2

ぼんやりと瞼をあげた。
間接照明だけがほのかに部屋を照らしている。まだ夜の中にいるとわかり再び瞼を下げたくなる。
頭がとても痛い。中で小人が鈍器で殴りつけているようだ。
霧がかる視界で天井をぼんやりと眺めた。ここは寮でもないし、実家でもない。どこにいるんだっけ。なにをしていたんだっけ。
投げ出していた手を握られ、驚いて隣に首だけ動かした。
木内先輩が困惑した瞳でこちらを見詰めている。
ああ、そうだ。木内先輩だ。彼の家にいたんだ。小笠原にも行ったし、海がとても綺麗だったのを覚えている。
それから、なにをしたんだっけ。いつこの家に戻ってきたんだっけ。
鋏でばちんと切り取られたようにそこから思い出せない。

「…ゆうき?」

眉を寄せて悲しそうに目を細める姿を呆然と眺める。どうしてそんな顔をしているの。なにか辛い出来事でもあったのだろうかと。

「……なに」

「…今お前いくつだ?」

「は?なに言ってんの」

馬鹿なことを言ってどうしたんだろう。ついに頭がおかしくなったか。
一言話せばそのたびに頭の血管に響く。きっといつの間にか風邪でもひいてしまったのだ。夏風邪は治りにくいというのを思い出し憂鬱になる。

「いいから。いくつか言ってみろ」

「十五」

その瞬間、彼は大きく息を吐き出し強張った表情を和らげた。

「身体、どっか変じゃないか?」

「……頭が痛い。割れそう」

「…そうか。水飲むか?」

頷くとベッドサイドからペットボトルを手渡される。
寝転がったままでは飲めないので、身体を起こそうとするけれど力が入らないし、少しでも動けば頭がぱっかり割れそうだ。
彼はそれを察して背中に腕を差し込みゆっくりと起こしてくれる。
鬼でも病人には優しいらしい。また新しい発見だ。新しい情報はこれ以上いらないけれど。
乾ききった喉は貪欲に水を欲し、一気に半分を飲み込んだ。
身体がじんわりと冷えていく。それにとても落ち着き吐息を漏らす。
ペットボトルの蓋を閉めると手からそれを奪われた。
木内先輩が向かい合う位置に座り直し、両手をぎゅっと包まれる。

「…なに」

わけのわからない行動に怪訝な視線を向ける。
そんなものおかまいなしに、真摯に見詰め返される。一体なんだ。どうしたんだ。鋏で切り取られた間になにかあっただろうか。

「…さっきのこと、覚えてるか?」

「…さっき?さっきっていつ」

木内先輩は何かを考え込むように片手で口を覆い、視線を床に落とした。

「なに。どうしたの。さっきからなんか変…」

なんとなく歯切れの悪い雰囲気に苛々する。こんな木内先輩は初めてだ。
いつも白か黒かはっきりしていた。グレーを気持ち悪いと言い、早急に答えを決める人だった。考えなしに決めているようで、けれども決めた答えは彼らしいものばかりで、そんな風に真っ直ぐ自分に自信を持てるのはなんて幸福なのだろうと羨望した。
それなのに今の彼は迷っている。見付からない答えに途方に暮れているように見える。
なにか話そうと口を開いては閉じる姿に、こちらまで動揺する。

「…お前どこまで覚えてる?この家に帰ってきて、俺の部屋に来たの覚えてるか?」

核心には触れず、周りを探られるような聞き方が気持ち悪い。
言いたいことがあるならはっきり言ってほしい。こちらは話すのも困難なほど頭が痛いのに。静かに眠らせてほしいのに。

「…海」

「海?」

「海が綺麗だったのは覚えてる。あとは…なんかぼんやりしてる」

「そうか…」

それだけ言うとまた押し黙ってしまい、時間だけが過ぎて行く。
はっきりしない態度がこんなに感情を逆撫でするものだと知らなかった。

「なに。気持ち悪い。なんかあった?俺、風邪ひいたのかあんま覚えてないんだよ。俺なんかした?はっきり言えよ」

頭痛を忘れて僅かに声を荒げて、激痛が走ってすぐに後悔する。頭に手を添えてどくどくと脈打つ血管を鎮めた。

「悪い。先に薬飲むか?」

慌てて身体を横にするよう誘導される。薬をとりに階下へ去って行く後姿に視線を向けた。なんだ。なにかがおかしい。
ぺたぺたと身体に手を這わせるが頭痛以外におかしなところはない。怪我もしていないし、彼があんなに過保護になる理由が見当たらない。

「変なの…」

呟きながら天井に両腕を伸ばした。
ぼんやりと眺めると手首に朱色の痣が刻印されている。ところどころ紫色に変色していて、それを不思議に眺めていると急激に切り取られていた記憶が雪崩れのように崩れ落ちてきた。容赦なく響く頭痛と共に吐き気がする。身体を反転させ、右手で口を覆い咳き込んだ。

「ゆうき!」

戻ってきた木内先輩は駆け足でこちらに近付き、なおも咳き込む背中をゆっくりと擦ってくれた。

「吐くか?」

その問いにぎこちなく首を振る。胃の中を空っぽにしたくてえずいたのではない。頭の中が自分で処理しきれない情報でいっぱいになって眩暈がしただけだ。
肩で息をして落ち着いた頃薬を差し出され飲み込んだ。
頭痛はひどくなる一方で、思い出した記憶にさっと目の前が暗くなる。
背中を優しく擦る先輩を視界に映し、彼のシャツをぎゅっと握った。

「っ、ごめ…ごめん…」

「大丈夫だ。良くなるまで寝てろ」

「違う…思い出した…」

木内先輩が一瞬息を呑んだのがわかった。思い出さずにいたらそのまま、なかったことにして流そうとしていたのだと思う。
一番見られなくない人に一番みっともない姿を見せた。細部までは思い出せないが、ひどく取り乱していたのを覚えている。
自分の中に幼い自分と今の自分が存在して、どちらも自分を主張して混乱の末に世界が真っ白になった。ぶちっとスイッチを切ったように急に機能が停止した。
先輩のシャツを握る手が震えた。申し訳なさと心細さとがぐちゃぐちゃになる。
きちんと謝って彼の前から去りたい。でも一人になりたくない。矛盾の渦に呑み込まれる。

「ほんと、ごめん……ちゃんと、覚えてないけど…なんか、あんたに迷惑、かけた気がする…」

「いいから。大丈夫だから。とりあえず少し休め。話しは後でしよう」

横にさせようとする腕を掴んで首をやんわりと振る。今話さなければ一生話せないと思う。今なら素直に謝罪できる。けれど、頭痛が止んで頭の混乱が去ったらまたぶっきら棒な憎まれ口を叩いて彼を失望させると思う。
木内先輩に向き合うように座り直す。握ったシャツは離せない。これを離したら二度と捕まえられないような気がする。
面倒だと切り捨てられて、段ボールにすら入れられず野ざらしで行くあてのない猫のようにうろうろと歩き回る。縄張りも落ち着いて腰を休める場所もなく心も身体も極限まで飢えていく。
ついこの間まではそれが当然だったのに、今はとても怖く感じる。
これが最後で構わない。せめて謝罪をして綺麗に別れたい。
面倒で頭がいかれた暇潰しの玩具として記憶されたくない。言い訳になるとわかっている。それでも今よりはずっとましだ。
けれどいざそうなれば、なにから話せばいいのかわからない。
どんな言葉を口走って、どんな風に暴れたのか切れ切れにしか思い出せず、どこまで踏み込んだ話しをすればいいのかわからない。
自分の生い立ちは普通の高校生男子にはヘビーすぎて、抱えきれずに横にさっと流されるだろう。冗談交じりに笑って話せればいいのに、今更そんなのわざとらしい。

「あの、おれ…」

焦れば焦るほど言葉が出てこない。文章にならないばらばらの単語が頭の中に浮かんでは消えていく。どうしよう。うまく話さなきゃ。でもうまくってどうやって?
口下手な自分をこれほどまでに憎んだときはない。すべてをすらすらと伝えられる達者な口がほしい。
震えは全身を覆い、夏なのにとても寒い。
早くしなければ呆れられる。面倒くさいからもういいよ。そんな風に言われたらどうしよう。
俯きがちだった頬を指の背で撫でられ、思い切り肩が揺れた。
恐る恐る視線を上へ向け、強い光りを持つ瞳に雁字搦めにされる。

「大丈夫だ。ちゃんと聞くから」

さらりと髪を耳にかけられ数回撫でられると徐々に落ち着きを取り戻した。
話した後に捨てられるとしても、今放り投げられずによかった。ただ時間稼ぎをしているだけかもしれないけれど。苦しい出来事を先延ばしにしてもなにも変わらないのに、それでも今、この手が遠くへ行ったら最底辺に自分が沈んで浮上できない。
大丈夫、大丈夫と子守唄のように囁く低く掠れた声。髪を撫でる大きく優しい手。それだけで心が溶けていく。
自分がほしいと両手を広げて待っていたのはこの程度のものだ。それすら手に入らずに叫び続けた。だんだんと、叫んでも誰もくれないと気付いて今度は逆に欲しいと言わなくなった。口に出して手に入らないとますます惨めになるから。
誰しもが一度は与えられたものを懇願してまでほしがるなんて、自分は値段にするとどれほどちっぽけな価値なのだろう。
当然、自分にもその幸せがいつか舞い降りると期待しながら待っていたが、不思議と自分の上だけを素通りしていった。そして自分の分までどこかの親子に降り注いで、両親と幸福そうに手を繋ぐ子どもを横目で睨んでいた。
頑なだった心の蓋を開けてまじまじと見詰め直すと嘲笑しかでない。
馬鹿で、捻くれて、可愛げがないクソガキだ。
そんなクソガキに木内先輩は温もりをくれる。自分の前に設置した高い高い塀を軽々と越えて、こちらにすとんと降りてくる。
逃げ出せば腕を掴まれその胸に強引に閉じ込められる。
最初は窮屈でしかたがなかった場所が今は心地よく感じている。
馬鹿みたい。馬鹿みたいだ。こんな風にならないと自分の気持ちにすら気付けないなんて。

「…ゆうき、もし言いにくいなら無理しなくていいぞ。お前の嫌がることは聞かないから」

気遣った声色にますます自分が情けなくなる。
誰かに心配され、優しさをもらうことに慣れていない。そうできるほど自分を曝け出さなかったから。友人相手にさえ。

「…大丈夫……あんたは?もし面倒なら――」

「お前のことが知りたい。って前に言ったよな。お前が話すならちゃんと聞く」

力強い言葉になぜか目の縁に涙が溢れた。泣いてたまるかと歯を食い縛る。
数回、深呼吸をして涙を引っ込ませた。

「…俺…小さい頃から親父に…」

そこまで話して口を噤んだ。
こんな過去を話して嫌われたらどうしよう。知りたいと言ってくれるけど、重すぎて受け止めきれない。ずっしりと両腕を痺れさせ、それは宙に放り投げられるだろう。
今更怖くなる。

「…虐待か?」

問われて弾かれたように顔を上げた。

「…前から薄々、その可能性を考えてた。お前の背中、火傷の痕が何個かあるよな。煙草の火押し付けられたような」

言われてそうなんだ、と初めて気付いた。背中など自分で見えるものではなかったし、触れれば火傷の痕跡はあったが、他人の目からはっきりわかるものではないと思っていた。
それだけで済むならよかったのかもしれない。終わることのない暴力ならもっと傷は浅くて済んだかも。

「親父は酒乱で…殴られたり、蹴られたり…そういうのは幼稚園くらいからあった。もしかしたらその前からかも。あんまり覚えていないけど、親父に殴られるのは当たり前のことで…。母親が庇ってくれたけど自分も小さくて弱かったし、二人で泣いてばっかりで、でも母さんはそんなろくでなしの親父と別れようとはしなかった」

いつかは風呂の水に顔を突っ込まされたこともあった。
苦しくて本気で死ぬと思った。こんな短い一生で、なにも楽しいことを知らずに終わるんだってぼんやりと考えてた。異変に気付いた母が親父を突き飛ばし助かったけど、死ねなくて少し落胆した。
自分は苦しみから解放されるし、親父が捕まれば母も解放される。ついでに親父は死刑になればいい。幼いながらに狂った思考をしていた。

「小学生になって…三年生くらいだったかな…いつもより酔った親父に犯された」

瞬間、空気がぴりっと緊迫し、背中を撫でていた木内先輩の手が止まった。次にはずっしりと重苦しい雰囲気に包まれる。

「そこからはいつもの暴力と、犯されての繰り返し。俺の顔が母さんにそっくりだったからかも」

極力明るい声色に変えたが怖くて木内先輩の顔を見れない。

「二年くらいそうしてたら母さんに気付かれて……やばいって思ったけど、安心もした。これで助けてもらえるかもって。でも母さんは俺の顔見たくないって狂ったみたいに叫んで、東城に入れられた。でも、それまでは俺のこと一生懸命守ってくれたし、親父の代わりに働いて、優しくしてくれた…だから…」

だから、なんなのだろう。
その先の言葉が見付からずに下唇を噛み締めた。

「……まあ、そんな感じ。さっきは、なんか昔と状況が似てたからちょっとおかしくなったみたいで…変なとこ見せて悪かったよ…ほんとに、悪かっ――」

言い終える前に身体を優しく抱き締められた。
髪を撫で、背中を撫で、けれども一言も話そうとはせず不安と期待で苦しくなる。
誰かに心を預けたのは初めてでなんだか不思議だった。軽くなったような、もっと重くなったような。苦しいような、嬉しいような。
あちらこちらに飛び跳ねる感情を抑え込まずに放っておいた。今はその混乱を感じていたい。
どのくらいそうしていたのか、木内先輩は身体を離した。
ついに終わりがくるのか身構える。怖い。今までで一番怖い。どんな言葉をぶつけられるのか。

「ゆうき、こっち来い」

木内先輩はベッドに横たえ、自分の隣をぽんぽんと叩いた。
黙って従い向かい合う。至近距離に木内先輩の顔があり、瞳に吸い込まれた。このまま彼の中に溶けるのではないかと、たまに恐ろしくなる。
首の下に木内先輩の腕が差しこまれ、その手で肩を抱かれる。
なにも言われないのをいいことに甘えきっている。
もしかしたら夜が明けてから別れを告げられるのかも。今は病み上がりだし、あんな過去を話してしまったしさすがに同情してくれたのかも。
でももう、同情でも憐憫でもなんでもよかった。
かわいそうにと一時の避難所になってくれるだけでもいい。けれども彼の瞳に同情の色はなく、真実を受け止めた、ただそれだけだった。

「ゆうき」

ただ、名前を呼ばれる。
名前を呼ばれながら頬、額、耳、髪の毛、色んな場所にキスをされる。
左手を握られ指の背に唇を押し当てられる。そうしながら、なにかを考えているようだった。

「…頭は?痛いのよくなったか?」

瞳をあけながら優しく聞かれこくんと頷いた。
薬が効いてきたのか、痛みは弱まった。その代りにとてもぼんやりとする。
身体もどっと疲れ、重くて地面に埋まりそうだ。

「そうか。まだ朝まで時間ある。ゆっくり寝るといい」

ぽんぽんと、いつかのように小刻みに肩を叩かれる。そうされると重くなる瞼に抗えない。

「…寝てる、あいだに……いなく、ならないでね…」

半分夢に足を突っ込みながら言った。正しく言葉になっていたかは定かでないが。

「大丈夫だ。ずっとここにいる」

首筋にかかる息がくすぐったくて身体を捩った。小さく笑って完全に瞼を閉じる。
ゆらゆら、ゆらゆら。
気持ちは相変わらず揺れている。加速をしたり、緩まったり。
けれど、もう少しで着地点が見付かるような気がする。自分一人では着地できないけれど。

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