永遠で、そのときは嘘偽りなくそう思ってたんだから」

「……そうかな」

「そうだよ。結果がどうなるかはあとにならないとわからないだろ?」

「でも、もし悪い方向に行ったら俺はすごく恨むと思う。あのときああ言ったのにって」

「いいね。そんときは一生恨んでくれよ」

「嫌だ。絶対苦しい。そんなの嫌だ……」

形のいい後頭部を掌で包んで笑った。
ゆうきは臆病で後ろ向きで、いつもなくすことばかり考える。
諦めるより、目に見えない気持ちを信じるほうが難しい。
もういいやと手を離すほうがよほど簡単で楽なのかもしれない。
だけど自分は離したくない。ゆうきが嫌だと言っても。
こういうのは言葉や態度と共に、積み重ねる時間が大切なのだと思う。
だから今は信じられずとも構わない。
いつか、数年後、同じ言葉を言ったとき、ゆうきがどう返事をするのか楽しみだ。
一生あんたにつきあわなきゃいけないの?とうんざりした表情をされたら万々歳。
愛されること、大事にされることに慣れ、自然と受け止めるようになれたら。

「…じゃあ、もし、万が一恋人でいられなくなったら友達になるか」

「恋人から友達ってなれんの?」

「なれるだろ。逆がありえるんだから」

「……そうなのか。わからないな…」

「どんな形でもいい。死ぬときまでお前と繋がっていたい。それにお前は友達を大事にするから、もしかしたら俺は今より大事にされるかもしれない」

ゆうきはむっと眉を寄せながらこちらを見上げた。

「友達より大事にしてる」

「そうか?お前の一番はいつだって景吾だ」

「景吾…も、大事だけど、でも、でも……」

言葉を詰まらせる様子に、意地悪しすぎたかなと苦笑した。

「け、景吾とあんたは別のカテゴリーの大事だから」

「別のカテゴリー……」

「友達の大事と、恋人の大事は内容が違う。それくらいわかってる」

「なら安心」

まったく赤みがささない青白い頬を指の背ですりっと撫でた。
ゆうきは数秒視線を合わせ、ゆらゆらと左右に揺らして僅かに首を傾げるようにした。

「……あんたといるといつも苦しい」

「え……」

無理をさせてるのかとぎょっとした。

「ここがぎゅうって絞られたみたいになる。意味もなく早くなって、痛いし、苦しいし、辛い」

ゆうきは心臓の上にぺたりと手を添え、眉を八の字にした。

「心臓の場所がよくわかる」

自覚はないのだろうが、かわいすぎるだろと頬を潰してもみくちゃにしたくなる。
そんなお前が俺はかわいいよと天を仰ぎたくなり、冷静に、冷静にと言い聞かせた。
だけどやっぱり我慢できず、力一杯抱き締め、触れるだけのキスをした。

「好きだ」

唐突な言葉にゆうきは目を見張り、伏せてから珍しい、と呟いた。

「あんたがそういうこと言うの、珍しい」

「そうだったか?」

「そうだ」

「言わなくても駄々洩れだろ?」

「そんなことない」

「じゃあ毎日言うよ」

「毎日はいらない。心臓が破裂するかもしれない」

「かわいいなー」

わしゃわしゃと頭を撫でると、馬鹿にするなと手を振り解かれた。

「あ、あんたはこんなこと慣れてるだろうし、俺なんて何人目の恋人かわからないけど、俺は全部初めてで、毎日混乱しながら一緒にいるのに…」

「混乱するから嫌?」

「……い、嫌じゃない。しんどいのにそのしんどさが嬉しい。変だ」

「変じゃないよ」

額に優しく口付け、大丈夫、大丈夫と子守歌のように言い聞かせた。

「……週末までここにいて、そしたら寮に帰ろうか」

「……うん」

「親父には俺から言っとくから」

「俺が言うべきじゃないか。謝罪もしたい」

「謝罪なんて望んでない。腐っても教育者。子どもたちよ、健やかなれって思ってるだけだから」

「…そうかな」

「今度顔を合わせることがあったら、謝罪じゃなくて礼を言えばいい。それだけで親父は有頂天」

「安いな」

「そ、うちの男どもはみんなお前に弱いの」

「……顔?理事長が元奥さんにどことなく似てるって言ってた」

「全然似てない」

「そうなのか、残念だ。あんたも普通の男で、マザコンなんだなあと思ってた」

「マザコン……」

「似てたらあんたを抱きしめるたび安心するかなと思って。ならこの顔に生まれてよかったなって」

「…まあ、顔が好きなのは否定しねえけど、それだけじゃねえしなあ。放っておけないし、かわいい」

「俺をかわいいなんて言うのあんただけだ」

「かわいいよ。優しくて、臆病で、壊れ物みたいで、毎日手入れして大事にしたい」

「も、もういい。わかったから、もういい」

掌で口を塞いだゆうきの耳の先が赤くなっている。
だから、そういう反応がかわいいんだよと言いたいけれど言えない。

「ここにいる間、カヨさんとたくさんご飯食べる。あと、また一緒にスーパー行く」

「そうだな」

「お祖母ちゃんみたいでカヨさんといるとすごく落ち着く」

「ああ」

「もっとお手伝いもする」

「偉いな」

この先を一生懸命話す様子に安堵から笑みが浮かんだ。
ちゃんと先を考えられる。楽しいこと、自分がしたいこと、望むものを引き寄せようとしている。
昏いものに引き摺られ、そのまま沼の底に沈むのではないかと心配したが、どうやら杞憂に終わったらしい。
ゆうきは強くなってる。心を閉ざし、元の場所に戻っても意味がないとわかってる。
膝を抱える暇があったら自分で自分を立て直そうと踏ん張ってる。
ここから先は隣でがんばれ、大丈夫だからと支えることしかできない。
きっと、ゆうきの父親の問題はこれでは済まされなくて、これから何度も苦しめられるのだと思う。
そのたび二人で歯を食い縛っていくしかない。
いつか大人になり、そういったものと完全に決別できる日まで、ゆうきの隣にいるのがどうか自分でありますようにと願った。

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