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「起きろ」

上半身裸でベッドにうつ伏せになる先輩の背中を揺すった。
新年を迎えて五日が過ぎた。
理事長はぶつぶつと文句を言いながらも仕事に戻り、会長は休みにも関わらず部屋に篭ってあれこれと忙しそうにしている。
能天気に自堕落な生活をしているのは自分と先輩だけだ。
今日もなにをするでもなく、だらだらと無意味に時間を過ごそうと思っていた。携帯に届いた一通のメールを見るまでは。
差し出し人は神谷先輩で、秀吉が神谷先輩の家に泊まっていることと、よかったら昼食を四人で食べないかというお誘いだった。

「…あんだよ。まだ十時じゃん」

木内先輩は携帯で時間を確認し再び瞳を閉じた。

「起きろ」

「…なんで。お前も昨日寝たの遅かっただろ。俺はまだ寝る」

きっぱりと言い切り、再び毛布に包まってこちらに背を向けた。
小さく溜め息を吐く。

「…じゃあ俺一人で出掛けるから」

「…何処に」

「神谷先輩からお昼一緒に食べようってメールきた」

「…はあ?なんだよ急に」

急ではない。秀吉から、半ば強引に神谷先輩の連絡先を聞き出し、他愛ないメールのやりとりをしていた。
秀吉が神谷先輩を浚って行ったが、自分は相変わらず彼によく懐いている。
いつだって両手を広げて笑顔を向けてくれる。兄がいたらこんな風だろうかと面映ゆくも存分に甘えている。神谷先輩には無条件で受け入れてくれるような大きな器がある。
本当は神谷先輩と二人で会いたいが、秀吉は否と言うだろうし木内先輩も目を離すと怖いと言うだろう。だからこうして起こしてやっているのだ。

「行かないなら俺一人で行く」

「いや、待て。誰も行かないとは言ってない…」

「ならさっさと起きろ」

いつもいつも、こちらの都合はお構いなしに叩き起こしてみたり、外出を強要するくせに、立場が逆転すると不機嫌になるらしい。
少しはこちらの気持ちをわかってくれただろうか。

「あー…。ねみー…」

やっと上半身を起こし、短い髪をがしがしと掻きながら欠伸をしている。

「無理しなくても俺一人でいいけど」

「だめ。お前放したら帰って来なさそう」

「だとしても俺が行く場所なんて他には寮しかねえし、そんな毎日一緒にいなくてもいいだろ」

「よくない。冬休み終わったらまた会ってくれなくなる」

「会ってるだろ」

「会ってない。景吾が、景吾が、って言い始める」

そんな風には言った覚えはないのだが。
自分も景吾も四六時中お互いといるわけではない。
景吾はとにかく交友関係が広く、他に友人がたくさんいる。多方面から遊びに誘われるし、ひらひらと舞う蝶のように忙しなくしている。
その間、自分は自室でのんびりとテレビを見たり、仮眠をとったり、一人の時間を楽しんでいる。
木内先輩は空いた時間に会いたいと言うけれど、たまには一人になりたい。
ただでさえ寮生活ではその時間が貴重だというのに。
恋というものを教えられてからも、自分の基本的な性格はあまり変化しなかった。
もっと、ぐずぐずに依存するかと予想していた。そうなったらどうしよう。怖い、嫌だ。不安に駆りたてられたが、それは杞憂だった。

「あーあ。面倒くせえけど準備すっか…」

先輩は最後に大きな欠伸を交え風呂へ向かった。
自分はもう支度を済ませているので、ゆったりとソファに座り、神谷先輩に木内先輩も行く旨を連絡した。
待ち合わせ場所が書かれたメールがすぐさま返ってきて、早く時間にならならかと胸が躍った。
ちらりと自分の旅行鞄を見た。
あの中には手を付けていない課題が山になっている。
勉強しないわけにはいかないだろう。学生の本分は勉学だ。だから一応…。と持参したものの、一度も触れていない。
後で泣く破目になる。蓮に散々説教もされるだろう。だけど現実から目を逸らしてしまう。やりたくない。勉強なんてしたところで大学へ進学するわけでもなし、まともな就職先にありつけるわけでもなし。
アルバイトでもなんでもいいから、食い逸れない程度に金を稼ぎ、古いアパートでいいから不安などない自分だけで完結する世界を築きたい。
ちっぽけな自分の夢はそれだけだ。どんな職業に就きたいとか、こんな人生を送りたいとか、大層なものはない。
暴力も酒の匂いもない、静かで穏やかな暮らし。それだけでとても幸福で、それ以上を望む気になれない。
ぼんやりと考えているといつの間にか木内先輩が戻っており、肩を叩かれた。

「準備できたぞ」

完全に目が覚めた顔を下から見上げた。
この男はいいよな。理事長の息子だから勉強などしなくてもいい。テストの結果がどんなにひどくても咎められない。就職先に困ることもない。
人生勝ち組。なにもかもを持っていて、だけどそれは足りないと欲張る。持っているからこそ、強欲になれるのだ。

「なに睨んでんだよ」

「べーつに」

生まれを恨んでも仕方がない。こればかりは努力の範疇外だ。神のみぞ知る、というやつだろう。

携帯と財布だけをコートのポケットに乱暴に押し込んだ。
渋谷で待ち合わせだと告げると人が多そう、と木内先輩がごちた。
だから、一人で行けると何度も言っているのに。滅多に電車も乗らないが一応小学生までは学園よりは都心に近い場所に住んでいたし、まったく知らない土地ではない。
木内先輩の家から駅までの道のりは迷わないと胸を張れないが、今は携帯でいくらでも調べられる。なにもできない子どもではないのに。
駅についてもたもたと路線図を眺めていると、こっちだと腕を引かれた。
切符を購入して丁度やってきた電車に乗り込み、扉近くに対峙して立った。

「三人だけ?」

「秀吉も」

「ふーん。相変わらず秀吉は翔にべったりか」

言われた瞬間ち、と舌打ちをしそうになる。
恋人同士は共に時間を刻むもの。わかっている。なのに秀吉なんかに神谷先輩が堕ちた事実が未だに信じられない。
秀吉が嫌いなわけではない。友人として大事に思っているし、元々四人でつるんでいたが、今では五人でいるのが自然になった。
頭もいいし、纏まらない四人を仕切ってくれるし、おどけてみせながらよく空気を読んでいる。四人のうち誰かが喧嘩をしても仲直りのきっかけをさりげなくくれたり、逆に知らない振りもできる。
秀吉がいないときはどうやって過ごしていたっけ。思い出せないほど彼の存在は大きい。
だけど、でも、と唇を噛みたくなるのは所謂嫉妬というものだ。
大事にしていた人形を横から奪われた気分。神谷先輩自身が選んだのだから文句はないが、つい、いじめたくなる。

「駅も街も人多いからはぐれんなよ」

「はぐれても携帯があるじゃん」

「あるけど、お前方向音痴っぽいし、変な路地入って変な奴と遭遇しそうじゃん」

「どんだけ不幸体質だと思ってんだよ」

過保護な発言にふう、と溜め息を吐いた。
言いたいことはわかるし、今までの経験を考慮すればその可能性もゼロとは言えない。
妥協案として先輩のマフラーをぐっと掴んだ。

「なに」

「はぐれないように」

「やめろ。犬みたいだろ」

「あー。ドーベルマンみたい」

「ならいい。格好いいから」

単純、と笑うとお前もなと返される。穏やかで益体のない会話が心地よかった。
電車を降りると想像以上の人混みだった。
ぽかんと口を開けていると、だから言っただろ、と頬をきゅっと捻られた。
社会人は仕事が始まっているだろうが、学生はまだ休暇中だ。正月を家族と過ごし、久しぶりに友人と遊ぼうと考えたのは自分たち以外にもたくさんいた。
掴んでいたマフラーを改めてぎゅっと握った。

「首絞めんなよ」

「大丈夫、これくらいで死ぬような人じゃない」

足の長さが違うのでリーチの差は大きく、小走りになりながら横を歩いた。
指定された出口へ向かうと神谷先輩と秀吉はすでに到着していた。

「お、来た来た」

二人が微笑み小さく手を振った。
久しぶりに見た神谷先輩の笑顔に胸がぎゅっとなる。
神谷先輩の周りはいつもきらきらと光っているように見える。実際そんなことはないのだが、髪や肌や瞳の色のせいか、容姿が美しいせいか、触れるの躊躇うくらいだ。
儚い見た目とは違い、案外豪快で雑で男らしいのだけれど。
新年の挨拶をされ、小さく返す。
神谷先輩は木内先輩とどこへ行こうかと歩きながら話し始めた。

「お前ちゃんと課題やっとる?」

隣の秀吉に問われあさっての方向を向いた。

「俺助けんからな」

いつもいつも、蓮以外から頼られ、その度秀吉はいい加減にしろと怒鳴る。散々怒って最終的には手を差し伸べるのでこいつも詰めが甘い。

「ほんまやで。今回ばかりはほんまに…」

「はいはい。わかりました」

「いつまでも甘やかすと思うなよ!」

「そういうお前はやったの?」

聞き返すと下手な口笛が返ってくる。誤魔化し方が古典的すぎるだろ。

「お前神谷先輩の家に泊まったんだって?」

「せやで。二泊」

「ふーん。へーえ」

「神谷先輩の家族はフランスで正月迎えたんやって。先輩は飛行機が苦手やから残ったって聞いて。一人で正月も寂しいやろうなあと思って…」

「神谷先輩が寂しいんじゃなくてお前が寂しかったんだろ。一日会えないと壁に頭打ちつけてそうだもんなお前」

「え、なんでわかるん?」

「うわあ…。オープンストーカーだなお前」

「違いますー。ちょっと愛が重いだけですー」

「かなりだろ。先輩の前で格好つけてるみたいだけどその内秀吉君って鬱陶しいね、とか言われるんだ。笑顔で」

「やめろ。マジになりそうやからやめろ」

慌てたように口を塞がれ心の中でべ、と舌を出した。
ないとは思うが、神谷先輩の優しさに胡坐を掻いてぞんざいに扱った日には火あぶりの刑だ。

「おーい、じゃれてはぐれんなよー」

前を歩く木内先輩が振り返りながら言い、神谷先輩は仲良きことは美しきかなと頷いた。
先輩二人になにもかもを任せると、寒いので鍋に決まったらしい。
建物の階段を上り、二階にある鍋のチェーン店に入った。
しゃぶしゃぶともつ鍋と二つ注文し、食べ盛りが四人もいるのだから絶対に食べきれると神谷先輩が拳を作った。
自分は戦力から外してほしいとこっそりと思いながら。

食事の前に運ばれた冷えた烏龍茶をちびちびと飲みながら、向かいに座る二人を眺めた。
彼らが交際を始めてから何度か共にいるところを見ているが、今日は殊更二人の空気が温かい。
秀吉は些細なことで神谷先輩に微笑みかけ、先輩もそれ以上に綺麗な笑顔で返す。
殺伐として、いつも僅かな緊張感が漂う自分たちとは正反対だ。
自分たちはあんな風に微笑み合うこともないし、そもそも笑う回数自体が少ない。
似た者同士なので自然と空気が冷えていく。それが居心地悪いわけじゃない。
無理をして合わせなくていいから楽なのだけど、やはり恋人とは二人のような関係を指すのだろう。
自分たちはきっと、普通の輪からはみ出ていて、自分がそうさせているのではないかと不安になる。
秀吉も神谷先輩も恋愛経験はあるだろう。木内先輩だって。
自分一人がなにも知らず、手探りで、正解も不正解もわからずに頭を抱えている。
あんな風に笑えたらいいのに。言葉がなくとも全身で好きだと語れたらいいのに。
木内先輩から見た自分は驚くほど可愛げのない、退屈な子どもなのでは。
今更とも思える不安で胸がいっぱいになった。

ぼんやりしている内に鍋が運ばれてきて、少しずつ、ゆっくりと胃袋におさめた。
他三人は戦争よろしく肉の奪い合いをしているけれど、自分は野菜だけでも十分だった。

「肉食べたあとってアイス食べたくならない?」

神谷先輩はメニューを広げながら言った。
その身体のどこに食糧を詰め込んで更にアイスまで食べる隙間があるのか。
目を丸くするとわかる、と秀吉が頷いた。

「俺はいい」

「俺も大丈夫です…」

「軟弱な!じゃあ一口あげるね」

いくら細身とはいえ食べ盛りだ。神谷先輩も例外ではなく、まだラーメンもいける、と笑った。
追加で注文したアイスがきて、約束通り一口貰った。鼻腔にバニラの甘ったるい香りが広がる。
バニラの方がいいだとか、苺の方が甘すぎずにいいだとか、二人は他愛のない応酬を交わしている。
頬杖をつきながら二人を見てふっと笑った。まるで子どものようで、だけど自分たちは十分子どもの部類だと思い直す。

「いいなあ…」

誰に言うでもなく小さく呟いた。二人はそれに気付かず未だにアイスの味で論争している。
あれくらい自然に笑って、怒って、なのに次にはまた笑い合って、擦れたところのない素直な語らいがとても好ましく思えた。
あれが自分たちなら言い争う前に"あ、そ"とか"ふうん"とかで終わってしまう。
悪いのは自分で木内先輩ではない。会話を繋げるのが下手で、コミュニケ―ションのとり方、人との距離の掴み方が恐ろしく下手なせいだ。
木内先輩は友人と一緒にいるときは笑うしよく喋る。
本当はあんな風な付き合いをしたのではないだろうか。だから、もっと自分も努力をしよう。
嫌だ、必要ない、そんな風に拒絶していた輪の繋げ方。そのつけが回ってきたのだから。
心の中で決意を新たにする。ちらりとこちらを横目で睨んだ木内先輩の視線にも気付かなかった。

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