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「低血圧は朝起きれねえんだよ」
「来なくてもどうにかなるから起きないだけだろ」
こちらの気持ちはお構いなしで二人の会話が続いていく。
「うるせえな」
「寝不足が続くくらいなにをしているのかな、仁君は」
「気持ち悪いんだよ」
小さな衝撃音の次には、痛いと騒ぐ香坂先輩の声が響く。
殴られたらしい。
「最近誰とも遊んでなさそうなのにな。ゆうきとも寝てないだろ」
自分の名前が出て動揺して肩が揺れた。
どうして香坂先輩が知っているのだろう。
「……ゆうきとは夏休みから何もしてねえよ」
「へえ。ゆうきを堕とすって豪語してたわりには苦戦中?」
「…さあな。まあ、そろそろこのゲームも潮時だな」
「あらら。百戦錬磨のお前らしくないねえ。やっぱりゆうきは簡単じゃない、か。ま、それでこそゆうきって感じで逆にほっとするわ」
その後も続く会話は耳に入らなかった。
思い切り頭を殴られたような衝撃に、世界がぐるりと回る。
ゲーム、ゲーム…。
何度もその言葉を反芻する。
意味などわかっているくせに、理解したくないと誰かが邪魔をする。
ぼんやりとした後現実を直視して、心臓が煩く鳴って息苦しくなった。
遠くで積み木が崩れる音が聞こえる。
ばらばらと崩れて、ぐしゃりと踏みつけられる。
それは大事に両手で守っていた一番やわらかい部分を乱暴にこじ開けられて、ナイフで滅多刺しにされているみたいだった。
のた打ち回りたいくらいに痛いのに、現実は血も出ていない。
心と身体がアンバランスでなんだかおかしくなった。
口元だけで笑うと、最後のピースが見付かった気分になり、すとんと納得できた。
ああ、そうか。そうだったんだ。
彼の不可解な行動の理由がやっと理解できた。
ずっと知りたかったのに、でも永遠に知らなければよかったと後悔する。
「はっ…」
自嘲気味な笑いが零れる。
天国から地獄。これが木内先輩の望みならば大成功だ。
ゲームは木内先輩の勝ちだ。
手中で遊ばれて、まんまと堕ちた。彼がそれをわかっているかは知らないけれど。
だけど不思議と悔しいとは思わなかった。
どこかでほっとしている。
いつ捨てられるのかと怯えて過ごすのに疲れていた。
やっと終わるのだとわかると、痛みと安堵がやってくる。
嫌われないようにと自分を偽る努力をしなくていいし、木内先輩がいないからといって世界が終わるわけじゃない。
頭ではわかっている。なのに現実はその通りになってくれない。
ずきずきと胸が痛むので、制服の上からぎゅっと握った。
結局、六限終了のチャイムが鳴るまでその場から動けなかった。
蓮や景吾からメールが届いたけど、返信する気力が残っていない。
「…ゲーム、か…」
ぽつりとした呟きは秋の空気に溶けていく。
やることは一つしかない。
悪意には悪意を持って対峙する。
なのにどこかで、ゲームでもいいかと甘える自分に反吐が出る。
自分を戒めるためのろのろと起き上がり、携帯を握り締めた。
終わりくらいは自分から切り出そう。
先輩から告げられるよりは痛くないと思う。
屋上から教室に歩きながら先輩に電話をかけた。
数回のコールの後、心地の良い声が耳を擽る。
やはりだめだ。知らない振りをしたい。
じわじわと胸の底から溢れる欲求に蓋をする。
「今から俺の教室に来て」
それだけ告げて電話を切った。
窓枠に背中を預けながら、誰もいない教室をぼんやりと眺めた。
最初に言葉を交わしたのもこの場所だった。
こんなことになるならばあのとき…。
そこまで考えてやめた。意味がない。
こうしていれば、と後悔はしたくないと景吾は言った。けれどどんな経過を辿っても、結果が悲惨ならば必ず後悔する。
木内先輩は十分もしないうちに、制服を着崩した姿で呑気にやって来た。
「お前から呼び出すなんて珍しいな」
首をこきこきと鳴らす様子を見て、どこかで無理な体勢で眠っていたのだろうと思う。
そんなところまでわかってしまうくらい、木内先輩との時間は深すぎた。
後戻りをするならば今しかない。
「…ちょっと話があって」
「何だ?」
先輩は俺の傍に来て、近くの机の上に腰をかけた。
「…何で最近手出さないの」
唐突な質問に目を丸くしている。けれどすぐ元の表情に戻り、先輩は俺から視線を逸らした。
「別に、身体だけがほしいわけじゃねえし」
「…じゃあ何が目的?」
「だから、言っただろ?俺はお前が――」
「好きだって?」
馬鹿にしたように鼻で笑った。
なにも知らないと思ってどこまでも玩具にされる。情けないし悔しい。
段々と痛みの代わりに怒りが込み上げた。
「身体がいらないならあんたと一緒にいる意味ないし、そろそろ俺を解放してほしい」
「は?何だ、それ」
「飽きたんだよ。あんたのままごとにつきあうの。楓たちにばらしたかったらばらしていいよ。とにかく、もう関わらないでほしい」
「どういうことだよ」
「どうもこうも、あんたとの関係を終わらせたいって言ってんだよ」
こんなときでも先輩は冷静で、とても憎らしくなる。
自分の言葉に彼が動かされない、自分のことなど微塵も興味がなかったのだと思い知らされる。
「じゃあ、話はそれだけだから」
最後まで先輩の目を見れなかった。
初めて先輩に抱かれたときとは逆に、今度は自分から去った。
唇を噛み締める。涙なんて絶対に流さない。
大丈夫、大丈夫。なにかを失うのは慣れているし、失ったといえるほど掴んでもいなかった。
胸は痛むが、だからなんだ。
時間が経てば痛みなんてなくなるし、明日には無理矢理笑うこともできる。
前向きな言葉をたくさん並べた。
なのにそれは並べるそばからぽろぽろと崩れていく。
そして吸い寄せられるように恋しさに辿り着く。
記憶にしっかり刻まれた、擦れた低い声。
ふとした時に俺を見る優しい瞳。髪を撫でてくれた指先、あの笑顔。
すべてが嘘で、そんなこともわからないなんて世間知らずのガキだ。
終わりは呆気無く、追い駆けてくれることを期待した胸がまた痛む。
最後の最後までぎりぎりに細くなった希望はぷつりと切れた。
そのまま寮に戻る気にはなれず、近くの公園に寄った。
ブランコ座り、自分の影を眺める。
屋上での木内先輩の言葉が何度も何度も頭の中で再生される。
もう人に心を開くのはやめよう。
最初から自分は間違っていなかった。人を信用すればいつか裏切られる。幸福を知れば辛くなる。優しさを知れば傷つけられる。
表裏一体のそれらは、この先永遠に変わらずこの世界に溢れると思う。
貝のように固く殻に閉じこもっていれば安心だ。
外敵に傷つけられず、ずっと自分だけを守っていたい。
誰かに期待をするのもやめる。
もしかしたら自分を好きになってくれるかもしれない、ずっと傍にいてくれるかもしれない。
そんな風に期待していた自分が浅ましい。
自分に価値がないことは、自分が一番知っているのに。
彼を信じない、信じないと呪文のように唱えていたけれど、信じたかったのだと思う。
信じてしまいそうだから、無理矢理制したのだと思う。
俯くとじんわりと目の縁が滲んだ。
ここで泣いたら本当に負ける気がして奥歯を噛み締めた。
オレンジ色だった空は端っこに追いやられ、ゆっくりと闇が近付いてもその場から動けないでいた。
公園の中にぽつぽつと並んでいる街頭がちかちかと点滅している。
誰かの気配をふと感じ、顔を上げた。
もしかしたら―――。
けれど願いはやはり届かない。
「……秀吉…お前、いつからここに…」
「さっき。コンビニから帰ってる途中に見つけてん。今にも死にそうな顔しとったから心配になってな」
秀吉は冗談まじりで言い、隣のブランコに座った。
「…なんか、あった?」
優しく響く声を聞いた瞬間、不覚にも涙が流れそうになり慌ててそっぽを向いた。
鼻水を啜りながら眉間に力を入れる。
涙を我慢しすぎて喉が引きつって痛い。
「…もしかして、あの先輩?」
平静を演じるのは得意なはずなのに、肩が小さく揺れてしまった。
秀吉は小さく溜息を吐き、軽く背中を叩いた。
「いじめられたん?なんや、ようわからんけど、カツアゲとかされとる?」
「…そんなんじゃねえよ」
その方が幸せだ。金で解決できるならいくらでも渡してやる。
目に見えるものでは解決できない問題だからこんなに苦しいのだ。
「…なにがあったか言いたくないなら聞かん。でもそろそろ寮帰ろうや。風邪ひいたら大変やし、景吾もお前から連絡ないって心配しとったよ」
秀吉は立ち上がり手を差し伸べた。
ぼんやりとその綺麗な手を眺めながら軽く握った。
素直に言うことを聞いてくれたのが嬉しいでのか、秀吉はぽんぽんと頭を撫でた。
秀吉の顔を見上げると苦笑していて、早く帰ろうと促された。
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