4


夜半に目が覚めた。部屋は暗い藍に包まれている。
暫くぼんやりとして、隣から聞こえる規則的な呼吸に安堵した。
いつの間にか身体は離れ、けれど拓海はこちらを向いて眠っていた。
寝ているときですら彼が自分に背中を向けたことは一度もみたことがない。
こんなときまで誠実でいなくともいいのに。ふっと笑い、喉の渇きを潤すためベッドを降りる。
テーブルの上に置きっぱなしにしていたミネラルウォーターのキャップを捻る。
急速に身体に沁み込んでいくそれにぷはっと息を吐いた。
目が覚めてしまったのでベッドに戻る気にもなれず、ソファに身体を預けてぼんやりと天井を眺めた。
もしかしたら自分で思っていた以上におばさんの言葉が堪えたのかもしれない。
わかっていた。現実はいつだって目の前にあるのだから。
ただそれが急激に迫ってきて、目を逸らす暇もなく頭を固定させられて見せつけられた気がした。
しっかりしなくては。
幼い頃から何度も繰り返した呟きだ。
母に叱られたとき、弟の面倒をみろと押し付けられたとき、我儘は許さないと言われたとき。
数限りなく自分に言い聞かせて鼓舞して歯を食い縛った。
そうしていると、なんとなく日常は過ぎるし頑張ることも慣れていった。
なのに今は前向きに頑張るプラス思考がぼっきり折れてしまったようだ。
見せかけでもいいからと、ずっと自分の一番目立つところにそれを飾っていたのに。
その影に潜んでいた頼りない泣き虫な自分がじっとりとした瞳でこちらを睨んでいる。
首裏に手を当てて小さな溜め息を零した。
人を好きになるのはしんどい。相手が彼だから余計に。
拓海がもう少し普通の家の人間ならばこんな風には思わなかっただろうか。
男同士という時点でハンデが生まれるが、自分につきつけられたのは高い山のようだ。
麓に立ち竦んで、ただそれを見上げている。

「…蓮」

小さく名前を呼ばれてはっと身体を起こした。

「どうしたの」

彼は起き抜けの鼻声で目を数回擦ったようだった。

「…ちょっと喉が渇いてしまって」

「そっか。僕にも水ちょうだい」

ペットボトルを持ってベッドへ向かった。
拓海が飲み終えたので受け取って、キャップを閉めてベッドサイドに置いた。
暗闇の中で自分の表情はよく見えないだろうが、たぶんとても情けない顔をしていると思う。
少しも見せたくなくて、ベッドに潜って布団を鼻まで引き上げた。視線はぼんやりとした輪郭だけの天井に張り付かせて。
拓海は俯せのままこちらに顔だけ向いて、じっとこちらを見ている。
目を合わせたら喉にぎゅうぎゅうに詰め込まれたなにかが弾けそうで、無理にでも視線は動かさなかった。

「…考えごと?」

繊細で細い指先が髪を一束掬った。

「いえ。ただ眠れなくなってしまっただけです」

「そっか。僕も目が覚めちゃったよ」

「…起こしちゃいましたか?」

苦笑すると拓海は身体ごとこちらに向かいあった。

「隣にいるはずだと思ってた人がいないと、人間驚くほど焦るんだよ」

「…ああ、なんとなくわかる気がします」

「寝惚けてるってのもあるけど、小さい頃母親とはぐれたような不安な気持ちになる」

言葉に驚いて、つい視線を交わしてしまった。
彼は少し泣きそうな顔をしていて、しっかりとした拓海には失礼だが子どもっぽい表情に庇護欲がかきたてられた。

「大丈夫。ここにいるじゃないですか」

「…うん。そんなわけないのに蓮が急に消えたような気がした」

「消えませんよ」

大丈夫、という意味を込めて拓海の手をぎゅっと握った。
今まで知らなかったが寝起きの彼は可愛らしい。少し舌足らずな話し方が更に幼い印象に変えている。

「うん…。でも…」

こんな危うさが拓海にあったなんて知らなかった。
気丈に見せている彼の心の内側の一番繊細な部分が剥き出しになったようだ。

「…暗闇の中でソファに座る蓮は今にも消えてしまいそうだった。お伽話みたいに月にでも帰っちゃう気がした」

「月って…。僕宇宙人じゃないですよ」

「そうだよね。なに馬鹿なこと言ってんだろ」

気恥ずかしそうに笑ったので、つられて僕も笑ってしまった。

「じゃあ、楽しい話しをしましょう。嫌な気持ち忘れるように」

「楽しい話し?」

「なにか…。そうだ、小さい頃の思い出とか」

「小さい頃に楽しかったことなんてないよ。いつも兄さんに虐められてた。馬鹿な悪戯ばっかりやって」

「例えば?」

「庭に落とし穴作って僕を落として大泣きする僕を見て笑ったりとか」

「はは。それはすごい」

「しかも結構深いんだよ。子どものくせに何日もかけて掘って。僕は足を挫いて泣き声に気付いた母が大慌てでこっちにきて。でも母は事態が呑み込めてなくて、いつの間にこんな穴があったんだろう。折角綺麗に庭を造ったのに。動物の仕業かしら、って言ったんだ」

堪えられなくなって吹き出した。おばさんらしい。

「その日は父も家にいたから、少し遅れて来て、大笑いする兄さんの頭を思い切りげんこつしてた。すぐに助けてくれて、挫いた足の処置もしてくれて…。本当にそんな思い出ばっかりだよ。弘海兄さんのことは一生恨んでやるって思ってた」

大袈裟な言い方だが、幼い頃の兄弟喧嘩はよく記憶に残るものだ。
それが激しければ激しいほど。自分もいくつか思い出がある。

「この話しは楽しくないから終わり。蓮の話しを聞かせてよ」

「兄弟喧嘩のですか?」

「喧嘩じゃなくても、小さい頃の思い出」

言われてうーんと唸った。
まだ家族で暮らしていた頃の記憶はあるはずなのに、それはとてもおぼろげで遠い昔のことではないのに思い出すのに苦労した。

「なんだろな。母に怒られてた記憶しかないや」

「そんなにやんちゃだったの?」

「まあ、平均には。でも鈍くさくて失敗ばっかりして怒られてましたね」

「蓮の子ども時代はすごく可愛かっただろうな」

何を想像しているのか、彼はとても嬉しそうに笑った。

「普通ですよ普通。クラスでは空気だったし、ガキ大将に髪引っ張られたりして虐められて。運動も苦手だから、運動会とかすごく億劫で」

「はは。可愛いね。蓮と近所だったら小さい頃から洗脳したかも」

「洗脳?」

穏やかじゃない言葉にぎょっとする。

「僕に依存して依存してどろどろに崩れさせたり」

「なに言ってるんですか。純粋な幼い僕にそんなことやめて下さい」

「純粋な子どもだからこそすぐに洗脳されるじゃん。やり方を精神科医の先生に聞いてさ」

「そんなことする子ども嫌ですよ」

「でも…。でも、本当にそうしたかったよ」

ふいに彼の瞳に熱がこもった。
冗談にしろ馬鹿で恐ろしいことを言われているのに、それほど求められれば嫌と思わない。
普通ならば狂気に引くところだが。

「じゃあ、今からそうしたらどうですか?」

ふっと笑いながら言った。

「今からじゃ洗脳されてくれないでしょ?蓮は芯が強いししっかりしてるから」

「さあ。そういう人に限って折れるときはぼっきりと折れるものですよ」

今の自分のように。あと少し誰かにどんと背中を押されたら半分に折れてしまいそうだ。

「そうかな。じゃ、今度試してみようか」

笑顔で恐ろしいことを言わないでほしい。自分からけしかけといてなんだが、目が笑ってない。

「だめです。洗脳しちゃったら拓海が僕をいらなくなって捨てても、ストーカーとかしちゃいそうだし。そんな自分怖すぎます」

テレビのニュースにでもなったら死ぬより辛い。
同性同士のストーカーなんて、他人を嘲笑したいメディアの格好の餌食だ。
しかもそれが須藤家の息子なら尚更おもしろおかしく取り上げられる。そんな未来絶対嫌だ。

「ちぇー。残念」

「ちぇー、って。なに可愛いこと言ってんですか」

立場がいつもと逆転したようで、それがこそばゆくも嬉しくて、胸にじんわりと波紋が広がる。
なんでもない、たったそれだけの会話でまた彼を好きになる。
もういい加減にしてくれ。これ以上は本当に気が狂ってしまう。
でも自分は狂うことなく冷静に、その愛情を摺り切りをきっちりと測って余分なものは心の奥底に静かに積もらせるのだろう。

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