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瞳を開け、真っ先に視界に飛び込んできたのは、淡い光りを放つ小ぶりのシャンデリアだった。
一体ここは何処で、自分は何故こんなにも深い眠りについていたのだろうと視線を泳がせる。
自分はベットの上に横たえ、応接セットのソファやテーブルが並んでいる。窓は大きく、自然の陽光が温かく室内を照らす。
ホテルの一室か何処かだろうか。それにしても何故。
記憶を辿ろうと思ったが、頭は酷い鈍痛がし、それ以上物事を考えないようにと阻止する。
頭を支えながらベットから起き上がると、部屋の扉の向こう側から聞きなれた声が微かに聞こえる。
「…木内、先輩…?」
小さく呼んでみたが扉一枚隔てている彼に声は届かない。
自分がどうなっているのかまったくわからないこんな状況でも、彼がそこにいるのだとわかった瞬間それだけで安堵した。
苛立ったような木内先輩の声はちっと舌打ちをしたのを最後に聞こえなくなり、それと同時に先輩本人が顔を出した。
視線がぶつかった瞬間、彼は一瞬目を丸くしこちらへ駆け寄った。
「目、覚めたか…」
彼は心底安堵したように溜め息を吐きながらベット脇の一人掛けソファに着いた。
「…俺…」
「お前、部屋でぶっ倒れたんだぞ。覚えてるか?」
きゅっと腹の前で組んでいた手を彼の掌が包んだ。
ああ、そうだ。
断片的な記憶が次第に蘇る。地獄に叩き付けられ先輩に会いたいと寝室の扉を開けた。一歩足を踏み出そうと思った瞬間に目の前が白くなりすべてが遠のいたのだ。
「……ここは…」
「拓海の家の病院だ」
先輩はあの後の経緯を簡潔に話してくれた。
まず、倒れた自分を結城が介抱しつつ、俺の携帯から木内先輩へ連絡を入れた。
事情を聞き部屋へすっ飛んで来た木内先輩は須藤先輩を呼び寄せ、その場で軽い診断をしてもらったらしい。
頭部に外傷はないが頭を動かさないようにと須藤先輩に指示され、次に須藤先輩は騒ぎにならないようにと救急車ではなく、タクシーの手配をしてくれた。
須藤先輩の実家が抱えるいくつかの病院の内、一番学園に近い場所へと搬送され今に至る。
「…そっか」
部屋の掛け時計に目をやれば朝の七時だった。
あれから九時間は経過していることになる。周りが忙しなく動いてくれている間、自分は呑気に眠っていたらしい。
どうして倒れたのかわからない。指先から徐々に全身が冷えていくような感覚の後には目の前が白く霞んでいった。
「…俺、どうしたんだ…」
「…お前が眠ってる間、脳神経科の先生に検査をしてもらった。脳には異常はないそうだ。ただ、貧血気味だと言われた」
「……貧血?」
「そう。あんまり食べていないんじゃないかってよ。細いし、栄養も充分とは言えないそうだ」
「…なんだ、貧血か…」
「なんだじゃねえよ。貧血も立派な病気だぞ」
額を軽く小突かれ、視線を下へ落とした。
ただの貧血のくせにこんなに騒ぎ立て、周りに迷惑を掛けた自分を殺してやりたくなる。
「…実家に戻るって言ってなかったか…?」
彼もずっと自分に付き添い寝ずに看病してくれていたに違いない。ジーンズにシャツを羽織っただけのラフな格好を見れば、一報を結城に聞いてからずっと自分についていてくれたのだとすぐにわかる。
「ああ、あれはキャンセル。どうってことねえ用事だったし」
「…でも」
「いいから病人は黙って寝てろ」
腕に刺さった点滴に視線を移し、これが終われば帰れるのだろうかと思った。
「…お前、ぶっ倒れたとき俺の名前呼んでたらしいけど、俺に用事でもあったのか?」
言われて思い出した。
あの時どうしようもなく先輩に会いたかったこと、親父から電話があったこと。
「……俺の、携帯は…?」
「ここ」
木内先輩から渡された携帯を急いで開いた。親父からの連絡はないようだ。
またかけると最後に言っていたから、しつこく四六時中かかってくるものだと思ったが、そうではなかったと知り安堵した。
いつかかってくるかもわからない電話に寒気が走る。身体を小さくして今度は着信音に怯える毎日になるのだろうかと回らない頭で考えた。
「何か、あったか…?」
真摯な痛い程強い光りを孕んだ瞳で見詰められ、何もないと言おうと思った。思ったが、その瞳は簡単に嘘を見抜くだろう。
「……親父から、連絡が…」
「…親父?」
木内先輩は眉根を寄せ、思い切り顔を顰めた。
「昨日、電話がかかってきた」
声が震えているような気がして血が滲むほどに拳を強く握った。
高校生にもなって親父に怯えているのだと知られるのが恥ずかしい。いい加減小学生でもあるまいし、力でどうにか抗えるくらいには成長した。それなのに、亡霊のように付き纏う親父の影から自分は離れられない。
「…なんでいきなり…」
「……俺が、CMとかモデルとかしたから…。芸能界に入ったんだろって…。稼いでるなら金をよこせ、って……」
自分の父親が最低な人間であることは木内先輩も重々承知だ。実の息子を性的虐待するような奴なのだから。
人間の底辺以外の何ものでもない。けれど、自分の親父がこんなにも恥ずかしい人間で、その息子が自分なのだと軽蔑されるのがとても恐かった。蛙の子は蛙と一緒くたに見られたら。
自慢できるような父ではないことがとても恥ずかしい。
けれども、一人で問題を抱えながら毎日を生きる強さは自分にはもう残っていない。
以前の自分ならばそうしていた。弱くなってしまったのだろう。木内先輩と出逢って、身体も心も半分預けて、こんなにも弱くなった。
「…それで、俺のところに来ようと思ったのか?」
溜め息交じりに先輩に問われ頷いた。
面倒な問題に巻き込まれたと思っただろうか。自分の父親なのだから自分でどうにかしろと思われただろうか。
「…そうか…」
もう一度溜め息を零すと、彼は握っていた俺の手をきゅっと強く握り締めた。
「辛かったか…?」
暫くの間悩み、こくりと頷いた。
あれから時は経ち自分も高校生になった。それなのに、親父の声を聞いた瞬間小学生の頃の自分が顔を出し、何もできない無力な存在にすげ変わった。
声を聞いただけでもそうなのだ。姿を見たら、情けなく怯えて何もできない。
「…悪い」
弱くてごめん。小さな子どものようでごめん。色んな意味を込めた。彼の顔は見れない。
彼に会って悪夢は終わったのだと言って欲しかった。けれど正気に戻った今、それを言うには少し怖い。
「…だいたいの理由はわかった。ちょっと待ってろ。拓海に連絡入れてくるから。ちゃんとベットで寝てんだぞ?できるな?」
起こした上半身を再びベットに懐かせる。彼は肩まで布団を引き上げ、ぽんと布団の上から肩を軽く叩き最後に微笑んだ。
いつにも増して優しいのはこんな風になってしまったからだろう。
扉の向こうへ行ってしまった彼を眺め、手繰り寄せた携帯を開いた。
着信履歴を見る。知らない十一桁の番号がずらりと並んでおり、あれは決して悪夢ではなかったのだと現実をぶつけてくる。
こんなことなら、理事長から持ちかけられた仕事全て断るべきだった。
自分はひっそりと息を潜め、肉親の目が届かない場所へと逃げていればよかったのだ。
親父からの恐怖も忘れて、こんなことになるなどと予想していなかった。
以前の自分ならばそこまで予想できていたはずなのに、毎日が幸せすぎて、あの恐怖に蓋をしていた。
心の中で自分を罵った。何故そこまで考えが至らなかった。自分は死んだ人間のように、毎日をただ消去法で過ごすべき存在だ。
誰の目にも触れず、誰の愛も請わず。そうして生きていけば、こんなことにはならなかったはずだ。浅はかだった。
金をくれてやれば、それで親父との縁は切れるだろうか。いや、そんなことをしたら一生金を要求されるだろう。
それだけで済めばいいが、もしかしたら昔のように身体まで要求されるかもしれない。
思った瞬間胸の奥底が痛くなり、頭痛も酷くなった。
あの生活には戻りたくない。あんな思いは二度としたくない。
知ってしまったのだ。愛する人に愛される心地よさも、自分は身体を満足させるだけの玩具ではないことも。
生まれた瞬間に自分は地獄へと引きずり込まれていたというのに。そしてその泥沼の中からは、どう足掻いたって抜け出せない。その現実を忘れていた。
馬鹿だな。細い溜め息を吐いて目の前で腕を交差させて瞳を閉じた。
暫くして木内先輩が戻ってきた。
食べたいものはないか、欲しいものはないかと問われ、何もいらないと首を振った。
何もいらない。何も望んだりなんてしないから、この苦しみを忘れたい。
「……俺、今日退院できる…?」
「…いや、まだだ」
「ただの貧血なのに?」
「それは今から検査してからな」
「…だって検査して異常はないって…」
「…拓海と相談した。違う科で検査してもらう」
「違う科って…」
「心療内科だ」
「…心療、内科……?」
聞きなれない単語に首を傾けた。
それはどんな科なのか聞いたが、彼は曖昧に笑って大丈夫だからと言うだけだった。
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