Episode5:罠



夏休みは結局木内先輩の家でほとんどの時間を過ごした。
先輩に傾く心をぐっと押し止めようとして、慣れない作業に随分戸惑った。
どんな風に接していいのかわからなくなったし、以前のように振る舞えない。
厄介な感情を抱えて項垂れながら、それならば先輩の傍を離れればいいのに、それもできなかった。
傍にいるのが心地よかった。
無駄に詮索されないし、相変わらず言葉はお互い少ない。
それでも他愛ない話しをしたり、同じ空間で別のことをしたり、ご飯を食べて一緒に眠る。
退屈な日常も自分にとっては非現実的で、こんなに幸福と優しさに満ちているのだと知った。

木内先輩は俺がおかしくなった晩から際限ない優しさを与える。
ほんわかと温かいものを与えられるのに慣れていないので、どう対応して、どんな表情をすればいいのかわからない。
それでも彼は与え続ける。
それは真っ暗だった空洞にどんどん詰め込まれ、これ以上されたら溢れてしまうと怖くなった。
そろそろ抜け出さないとやばい。そんな焦燥感に襲われ始めたころ夏休みが終わった。


二学期が始まって二日が経った。
教室の中は夏休みの思い出や出来事の話題で咲いている。
楓たちも同じで、けれど自分は話せる内容ではないので曖昧に返事をして聞き役に徹した。
学校が始まって先輩からの連絡はない。
休み明けテストもあるし、一応勉強でもしてるのだろうか。そんな先輩は想像できないけれど。
気を抜くと思考がすべて木内先輩に流れてしまう。
我に返って自分を戒め、もう考えるのは止そうと決める。でも次の瞬間にはまた考えている。何度も連絡がないか確かめるために携帯を見る自分に腹が立つ。

「…だめだ。数学全然わかんなかった…」

「休み明けテストだし悪い点数でも大丈夫だろ」

学食で昼飯を食べながら景吾はがくんとうな垂れた。
テスト期間は午前授業なので、飯を食べれば適当に解散できる。

「せっかくのご飯がおいしくない…」

「考査頑張ればいいじゃん」

「…そうだよな!補習とかたぶんないし。あるとしたら浅倉の長い説教くらいか…」

二人同時に溜息を吐いた。
どちらも成績は下から数えた方が早く、浅倉に呼び出されるときはいつも一緒だった。
いつかは、お願いだから平均点を下げないでくれと懇願された。
頼むから勉強をしよう。なんなら自分の担当教科以外も教えるから、少しでも努力しよう、と。
浅倉には悪いと思うが、その願いを自分も景吾も聞いていない。
秀吉が来て平均点がだいぶ上がっただろうし、もう彼に任せよう。他力本願だ。

「…ゆうき君?」

頭上から呼ばれてそちらを振り向いた。

「…氷室、先輩…」

氷室先輩はトレイを片手に持ちながら久しぶりだねと微笑んだ。
生徒数が多い学園の中で偶然会える確率はかなり低い。一年と三年なら尚更。
なのによりにもよって景吾といるときに声を掛けられてしまった。
氷室先輩との関係など、深く追求されたくない。
嘘は苦手だし、景吾に嘘をつくたびに罪悪感で圧し潰されるのだ。

「ゆうき君、会いたかったよー」

氷室先輩の背後からひょっこりと顔を出した梶本先輩を見た瞬間、思い切り顔を顰めた。

「うわあ。その顔。ひどいなあ…」

梶本先輩はおもしろそうにころころと笑う。
自分は梶本先輩がからかって遊ぶ玩具のような存在なのだろう。

ちらりと景吾に視線を移すと先輩たちを目を丸くして見て、口を半開きにしている。
どんな言い訳をしよう。ぐるぐると考える。

「…会長、ですよね…」

「そうだよ。覚えてくれている子がいたんだね」

これは氷室先輩を知らなかった自分への嫌味なのだろうか。
氷室会長に、ね?と視線を投げられ、ばつが悪くてあさっての方向を見た。

「ゆうき会長と知り合い?」

「…ちょっとな…」

「ふーん」

景吾が単純でよかった。これが楓なら色々突っ込まれて逃げ場を失っていたかもしれない。

「ゆうき君の友達?イケメンじゃん。俺梶本翼。よろしくね」

「相良景吾です」

景吾はご丁寧に椅子から立ち上がって小さく頭を下げた。
残念ながら副会長の顔はあまり知られていないらしい。
梶本先輩が右手を差し出し、景吾もそれに応える。
梶本先輩だと挨拶としての握手すらいかがわしいものに見える。

「じゃあまたね」

先輩たちは食べ終わっていたようで、トレイを戻して去って行った。
梶本先輩は最後までちらちらとこちらを振り返っては大袈裟に手を振る。
景吾も俺もそれには応えないのに、根気強くオーバーアクションをする梶本先輩を、痛いものを見る視線で眺めた。

「…梶本先輩、イケメンじゃね?」

「…そうかあ?」

いくら顔が良くてもあのふざけたなりと、軽薄な雰囲気では先に嫌悪感が勝ってしまう。
まじまじと顔を見たことはないし、だとしても梶本先輩ならば楓の方がよほど、と思ってしまう。楓に失礼なので口には出さないが。

「俺、ちょっと興味あるな」

「…どの方向の興味?」

そうではありませんように、と願いを込めながら聞いた。

「男として?」

重苦しい溜息を吐く。
秀吉が恋に現を抜かしているから景吾にまで伝染したのではないだろうか。

「溜息とかひどいなー」

「…お前気は確かか?」

「失礼な、確かだよ」

「だって、お前ばりばりのストレートだろ?」

「そりゃ可愛い女の子は大好きだけど、なんか、なんか…」

景吾にしては珍しく歯切れの悪い話し方に、冗談ではないことだけはわかった。
髪を乱暴にかき回す。
誰に興味を持とうが、好意を抱こうが景吾の自由だ。他人が口を挟むべきではない。しかし、梶本先輩だけはやめてほしい。
なんなら、木内先輩に頼んで可愛らしい女の子を用意するから、そちらに興味を持ってほしい。

「景吾、悪いことは言わない。梶本先輩はやめておけ」

「何で?」

「苦労するぞ」

「苦労?」

「あいつ見てればわかるだろ。真面目さの欠片もない」

「まあ、見た目はそうだけど、それを言ったら俺もだし。でも俺真面目だろ?」

「景吾はそうだけど…」

まさか対面直後に口説かれました、不意打ちでキスをされました、と説明もできない。
どうしたものかと思いあぐねる。

「あー、もう…せめて氷室先輩のがましだ…」

テストの出来が悪かったことなど遥か彼方に場外ホームランだ。
景吾にはいつもはらはらさせられた。けれど今回はその中でも一番の案件だ。

「俺マジで知らねえぞ…」

憮然と言うが、景吾はそんな俺を頬杖をついて笑いながら眺めるばかりだ。
景吾の性格からいって、自分で現実と向き合わなければ夢は冷めないだろう。
単純で、真っ直ぐで、裏表なく、明るい。
そんな景吾が好きだった。だが今回だけは頷けない。
もう少し思慮深くなってほしいと呆れたが、木内先輩に想いを寄せる自分がいっても説得力の欠片もない。それに気付いてまた項垂れた。

景吾の衝撃発言からしばらく経つ頃には、心配よりも呆れが上回った。
自分で納得しなければ前に進めないし、あのときこうすればよかったと後悔はしたくないと言われたのだ。
もう好きにしろと自棄になる。悪い虫に娘を奪われた父親のような心境だ。
傷つくのも人生の勉強になるかもしれない。
でも、その中にも色んな種類があり、梶本先輩につけられる傷は知らなくていい部類のものだと思うのだ。
自分のような想いはしてほしくない。景吾からすれば余計な親心だろうが。

景吾に手を焼き、頭を悩ませているうちに季節は秋に偏り始めた。
九月といっても残暑は厳しく、末になるとようやく風が冷たくなり、暑さから解放される喜びにほっと息をついた。
また屋上で昼寝ができる季節になり、蓮の小言も受け流して屋上へ向かう。
扉を開けても誰もいない。サボりに利用する人間が数人いてもおかしくないと思ったのだが。
誰かにとられる前に屋上のさらに高いちょっとした建物に梯子を使って登り、腕を枕代わりにして寝転ぶ。
贅沢を言えばソファや、長座布団のようなものがほしい。

青白い、きちんと食べているのかと皆口を揃えて言うものだから、多少日焼けをしたい。
健康的な肌の色になれば余計な心配をかけずにすむ。
瞼を瞑り、さあ眠ろうと思った。
けれど頭を真っ白にすると、暗闇の中にぽつんと木内先輩の顔が浮かぶ。
頼んでもいないし、意識をしなくても自然と浮かんでしまうのだ。
それが自然になるくらいに、あの人のことを四六時中想っていたと気付き辟易とした。
何度も消そうと、違うことを考えようとするのに器用にはできず、上手く眠れない。
最近はずっとこんな調子で睡眠不足だ。

木内先輩から連絡がきたのは、新学期が始まって一週間後だった。
関係を続けているけれど、放課後呼び出されて街へ遊びにいこうと連れて行かれたり、その程度だ。
先輩と最後に身体を重ねたのはあの晩で、それ以降一度も要求されない。

彼の思考が読めずに戸惑う日々は続いている。
身体を必要としないのならば縁を切ればいい。
そのための自分だった。けれど彼は、相変わらず甘い菓子ばかりを与える行為を繰り返している。
優しく、甘く、自分をすべて溶かされていくようで、心がざわざわと落ち着かない。
身体を与えられない自分になにか価値があるのだろうか。
瞼を持ち上げ、青い空を見ながらぼんやりと考えた。

『お前が好きかも』

そんな言葉を一度聞いたが信じていないし、自分に固執する理由が見当たらない。
可哀想だと、同情でも傍にいられればいいと思っていた。
でも関係を続ければ続けるほど、木内先輩がわからなくなる。
先輩は薄い雲の向こうにいるみたいだ。
手を伸ばせば触れられるのに姿はぼんやりとしか見えない。
雲を割って自分から飛び込む勇気もない。
あとどれくらいこの関係を続けるのだろう。
自分たちの関係は子どもの積み木遊びのようだ。
僅かに間違っただけで崩れてしまうような。
乱雑に上へ、上へと積まれるけれど、なにを目指しているのかわからない、どんな形を作るわけでもない。ただ、機械的に一つ一つ積まれていく。
美しいフォルムには程遠く、歪な曲線で、間違ったまま積み上げられたそれは、小さな衝撃で呆気無く壊れる予感がする。

ぼんやりと流れる雲を眺めながら考えていると、錆びた鉄が擦れる音がして、誰かの足音が流れた。
我に返って恥ずかしくなる。
考えても仕方がないのに、どうして考えてしまうのだろう。
嫌なのに、何度も何度も同じ場所で足掻いている。
もうやめよう。今度こそ眠ろうと瞳を閉じた。

「怠い…帰るかな」

小さく聞えた声にはっと目を開けた。
聞き間違えるはずがない、低く掠れた声。
木内先輩。
彼がそこにいるのだと思うと、胸が一度大きく跳ね上がった。
以前も彼とここで偶然会ったことを思い出す。
他の場所にいればよかったと後悔した。

「さっき来たばっかりだろ。早えよ」

今度は香坂先輩の凛とした声が響く。

今すぐにでも逃げ出したいけど、梯子を下りれば確実に見つかる。
彼らが去るまでこの場所で息を潜めなければならない。
別に隠れる必要はないけれど、木内先輩から逃げたくなる。
正体不明のなにかに追われていて、先輩と会うとそれがぐっと近付こうとする。
逃げても逃げても追い駆けてくる。
平穏が崩れて理解できない感情でいっぱいになる。
なのに離れたそばから会いたくなる。
声が、瞳が、無骨な指が、どうしようもなく恋しくなる。

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