10




携帯の電源を入れられないまま一週間が経過した。
自分の部屋には戻らず、木内先輩の部屋に泊まり続けている。彼はいろとも、帰れとも言わないので、自分の勝手な我儘だ。
逃げているだけとわかっている。このままでは後退する一方ということも。わかっているからもう少しだけでいい、時間がほしい。
きっと決着をつけてみせるし、勇気を振り絞ってみせる。
自分はもう幼く非力な小学生ではない。背は伸びたし、腕や身体は細いままだが、それでも親父に抵抗できるくらいの力はある。
なのにどうしてだろう。親父のことを考えると途端に怖くなる。
身体が小さく震え、指先から全身が冷えていく。心臓は早鐘を打ち、頭の中が砂嵐に巻き込まれたように混乱する。呼吸が浅くなるのを感じ携帯を放り投げる。その繰り返し。
毎晩、現実から逃げるために木内先輩に手酷く抱いてほしいと懇願する。
逃避のためにセックスを強要されるなんてたまったものじゃない。木内先輩の自尊心を傷つけているとわかっているし、こんなのラブドール代わりだ。
頭でわかっているのに心がついていかない。人肌の温かさを確認し、安堵し、ちっぽけな自分を滅茶苦茶に罵ってほしかった。
木内先輩もこれが正しい道ではないとわかっているだろう。
事後の怠い身体をベッドにうつ伏せにし、ベッド脇に座る背中に手を伸ばした。
背骨の位置を確かめるように指を這わせると彼が振り返る。

「…なんだ」

「いや…」

木内先輩は持っていた水を置き、布団の中に身体を滑り込ませた。
ころんと身体を転がせ、包み込むように抱き締める。髪に鼻先を埋め、包み込んだ指先を髪に差し込まれる。

「身体辛くないか」

「平気」

「毎日こんなことしてたら頭が馬鹿になるぞ」

揶揄するように言われふっと笑う。

「もう馬鹿だから」

「ああ、そうだった。俺もお前も最初から馬鹿だったな」

額を彼の鎖骨に摺り寄せ、押し寄せる罪悪感に眉を寄せる。
彼にこんな辛いことをさせて。こんなの恋人の役目じゃない。
快感にどっぷりつかっている間は幸福だ。その分終わった後は倍の虚しさと後悔で身体を掻き毟りたくなる。
明けない夜の底にいるみたい。
自分を悲劇のヒロインにするつもりはない。同じような境遇の子どもはごまんといる。そのすべてが腐っているわけではないし、自力で立ち直る人もいるだろう。
自分は周囲に甘え、己を粗末にし、愛している人を試すように身体を重ねる。
最悪。音にはせずに口だけ動かした。

「…先輩、あのさ……なんていうか、ごめ――」

「謝るなよ」

厳しいくらいに冷淡な声に遮られ身体を小さくした。

「お前が謝ったら迷っちまう」

僅かに身体を離し折った指で頬を撫でられた。
どうしようもない気持ちになって泣きたいような、叫びたいような激情が身体の中で渦巻く。
どうしよう。どうしたらいいのだろう。
考えなければいけないことが山ほどあって、向き合わなければいけない問題は山積みで、悠長に笑ったり眠ったりする暇はなくて。
なのに彼に縋りついて大泣きしたくなる。どこから込み上げてくるのか、正体不明な愛しいという感情に翻弄されて。
こんなとき、どんな言葉で表現すればいいのかわからない。なにもない空っぽな器に彼の存在ばかりが詰め込まれ、これはいけないと自分でもわかっていた。

「…もう一回。もう一回して」

「明日起きれねえぞ」

「いい。俺が全部やるから」

「乗ってくれんの?」

「望むことならなんだって…」

馬乗りになって口を塞いだ。
好きだ、好きだ、その気持ちをこうやって発散させないともっと面倒ななにかに成り果ててしまう。それがとても怖いと思った。
自分一人で立っていたい。誰かに寄りかかりたくない。支えなど持ってしまったら、それが去ったとき簡単に倒れて二度と起き上がれないではないか。
極端で歯止めが効かない幼すぎる心を誤魔化し、誤魔化し、そうやって生きていかなければとてもじゃないけど彼と共にいられない。
なんて酷い人なのだろう。徒に自分に手を差し伸べて、こんなに夢中にさせて、弱くした挙句いつかこの手を放すのだ。
彼の手をとり掌に唇を押し付けながら視線を向けると、肩を掴まれ強引にベッドに押し付けられた。

「優しくさせてくれよ」

懇願するような声に眉を寄せた。

「…優しくなんてしなくていい」

こんなの間違ってる。堂々巡りの思考はループし、なのに彼を押し返せない憐れなほど馬鹿な自分。
人の価値が金銭で決められるなら、自分は千円を出して釣りが来る程度のものなんだろうな。
なんだかおかしくて口角が自然と上がった。


大きく欠伸をし、頬付をついて窓の外を眺めた。
昼食を食べすぎた身体は重怠く、今すぐ机に突っ伏してしまいたい。
景吾の口車に乗せられ普段の倍は食べた気がする。この満腹感が大嫌いだ。
教科書とノートは一応開いたが、すらすらと書かれる白い文字を一つも写さずぼんやりとした。
眠いな。木内先輩の言う通り、夜遅くまで自堕落に耽って朝起きるのが吐くほど辛かった。彼はちゃんと起きて授業を受けているかな。ああ、生まれるのが一年早かったら同じ教室におさまれたかもしれないのに。
うとうとと揺れる瞼に抗う力が抜けていく。もう無理だ。教師にまたかと怒られるかもしれないが少しだけ眠ろう。
まろやかな眠りに堕ちるその寸前、校門の方から怒声や言い争う声が響いた。
なんだ、なんだと生徒も教師も窓際へ向かい、開け放った窓から聞こえた叫び声に一気に覚醒した。

「なんだー?守衛が集まってきた」

「喧嘩?不法侵入?」

「うわー、やばそう」

わらわらと集まる生徒の一番後ろからそっと窓の外を眺め身体が後ろにぐらついた。
叫びながらゆうき、ゆうきと呼んでいるのが聞こえる。
クラスメイトが一斉にこちらに視線を寄越した。このクラスにゆうきという名前は自分だけだが、全校生徒を対象にすれば自分以外も考えれれる。だけど皆自分のことだと確信している様子だった。
やめろ、そんな目で見るな。
あのときと同じように頭の中が白んでいくような感覚がした。

「あれじゃね、真田のやばいファンとか…」

「あー、誰かがSNSに真田の写真上げたから高校わかったんだなー」

「皆、そこまでにして一旦席について」

女性教師が狼狽えながら言うが、誰も聞く耳を持たず守衛頑張れー、なんて呑気に話している。
身体のすべての機能が息を止めたように静かだった。なのに心臓の音だけはやたら響く。

「ゆうき!」

教室の扉が開くと同時、木内先輩の凛とした声が室内に響いた。その瞬間水を打ったように静かになり、肩で息をする彼に引き摺られるように歩いた。

「あれ、お前の親父か」

こちらを振り返らずに聞かれ、小さくうん、と返事をする。大きく舌打ちされ拳を作った。
木内先輩は職員室の扉を開け、背中をとんと押して室内に押し込んだ。
教師が大童でどこかへ電話をかけたり鍵を持って走り回ったりしている。

「真田、こっちに来い!」

浅倉に手招きされ職員室と続いている校長室に押し込められた。

「お前はここで待機。木内、お前も一緒にいろ」

先輩は浅倉の耳元で何かを言い、浅倉はわかったと頷いた。

「大丈夫か」

先輩が呆然と立ち尽くすばかりの自分の肩を掴む。

「……大丈夫」

地面が消えるような感覚に脚からかくんと力が抜けた。腕を掴まれ支えられ、ぼんやりと彼を見上げる。

「…俺…」

どうしたらいい。こんなときまで選択権を彼に与えようとし、情けなくて俯いた。

「今はとりあえずここで待とう。今日親父がいてくれてよかった…」

「…理事長、いるのか?」

「ああ」

考えなくては。考え、考え……でも、なにを。
窓の外はまだ騒がしい。学園以外近くに建物はないので近所迷惑にならないだけまだましだ。
我が父親ながら人に迷惑をかけることだけは得意で、世間体とか、人の目を一切気にせず直情的に動く人だった。恐らく繋がらない電話に痺れを切らして酔いが回ってまともな思考ができないままここまで来たのだ。
声を聞いただけで精神が細く千切れるようだった。
今親父は少し先の距離にいて、無茶して校内に乗り込まれたら自分の腕を簡単に掴める。
震える指先に力を込めた。拳が白くなるほど握り込むと先輩が両手で拳を包んだ。

「血、止まるぞ」

「…どうしよう」

「大丈夫。守衛がいる」

「刃物とか、持ってたら…」

「そこまで馬鹿か?」

わからず左右に首を振った。
最低な父親で、母や自分、街中で衝突した他人に暴力を振るうことも多かったが、計画的な悪意を持って人を傷つけるような真似はみたことがない。
でもわからないではないか。五年で人は変わるし、親父がはっきりとした殺意を持って自分の元に来る可能性だってある。

「今は守衛や教師に任せるしかねえな」

背中を擦られるたび目の前が少しずつ歪んだ。

「なんで、なんで…」

きつく下唇を噛んだ。そのうちじわりと鉄の味が口内に広がる。
自分はこんな罰を受けるほど罪を背負った人間なのだろうか。なにがいけなかったのだろう。痛いとか、やめてとか言わず黙って殴られたし、身体が腫れて怠くても学校を休むとまた怒られるから歯を食い縛って毎日行った。先生になにがあったのと聞かれても絶対に口を割らなかった。
いつか殴られて死ぬのだろうなと思ったけど、だからって嘆かなかった。逃げなかった。別にいいや、むしろ早く殺してくれないかな。灰色の世界の中で自分の周りは重油のように濁ってどす黒かった。
その内暴力に慣れると身体を裂かれた。口を塞がれ、ぼんやりと天井を眺めて早く終わらないかなと思った。
自分を天から見下ろすように身体と心を引き剥がして耐えた。
毎日楽しくなかったけど、それが自分の生まれてきた意味なんだろうなと思った。
きっと前世でひどい行いをして、現世で地獄に堕ちるよりきついお仕置きをされてるんだ。足りるかな。罰は現世で償いきれるかな。そうじゃないとまた生まれ変わったときの自分が罰っせられるかもしれない。ああ、次はもう少し楽しい生活がしたいな。普通のご飯とか、普通の家庭とか、素朴で温かくてまろやかな円の中で生きたいな。欲張りすぎだろうか。
自嘲気味に笑いながら耐え、ついに母に見つかったときのあの視線が忘れられない。
殴らるより、身体を裂かれるより、軽蔑するような母の目が一番胸に刺さった。
頼んでないのに勝手に思い出される日々に、う、と嘔吐いて口を塞いだ。

「おい、大丈夫か」

背中を擦る手が早くなる。
苦しさで涙が滲み、床にぽつぽつと染みを作った。

「待ってろ。なんか袋とか…」

彼が傍を離れる気配を察し制服をぎゅっと掴んだ。

「…だい、じょうぶ。だいじょうぶ…」

「…ゆうき」

酷い顔で浅く息をし大丈夫と言い聞かせた。
遠慮がちに扉が開き浅倉が顔を出す。自分と目が合った瞬間、痛ましいものを見るように目が細められた。

「…一応騒ぎは収まった。理事長が呼んでるけど行けるか?」

「もう少し落ち着いたら行くって親父に伝えといて」

「わかった」

「…ゆうき、このまま部屋に戻って休んでもいいぞ。親父には俺から…」

「いい。俺のせいだし…」

「…じゃあ、もう少し休んでからな。そういえば、お前がモデルやった理由聞いたぞ」

こんなときになんの話しだろうと顔を上げた。

「俺の写真と引き換えにやったんだろ?そんなことしなくても欲しけりゃいくらでも家にある。親父の変な口車に乗るなよ?ああ、それとも何か思い出話しでも聞いた?」

淀みなく、平坦に、いつもの調子でどうでもいいことを話され混乱する頭が少し冷えていく。

「しょうもねえ餌でゆうきを釣りやがって。困ったもんだ」

な、と顔を覗き込まれ小さく頷いた。

「今度滅茶苦茶高い料理奢ってもらうか。それともどっか温泉とらせるか、時計でも買ってもらう?お前の場合は赤点免除とかの方が嬉しいか」

背中に置かれた手は一瞬も止まらず動き続けながら片頬を包まれた。

「ひでえ顔」

くっと笑われ今更気恥ずかしさでこの場から逃げたくなった。

「み、見るな」

俯くと頭の中が羞恥に染まり、波が引くように恐怖心が薄れていく。
ゆっくり、ゆっくり、身体が正常に機能し始めているのがわかった。
一度瞳を瞑り、大丈夫と言い聞かせて立ち上がった。

「もう、平気」

扉を開けると教師はまだ忙しそうに動き回っていた。
電話をかけたり、パソコンに向かったり。浅倉がこちらに気付きぽんと頭に手を置いた。特になにも言われず、責められないことに安堵した。
理事長室に入ると、いつも柔和で穏やかな理事長には珍しく厳しい眼光で若い男と対峙していた。

「やあ、座って」

こちらに視線を向けた瞬間目尻を下げた表情に居た堪れなくなって俯いた。
応接ソファに着くと以前一度会ったことがある男が立ち上がって扉の近くへ移動した。うちの弁護士、と理事長が言っていたことを思い出す。

「温かいお茶でも飲む?」

問われ小さく首を振った。

「そう。ゆうき君この間倒れたって聞いたけどもう平気?」

「…はい」

「貧血を馬鹿にしちゃだめだよ。一か所の不調は他の不調も連れてくるからね。身体はすべて繋がっているんだから」

「はい」

他愛ない世間話に焦れる。叱るならさっさと叱ってほしい。説明しろと糾弾するならしてほしい。優しさを与えられるたびその先が怖くなる。まるで針の筵だ。

「…じゃあ本題に移ろうか」

組んでいた両手に力を込める。理事長は鷹揚と脚を組み苦笑した。

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