Episode1:弱点
朝目が覚めると太陽は当前のように昇りまた同じ一日が始まる。
みんな、明けない夜はないと口を揃えて前向き思考をするけれど、自分はむしろずっと闇が続いてくれたらいいのにと思う。
そうすれば、闇に溶けていつしか自分の輪郭も曖昧になってくれるのではないかと。
陽に当たり、照らされ、影ができる。
ああ、自分は生きている、今ここに存在しているのだと思い知らされる。
早く消えてなくなりたい。さらさらと砂山が風に飛ばされ散っていくように、誰の記憶にも残らず、この世に生きた証もいらないからなくなってしまいたい。
もしくは、また一から人生をやり直せたらいいのに。
何度願ったことだろう。
景吾といつものように登校すれば教室には楓の姿があった。
いつも遅刻ぎりぎりに滑り込むのに珍しいこともあるものだ。
「楓早いじゃん!」
低血圧という言葉を知らない景吾は、朝から放課後まで一定のテンションを保ち続ける。
「ああ。ちょっとな…」
苦い笑みを見て察した。
蓮と一緒に登校してないのがなによりの証拠だ。
楓は気付いていないのだろうが、着崩したシャツの襟元には香坂先輩の所有欲の現れが刻まれている。
昼休み、香坂先輩と須藤先輩が二人を呼びに来て、四人で去った所を見れば丸く収まったのだと安心した。
蓮に相談を持ちかけられたからこそ気付けたのだが。
景吾は何も気にする様子もなく、いつものように腕いっぱいの食料を抱えてご満悦だ。
口を挟まないが、あの二人はとても大切な友人だ。
あの二人が幸せだと笑えばそれだけで満たされた気持ちになる。
楓も香坂先輩の存在で立ち直れたようだし、蓮も須藤先輩と一緒にいられてとても幸福なのだと思う。
景吾は食糧さえあればそれで幸せだろうが。
放課後、過保護に迎えにくる香坂先輩と須藤先輩について二人は教室を去った。
あの四人で丁度良いバランスを保てているならそれでいいと思う。
「俺、今日購買部の集まりがあるから行くけど、ゆうき一人で大丈夫?」
「大丈夫だよ。子供じゃねえし」
「変な人には着いて行っちゃだめだよ?」
「小学生か…」
「はは、じゃあ俺行くね!」
慌ただしく教室を去る景吾を見送り、さて、自分も帰り支度を、と思ったときに気付いた。
もしかして一人って久しぶりなのでは。
教室内はもちろん、寮も二年まで二人部屋なので、中等部から今まで誰かの気配をそばに置きながら生活してきた。
友人は大好きだ。同室の景吾はもちろん。
だけどたまに一人になりたいと思う。
折角の機会をふいにするのは勿体ない気がし、持ち上げた鞄を元に戻した。
机に頬杖をついて窓の外に視線をやる。
薫風の香りに瞼を閉じ、遠くから聞こえる運動部の声を心地よく思った。
暫くそのままぼんやりしたが、夕暮れの気配がタイムリミットを知らせる。
小さく吐息をこぼし、鞄を持って立ち上がった。
かたん、と扉のほうから机を蹴る音がし、そちらに視線をやると三年の先輩が呆気にとられたように立っていた。
名前はわからないがネクタイの色で学年はわかる。
一年の教室になんの用かは知らないが、さっさと帰ろうと鞄を肩に引っかけ、彼から遠いほうの扉へ向かった。
「ね、ねえ!」
焦った様子で話しかけられ、鬱陶しいなと眉根を寄せた。
こういうときは無視が一番。
急いで逃げよう。
鞄を握りしめ、大きく脚を踏み出すと背後から腕を引かれた。
「…待って」
「……なにか」
「さ、真田君が一人でいるの珍しいね…」
気恥ずかしそうに会話の糸口を手探りで探している様子だった。
こういうパターンは碌なことがないと経験上理解している。
軽く舌打ちをしそうになる。
本当に今日はついてない。
「……離してもらえます?」
握られた腕に視線をやると、彼はますます力を込めた。
「少し話しがしたいだけなんだ」
「話しなら別の機会に。俺用があるんです」
「でも一人でいること滅多にないから……。少しでいいから。ね?」
小首を傾げるような懇願にどうしよう、と思う。
彼はどういう性格で、どういう対応が正しいのだろう。
逆上させたら自分が痛い目をみるだけだ。だからなるべく穏便に済ませたい。
うろうろと視線を泳がせる様は気弱で、だけど握った腕をぎりぎり締め上げてくる。
切羽詰まった人間は驚くほど突拍子もないことをしたりする。
もう後がないからと自棄っぱちになって。
「わかったから一旦手を……」
彼の手に重ねるように自分の手を置くと、彼はぱっと頬を紅潮させた。
「ず、ずっと綺麗な人だと思ってたんだ」
彼は興奮気味で前のめりになり、早口で言った。
「ああ、はい。それはどうも」
わかったから手を離してほしい。
「一年と三年は擦れ違うことも難しいし、でも学食とかに君がいた日はラッキーだなって……」
彼が一旦言葉を止めると、しょんぼりと項垂れた。
「でもそう思ってるのきっと俺だけじゃないんだよね。君はとても綺麗だし。男に綺麗なんて誉め言葉じゃないってわかってるけど……」
わかってるならやめてほしい。
今すぐ、お気に入りのこの顔を焼いてしまっても構わない。
この顔で得することなど一度もなかった。悪い呪いのように好奇の対象にされ、ひそひそと噂され、無遠慮に下卑た視線を向けられる。
よく見てほしい。顔は知らないが、肩幅はがっちりしているし、喉仏もある。
手も筋張って男のものだし、柔らかでまろやかな存在ではない。
「……そ、その。す、好きなんだ…」
ああ、そうですか。
なんの感情もわかない。気持ち悪いとも、嬉しいとも思わない。
他の国の言葉を聞いているような感覚。理解できないし無意味だ。
「……な、なにか言ってほしい…」
懇願するような視線に、あさっての方向を見て考えた。
「……なにかってなんですか」
「なんでもいい。ふるならばっさりふってほしいし…」
「じゃあ、ごめんなさい」
ふるならそれでいいと言ったくせに、彼は両肩を掴むと血走った目できつく睥睨した。
「ほ、他に好きな人いる?もしかして彼女とかいるの?」
「いませんけど…」
「じゃあ試してみるのはどうかな。一週間とか、十日とか、なんでもいいんだ」
「いや俺男はちょっと……」
「変なことはしないし、大事にする」
「困ります」
じりじりと後ろに引いた。
大声を上げて助けを呼ぼうかとも思ったが、普段から使わない声帯は正しく機能しない気がする。
どうしたものか。
とりあえず彼をなだめようと思うのに、方法が思い浮かばない。
「お願いだからうんって言って。じゃないと君にひどいことしそうで怖いよ」
泣きそうに顔を歪めるけれど、泣きたいのはこっちだよとうんざりする。
「ねえ、お願い」
肩を揺さぶられ、白けた瞳を向けた。
なにも答えがないのに焦れたように壁に打ち付けられ痛みで喉を詰まらせる。
望みがあれば抵抗もするが、泣いても叫んでも誰に助けに来てくれないと知ってる。
瞳からゆっくりと光りがなくなるのがわかる。
慌てるでもなく、妙に冷めていく頭のなかで今日はどれ位で終わるだろうと考えた。
津波のような勢いで白けた波が全身を覆う。
幼い頃からこの容姿のせいで変態に目をつけられた。住んでいた場所も悪かったのだと思う。
世間からはじき出された埃を一つの場所に厄介払いしたような治安の悪い街。決められた秩序はおもしろいほど欠落していた。
そんな場所の狭っ苦しい古い借家。小学生までの自分の住家はそこだった。
毎日繰り返される父親からの暴力、淀んで染みついた酒の匂い。
いつしか今度は暴力に性的虐待も加わり、毎日ふえる痣を抱えながら膝を折って生きていた。
そうしているうちに母親に見つかり、汚いものを追い払うように東城へ入れられた。
誰かに触れられるのを極端に恐れるようになり、いつも目をぎらぎらさせて誰も信じず、誰も近寄らせなかった。
なのにたまに、この顔が好きなのだと言い出す変な奴が現れる。
「……抵抗しないの?」
嫌だと言ってほしいのか、大丈夫だよと受け入れてほしいのか。
恐らくそのどちらでもあって、どちらでもない。
醜く歪んだ心を推し量るなんてしない。
もう好きにしたらいい。
諦めがじわじわと広がり、拳を解いた。
実家から離れたって結局は同じことの繰り返し。
人形にも感情があるのだということは忘れられ、捨てられる。
支配する人間の傲慢で冷徹な仕打ちは嫌というほど味わってきた。
こちらは感情を抑え込み、終わるまでただ大人しくしていればいいのだと言う。
感情や最低限の権利はまるでゴミのように、簡単に放り投げられる。
何処へ逃げても、どんな風に接しても、結局自分は変わらない。
「お取込み中悪いんだけど」
こんこん、と扉を叩く音に二人同時にそちらに視線を移した。
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