5
"放課後教室に残ってて。話がある。梶本"
一日の授業を終え、早々と寮へ戻ろうと靴箱を開けるとそんなメモが入っていた。
嫌な予感がする。無視をして回れ右をしたいところだが、景吾絡みだと思うとそうもできない。
「あ、俺忘れ物した。戻るから秀吉と先帰ってろよ」
メモを片手で握り潰して景吾に告げる。
「待ってるよ?」
「いいから先行ってろ」
景吾の肩をぽんと叩くと、わかったと首肯してくれた。
景吾と秀吉の後姿を見送り、来た道を戻って教室に入った。
何を話すのか予想はできる。答えはまだ出ていない。
誰もいない教室で窓に背中を預けて景吾の席を眺めた。
どちらも選べない。
自分が苦しんだところで、梶本先輩が約束を守る保障はない。
嘯いては結局皆をどん底に落として、自分は天辺で笑って見下すような男だと思う。
「ゆうき君」
片手を上げながら梶本先輩が教室に現れた。
顔を見ると腸が煮えくり返る。景吾にとっても、自分にとっても害虫のような存在だ。
梶本先輩は俺と対峙し、待たせたことを詫びた。
効果がないのを知りつつも睨んでしまう。
「そんな怒らないで。ごめんね。謝るから」
待たされたことへの怒りではない。
気付いているだろうにとぼけて、軽々しく人の気持ちを弾くのだ。
「どっちにするか決めた?」
「…どっちも嫌だ」
沈黙が流れた。冷たい瞳で上から見下ろされ、スイッチが切り替わるように表情も笑顔に変わった。
「なんで?仁に操を立ててるとか?」
木内先輩の名前が出て、油断していた心が急激にかき回される。
「あいつは関係ねえよ!」
ついむきになって否定した。これでは肯定しているようなものだ。
我に返ってばつが悪くなる。俯いて視線を床へ逃がした。
「関係ない、ねえ…。最近仁と一緒にいないみたいだけど、何かあった?」
「別に。最初から何もない」
「ふーん。なら俺に鞍替えしてもいいんじゃない?仁より優しくしてあげるよ」
梶本先輩は口が裂けるほどに笑い、顔を覗き込むと両手首をぎっちり握り顔を寄せてきた。
慌てて逸らすが逃げられず、軽く唇が重なる。その瞬間全身が嫌悪に包まれた。
嫌だ。もう誰ともこんなことをしたくない。
「――っ」
思わず先輩の唇を噛んだ。血がじわりと滲む唇を親指でなぞる姿を呆然と見た。
自分で自分がしたことが信じられない。
今まで抵抗などしなかった。その先にもっと面倒で恐ろしいことが待っているとわかっていたから。
でも、今は暴れてでも抵抗しなければいけないと思った。
結局最後には同じ結果を招いたとしても、抵抗した分だけ傷だらけになったとしても。
自分の器を守るためではない。木内先輩との思い出を守るためだ。
――俺以外に触らせるなよ。
――お前がいいんだよ。
木内先輩の声が頭の中で響く。
「やってくれるね」
言葉とは裏腹に、梶本先輩はとても楽しそうだった。
首筋を舐められ、嫌悪感から吐きそうになる。
違う。木内先輩のやり方と違う。違う。ほしいのはこれではない。
「やめろ!」
握られた腕に力を込めて、無茶苦茶に振り回した。
足を折って、膝を梶本先輩の腹に押し付けて、それ以上近付けないようにする。
半狂乱で暴れたけれど、どれもこれも自分以上の力であっさりと捻じ伏せられた。
「暴れるとひどくしちゃうよ?」
床に押し倒され、腰に跨った梶本先輩は全体重をかけて動きを封じた。
耳の軟骨を思い切り齧られて痛みで顔を顰める。
こんなの平気だった。少しの間我慢するだけで、世界は元通りになった。
嫌な記憶はシャワーと一緒に流して、日常の些末な出来事と同様に扱った。
そうやって繰り返してきた。メビウスの帯のように。
「や、めろ…やめてくれ……。せんぱ…木内、先輩…」
――なにかあったら俺を呼べよ。
いつかした約束を覚えていたわけではなかった。
それなのに自然と呼んでしまう。
その名前を口にすれば、ますます惨めになるだけなのに、どんなに願っても現実にはなんの意味もないのに。
今までは助けを請う相手は神様だった。それしか素直に手を伸ばせる相手がいなかった。
今では木内先輩に変わった。
こうなって初めて気付く。彼が自分の中でどれほど大きな存在か。
今度は実態がある相手に手を伸ばしたのに、それでも手が届かないことに絶望する。
縋る相手を変えたところで、自分の手中にそれは降りてこない。
「…やっぱり仁となんかあったんじゃん」
「違う。何もない。関係ない…」
「名前呼んだあとで言われてもねえ…」
困ったように笑われ、何度も首を振った。
違う、違うと言うけれど、信じてもらえない。
梶本先輩は片手で腕を一纏めに拘束すると、ブレザーのポケットから携帯をとりだし誰かに電話をかけ始めた。
「もしもし仁?」
その名前にびくりと身体が震える。
なにをしようとしているのかわからず、ただただ怯えた。
関係ない、関係ない。呪文のように、懇願するように訴えるが、梶本先輩は苦笑するだけで電話を切ってくれない。
「……そう言うなよ。今ゆうき君と一緒なんだ。声聞かせてやろぅと思って。ほら…」
梶本先輩は勃ち上がってもいない俺の下肢を膝で思い切り刺激した。
「っ、やめろっ…」
「…聞こえた?今、学校の中。探してみな。じゃあね」
一方的に電話を切ると、それを元の場所におさめた。
「なんで…なにをしたいんだよ、お前…」
「別に。おもしろいものが見れるかなと思って。じゃあ仁が来る間、折角だからもう少し悪戯しちゃおうかな」
「あいつは来ない」
「そうかな」
梶本先輩は首を傾げて何かを考えているようだった。
自分と木内先輩の関係を知らないから、余興になると勘違いしたのだろう。
でも、絶対に来ない。
俺たちの間には愛情なんて甘ったるいものはなかった。
ただの所有物で、それを手懐ける安易なゲーム。
勝者は木内先輩で、クリアしたゲームには興味がない。
唇を噛み締めると、そこを親指でなぞられた。
「あまり噛むと傷になるからやめな」
ひどく優しい声色で、思わず言う通りにしてしまった。
呆気にとられて梶本先輩を見ると、視線が絡まった瞬間また苦笑される。
シャツのボタンを一つ一つ、ゆっくりと外され、露わになった肌を包み込むように触れられた。
この男がわからない。悪魔のような所業を平気で行うくせに、ばらばらのタイミングで優しさを振りまく。
木内先輩と似ているようで、けれど中身はまったく違う気がする。
「や、めろ…やだって言って…」
「嫌って言われてもねえ…」
「こんなことしておもしろいか」
「うん、おもしろい」
当然のように肯定されて眩暈がする。
関係する人間全員を手駒にして、それを自分が動かしてどんな結果を招くのか楽しんでいる。自分は高みの見物で、傷など負わない。
自分が組み敷かれていることも忘れて舌打ちをした。
「お前なんかに景吾は渡さねえからな!」
「でも景吾君は俺のこと好きみたいだしね」
悔しくて下から睨み上げた。
わかっている。自分にはどうしようもない問題で、景吾の心が梶本先輩に傾くのを止められない。
でも、こんな男に渡したくない。
「さ、もっといい声で鳴きなよ」
鎖骨に噛み付かれ、次の瞬間にはちりっとした痛みが広がる。
快感よりは痛みを与えられた方がましだ。
どんな風にされたって絶対に声なんて上げない。
舌はそのままどんどん下がっていき、露わになっている部分に口付けられる。
「っ、…や、めろ!梶本…!」
「往生際が悪いなあ…。そろそろ仁が来てもいい時間だよね。好きな男の前で犯されるって、どんな気分なんだろね?」
「っ、悪趣味だ!」
想像して血の気がさっと引いていく。
貧血のように頭が白んで身体が言う通りにならない。
逃げたい。木内先輩が来ても、来なくても、どちらでもこの場から逃げたい。
叶うはずもない願望なのに捨てられない。
木内先輩から貰った言葉がすべて本当ならば。
嘘をつかれても、ひどい裏切りをされても、それでも理屈じゃ丸め込めない部分が木内先輩を求めている。
「ゆうき!」
静寂を破ったのは木内先輩の声と扉が壁にぶつかる音だった。
呆然とその姿を見詰めた。
幻なのだろうか。自分の都合のいいように生み出した幻。
最後に夢を見させてやると神様が仕向けたのだろうか。
「梶本!手前!」
木内先輩は梶本先輩に大股で近付き、乱れた胸元を力いっぱい引き寄せて梶本先輩を立たせた。
「何?」
「何じゃねえ!ふざけんのも大概にしろ」
自由になった身体を起こした。
木内先輩は怒りを隠そうともせず顔を顰めて梶本先輩を睨み続けている。
梶本先輩は真っ直ぐにその瞳を受け止めるが、なんの色もない。
「だって仁とゆうき君の関係、終わったんでしょ?俺が手を出しても仁は文句言えないはずだけど」
「本気で惚れ合ってるならいい。でも暇潰しで無理矢理やるなら許さねえ」
静かな睨み合いがしばらく続き、梶本先輩は瞳を逸らして笑った。
「そうか。じゃあ鎖にでも縛りつけておけよ」
胸倉を取る木内先輩の腕を振り払い、乱れた衣服を直している。
「お前もまだまだ青いな」
木内先輩を挑発的な瞳で見て、肩をぽんと叩いて教室から去って行った。
ぼんやりと二人のやりとりを見て、混乱がひどくなる。
わけがわならないやり取りだけれど、自分が助かったことだけはわかった。
焦点の合わない瞳で床を見詰めて、木内先輩の気配で我に返った。
「大丈夫か?」
しゃがみ込んで、乱れたシャツのボタンをかけ直してくれる。
呆然と木内先輩を眺めた。
本物なのだろうか。本当に木内先輩が自分のところへ来てくれたのだろうか。
助けなど願っても意味がないと思っていた。でも彼は来てくれた。
どうして。どうして。
わからない。なに一つわからない。
それなのに泣きたくなる。迷子の子どもが親を見つけた瞬間のように、しがみ付いて泣き叫びたくなる。
「…なんで…なんで来たんだよ」
焦点が合わないせいで二重になる視界で、木内先輩が苦笑した。
「お前のあんな声聞いて黙ってられっかよ」
それも嘘なのだろうか。まだゲームは続行しているのだろうか。
何度騙されても、騙されているとわかっていても、どうしようもない。
先輩の顔、声、香り。彼が近くにいることで、身体も心も喜んでいる。
自分では制御できない、頭ではどうすることもできない部分に彼が触れる。
「来なくてもよかった…」
木内先輩を求める心を咎めるように、声を振り絞った。
無理矢理にでも否定しないと流されてしまう。
これ以上苦しみたくない。ゆっくりとでもいい。忘れたい。
「そうはいかないだろ」
優しい声色に、ぎりぎりに巻き上げられた糸がぷつり、ぷつりと切れ始めた。
「なんで…なんで!俺のことなんてほっとけばいいだろ!ゲームだったんだろ?全部嘘だったんだろ?」
振り絞るように声にするたび、勝手に涙も込み上げてくる。
俯いてぎゅっと瞳を閉じた。泣かない。こんなことでは泣かない。
「…お前、何で知って…」
「あんたが屋上で話してるの聞いてたんだよ。全部知ってる。もうこれ以上俺に構っても無駄なんだよ!」
先輩の遊びに笑顔で付き合うほど強くない。
傍にいれば求めてしまう。木内先輩の心がほしいと、ずっしりと身体を重くして凭れてしまう。
捨てられるなら今がいい。まだ引き返せる。まだ大丈夫。
「そうか、聞いてたのか…。確かに、最初はお前で遊んでやろうって思ったよ。好きにさたら捨てようって」
「…聞きたくない」
小さく首を振った。けれど木内先輩はそれを許さない。
「いいから、最後まで聞け。聞いたあとで何発でも殴っていいから」
耳を塞ぎたかったが、力が入らない身体をぐったりとさせて、俯いたまま言葉を待った。
「…でも、お前の過去を知って、本気でお前が欲しいと思った。もし俺のことを好きになったら、思いっきり甘やかしてやろうって…」
先輩の香りが近付き鼻を掠める。
ぎゅっと身体を力いっぱい抱き締められ、空っぽだった器が満たされていく。
感情が大波を打って、色んなものが溢れ出す。
声にならずに、それは苦しみによく似ていた。
「お前が好きだ。嘘じゃねえ。お前がいないと何も手につかねえよ」
耳元で囁かれ、涙が一筋頬を伝った。
一度溢れると我慢していた分、次から次へと溢れて、木内先輩の制服に染みを作っていく。
抱き締められて苦しいのはこちらなのに、木内先輩の声は悲痛なものだった。
ぼんやりとしながら考えた。
この男を信じて馬鹿をみるのは自分で。
今この先へ進もうとしたら二度と戻れなくて。
でも、暗い海の底でもがいている自分に手を差し伸べるのはいつだってこの人だった。
息苦しさに我慢できずにその手を掴むと、急激に明るい場所へ引き上げられた。
望むもの、望まないもの、色んなものを与えられ、心を色んな色に染められた。
木内先輩の言葉は嬉しい。信じたくなる。
なのに素直にその手を握れない。捻くれたクソガキは一番大事な場面でも臆病に尻込みしてしまう。
得ることの喜びよりも、失ったときの喪失感を想像して途方に暮れる。
自分がもっと幼かったら。欲しいものをただ欲しいと言えたなら。
醜く繋がった輪の中から抜け出せない。抜け出そうと必死になるけど、いざそのときがくれば恐ろしくて立ち止まってしまう。
もううんざりだ。自分という人間に愛想が尽きた。
それなのに彼はこんな自分を好きだという。
「ゆうき、俺のこと好きになれよ」
涙は壊れた蛇口のように止まらない。ぽたぽたと一定の速度で流れ続ける。
何故泣いているのかわからない。わからないけど、そのままでいいと思った。
震える手をゆっくりと持ち上げた。
答えに迷うのに、大きな背中に触れたくなる。
理屈じゃない。恋は正しい道を教えてくれない。迷路へ突き落す。
それでもいいかと思った。一人きりで彷徨うよりは、彼の傍にいて、傷つけられながらでも進んだ方が幸福かもしれない。
一度手を強く握った。それでも震えは止まらないので、そのまま木内先輩の背中にそっと触れた。
「…もう、遅い。もう、好きになってる…」
鼻水を啜りながら、掠れた声で小さく呟いた。
木内先輩は力を緩めて身体を僅かに放すと、ブレザーの袖でぐしゃぐしゃの顔を拭ってくれた。
汚れるからと顔を背けても、容赦なく何度も何度も拭かれる。
ちらりと視界に映った彼はとても優しく笑っていた。
つられて自分も笑った。
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