8




木内先輩が部屋へ戻って来ると来客の二人に一瞬瞠目し、手に持っていたスマートフォンを尻のポケットに突っ込んだ。

「来てたのか」

「ああ、ゆうき君の具合気になったし。蓮に言ったら今すぐ行こうってうるさくて」

「そんなにうるさくしてませんよ。それに友達が入院なんて一大事に呑気にしてられないじゃないですか」

蓮の言葉と声は冷え切った心をゆっくりとゆるま湯で溶かしていくような温かさだ。
友人というものは宝だ。皆と共にいられるときは、悪魔の存在も忘れられるような気がした。昔の自分ではなく、皆が作ってくれた今の真田ゆうきでいられる。

「涼にも一応連絡入れといた。楓が心配すると思って。もしかしたらあいつらも来るかもな」

「絶対来るね。景吾君や秀吉君も今に現れるよ」

くすくすと笑いながら須藤先輩は言い、木内先輩と共に応接用のソファに着いた。
蓮はベット脇にしゃがみ込んで頬にかかる髪を耳にかけてくれた。

「ゆうきは普段から白いけどますます青白いなあ…」

覗き込まれ、大丈夫だと曖昧に返した。

「僕売店で何か買って来るよ。少しでも栄養とらないとね。野菜ジュースくらいなら飲めるでしょ?」

「だな。悪いな…」

蓮はトートバックを肩にかけ直して部屋を出た。
木内先輩と須藤先輩はソファに対峙して何か話しているが内容までは聞こえなかった。
その内須藤先輩の予言通り、楓や景吾、秀吉に神谷先輩まで来てくれて、広かった病室がぎゅうぎゅうになった。
蓮のときと同じように大丈夫かと問われ、点滴を指差しながらただの貧血だと返す。

「だーから食べろっていつも言ってんだよ!」

景吾にも同じような説教をされ、黙って怒られた。言い訳もできない。

「すみません…」

「退院したら俺と同じくらい食わないとな」

景吾なら本気でやりかねない。どうやって回避しようか黙考していると景吾の隣にいた秀吉がまあまあと間に入ってくれた。

「急に食べると違った意味でぶっ倒れるかもしれんから少しずつ。な?」

「でも…」

「元気そうな顔見れたんやしええやん」

「…だって、また倒れたらと思うと心配じゃん」

景吾は唇を尖らせて拗ねた子どものように呟いた。よしよしと秀吉に宥められ、細い腕に刺さる点滴を眺めた。

「これが終わったら帰れるの?」

「さあ。そこら辺は須藤先輩に聞いて」

医者は勿論のこと、須藤先輩が良しとしなければこの小さな箱に軟禁されるのだと思う。心配してくれるのはありがたいし、こんな個室まで用意してもらって偉そうに言える立場ではないが、大袈裟すぎるのではないかと思う。
貧血なら鉄分の多い食べ物と、詳しくは知らないがサプリとか食事で補えない分を処方してもらえば済むのではないか。
一刻も早く寮に戻りたい。普通の生活がしたい。今となっては結城のゲーム音ですら懐かしい。

「お待たせー…って、皆来てたんだ。よかった。来るかと思って色々買ってきたんだ」

蓮は買い物袋をテーブルの上に広げ野菜ジュースと、珈琲や炭酸飲料をそれぞれに手渡した。

いつもの面子が揃うとうるさいもので、須藤先輩に何度も病院では静かにと叱られた。
小さな子どもと同じで叱られた直後は静かにしても、すぐに忘れて騒ぐものだから、楓は香坂先輩に首根っこを掴まれて病室の外に引き摺られた。長引くならまたお見舞いに来るからと必死にもがくも呆気なく消えていく。
秀吉も神谷先輩と景吾に長居したら悪いから帰ろうと微笑み、それぞれに手を振られる。
それが少し寂しかった。
喧噪の中にいれば気も紛れるのに一人になると碌なことを考えない。
自ら深淵を覗いてはこちらに伸びる黒い手に身体ごと引き摺りこまれる。
小さく溜め息を吐く。ベッドヘッドに背を預けて軽く首を振った。
自分が生まれたのは十六年前ではなく、楓たちに出逢ってからだと言い聞かせる。
昔とは違う。今の自分は困難に立ち向かう勇気をくれる人がいる。地獄を受け入れるのではなく、そこから這いずり上がる力がある。だから大丈夫、大丈夫。何かを誤魔化すように何度も繰り返した。

木内先輩と須藤先輩は会話に区切りをつけ、二人揃ってベッド脇に来た。

「…俺いつ退院できます?」

「うーん、大事をとって今日は泊まりかな。点滴もまだ時間かかるし。退院は明日にしよう」

「そう、ですか」

「薬が出るかもしれないけど、ちゃんと飲むんだよ」

「はい」

「いいお返事です」

須藤先輩はぽんと肩を叩き、外で待たせている蓮の元へ戻った。
木内先輩は椅子をベッドに寄せ、そこに着きながら自分も泊まると言った。

「いいよ。子どもじゃあるまいし」

「俺もお前も子どもなの」

「一人で寝れないほどじゃない」

「うるせえ。泊まるったら泊まる」

意固地になる彼に何を言っても無駄だ。自分の好きなように行動しなければ気が済まない人だ。付き添いなんて恥ずかしいが、それ以上の不毛な言い争いはやめた。

昼食のトレイに数種類の錠剤が乗っており、看護師から食後に飲むようにと説明された。
腹など減っていなかったが、ここでいらないと言えばまた口煩く叱られるので限界まで口に運んだ。
それでもすべては平らげられず勿体無いなあとぼんやりと思う。昔なら白米と味噌汁の他におかずが二品もあったらご馳走だとはしゃいで急いで口に運んでいたのに。
幼少期にまともに食べなかったから自分はいつまでも小枝のような腕だし、背も伸びないのではないか。それももう諦めたけれど。
食後に薬を飲んでしばらくするとうとうとと眠くなり瞳を閉じた。
病院の中はとても静かで、空調は一定に管理され、小春日和の幸福を孕んだ空間のようだ。

昼寝の後目を覚ますとすぐに夕食で、また無理をしながら食べ、点滴を交換した。

「風呂入りたい」

「我慢しろ」

「大病でもあるまいし…」

「病院では医者の指示に従うこと」

そう言われると何も言い返せない。
ふと気になって枕元の携帯に視線をやった。それに気付いたのか、病院内だし電源は落としたと言われ、安堵したような問題を先送りにしている焦燥感のような、もやもやとしたものが胸を占めた。

「…考えたんだけどよ」

木内先輩は静かに話し出し、そこで言葉を区切ったまま二の句を告げずにいる。

「なんだよ」

「…親父と決着つけた方がいいと思うんだ」

「…は?」

「拓海とも少し話したけど、お前が倒れたのは貧血だけじゃなくてトラウマみたいなものもあるんじゃねえかって」

「トラウマ?」

「俺はそういうの詳しくねえけど、拓海が言うにはそういう症状があるらしい。解離性障害、って言う…」

「須藤先輩に話したのか?」

「いや、貧血以外で倒れる可能性のある病気はあるかって聞いたら、身体に異常がない場合精神的な問題でそういうのがあるって説明された」

「精神って…。だから心療内科に連れてったのか?」

「まあ」

歯切れの悪い返事にかっとなる。

「余計なことすんな!俺はどこもおかしくない!」

「わかってる。万が一を考えただけだ」

「俺は普通だ!」

「落ち着け。今時おかしくねえだろ。皆何かしら悩むし、カウンセリングなんて当たり前の時代だぞ」

「でも…」

「親父と話した直後にぶっ倒れたのは事実なんだ。お前も心当たりがあるからそんなに否定するんじゃねえのか」

「…ない。そんなの…」

ぎりっと奥歯を噛み、掛布団をぎゅうっと握った。
自分は普通だ。どこも悪くない。
普通じゃない経験をして育ったけど、それでも今まで耐えてきたし、こんな風に倒れることもなかった。
倒れたのがたまたま親父と話した後だっただけで原因は貧血に決まってるし、これからだって困難には耐えられるはずだ。

「…拓海の話しでは幼少期に虐待されたり、戦争を経験したり、とにかく酷い傷を受けた人に多い症状だそうだ。苦痛を避けるため、自分を分断して耐えるらしい」

「…違う。俺はちゃんと耐えてきたし…」

「そういうのって、安全な環境に置かれてから発症することが多いんだと」

「違う、違う。俺は…」

「ゆうき、別にそうなったからってお前が弱いとかそういう問題じゃねえんだぞ。それくらい辛い想いしてきたってことだし、お前自身がそれを認めねえと。問題に目逸らしても一生そのままだぞ。だから親父と決着つけた方がいい」

「…でも」

「この先ずっとびくびくしながら生活すんのか?携帯捨てるか?それで解決か」

「わかってる!わかってるけど…」

情報が頭に雪崩れこんで処理が追いつかない。
酷い家庭環境と今回の入院が関係しているなんて意味がわからないし、自分をおかしいと思ったことは今まで一度もない。笑ったり怒ったりは苦手だが、人とコミュニケーションがとれないほどではない。
友人や木内先輩は僅かな変化で気付いてくれるし、毎日普通に生活できていた。
親父とはこのまま接触せずにいればいつか完全に忘れられるし、わざわざ火の中に飛び込む必要性を感じられない。実際、電話がくるまであの恐怖を忘れていた。
それこそ携帯電話を捨てれば解決できるのではないか。

「…親父が学園に連絡入れられたらどうする。親子なんだから学校側は拒否できねえぞ。お前を追いかける方法はいくらでもある。卒業するまで逃げ回るのか」

浅はかな気持ちを見透かしたように言われた。

「そんなの理事長にうまいこと言ってどうにかしてくれよ!」

「ゆうき…」

逃げ続けるのは辛い。幼い自分に蹴りをつけて初めて前に進める。
木内先輩の言いたいことはわかるが、今がそのときだとは思いたくない。
逃げたい。正当な理由などいらない。狡くてもいい。幼い自分を置き去りにして今の自分だけ遠くに遠くに逃げたい。
怖いもの、嫌なことから目を逸らすのがそんなに悪いことか。真正面からぶつかっても受け入れられないものはいくらでもある。
世の中の人間は正々堂々とスクリーンの中のヒーローみたいに正しい道だけを選択して生きているのか。自分はそんなに愚かなのか。
頭がパンクしそうで瞳をぎゅっと瞑った。

「…別に責めようとか、追い詰めようとかじゃねえんだ」

そんなのわかっている。意地悪や悪意で言っているわけではない。だからこそ期待に応えられない自分が憎くなる。
頭では正しい道がどれかわかっている。でも身体も心もその道だけは嫌だと駄々を捏ねる。どう宥めれば進めるのか自分でもわからないのだ。

「…俺は専門家じゃねえし、本当は医者とか詳しい人にアドバイスもらいながら乗り越えるのが一番いいと思う」

「アドバイスなんていらない。今までどうにかしてきたし、これからだって…」

ぶっ倒れた分際でどの口が言うのかと嘲笑されるかもしれないが、今までできていたことがこの先できないはずはないと信じたい。

「ゆうき、わかってくれ。たぶん、お前がした経験はお前一人でどうにかなる問題じゃない。プロの手を借りて楽になるならその方がいい」

駄々を捏ねる子どもに言い聞かせる母親のようにお願いだからと付け足され、咄嗟の反論を呑み込んだ。

「医者に抵抗あるならカウンセラーはどうだ?いい先生紹介してもらうから」

「…俺は…。俺はそこまでしないといけないのか?今までみたいにじっとして、たまに先輩に頼って、それじゃだめなのか…」

「だめってわけじゃない。お前がどうしても嫌だって言うならそれでもいい。でも骨折を放置したら変にくっついちまうだろ。心だって同じだと思う。専門家の力を借りるのはおかしいことじゃない」

先輩が言ったように、カウンセリングや心療内科にかかるのは心の健康を考えるなら当然で、問題を解決しようとしているだけ前向きだと思う。
拒否反応の理由は自分自身を弱いと認めたくないからだ。友人や恋人のせでそうなってしまったと思いたくない。一人なら耐えられたなんて後悔したくない。
楓たちや木内先輩のおかげで毎日が幸福だったのに、その引き換えに心をがっちり包んでいた膜が剥がれた。それがいいことか悪いことかわからない。ただ、専門家の力を借りたら今の自分を否定したことになる気がした。

「…まあ、すぐに決めろとは言わない。お前のことだし、お前が納得できる方法を探すのが一番だ。無理に病院やカウンセリングに通っても疲れるだけだしな」

「…うん」

ぼんやりと答えた。
自分にとって一番都合の良い道と、周りの人間にとって一番安心できる道はきっと違う。
一人なら倒れようが死にかけようが昨日と同じ日々を選んだ。だけど友人は口を揃えて栄養を摂れ、健康的な生活をしろと言う。木内先輩はばらばらになって纏まらない心を掻き集めようとしてくれる。
自分に都合のいい道を選べば、王様のように踏ん反り返って周りにばかり気苦労をかける。それだけはだめだとわかっている。
大事な友人も恋人も呆れ、考えてやるだけ無駄な存在として端っこに追いやるだろう。
だからたぶん、努力をしなければいけない。
絶対に譲れない部分はある。だけど、余地があるなら周りに心配させない範囲で行動するべきだ。
一人きりで生きないというのはきっとそういうこと。
自己中になる部分と譲る部分。どちらが大きくても破綻する。
だから自分ももう少し視野を広げて考えなければいけない。嫌だから、無理だからと目を逸らしてはいけないモノがその中にはあるのだと思う。

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