2

食堂の入り口まで引きずられながら、どうしたらこの危機を脱出できるか小さな脳みそで一生懸命考えた。
こうなったら恥も外聞も捨てて大声で叫ぶしかない。
生徒は知らん顔をするけれど食堂のおばちゃんが気付いたらきっと助けてくれると思う。
空気を肺に目一体溜め込んで、正に口を開けた瞬間隣から声が響いた。

「おい、そいつらどうするつもりだ?」

天の助けだと思った。声の方を振り返れば見覚えのある顔が面白そうに口の端をあげながらこちらを見ていた。

「…木内」

香坂先輩や須藤先輩とよく行動を共にしている人だ。話したことはないし、怖そうな印象で近付かないようにさえしていた。
心なしか、僕の腕をきつく握っていた先輩の力が少し緩んだような気がした。

「そいつらどうすんだって聞いてんだよ」

藁にも縋る思いでどうか助けて下さいと木内先輩へ向けて願った。
そんなことをしても木内先輩は一銭の得にもならないけれど。

「…ちょっと部屋で話しようと思ってただけだよ。なあ?」

「あ、ああ」

「ふーん…俺は別にそいつらがどうなろうと関係ねえんだけどよ…」

木内先輩が関係ないと言った途端、先輩達からは小さく安堵の溜め息が零れた。
こんな時に助けてくれるような騎士道を持ち合わせた人などいない。
木内先輩も厄介事に関わるのはよしとしない人のようだ。
万事休す。頭の中にそんな言葉が思い浮かぶ。

「お前らのためを思って忠告するけどさ。連れていかない方がいいぞ。涼と拓海が黙ってないかも」

「香坂と須藤…?」

「なんで香坂たちが?」

「か、関係ねえよ!」

売り言葉に買い言葉なのか、掴んでいた腕を再びきつく握られた。

「ふーん…だってさ、拓海」

木内先輩が言えば、食堂の扉に凭れるように背中を預けていた須藤先輩がこちらへ近付いてきた。
木内先輩ばかりに注目していたので須藤先輩がいたと気付かなかった。それは先輩たちも同じようだ。
何はともあれ、須藤先輩の顔を見た瞬間ほっとした。
あんな風に友達ではいられないと一方的な態度をとってしまったが、けれども須藤先輩ならば助けてくれると思ったのだ。
言い争いなどになったら、また余計な問題に巻き込んでしまう羽目になるが、後でしっかり謝罪と礼をするとして、景吾やゆうきをひっくるめて助けてくれるならいくらでも縋ろう。

「とりあえずその腕、放してもらおうか」

須藤先輩は笑みを崩さないけれど黒いものを背負っているように見える。
誰の目にもそう見えるのか、先輩たちも素直に忠告を聞いてくれた。
握られていた部分をさすりながら見れば、うっすら跡が付いていた。ゆうきと景吾の腕も同様に。瞬間、怒りがふつふつと湧き上がる。よくわからない理由で友人を傷つけたことと、何もできない自分への怒りだ。

入り口でそんなやり取りをしていると、今度は楓と香坂先輩が連れだってやって来た。

「あれ?皆で何やってんの?」

楓に話すのは得策ではない。一気に沸騰して先輩たちに掴みかかって大騒ぎになるだろう。ゆうきと景吾も同様に思っているだろう。
ここは一先ず作り笑いでどうにかやり過ごそうと思ったが、一足先に木内先輩が口を開いた。

「こいつらが夏目たちにちょっかい出してたからお節介しただけ」

木内先輩は笑っても悪人面はそのままで、わざと事を大きくしようとしているように見える。
案の定楓の形相は鬼へと変わり、香坂先輩はそんな楓をおもしろそうに眺めてる。

「大丈夫だよ楓」

「黙ってろ」

こうなった楓は止められない。一度栓が外れると後先を考えずどこまでも突っ走る。真っ赤に染まった頭の中が冷静になるまでかなりの時間を要するのだ。
助けてくれた恩も忘れ、心の中で木内先輩に悪態をついた。
先輩に掴みかかろうとする楓を香坂先輩が制してくれた。
ストッパーになってくれているようで安心する。

「落ち着けよ。何もされてないだろ」

「そ、そうだよ。俺ら何もしてないし」

「蓮の腕!ゆうきと景吾も!」

目ざとく見つけられ、隠しておけばよかったと後悔する。

「それくらい許してやれよ。生娘じゃねえんだからちょっと傷ついたくらいなんでもないだろ」

「そうだよ楓、俺らなにもされてないし大丈夫だからさ!」

景吾が必死になるが楓の耳には届かない。

「うるせえ!とりあえず一発殴らせろ!」

「落ち着けっつーの!おい、拓海と仁は蓮たち連れてけ」

楓はばたばたと四肢をばたつかせながらそれでも飛び掛かろうとしていて、そんな楓を置いてこの場を離れるのもどうかと思ったが、今度は木内先輩に進めと背中を押された。
心配で後ろを何度も振り返るが香坂先輩がどうにかしてくれるのを祈ろうと思う。

ゆうきと景吾は木内先輩が、僕は須藤先輩に送ってもらったが、二人きりになるのはとても気まずい。事実、僕たちの間には微妙な距離がある。
自分から言い出したことだが、須藤先輩を想う気持ちは変わっていない。
以前なら談笑しながら楽しい時間を過ごせたのに、現実はこうなのだと見せつけられれば落胆してしまう。
自分の決断に後悔はしていない。ただ、ふいに神様の悪戯なのか広い校内、寮内でこうして触れ合える距離がぽんと降ってくると戸惑ってしまう。
気持ちは変わらないのにそれをぐいぐいと押し込めて蓋をする。その作業が難しいと身を持って理解している。
だからこれ以上関わりたくない。時間しか解決方法がないのだから。
無言のまま部屋に着き、ドアの前で礼を言うため須藤先輩を振り返った。
真っ直ぐ見詰めるのも困難だが、謝罪と礼だけはきちんとしたい。きっとこれが最後だろうと思うから。
しかし須藤先輩は困ったような、怒ったような、どうとも形容しがたい表情でこちらを見下ろしていた。
そんな表情を見たことがなく、視線を奪われそうになり咄嗟に瞳を逸らした。

「あの、助けて下さって――」

僕の言葉は須藤先輩に抱きしめられ最後まで言えなかった。
突然の抱擁に頭は混乱し何も考えられなかった。
ただ一つわかったのはその腕の中が想像以上に温かかったこと。この場所が心地いいこと。
ああ、ここが僕だけの場所ならばと願いそうになり先輩の胸をやんわりと押しのけた。

「ごめんね急に…」

「…いえ……じゃあ僕これで」

「夏目君、ちゃんと話がしたい。だめかな?」

捨てた子犬が懸命に飼い主を見詰めるような、縋る瞳にずるいと思った。

「…でも、話すことはないんで…」

「頼む。最後でいい」

だめだ。断れ。自分が自分に喚いている。
最後もなにもない。旧友でもないし恋人でもない。ただの先輩と後輩の関係だ。それをしきたりみたいにきちんと別れの儀式をする必要はない。
掃いて捨てるほど世の中にありふれている些末な関係なのだから。
俯いて次の言葉を探していると頭上から懇願する声色が響く。

「…頼む」

両肩をぎゅっと握られますます困惑する。
何故須藤先輩がそんなにこだわるのかはわからない。
僕と友人でいても得することは一つもない。一般家庭のごくごく普通の長男で、お金もないし人脈もない。
ただの後輩と友人でいたいと願う理由が一つも見当たらない。
ここまで必死な人を突き放したら鬼だろうか。だとしても振り切らなければいけない。しかし胸がひどく痛んで首を縦に振った。

「…わかりました。じゃあ、部屋へ…」

根負けした。願われると否と言えない自分の甘さにうんざりする。
非情にもなれなければこの先の人生どうなるのかと心配までしてしまう。

扉を開け部屋に入ると、微かに香水の香りがした。
楓の香りではない。香坂先輩のものだろうか。

先輩にクッションを差し出し、離れて対峙し自分も正座する。

「夏目君、この前僕にもう友達ではいられないって言ったけど、その理由を教えて欲しいんだ。あの時は深くは追求できなかったけど…」

びくりと肩が竦む。責めるでもなく、ごくごく優しく幼子に語るような口調だが、一番聞かれたくない部分だった。
先輩の言い分はもっともだと思う。一方的に言いたいことをぶちまけて逃げるように飛び出して、そんな無礼があるかと思ったが、あのときはそれが精一杯だった。
あのときも今も、嘘をつける器用な口はない。
誰もその部分には踏み込んでほしくない。楓に暴かれただけで充分だ。

「どんな答えでも納得するよ。でも、本当のことを言ってほしい」

楓と同じような言葉を投げられ胸がざわつく。
嘘もつけず、隠しもできず、だからそれが見えていても知らん顔をしてほしかった。
自分の中で抱え込むだけで精一杯だから、それが答えなのだと納得して去ってほしい。
楓も須藤先輩もひどい人だ。逃げればそれ以上に追いかけられ簡単に捕まる。
こちらの気持ちなど知るもんかと土足で踏み込んでくる。
繊細に壊れないように、けれども早く消えてなくなって欲しい感情をべりべりと剥がされる。
嘘をつくのは簡単だろう。けれど正直になれと前置きされればそれに従わなければいけないと思ってしまう。

「本当に、納得してくれますか…?」

「約束するよ」

浅く溜息を吐く。これも罰の一つなのだろう。

「…楓がどんな気持ちで僕に別れを言ったのか考えると、僕だけ以前のままってわけにはいかないと思って。ひどいことをしたのに、それでも楓は僕を大事って、友達でいようって言ってくれて、そんな楓を見てると…」

あの時の気持ちを思い出して、涙腺が緩んでしまいそうだ。
楓の笑顔が頭一杯に広がって、楓が幸せになれますようにという気持ちと、自分が不幸になりますようにという二つの気持ちがわきあがる。

「別れたのは僕が原因?」

「いえ、須藤先輩のせいとかじゃなくて…」

「ただの先輩だよって説明すれば別れる必要はなかったんじゃないかな」

「それは…」

言葉が見付からず下唇を噛み締める。本当をぶつければ須藤先輩が好きなのだと悟られる。それは回避したい。男同士で気持ちが悪いと嫌煙されたくないし、もう二度と話さないのだから不必要な情報だ。

「罪滅ぼしみたいに僕と友達でいられないって言ったけど、それが楓君への罪滅ぼしになるの?ただの先輩なのに?」

じわじわと責められどんどん頭が真っ白になる。
ぱくぱくと口を開くばかりでけど声にならないから肩を下ろして俯いた。
須藤先輩は嘘つきだ。全然納得してくれない。

「…ごめん。焦っちゃって…君を責めたいわけじゃないんだ…まいったな」

ちらりと先輩を覗き見れば、前髪をかき上げながら苦笑している。

「回りくどいやり方はやめるよ。驚かないでほしいんだけど、僕は夏目君が好きだ」

弾かれたように須藤先輩を見詰めた。ぽかんと口を開いているし、間抜けな表情だと思う。けれど言われた言葉の意味を理解するには時間がかかった。

「好き…?」

「可愛い後輩としてじゃないよ。恋愛対象として好きだと思ってる」

好き、好き…。何度も反芻し、けれど馬鹿な、嘘だ、騙されていると色んな情報が躍って頭ががんがんと響く。

「…何で、僕なんか…」

とても信じられない。好かれる要素など一つもないし、話したのも数える程度だし、特別親しくもしていない。携帯の連絡先すら知らないのだ。だからこそ楓との関係に巻き込んでしまったのを申し訳なく思っていた。

「何でだろうね。僕にもわからないや」

目が点になったまま須藤先輩だけを視界に映しているけれど、呆然と霧がかってしまう。
どっきり企画だろうかとありえない想像までする。信じられない。そんな都合のいい話しはない。
騙されているに違いない。けれど、誰が何の目的で僕を騙すのか。
須藤先輩がそんなことをする理由もない。だからと言って鵜呑みにできない。

「突然でびっくりしたと思うし、こんな早く言うつもりもなかったんだけど…色々考えても直球勝負しか通用しないと思って。ごめんね」

「いえ、謝る必要は…」

「でも、僕が言ったことは本当だから信じてほしい。男の子に好きだなんて冗談では言えないし、そんなことを言ったのも初めてなんだ。だから自分でもちょっと戸惑ってるっていうか…うまく言えなくてごめん…」

寂しそうに微笑まれ胸が甘く疼く。嘘をついているようには見えないし、そんな理由もない。馬鹿正直に信じていいのだろうか。ぐるぐると考えすぎて眩暈がする。

好きという気持ちは雪のようにきらきらと輝きながら胸にどんどん降り積もる。今この瞬間も。
忘れようと努力している人に告白をされるという一大事に全身がパニックをおこしているが、須藤先輩が好きだという気持ちだけは冷静に理解できる。

「だから、なんていうか、もしチャンスがあるなら友達でいたいんだ。気持ち悪いとか、嫌だとか、そう思うならもう君には近付かない」

「そんなことないです!」

咄嗟に言葉が出てしまった。今まで黙っていたのに急に大声をあげたものだから須藤先輩もきょとんとしている。

「すいません…気持ち悪いなんてそんなことないです…」

今更恥ずかしくなり俯いた。
気持ち悪いと言われるのはこちらの方だと思っていた。
同じ気持ちで、須藤先輩はきちんと僕と向き合って伝えようとしてくれる。
葛藤もあっただろうし、とても混乱したと思う。自分が楓を好きだと思った数年前を思い出せばなんとなく想像はつく。それはとても恐ろしい感情でじわじわとした焦りばかりを生む。好きだと思う気持ちはやましくないがその相手が同性だったのが大きな問題で、何度も自分を否定して否定して、とても疲れた記憶がある。
あのとき自分は逃げるばかりだったが、須藤先輩は真っ直ぐに自分自身を認め、そして僕とも向き合ってくれている。
また僕は逃げるのだろうか。自分からも相手からも逃げて自分の首を絞めて自滅する。
そんな選択ばかりしてきた思い出がぱらぱらと捲られる。

「じゃあ、友達でいてくれる?」

その質問に苦笑しながら首を横に振った。
同じ気持ちならば、だからこそますます一緒にいられない。
僕も自分や皆に嘘をつかず正直に真っ直ぐ向き合わなければいけない。
こんなに真摯な須藤先輩ならば尚更だ。臆病でも覚悟を持たなければいけない。

「僕も…須藤先輩が好きです。だから楓と別れたし、自分への罰として先輩を忘れると決めました」

言葉にするとすとんと気持ちが冷静になった。

「…じゃあどうして…」

「だめなんです。僕だけが幸せになれません。エゴだってわかってます。なんのためにもならないって。でも、だめなんです…ごめんなさい。わかって下さい」

「…わからない。わからないな」

ふんわりと爽やかな香りがしたと思ったら、須藤先輩にすっぽりと抱きしめられた。

「同じ気持ちなのに…ごめん、やっぱり納得できない。夏目君の気持ちを聞いたら、君が嫌だと言っても僕のモノにしたくなった。逃げたければ逃げてくれて構わない。けど、僕は何度も君を口説くよ」

強引な甘い誘惑にぐらりと倒れそうになる。歯を食いしばらなければ流されてしまう。

「涼みたいに君をストーカーするかも」

揶揄するように耳元で言われ、とてもくすぐったい。
離れなければいけないと思いつつ、温かな毛布に包まったままでいたいと堕落しそうになる。

「それじゃあ変態です」

ストーカー行為をする須藤先輩を想像してくすりと笑った。

「じゃあ僕を変態にさせないで。夏目君が頷いでくれるまでずっとこのままでいるよ」

「でも…」

楓や皆が許してくれたとしても、それは許される行為なのだろうか。
果たして自分は許せるのか。

「君が楓君に幸せになって欲しいと願うように、楓君もそう思ってるんじゃないかな。楓君を想う君の気持ちはとても綺麗なものだけど、それを楓君は負担に思うかもしれないよ。自分のせいで、って…」

その言葉にはっとした。
楓を想っているふりをして自分を第一に考えていた。自分が楽になりたい、許されたいと願うばかりで楓の負担など思いもよらなかった。
楓は別れた意味をわかっていないと言っていた。なんのために別れたのかわからないと悔しそうにしていた。
僕は別れてもなお楓を苦しめていたのだろうか。

「楓君には涼がついてる。だから僕の恋人になって?」

身体を離して微笑まれうっとりと見惚れながら気付けば頷いてしまった。
何をしているのだ自分はと我に返ったがもう遅い。

「嬉しい」

そしてもう一度きつく抱きしめられながら、けれどこれでいいのかもしれないと思った。
誰かのためだと嘯きながら自分を否定して逃げ回るのはやめよう。
誤魔化しているから無駄に複雑になり何も見えなくなる。単純な答えが目の前に置かれているのに気付かないほど。
近道をできない自分は余計な遠回りをして時間をかけてやっと目的地に辿り着く。誰のためにもならない遠回りを。
一人で踊って馬鹿みたいだ。誰も望んでいないのに。

「蓮」

呼ばれて顔を上げた。

「って呼んでいい?」

その問いに大きく頷く。
名前を呼ばれただけで何かが溢れて零れてしまう。勿体無いけど止められない。
零れたそれは心にすっと滲み込んでいって、また好きという感情を作り出す。
自分では永遠に止められそうにないと思った。

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