9
翌日の午前中に退院を済ませた。
足りない鉄分を補充するためのサプリメントと、今の自分に必要な食べ物が書かれたプリントを渡され、さっと目を通す。
世話になった看護師に礼を言い、後で須藤先輩にもきちんと礼をしようと寮に戻りながら考える。
部屋の前で一度先輩と別れた。片付けが済んだらまた部屋に行く予定だ。
遠慮がちに部屋の扉を開けるとソファの上に結城がいた。珍しくテレビもついていないし、ゲームもしていない。
こちらの物音に気付き、慌てて振り返った顔は妙に焦っていて、ふっと吹き出してしまった。
「おかえり!」
「ああ。…なんか、色々面倒かけたな」
「大丈夫、慣れてるから」
言いながら結城はソファに先導し、温かいお茶を淹れてくれた。
「大きな病気じゃなかった?」
「ただの貧血。ちゃんと飯食うことと、サプリみたいなの出された」
「そっか。まあ、貧血も甘く見ちゃいけないんだろうけど、とりあえず大病じゃなくてよかった。顔色は悪いけど、真田君の顔見れて安心したよ」
心底安堵したように溜め息を吐かれ、短い付き合いのたかが同室であるにも関わらず、他人を思いやれる結城はいい奴なのだろうと思った。
困った癖や趣味はあるが、人間的には自分よりもずっとできている。
「…たぶん大丈夫だと思うけど、万が一また倒れたら木内先輩か須藤先輩呼んでくれるか?連絡先教えておくから」
「了解」
「…結城のおかげで騒ぎにならずに済んだ」
教師や救急車を呼ばれていたらもっと大騒ぎになっただろう。野次馬が押し寄せ、数日噂のネタにされ、学校でも寮でもちらちらと人の視線を感じる破目になる。
「いや。俺より木内先輩の判断に従った方が正しいと思っただけ。一応部活で応急手当とか一通りのこと習うから、症状みて救急車より木内先輩のがいいかなと思って」
「さすが空手部」
「いやー、真田君に誉められると照れるなあ」
えへへとぶりっこして笑う結城を冷ややかな目で見た。
「あ、冷たい目。でも真田君だとそれが似合うから困っちゃうなあ」
へらへらと笑う顔は締まりがないが、身長は自分と同じくらいでも肉体的にも精神的にも成熟している。意外と頼りになる男だ。やはり武道を嗜んでいるからだろうか。
それなら自分もやってみようか。精神的にもっと強くなれるかもしれないし、力を得て物理的に親父に勝てるようになれば恐怖心も霧散するかもしれない。
以前結城に聞いた空手部の練習メニューを思い出すと尻込みするけれど。
「まあ、冗談は置いといて。なにか困ったことがあったら言ってね。同室としてできることならするから」
「…悪いな」
「いえいえ、氷の女王のお世話ができるなんて本望ですよ。いや、冗談。冗談だからその顔やめて!すごいことになってる!美人な真田君じゃなくなってる!」
慌てて謝られ、小さく声を出して笑った。
結城は一瞬ぽかんとして、自分も大きく口を開けて笑った。
大丈夫。友人だけではなく、同室者も力になろうとしてくれる。自分は未完成な人間だが、こんなにも人に恵まれている。
「よっしゃ、真田君も元気そうだし、俺部活行くね」
「待っててくれたのか?」
「退院するって相良君が部屋まで来て教えてくれたから。顔見たかったし。思ったより元気そうだし、安心して先輩にしごかれに行けるよ」
結城は泣き笑いの真似をしながらソファの上に置いていた鞄を持ち上げた。
「あ、ありがとな。色々…」
「…もし俺になにかあったら今度は真田君が助けてね?」
「お前には何もなさそうだけど」
「こう見えて繊細なんだって。見てよ身体だってこんなに痣だらけ」
「痛そうだけど、お前ならそれでも笑ってられそうだし」
「ひでえ…」
「嘘。風邪ひいたら看病してやるよ。優しくはできねえけど」
扉に向かいながら下らない冗談を言い合い、安静にしていなさいよと忠告をして結城は軽く手を振った。
放り投げていた鞄から歯ブラシやタオル類を取り出す。それを洗濯篭に放り込み、楽な格好に着替えて木内先輩の部屋へ向かった。携帯の電源はまだ切ったままだ。
先輩の部屋へ入ると、ティーバッグに入った紅茶が揺れるカップを差し出された。
「翔がくれたんだ。お前の身体にいいだろうって」
受け取りながら神谷先輩の心遣いにじんわりと心が解れる。
「神谷先輩にまで迷惑かけたな」
「まあ、あいつは慣れてるから大丈夫だろ」
「慣れてる?」
「あれの従兄弟も病弱だから健康オタクみたいにいつも色々調べてるし」
「へえ」
自分はコーヒーの入ったカップを口に寄せながら木内先輩もソファに着いた。
一口飲み込んでからこちらに視線を移す。ふっと空気が重くなり、なんの話しをするのか察した。
「考えたか」
「…少しは」
「急かすつもりはねえけど、いつまでも携帯の電源落としてるわけにもいかねえしな。ここまで来たらもっと嫌だろ」
「…そうだな」
まだ心の浅瀬をすくうようにしか自分を見つめられない。
他人の感情は察することができるのに、自分自身になった途端目隠しをされたようになにも見えなくなる。
その中でもわかったこと、わからなかったことははっきりしている。
「皆に心配かけたくない。先輩にも。でも、まだ親父と決着をつける勇気がない。自分の過去とも向き合えないのに親父にはもっと向き合えないと思う」
「…そうか」
「呑気なこと言ってられないのはわかってるけど、もう少し一人で考えたい。ちゃんと食べて、病院に言われた通り薬も飲んで、それで…多分、先輩が言うようにいつかはカウンセリングとか、そういうのに行った方がいいんだと思う…」
「そうか」
ぽんと頭を軽く叩かれ俯いた。
「自分で整理できないときは他人に整理してもらうのがいいんだよな。たぶん…」
「…そうだな。他人にははっきり見えるものが自分だと見えなくなるからな」
「…わかってるのに、できれば誰にも話したくない…」
「まあ、今すぐじゃなくても自分から人の力を借りたいと思ったら通い始めればいい。拓海には何人かカウンセラー紹介してもらったし」
「…わかった」
本当はすぐにでもどうにかした方がいいのだ。きっと自分の心の中に巣食う影は目に見える怪我のように対処が簡単ではない。
専門家と一緒に時間をかけて、ゆっくりと解決方法を探るしかない。完治はしないかもしれない。それでも、ここで妥協するという折り合いを見つけるのが大事なのだろう。
この場所で足踏みしている暇はないとわかっているのに、一歩を踏み出すのが怖い。どうしてこんなに臆病になってしまうのか。
問題から目を逸らしている場合じゃないのに。パンドラの箱に入っているのは希望ではなく絶望だと知っているからだろうか。
「暗い顔」
額を指で弾かれそこを擦りながら顔を上げた。
「痛い」
「…俺が言い出したことだけどよ、あんまり自分を否定するようなことばっか考えんなよ」
「…否定、は…。いつものことだし…」
「自尊心が低すぎるのも問題だよな。お前は自分の価値をなーんもわかっちゃいねえ」
「そんなの誰だってそうだろ。あんたみたいなのが特別っていうか…」
「俺みたいなの?」
「自信満々でなんでも持ってるような奴」
「そう見えるか?」
「見える」
「…そうか。まあ、自分大好きな人間なんてそういねえだろうけど、お前はもう少し自分を誉めてやった方がいい。今回のことだって昔のお前なら死んでもカウンセリングなんて行かない、医者の世話にもならない、一人にしてくれって突っ撥ねただろ。そうならなかっただけでも進歩だ」
言われてはっとした。確かに以前の自分はこんな状況になったら殻に篭って数日死人のように過ごし、ますます生気を失ってぼんやりと毎日を過ごしただろう。
だけど自分は一人になるという選択肢さえ思い浮かばなかった。
友人、恋人、同室。迷惑をかけたことを悔やんだが、彼らに心配をかけまいと努力しようと思った。
改めて考えるとくすぐったく、表面だけを綺麗にコーティングしたのではなく、一人で完結しない世界が心の中で根を張っていたのだと気付く。
「…それは進歩なのか」
「だと思うけど」
「そうか…。そうか」
木内先輩は、だからそんな暗い顔するなと言いながら視界を塞ぐ長い前髪を耳にかけてくれた。
こんな状況でも小枝程度の幸福は存在する。それはいつも誰かが運んでくれる。
一人じゃ作り出せないものばかりで、友人や恋人の存在が自分を弱くさせたと思っていたが、それがどんなに傲慢な思考だったか気付いた。
一人じゃなにもできないくせに。世界を憎み、自分を殺し、吐いた唾はいつか自分に戻ってきて。濁った瞳で灰色の薄ら寒い世界を指を噛みながらただ見詰める。
どこから間違ったのか考えて、生まれなければよかったと呪詛を呟き続ける。
これからも落ち込むことは山ほどあって、その度に沼に沈んで自分を責めるだろう。でも今はそこから這い上がれと背を叩いてくれる人がいる。
だからこの困難も乗り越えなければいけない。
美しく纏まらなくても、散々な結果になっても、爪を立てて踏ん張る。
途中で逃げるなよ。自分に言い聞かせ拳をぎゅっと握った。
「…少し昼寝するか?」
「いや、景吾たちに顔見せに行く」
「また景吾か!」
先輩は大きな溜め息を吐き、額に手を当てた。
「もう元気だって言わないとまた心配する」
「へーへー、わーってますよ」
どうせお前は景吾の方が…。とぶつぶつと文句を言いながらコーヒーを飲んでいじける姿がおかしかった。
彼は滅多に手に入らないものを生まれながらに持っている側の人間だ。羨望され、その倍反感を買い、それを押しのけるだけの強さがある。なのに、こんな自分のたった一言に腹を立てるのだ。
一国の王がみすぼらしい平民の尻尾を追っているようで滑稽だ。何でも持っている彼が何も持っていない自分を独り占めしたいというのだ。
「戻ってくるから」
ソファから立ち上がりながら言った。
飲み干したカップをシンクに置いてソファを振り返るが、彼はソファの背に腕を伸ばしたままうんともすんとも言わない。
どんな基準かは知らないがたまにこうして狭量なところがあり、一度へそを曲げるととても面倒な男だ。
背後からとんとんと肩を叩くと首だけこちらに上げた。
「すぐに戻る」
「いい。ゆっくり話して来い」
「…いじけ虫」
「いじけてねえよ」
嘘つき。眉間に寄った皺を深くしているくせに。
言葉にする代わりに彼の両頬を包み上から触れるだけの口付けをした。
「じゃあな」
呆気にとられる彼の鼻をきゅっと摘んで背を向けた。
あれで機嫌が直るといいのだけれど。そんな安い男ではないし、自分の唇にそんな価値があるとは思えない。
戻ったら必死にご機嫌とりをしなければいけないかもしれない。
親父も厄介な人間だが恋人に選らんだ男も別の意味で厄介だ。
もしかしたら自分はそういう人間を好んでいるのではないだろうか。浮かんだ疑問にぞっとしたが、そんなことはないはずと軽く首を振って景吾の部屋をノックした。
[ 49/54 ]
[*prev] [next#]