8


「おい。朝だぞ、起きろ」

左右に肩を揺さぶられ、それから逃れるように身体を俯せにした。

「ゆうき、起きろ」

なんだかとても疲れている。まだまだ眠っていたい。

「起きないと今すぐやるぞ」

怖ろしい言葉が聞こえてむくりと起き上がる。こちらを見下ろす木内先輩を一瞥し、髪を掻き回した。

「飯だ。行くぞ」

起きてすぐ食えるかよ馬鹿。
悪態をついてみたけれど、佳代さんの料理に罪はない。
適当に着替えを済ませ、ダイニングへ向かう。
扉を開ければ佳代さんが朝の挨拶と共に微笑んだ。
木内家の中で佳代さんだけが救いだ。常に朗らかに両手を広げて歓迎してくれる。
頭がまったくさえないので、目覚めのコーヒーを一気に飲み干す。
トーストに無添加で作られた佳代さんお手製のジャムを塗るうちに明瞭になる頭は、昨晩の出来事を鮮やかに思い出させた。

『俺お前のこと好きかも』

突然の告白までも一緒に思い出してしまい、舌打ちをしそうになる。
木内先輩の言葉など信じない。一から百まですべて疑ってかからなければ馬鹿を見るのはこちらで、そんなつまらないことで一々感情を揺さぶりたくない。
だから些末な出来事として忘れてしまおう。

「お前行きたい所とか、やりたいこととか、欲しい物とかねえの?」

木内先輩は一足先に朝食を終え、コーヒーを飲みながら頬杖をつく。

「別に」

「折角の休みなんだから我儘言えよ。何だってできんだぞ?」

「…何もない」

考えたところで何も思い浮かばないとわかっているので反射的に答えた。

「つまんねえなー。趣味とかねえのかよ?」

「ない。俺は静かなところで一日中眠っていたいの」

「静かねえ……わかった。出かけるぞ」

「は?」

やはり彼は人の話しをまったく聞いていない。会話が噛み合わないと常々感じていた。
俺が晴れと言えば雨と言い返される。毎度毎度その繰り返しだ。
ならば最初から話しかけるな。こちらの答えを期待しないなら会話に意味はない。

「…俺の話し聞いてた?」

「聞いてた」

「じゃあなんで出かけるになんの?」

「だから、静かなところに行くんだよ」

うんざりして思い切り溜息を吐きだす。インドア派だと口酸っぱく言ってきたのに。

「早く来い、準備しろよ」

「…何処にも行きたくない。ここでいい」

「文句言ってないで早くしろ」

まだサラダが残ってるのに腕を引かれ、後ろ髪を引かれる思いでダイニングを後にした。
木内先輩はいつだって強引で我儘で自己中心的で、振り回される自分はとても不幸だ。
外野視点で自分を見詰めるとご愁傷様と合掌をしたくなる。

言われるままに鞄に適当に服や下着を突っ込んだ。
三日分あれば足りるというので大荷物ではないけれど、一体どこに連れて行かれるのだろう。
どこに行ったって、あの男が共にいるならばそこは地獄だ。世界で一番美しい場所であろうとも。
気分が浮上しない。底の底に沈んでゆらゆらと揺れている。
操り人形は慣れたものだが、破天荒な行動にいつだって戸惑うし呆れる。

「準備できたか?」

「一応…」

「じゃあ行くぞ」

車は東京の街を信号や渋滞に邪魔されながら走る。
普段こんな人混みに行く機会がないので、車内から人々が忙しそうに歩くのをぼんやりと眺めた。
何をそんなに急ぐ必要があるのだろう。
周りに人はたくさんいるのに皆自分しか見えていないようだ。自分以外は邪魔だと言わんばかりに、眉間に皺を寄せている。
高層ビルは狭い東京の街を更に狭く見せ圧迫感を与える。コンクリートで塗り固められ、グレーの中に人工的な極彩色が乱暴に散らばって、まるで子供の下手なお絵かきみたいだ。

「眉間に皺寄ってるぞ。そんなに行きたくないか?」

「…それもあるけど、人が多いなって思っただけだよ」

「確かにな…家とか寮のあたりは静かでいいけど、ちょっと街に出れば違う世界に来たみたいだよな」

共通の思考をしていて僅かに驚いた。
木内先輩にはこんな都心がとても似合うのに、彼はそれを少し鬱陶しそうに窓の外に目を遣る。
ころころと人も物も感情も流されて、流されて、最先端が持て囃されて、他人の痛みには無関心。そんな街でも木内先輩は人目を引いて傲慢に振る舞えると思う。
どんなに時代が流れても、色んなものの価値が変わっても、木内仁の価値は変わらずにいられそうで。中身は最悪な鬼か悪魔だが、容姿だけなら極上だ。

着いたのは港だった。海は底が見えずに濁り切っている。
ここからまた移動だと言われ脱力する。もう帰りたい。疲れた。

「これで移動する」

先輩が指さしたのは一隻のクルーザーだ。
海外にでも逃亡して、一生監禁でもされるのだろうか。
ありもしない想像を膨らませ、けれども彼なら遣りかねないので恐ろしくなる。
逃げよう。運転手さんは車から出てこちらを見送っている。
そちらを振り返り足を一歩踏み出すと首根っこを掴まれた。

「どこ行くんだよ」

「逃げる」

「なんで」

「死にたくないから」

「アホ。どんな想像してんだよ。お前を殺してなんになる」

「行きたくない…」

小さく呟いたが、彼の耳には届かぬようでぐいぐいと腕を引っ張られる。
頭を下げ続ける運転手さんに手を伸ばした。助けてくれ。今すぐ氷室先輩か親父さんに電話をかけるんだ。
絶対に刃向えないくせに僅かな抵抗を試みる自分も、学習能力が乏しいらしい。

舟の中の一室にぽいと放り込まれた。
目的地に到着するまで丸一日近い時間がかかると言われ、さらに恐怖が膨らむ。
無人島か。無人島に放置されるのか。

「疲れたなら眠ってろ」

疲れているが眠ったら最後のような気がする。
起きたときには自分の身がどうなっているか。

日頃、妄想逞しい楓を馬鹿にして頭大丈夫かと呆れていたが、付き合いが長くなるにつれ自分に伝染したのかも。

海の上では何もすることがないので、とりあえずベッドへ寝転んだ。



「なんだよ…何処だよ、ここ…」

到着したというので船から降りると緑豊かな山々と青い海が広がっていた。
昨日までと景色が違いすぎて瞬きも忘れて呆然と眺める。

「小笠原」

言われて合致した。それは大自然なわけだ。住所的には東京だけれど。
静かな場所で過ごしたいとぽろりと口にしただけで、まさかこんな場所まで連れてこられるとは想像していなかった。
スケールが大きすぎるので、今度からは慎重に言葉を選ばなければいけない。

「三日くらい別荘に泊まるぞ」

「…はいはい…」

海に程近い場所にある氷室家の別荘は、窓からは海が見えるし、流れる潮風や海の音が聞こえてとても良い場所だと説明された。

「海も近いからいつでも泳げる。鯨やイルカも見れるぞ」

嬉々として言われたが、どこに行かずともぼんやり海を眺めているだけで充分だ。
余計な雑音はなく、澄み切った空気と透き通る海。山の緑もとても美しく、まるで天国のようだ。
どこへ行っても楽しくないと思っていたが、大自然の中に身を寄せると幾分心が落ち着いて、小さな幸せを感じた。
別荘は白い漆喰の壁に赤レンガの屋根で南欧風のリゾートらしい建物だった。
玄関を開けると、先輩が急に立ち止まった。
どうしたのかと顔を窺えば、眉間に深い皺が刻まれている。
動きを取り戻した先輩は俺を置いてずんずん進み、ドアを思い切り開けてこう言った。

「何でお前がいるんだよ」

「…あれ?仁、どうしたんだい?」

靴を脱ぎながら聞こえる声に耳を澄ませた。
どうやら氷室先輩がいたらしい。不在が続くと思ったらこちらへ来ていたらしい。

「ゆうき君も一緒なんだ。これは賑やかになりそうだね」

ひょっこりと顔を出すと氷室先輩と視線がぶつかり、微笑まれた。

「だから、何で兄貴がいるんだよ」

「そんな怒らなくてもいいじゃないか。生徒会の仕事が溜まっていて、ここなら捗ると思ってね」

「ってことはあいつも来てんのかよ」

「勿論」

二人の応酬をぼんやりと聞いていると、先輩は頭を抱えた。

「今買い物に行ってるけど、もう少しで戻るよ」

「……ゆうき、帰るぞ」

「え?」

一日以上かけてやっとたどり着いたばかりだというのに。
この島の自然に心を惹かれていたので僅かに落胆する。

「部屋は余ってるんだしいればいいじゃないか。ゆうき君も夏休みだし、実家よりここの方が落ち着くでしょ?親父に会う心配もないしさ」

「…まあ」

「ほらね。仁の邪魔はしないから大丈夫だよ」

「…くそ。部屋行くぞ、ゆうき」

にっこり笑いながら小さく手を振る座る氷室先輩を残し、木内先輩は早足でリビングを後にする。やっぱり兄貴には敵わないといった様子でおもしろい。
氷室先輩とその友人が一室ずつ使用しているため、滞在中は木内先輩と同じ部屋を利用することになった。
嫌だと我儘を言ったところで仕方がないので素直に言う通りにする。
できれば氷室先輩と同室のほうがましだが、氷室先輩に嫌がられるだろう。

「ゆうき、お前はこの部屋から出るな。いいな?」

「何でだよ」

「兄貴はまだしも一緒に来てる奴には近付くな。わかったか?」

「なんで」

「ちゃらんぽらんでお頭も弱けりゃそれ以上に下半身がだらしない奴だから」

ぴしゃりと言われ、頷いた。
そういう類の人間はあまり好きではない。
木内先輩や香坂先輩だって同じ部類かもしれないが。

「でも、海見に行くくらいいいだろ。折角来たんだし…」

「…そりゃそうだけど。俺が一緒にいるときにしろよ」

「へいへい」

一から十までこの男の許可が必要らしい。まさかトイレや風呂、呼吸をすることすら許可が必要なのではないかと思う。
鬱屈した思いが胸をいっぱいにする。
どんなに景色が素晴らしい場所にきても半軟禁なら意味がない。
なにもできない子供でもあるまいし。


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