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たっぷりと睡眠をとり、朝陽を浴び、バランスの良い食事をする。
それだけで人間どうにかなるというものだ。
朝食後、カヨさんの手伝いをするゆうきを視界の端に映しながら算段を整えた。

「カヨさん、コーヒーもらっていい?ゆうきの分も」

「はいはい。お部屋にお持ちします?」

「いいよ。階段きついだろ?」

「まあ、優しい」

ふふ、と笑うカヨさんは最近膝の調子がよくないらしい。
そろそろ引退かな、と親父も残念そうにしていた。
母親不在のこの家で、しがない男三人は彼女だけを頼りにしてきた。
存在は誰よりも大きく、彼女がいないと生活が上手く機能しない。
お盆に置かれたコーヒーと小さな菓子を持ってゆうきと部屋に戻った。
朝っぱらから畏まった話をするのも憚られたが時間がない。

「お前の親父のことだけど」

言うと、ゆうきが肩を強張らせ、背筋をぴんと伸ばした。

「お前なりに考えはまとまった?」

「……まだ、よくわからない。混乱している。なにが一番いいのか探したいけど、どこから探せばいいのかもわからない」

「…そうだな」

自分も同じ気持ちだ。どこかに最適解はあるはずなのに針山から針を見つけるような途方もない作業に茫然と立ち尽くす感覚。
飽くまでも自分の考えで、必ず従わなければいけないわけではないことを確認してから口を開いた。

「俺は、金がほしいならやればいいと思う」

「でも、一度やればそのあとも付き纏われる。二回目、三回目ってどんどん間隔が短くなるし、俺だってそんなにお金持ってない…」

「二回目はない」

「……どうして」

「俺がうまくやる」

「……でも、でも…」

ゆうきは徐々にこうべを垂らし、最後にはがっくりと首を落としてしまった。

「……こういう、家族の問題に誰かを巻き込みたくない。今更だけど、それでもこれ以上迷惑をかけたくない」

「迷惑じゃない」

「迷惑だ」

「そうじゃない」

どうしたら上手に伝わるのだろう。
言葉を探し、どれもこれも的外れのようで眉間に皺を寄せた。
もっと口が上手かったらよかった。兄貴くらい長けていれば一発で安心させる方法を見つけられたかもしれないのに。

「……あんたにも、理事長にも、楓たちにも顔向けできないと思ってる…」

ゆうきは膝の上に置いた拳をぎゅうっと握り、下唇を噛み締めた。
悔しい、悲しい、苦しい。
逃げたくともどこにも逃げられない。自分は一生ついてくる。
頼れる保護者はおらず、まだ幼い自分たちは保護する存在から見放された瞬間崖っぷちに追いやられる。
彼の場合は崖から突き落とされ、怪我の治療もできないまま蹲って耐えてきた。
あまりにも不公平だと思う。
こんな想いをする必要は一ミリもないのに、どうしてゆうきが苦しまなければいけないのだろう。
子どもは親を選べない。ゆうきは誰を恨んでいいのかもわからず、自分を恨んだ。
細い肩を抱くように引き寄せ、二の腕を摩った。

「俺はお前に不必要な辛い思いはしてほしくない。排除できるものは全部排除したい。それはお前のためじゃなくて俺の勝手な願望と我儘。恋人ってそういうもんだろ。勝手にお節介して、鬱陶しいなと思われたり、もういいよって呆れられたり。ただ黙って見てるだけなんてできない」

自らの力で立って歩けるように促し、突き放したり保護したり、成長を見守るのは親の役目。
なら恋人の役目は?
自分はゆうきを甘やかしたい。
もういらないと、たくさんだと言われるくらい。
幸福に慣れ、当たり前を当たり前と思えるくらい。
背後から抱き締めたとき、びくりと身体を強張らせなくなるくらい。
セックスのあと大事に大事に抱えるのをどうして?と言わなくなるくらい。

「……お前は?もし俺が苦しんでたらどうにかしようと思わない?」

「思う。なにもできないけど、笑ってくれるならなんでもしたいと思う」

「じゃあ迷惑なんて言うな。寂しいだろ」

「……寂しい?」

「寂しいよ。俺は他人じゃないのにって」

「……うん」

ゆうきはことりと肩にまあるい頭を乗せ、暫く瞳を閉じて規則的に呼吸を続けた。
目を開けるとゆっくり向かい合い、一度大きく頷いた。

「あんたの言った通りにする。理事長に頼らないほうがいいって昨日言ってた。ならもうそれしか手がない。親父の行動がエスカレートしたらもっとたくさんの人に迷惑がかかる」

「本当にそれでいいか」

「いい。多分、理事長に任せたほうが穏便に済むんだろうなと思うけど、弱味を握られて操られるのは嫌だ」

「そうだな」

「だから、寮に戻ってお金とりに行く」

「いい。それは後回し」

首を傾げたゆうきの頭をぽんと撫で、気持ちが揺らぐ前に行こうと立ち上がった。
一階に降り、少し出かけてくるからカヨさんと待ってろと背中をとんと押す。

「カヨさーん、久しぶりにカヨさんのタルト食べたい」

「あら、嬉しい。何のタルトにします?」

「なんでもいいよ。カヨさん一押しのやつ」

「じゃあ、アマンディーヌにしましょうか」

「いいねー。俺ちょっと出かけてくるからゆうきと作ってて」

「はいはい」

どこに行くのと不安そうに瞳を揺らすゆうきの肩を大丈夫だからと摩り、車に乗り込んだ。
銀行のATMで金を下ろし、こんなもんか?と首を捻りながら鞄に突っ込む。
親父にバレたら滅茶苦茶怒られるな。想像し、うんざりしたがそれは自分の問題でゆうきは関係ない。
自宅に戻ると、ゆうきとカヨさんが買い物袋を下げて丁度玄関を開けるところだった。

「材料が足りないから買い物に行ってた」

「そうか。楽しかった?」

「楽しかった。スーパーなんて久しぶりに行った」

デパートに連れて行ったときより、別荘に連れて行ったときより興奮した様子で、自分の気遣いはスーパーに負けたのかと思うと少し悔しい。

「このままお前の家行くか。カヨさん、帰ったら食べるから」

「はい。上手に作っておきますよ」

「ありがと」

ひらっと手を振り、再び車に乗り込んだ。
ゆうきが住所を伝え、シートに深く背中を預ける。

「……まだあそこに住んでればいいけど、引っ越してたらどうしよう」

「持ち家じゃねえの?」

「借家。言っとくけどすごくボロいからな。あんたからすれば犬小屋以下だと思う」

「そんな馬鹿な」

「そんな馬鹿が通用する町なんだよ」

言いすぎだろと思ったが、住所に近付くにつれ、高い建物がなくなり、こじんまりとした平屋が並びはじめた。
トタン屋根にひびの入った壁は当たり前で、崩れそうな壁を必死に柱が支えている危険な建物もある。

「ここまででいいです」

ゆうきが告げ、車一台分しか通れない細い道の真ん中で降りる。
運転席に回り、窓を開けた運転手に適当にそこらで待っていてほしいと告げた。

「びっくりしただろ」

「なにが」

「あんたと住む世界が違いすぎて」

「んなことない」

ゆうきはシャツの袖を引っ張るようにし、俯きがちに恥ずかしいなと言った。

「なにが」

「……こんなとこに住んでたのとか、みすぼらしいとか、引かないかな」

「アホか。関係ねえだろ」

「……そうかな」

ぎこちなく歩き出したゆうきの隣を歩きながらちらりと目をやった。
表情は硬く、歩くペースも遅い。足首に鉛をつけられたように、一歩一歩身体を引きずるようにしている。
戻ってきたくなかっただろう。悪い思い出ばかりを凝縮したこの町に。
だけどここで逃げてはいけないのだと無理に奮い立たせ、泣き叫びたいのを堪えている。
なるべく長居はせず、簡潔に済まそう。
それから家に戻ってカヨさんのタルトを食べ、温かい湯につかり、もう大丈夫と何度も言い聞かそう。
ゆうきは一軒の家の前で脚を止め、ぼんやりと玄関を眺めた。

「ここ?」

小さく頷いたのを確認し、安普請な建物を眺めながら、幼いゆうきはどんな気持ちで毎日この玄関をくぐったのだろうと考えた。
ランドセルを背負いながら、毎日、毎日、帰りたくもない家に帰るしかなかった日々。
ゆうきに似た綺麗な母親と二人手を取りながら細やかな幸福を無理に見つけて心を誤魔化す。
その母親にも侮蔑の瞳を向けられ、どれだけ傷ついただろう。
きっと、一生かかってもわかってやることはできないのだと思う。
隣に視線を移し、大丈夫かと聞いた。

「……だ、大丈夫」

「俺だけ行こうか?」

「それはだめだ。俺がしっかりしないと。でも、万が一前みたいにぶっ倒れたらそのときは……」

「わかってる」

きつく拳を作る頑なな横顔を眺めると、行こうとゆうきが強い瞳で言った。
一歩一歩、決意するように強く踏み出し、横開きの玄関を開けるとアルコールの匂いが家中に充満していた。
玄関からすぐの茶の間の扉は開け放たれ、テレビの音声が聞こえる。
細い廊下には出すはずだったゴミ袋が重なり、缶や瓶の類はそこら辺に転がされている。
思った以上に環境が悪い。
母親がいた頃は恐らくここまでひどくはなかっただろうが、むせ返るようなアルコールの匂いだけで憂鬱になる。
ゆうきはゴミを脚で蹴散らすようにしながら道を作り、汚い家だけどどうぞ、と俯きがちに言った。
茶の間から顔を出すと、ゆうきの父親が畳に寝転び眠っていた。
テーブルの上には潰れた缶や大容量の焼酎のペットボトルが並んでいる。
対峙した瞬間、怒りで頭が沸騰するんだろうなと思ったが、あまりの現実に打ちひしがれ、怒りの感情は身を潜めた。

「……親父」

すりガラスの扉をこんこんと叩きながらゆうきが言うと、父親は薄っすら瞳を開け、ぼんやりしながら身体を起こした。

「……ゆうきか?」

「…うん」

「一瞬どっちかわかんねえな」

どっちかわからないというのは、恐らく母親か、ゆうきかということだろう。
ゆうきも母親と自分は年々似てくると言っていた。

「なんだ。今日は休みか」

ゆうきの父親は呂律の回らない口調で胡坐を掻き、上半身をだらんとさせるとゆらゆら揺れた。
これは相当酔っているのだろうと思うが、ゆうきは見慣れているのか然程気にした様子はない。毎日こんな調子で、これがゆうきの覚えている父親のすべて。

「……帰ってくるの何年ぶりだ。顔も見せないで親不孝者め」

のろのろと顔を上げ、濁った瞳をこちらに向けた。
酔っ払い独特のどんよりとした異常なそれ。黄疸ができていることから肝臓がだいぶやられているのだろうと思う。

「……そいつは」

震える指先を向けられ、形式的に小さく頭を下げた。

「……が、学校の…」

絞るようなゆうきの声色に、長くは持たないと察した。
無意識だろうが心臓辺りの服をぎゅうっと掴み、目が左右に揺れている。

「学校……?ああ、そういえば昨日お前の学校行ったんだよ。父親だって言ってんのに入れてもらえなくてよ。失礼な奴らだった」

小さく震えるようなゆうきの肩に手を添え、一旦座ろうと促した。
立ったままぶっ倒れたら大変だ。
父親と距離を保ち、茶の間に入ってすぐの場所にゆっくり座らせた。
父親はゆらゆら、揺れる身体をそのままに、かくんと落ちそうになる首を必死に押し戻しながらテーブルに上半身を撫でつけた。
アルコール依存症は精神障害だ。
本人が治療を望めば手助けする機関はあるが、そういった人たちは自分がアルコール依存症であることを認めないし、治療も突っぱねる。
勝手に死ぬならまだいいほうで、連中は往々にして家族や社会にさんざん迷惑をかける。
彼の場合も似たようなもので、家族は勿論、近所でもトラブルを起こし続けたとか。

「大丈夫だからな。さっさと終わらせよう」

耳元で囁くと、ゆうきは小さく頷き軽く頭を振るようにした。

「……か、母さんは?」

「あいつはお前が中学に入って半年くらいで出ていった。今どこにいるのかも知らねえな」

「そうか…」

硬かった表情が僅かに和らいだ。
母親がろくでもない父親と決別したと知り、少し安心したのだろう。

「あれ、あんたゆうきと一緒にCM出てた奴か?」

小さく頷くと、友達だったんだなと嬉しそうにした。

「ゆうきは昔から暗い奴でよ。友達の一人も連れてきやしねえ。話しかけても返事もしないわ、笑わないわ、もうどうしようかと思ったもんだ」

そうさせた原因はお前だろうとぶん殴りたくなるのを必死にこらえた。
酔っ払いの戯言だ。
第三者はそう思えるが、ゆうき本人は髪で顔を隠すように項垂れた。

「友人じゃありません。恋人です」

はっきり言うと、とろんと重そうな瞼を押し上げ、へえ、と嫌な笑みを作った。

「……まあ、面だけは綺麗だからな。また母さんに似てきたんじゃねえか?こいつは小さい頃からかわいかったんだ。近所でも評判だったよな、将来が楽しみだって。ああ、子ども好きな変な奴にも絡まれたよな。あのときは大変だった…」

ゆうきの首がどんどん垂れていく。
作った拳は真っ白で、ぎりぎりの精神を手繰り寄せているのだとわかった。

「あんた、ゆうきがどんな目に遭ったか知ってるか?学校の帰り待ち伏せされたんだよな。真っ直ぐ帰らないで遅くまで公園なんかにいるもんだからいたずらされそうになって――」

「言うな!」

突然ゆうきが顔を上げ、声を張り上げた。
呼吸が荒く、瞳孔が開いている。もうだめだ。これ以上無理だ。
辛いものと真っ直ぐ向き合う必要なんてない。目を逸らしたっていいし、蓋をしたっていい。自分に合った対処ができることと逃げは違う。
ゆうきの腕を握り無理に立たせた。

「お前は外で待ってろ」

「で、でも、でも……」

「だめだ。これ以上ここにはいさせられない」

「それじゃあなんのために来たのか…」

揺れる瞳はしっかりと混乱を示している。
父と対峙するという意思と、それを上回る精神的苦痛で大きな矛盾が生じ、今のゆうきでは正常な判断ができない。

「いいから。もういい」

嫌だ、ちゃんとすると駄々を捏ねるのも聞かず、力ずくで外に放り投げた。

「絶対入るな」

玄関を閉め、内側から鍵をかけた。
茶の間に戻り、鞄から数個の封筒を取り出しテーブルの上に放った。

「……なんだこれ」

「金が入ってる。金がほしくて学校まで来たんだろ」

彼は封筒の中身を確認し、片方の口端を吊り上げた。

「金をやるのはこれっきりだ。二度とゆうきに連絡してくんな」

「おいおい、俺は父親だぞ」

「あんたがゆうきになにをしたか知ってる」

言うと、一瞬ぽかんとした後声を出して笑われた。

「知っててゆうきとつきあってんのか?あんた変わってんなあ。ああ、でも男同士なら慣れてるほうが楽か」

こめかみ辺りの血管が大きく跳ねているのがわかる。
抑えろ、抑えろと言い聞かせ、拳を握った。

「じゃあ俺とあんたは穴兄弟だ」

楽しそうに笑う顔を見てぷちっとなにかが切れた。
気付いたときには思い切り横っ面を殴っていた。畳に転がる父親の胸倉を掴みながらやっちまったと後悔したが、ゆうきが受けた痛みはこんなもんじゃなかったはずだ。

「おい、ふざけたこと言ってると本当に殺すぞ」

「なんだあ、クソガキ」

酒臭い息をまき散らすのが癪に障り掴んだ胸倉を揺すった。

「金はくれてやるって言ってんだよ」

テーブルの上の封筒を持ち上げ、彼の前でひらひらと揺らした。

「金とゆうき、どっちをとる」

父親はちらっと封筒に視線をやり、口を開けては閉じを繰り返し、封筒を指さした。

「次ゆうきに近付いたら……馬鹿なあんたでもわかるよな?」

こくりと頷いたのを確認し、手を離した。
底辺を好む人間は欲に忠実だ。
金、薬、酒、セックス、簡単に楽になれる方法にばかり手を伸ばす。
くだらない。心底くだらないと思う。
こんな人間に構うだけ時間の無駄だ。
玄関へ向かう間際もう一度振り返った。
封筒の中の金を一枚、一枚数える横顔にうんざりする。

「約束、忘れんなよ」

その言葉が彼に届いていたかはわからない。
こういう人間に約束など無意味だとも思う。
次があったらそのときまた対処を考えよう。自分やゆうきじゃどうしようもないときは兄に頼る。それでもだめなら最終手段は親父。
いくつかの策があるのは不幸中の幸いだ。
靴を履き、玄関を開けると、扉に背を預けしゃがみ込んだゆうきがのろのろと顔を上げた。

「……帰るぞ」

「でも……」

「話しはついたから大丈夫」

焦点の合わない瞳でこちらを眺めていたゆうきは、はっとなにかに気付いたように慌てて立ち上がった。

「手、血が出てる」

「血?」

手を見ると拳に僅かに血がついていた。
恐らく父親のものだろう。
大丈夫だからと言いながらゆうきの背に手を当て、促すように歩いた。
運転手に電話をかけ、どこにいるのか聞き、そこまで行くから待っててと電話を切る。
ゆうきはゆっくり、ゆっくり、落ち込んだ様子で後ろをついて歩き、今にも崩れ落ちそうだ。

「…ごめん、俺ちゃんとできなかった」

「ちゃんとってなんだよ。がんばっただろ」

「全然だめだ。俺はもう小学生じゃないし、親父と互角にやりあえる力があるのに、親父の前にいると小学生に戻ったみたいになる。変だよな…」

「変じゃない。俺だって怖いものの前では身体が竦む」

「……怖いものあんの?」

「あるよ。ゴキブリとか」

ゆうきはぷはっと小さく噴き出した。
漸く笑ってくれた。よかった。あの場から退場させたのは間違ってなかった。絆創膏を貼っただけの傷がぱっくり開く前で本当によかった。

「早く帰ろう」

ひらひらと手を揺らすと、遠慮がちに指先を握られた。

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