3



翌日、目を覚ましたのは午後三時だった。半日も眠ってしまった。
薬の効果が切れてしまったのか、再び頭痛が響く。もしかしたら眠り過ぎたせいかもしれない。
そろそろと横目で隣を見るがベッドの中には自分一人だけだった。
どこにもいかないと言ったのに。嘘つきだ。
悪態をつくが、閨での戯言を信じた自分もどうかしてたと思う。
目を覚ましても頭が重苦しいので、首だけ動かしてバーチカルブラインドの方をすいと見た。
半分開けられたそこから太陽の光りが差し込んでいる。
昨晩の記憶はなるべく思い出さないように努める。
正気だったらあんな言葉言えなかった。どうかしてたと後悔するが、でもすっきりとした爽快感もある。誰かに秘密を打ち明けるとはこういうことなのかと実感する。
みんな、秘密なら絶対誰にも言わなければいいのに、それでも誰かしらに打ち明けようとする。それが不思議だった。噂になったり、影で馬鹿にされたりするかもしれないのに。
でも今ならわかる。秘密の重さに耐えられなくなったとき、誰かに話して半分持ってもらうのだ。
――人間くさい。
人の形をした空っぽの自分が一丁前に人間らしいことをしている状況がおかしくてたまらない。
空っぽの器にはなにも注ぎ込まれず、それでいいと思っていた。
それなのに今はなんだ。なみなみと注がれた木内仁に手を伸ばしては離してを繰り返している。
距離がわからず動揺して、けれどまた掴みたくなってしまう。
大きな輪のなかを延々と回っている。
捻くれて育ったクソガキは、欲しいものを欲しいという言葉さえ持っていない。

「目、覚めたか。頭痛いの治ったか?」

声のした方に視線を移すと、木内先輩がお椀が乗ったお盆を持ちながらベッドに近付いてきた。

「……まだ少し痛い…」

「そうか。ゆうきの体調が悪いって言ったら佳代さんが粥作ってくれた。食ってからじゃないと薬は飲んじゃだめですよ、だってよ」

佳代さんの口調を真似たそれに小さく吹き出した。
のろのろと起き上がり、お盆を受け取る。真っ白な器の中には粥と梅干と三つ葉が添えられていた。

「食えそうか?」

「うん。佳代さんに後でお礼言わないと…」

誰かに気遣ってもらうのがこんなに幸福で満たされるとは知らなかった。
佳代さんの仕事の範疇なのかもしれないが、それでも感謝を伝えたい。
佳代さんが相手だと素直になれるのはなぜだろう。きっとあの笑顔だ。あれを見ていると無邪気だった遠い頃に戻ってしまう。そんな時代は記憶にはないのに、不思議だ。

「食わせてやるか?」

また揶揄しているのかと思ったが、意外と真剣に言っているからまた吹き出した。
強面の木内先輩が赤子のお守りに手を焼いているみたいで。

「なんだよ」

「いや、なんでもない。自分で食べられるから平気」

蓮華で白い粒を救って口に運ぶ。薄い塩味と梅干の酸味を感じて身体がもっと欲しいと強請る。
ゆっくり焦らず咀嚼してすべてを平らげた。その間、先輩はベッドに腰を下ろしてたまに心配そうな瞳をこちらに向けていた。
気付かぬふりでお盆を返し、頭痛薬を飲んで再び枕に頭を預けた。
眠くはないが頭が重すぎて身体で支えきれない。
お盆をテーブルの上に置いて、木内先輩が隣に潜り込む。

「眩しかったら全部閉めるぞ」

「ううん、大丈夫」

腹は膨れたし、心はなんだか軽いし、頭は痛いけど穏やかで幸せだった。
ずっと、ずっと何年も続いていた嵐が静まったみたいだ。
満ち足りた気持ちで天井を眺めていると、首の下に腕が差し込まれた。
昨晩もこうして腕枕をしてくれた。痺れるし、重いし、いいことはないのに。
気遣っての行為とわかっているので、抵抗はしない。
今更虚勢を張っても意味はないし、一番見られたくないものを見せて、これ以上の恥じなどないのだから。
仰向けになる木内先輩に向き合うように体勢を変えた。

「眠いか?」

不意打ちで視線だけこちらに投げられ、ぎゅっと心臓が絞られる。

「…眠くない。逆に寝過ぎた…」

「まあな。いくら若いっつってもな。お前全然寝返りとか打たないし、呼吸も静かだし、このまま一生起きねえんじゃ、って何回も息してるか確認した。あれだ、眠り姫って話し思い出した」

先輩は記憶をなぞって小さく笑う。

「起きるよ。あんたは?寝た?」

「ああ、ぐっすり」

嘘つき。目の下に隈ができている。余計な問題に巻き込んでしまったようで申し訳ない。
そんなに深く考えずとも、過去なのだから笑って吹き飛ばしてくれれば充分だ。むしろそうでなければ困る。深く考えられて、手に余ると投げ出されたくない。

「…なにかしたいことないか?食べたいものとか…」

いつかもそんな風に聞かれた。あのときは別に、なんて可愛げのない返答をした。
木内先輩はこうしてささやかな優しさをくれていたのに、自分は知らん振りだった。それから目を逸らすことで精一杯だった。

「…話しがしたい」

「話し?」

「うん。なんでもいい」

今日は天気がいいとか、小笠原の海が綺麗だったとか、なんでもいい。
ただ、声を聞きたい。

「そうだなあ…」

ううん、と唸りながら考え込んでしまった。
どちらも口は達者なほうではないので、ハードルの高い要求をしてしまったと気付く。

「ごめん、やっぱりいい」

「なんで。話そうぜ。つっても俺は涼みたくおもしろいこと言えねえけど」

「香坂先輩っておもしろい?」

「そうだな。馬鹿みたいな冗談とか言う。拓海に頭すぱんって叩かれたりして」

「……意外」

「だろ。あいつ格好つけだけどちゃんと空気も読むし、俺らの前だと割りと馬鹿にもなるし…まあ、拓海もそうだし、俺もかもしれねえけど」

「馬鹿になる木内仁…」

想像してみたがまったくイメージが湧かない。今度こっそり影からおがんでみたい。
自分の知らない木内先輩はまだまだ無数に存在するのだろう。
夏休み前は先輩の情報は真っ白だった。今は、少しずつページに書き足されている。ノートが埋まる日はこないだろうけど。

「…あれだな、話すって難しいな」

難しい顔をするので、そんな真剣にならなくてもいいのにとおかしくなる。
けれど自分もなにか話して、なんて漠然とした振りでは逆に黙り込んでしまうと思う。

「…あんたの話が聞きたい」

「俺の話し?」

「あんたは俺になにも知らないって言ったけど、俺もなにも知らない。家族構成とかはわかったけど…」

「俺の話しかー…また難しいな。じゃあ質問しろよ。なんでも答えるから」

今度は自分が唸る番だ。
なにが聞きたいかわからない。他人に深く興味を持ったのは初めてで。
いつも楓たちはどんな会話をしていただろう。記憶の引き出しを片っ端から開ける。

「…す、好きな女のタイプ?」

「は?また突拍子もない…お前からそんな言葉が出るとは…」

楓たちの会話の半分は女の話題だったからだ。
どの女優が可愛いとか、胸はでかい方がいいだとか、大和撫子がどっかに落ちていないか、とか。自分はもっぱら話半分で聞いていただけだったが。

「女なー…特にない」

やけっぱちの答えに口をへの字に曲げた。

「なんでも答えるって言った」

「だって難しいだろ。例えばどんな答えがあんの?」

「楓は可愛いくて癒し系で胸が大きい子がいいって」

記憶を辿って言えばまた先輩はころころと笑った。

「ああ、わかるわかる。蓮が女になったみたいな、ってことだろ?」

言われてみればそうだ。
楓はそういう子がもともと好みで、性別だけ男の蓮に恋をした。胸はぺたんこだし、自分と同じ性器を持つが、それでも可愛くて仕方がないといった様子だった。
懐かしい。遠くない昔なのに、ひどく懐かしく思う。

「ほかには?景吾とか、蓮は?」

「景吾は胸よりお尻と脚って言ってた。蓮は可愛いより綺麗な方が好きだって」

「へえ。お前は?」

「俺…俺は……特にない」

「だろ?俺も同じ」

誘導尋問された気分だ。
自分は興味の対象にしなかったからわからないだけで、木内先輩は今までたくさん彼女がいたのだから好みのタイプは絶対にあると思う。

「今までの彼女は?それがタイプだろ?」

「うーん…どうかな。その場のノリでやるだけだったし。後は気分が乗ればつきあったし、乗らなければ一晩限り」

じゃあ俺は?
そんな言葉が喉まででかかって慌てて呑み込んだ。
馬鹿だ。本当の馬鹿だ。
一度壁を壊したからといって、懐きすぎだ。
こんな人は初めてなので、境界線がぼやけてわからない。どこまで自分を見せていいのだろう。遊び相手としてどこまで踏み込んでいいのだろう。
きっちりと、ここまでは遊び相手のすること、ここからは本命だけ。と線引きされていればいいのに。
空気で読み取れるほどの経験がないからわからない。
木内先輩はそんなの当然すぎて意識すらしていないだろう。玩具として弁えろと叱られないように調子に乗らないように…。
そこまで考えて我に返る。
あなたがいないとだめなの、そんな風に涙を流すみっともない女みたいだ。
ドラマの中で女優がそういう役を演じているのを白けた目で見ていた。
馬鹿じゃねえの。依存してるからそんな目に遭うんだ。
ドラマの感想はそのまま自らに返ってくる。
どこで道を間違えたか考えたが思い出せない。
ずっと気持ちが滅茶苦茶で苦しかったのに、すとんと胸に堕ちて来ればすごい勢いで惹かれていく。
これならば苛々したり、苦しくなったり、もがいていたときの方が楽だった。
わからない振りをすればよかったのに、きつく締められたネジは一度緩んだら緩みっぱなしだ。ネジ山は潰れてしまったので、ドライバーは刺さらない。

「木内先輩さいてー、って思っただろ」

軽く鼻を握られてその手を振り払った。

「思ってない」

「嘘つけ。自分でもいい加減な奴だなーって思うしな」

「いい加減…?」

「おう。まだ涼の方がましだわ」

「…いつか、本気になれる人ができるよ」

想いとは裏腹な言葉。木内先輩はなにも答えずに俺の瞳を真っ直ぐに見詰める。

「……そう思うか?」

「うん」

「そうか…」

会話が途切れるのが怖くて急いで次の言葉を探した。

「俺も…」

「ん?」

「俺も、いつか彼女とかできるのかな…」

そんな日は一生来ないような気がする。

「……そうだな。お前は恋人ができたらどんな風につきあいたい?」

「…わからない。全然想像できない……けど…」

けど?と優しく促される。

「…大事にしたい。親父みたいに暴力とか絶対しない。たぶん、浮気もしない」

「たぶんかよ」

そこは嘘でも絶対と言え、と笑われる。

「でも、お前はきっといい彼氏になると思う。人の何倍も痛みをわかってるから、その分人を大事にできると思う」

そんな風に言われたことはなくて、目を見開いてぱちぱちと瞬きをした。

「大丈夫。お前も人を好きになれる」

子どもや動物をあやすような口調に俯いた。
もう、好きになってる。
気付くはずはないし、気付かれたくもないが、本人にそんな言葉を言われれば多少落ち込んでしまう。
どうせ叶うことはないくせに、こんな小さな石ころに躓いていたら先が思いやられる。
気持ちを切り替えて木内先輩を見れば、とろんと瞼を重そうにしている。
表情や空気が一気に幼くなり、図体のでかい子どもみたいだ。
そっと先輩の胸に手をあて、ぽんぽんと小さく、ゆっくりと動かした。

「…あー、それ気持ちいいな」

「うん」

「お前も気持ちよかった?」

「うん」

「……そうか…」

それから口は開かれず、すうすうと規則的な寝息が聞こえた。

眠った後も手を止めなかった。
穏やかに凪いでいく心に今まで一度も感じたことのなかった幸福が芽生える。
話して、笑って、一緒に眠る。
ただそれだけのことがこんなに甘いとは知らなかった。

木内先輩は昨日の出来事を蒸し返したりしない。
自分の過去についても、なにも言おうとしない。
彼がどう思っているのかは知らないが、それでよかった。
傍に置いてくれるならどんな形でもいい。
脳味噌が水飴につかっているみたいだ。甘ったるくて、まろやかで、ゆったりとして、ぐずぐずに溶けていく。
正常な判断ができない。
傍にいたい。一つの我儘のために他のすべてに目を瞑る。間違ったまま歩き続ける。自分の辛さや痛みには蓋をする。彼が手放すその日まで。
そうか、母はこんな気持ちだったのか。
ぴんときて苦笑を浮かべた。顔だけでなく、こんなところまで似るなんて。親子揃って男運が悪いらしい。
悲観するところなのに、なぜか悲しくならない。
この前まで灰色に見えていたすべてが、今は色をつけ始めている。
恋しい人がいるだけで、世界はこんなに美しくなると知った。

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