5
薄いカーテンから部屋の中に細く朝日が差している。
瞳を開けたいのに瞼がやけに重くてもたついてしまった。
あんな風に派手に泣いたのはいつぶりだろう。こんな副産物があるのならば少しは泣くのを我慢すればよかった。
「蓮、おはよう」
気合いを入れ直して睫を震わせると頭上から楓の声が降ってきた。
ふんわりと、優しく髪の毛を撫でられる。
「…おはよう…」
ぼんやりと霧がかかる視界と頭の中で一生懸命昨夜の出来事を思い出す。
楓に別れを告げて何度も謝罪し、そして泣き疲れて眠ってしまった。
眠りに落ちる寸前まで、どうして自分は楓を好きでいられないのだろうと考えていた。
考えても考えても答えなどなく、どうしようもないとわかっているのにそれでも考えてしまった。
考えるのを止めた瞬間にとんでもない場所へ堕落するような気がして。
「目、すげー腫れてる」
白い歯を見せながら笑う姿をぼんやりと眺めた。
いつもの声、いつもの顔、いつもの楓。
心にぽっかりと洞穴ができたようで、楓の姿を瞳に映すと洞穴から風が吹き抜ける。意味もなく泣きたくなってしまう。辛いのは楓の方なのに。
「笑いすぎ。学校行く前にどうにかするよ」
苦笑しながら身体を起こした。
不細工な顔もどうにかしなければいけないが、自分の心はもっとどうにかしなくてはいけない。
楓はベッドから離れ制服へ着替えだす。
後姿を眺めて、また同じことを逡巡してしまう。馬鹿の一つ覚えみたいに一点を中心にぐるぐると。
自分という人間にほとほと呆れ、小さく溜息を吐きだした。
「あ、そうだ。蓮、俺たち友達として今までと変わらない関係を続けような。変に俺を避けたりすんなよ」
楓はこちらに背中を向けたまま言った。
その声は世間話をするような軽やかさだが無理矢理作っている違和感が混じっている。
「…うん。楓ありがとう」
楓を傷つけた挙句に気まで遣わせている。
普通は逆だ。傷つけた僕が楓に取り繕わなければいけないのに。
楓はどこまでも優しく、強く、そしてそれは自分の罪の重さを知るには丁度良かった。
「そんな顔すんなよ。俺、蓮に負けないくらいの可愛い彼女見つけるからさ!蓮は何も気にしなくていいんだ。わかったか?」
「うん」
ぐしゃぐしゃと乱暴に頭を掻き回され、最後に頬を抓られた。
「痛い…」
抓られながら抗議すればそのまま頬をぐっと上に伸ばされる。
「お前がそんな顔してたら皆心配するぞ」
笑えと言う楓に何度も頷く。
漸く放してくれたくれた頃には頬がひりひりと熱を持っていた。
その部分をさすっていると、その様子を見ていた楓にまた笑われた。
楓はとても強い人間だ。一番傍で見てきて、今まで何度も思った。
その強さに憧れたし、自分も楓に近付きたいと思った。楓の背中に隠れるばかりではなく自ら動かなければいけないと。
けれどこうしていると思うばかりで少しも近付けていないのだと見せつけられる。
また楓の背中に隠れて、一番辛いであろう本人に庇ってもらっている。
みっともないし恥ずかしい。これ以上自分を嫌いになりたくない。
それなのに心に煤が積もって行く。少しずつ、少しずつそれは膨れ上がりぎゅうぎゅうになって爆発したらどうなってしまうのだろう。
「楓…本当にありがとう」
小さく呟く。楓の耳には届いていないだろう。
「おーい、早く支度して飯行くぞ」
「うん」
制服に着替え、冷たいタオルと温かいタオルを交互に瞼に当てた。あまり時間がなかったので瞼の腫れはいまいち治まらない。
鏡に映る自分を見ながら一つの決断をした。須藤先輩とは関係を絶つ。
楓は遠慮なんかするなと笑ったが、楓を傷つけた挙句にのうのうと生活するのは耐えられない。罪悪感で押し潰されるくらいなら自分も楓と同じだけ傷ついた方がましだ。
そんなものはエゴだとわかっている。誰も喜ばないし、誰も幸せにはなれない。
自分が楽になるために自分を傷つけるなんて馬鹿げてるが、それくらいしか罰が見当たらない。
須藤先輩に昨日迷惑をかけた謝罪をして、本心をぶつけよう。
もしかしたら先輩は既に僕を面倒だと思っているかもしれない。
楓とのいざこざに巻き込まれてうんざりしているかもしれない。
様々な想像をしては心が塞ぐがそれでも最後に謝罪だけはしておこうと思う。
学校に着けば昨日の出来事をゆうきも景吾も知っているのだろう、僕と楓の妙な雰囲気に頑張ってフォローをしてくれた。
ゆうきも景吾も何も聞かないし、僕を責めない。
知らぬふりをしながらも、必至に四人の関係に入ったひびを修復しようとしてくれる。
どうして誰も僕を責めないのだろう。
面倒だと、最低なことをしたと糾弾して欲しいのに、どうして今まで以上に優しさをくれるのだろう。
誰も責めてくれないから自分で自分を責めるしかない。
学校が終わり先輩の部屋に急いだ。一度深呼吸をする。
先輩が部屋にいるかはわからないが、携帯の番号も知らないし、連絡のとりようがない。
部屋におらずともここで待てばいつかは会えるだろう。
逃げ出したくなる足を拳で軽く叩く。
早鐘を打つ心臓に苛立ちながら折った指で扉を叩いた。
「…はーい」
須藤先輩は髪をかき上げながら扉を開けた。瞳に僕を映すと一瞬目を丸くさせた。
「こんにちは…すいません急に」
身体を九十度に折ればぽんぽんと肩を叩かれる。
「いいんだよ。どうぞ、中に入って」
気持ちが悪いと突き放されたらどうしようと邪推していたが、先輩はいつもと変わらず優しい。
「はい…」
優しく微笑む姿が好きだった。
温かい春の中にいるようで、心がすっと落ち着き、その次にはじんわりと温かくなった。
近くでそんな姿を見れるのもこれが最後だ。
「…先輩、昨日はごめんなさい…」
ソファに着き、お茶のペットボトルを出す先輩の後姿に向かって謝罪する。
はい、とペットボトルを差し出されそれを受け取る。
「いや、大丈夫だよ。驚いたけど。その後楓君とはどうなったの?」
「…楓とは別れました。でも、友達でいようって言ってくれて…」
「そう、よかった。安心したよ。ちょっと責任感じちゃってね。夏目君はいらないって言ったけど、僕も楓君にちゃんと説明した方がいいんじゃないかって思ってた」
「…ありがとうございます。なんだか、見苦しいところを見せちゃって…」
「はは。大丈夫だよ。まあ、初めての経験だったけど」
言わなきゃ。早く言わなきゃ。
ペットボトルを両手でぎゅっと握った。一緒にいればいるほど心が鈍る。
このままいられたらどんなに幸せだろうかと楽な方に逃げようとしてしまう。
辛い出来事も悲しい言葉も楓が自分を盾にして守ってくれていた。
生身になると世界は急に恐ろしくなる。これからはすべてを受け止めなければいけない。
そうなりたいと願っていたが、理想と現実はこうも違う。
逃げ出したい気持ちをぐっと押さえつけてありったけの勇気を振り絞った。
「…先輩、僕こうして先輩と話したりするのやっぱりやめようと思います。先輩は自分で決めた方がいいって言ってくれましたよね。だから自分で決めました」
「…え、どうして?」
「…今まで色々お話してくれてありがとうございました。とっても嬉しかったし、楽しかったです。でも、先輩と友達にはなれません。ごめんなさい…」
「夏目君…」
「じゃあ、失礼します」
勢いよく頭を下げ部屋を飛び出した。待ってと叫ぶ先輩の声が聞こえたが、知らぬふりをして自室へ走った。
これでいい。これでいいんだ。
心は痛いが楓はもっと痛いはず。
痛みは共にいた長さに比例するのだろうか。短い恋ですらこんなに辛い。
それならば楓は――。
人の心の中は覗き見れない。だから想像するしかなくて、けれどそんなものは無意味で。
楓の全部をこの目で見れたらどんなによかっただろう。
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