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「お話中のところすみませんけど」
はっと俯いていた顔を上げれば、望海さんが温室に入ってきたところだった。
「あら望海さん。お休みになったんじゃなかったの?」
「…弘海と拓海がうるさくてそれどころでは…。それより、父が探してましたよ」
「なにかしら。ごめんなさい、蓮ちゃん。お先に失礼するわね」
「はい。ご馳走様でした」
「また一緒にお茶飲みましょうね。なんだか蓮ちゃんには何でも話せるわ。でもさっきの話しは内緒ね」
「はい」
何度もこちらを振り返り手を振るおばさんに自分も笑顔で応えた。
望海さんも共に行くのかと思ったが、意外にも彼はおばさんが先ほどまで座っていた椅子へ腰を下ろした。
拓海と弘海さんがうるさい、と言っていたので静かな場所で、静かに時間を過ごしたいのだろうと思う。
一度頭を下げて邪魔にならないようにと席を立ったが、望海さんがそれを制した。
少し話しをしようと言われたのだ。
相変わらずの無表情と、抑揚のない声色にびくびくと怯えながらも従った。抗えるわけがない。
「…君は、拓海の後輩だと聞いたが…」
ぽつりと聞こえた声は先ほどよりも随分柔らかくなっていた。
「はい」
「そうか。その…。拓海は学園ではどんな様子だ。うまくやっているだろうか」
「…はい。普通に」
「普通に…。そうか…」
望海さんは納得した様子で一度頷いた。
何を考えているかわからないところは、おばさん譲りだろうか。
拓海のことを心配している様子だし、いいお兄さんではないか。
拓海は、散々な目に遭ってきたとごちていたが、それは弘海さんから与えられた悪戯で、、望海さんは拓海を可愛がっているように見える。
「それならいいんだ。邪魔をしてすまなかった」
「いえ。おやすみなさい」
「ああ」
返事は短く素っ気ないもので、冷淡な雰囲気は変わらない。
しかし兄として兄弟を心配する気持ちはよく理解できるので、勝手に親近感を覚えた。
長男はなにかと辛いのだ。疎ましく思っても、最後は弟たちを守ろうと躍起になる。使命であり、習慣でもある。
「…僕も戻ろ」
温室の中の花を眺めているのもいいが、いつまでも長居はできない。
ティーセットを銀色の盆に乗せ温室を出た。
屋敷まで零さないように、落とさないようにと気を配りながら、お手伝いさんにやっとの思いでそれを手渡す。
部屋に戻ったが拓海の姿はない。まだ弘海さんと一緒にいるらしい。
同じ屋敷内で通話というのもおかしな話だが、一体どこの部屋にいるのかもわからないので携帯を取り出した。
数コールで繋がったが、電話の向こう側はとても賑やかだ。きっと弘海さん一人の声だが。
『ごめんね。もう少しで戻るから…』
「それは全然いいんですけど、お風呂いただいてもいいですか」
『勿論。兄は済ませてるから。場所はわかるよね。早めに戻るから』
拓海の声には心労が滲んでいる。苛立っているのもわかる。
そんな姿は滅多にないので、物珍しくて笑みが零れた。
バスルームは一階と二階にそれぞれ用意されている。一階のバスルームは広くて、とても綺麗だが、二階はシャワーブースのみだ。
温かいお湯に浸かるのも魅力的だが、階下にはおじさんとおばさんがいる。
うっかり鉢合わせをしたら大変なのでシャワーだけで我慢することにした。
幾分すっきりした身体で部屋に戻ると、この一時間で随分とやつれた拓海の姿があった。
「やっと逃げられた…」
彼は衰弱し、溜め息を大袈裟に吐き出した。
「楽しそうですね」
「それは大きな誤解だ。楽しいわけがないよ」
拓海にとってはそうかもしれないが、あれもきっと弘海さんなりの愛情表現だ。
「僕もお風呂に入ってくるね。ちゃんと髪を乾かすように」
「はい」
拓海は擦れ違う瞬間、濡れた前髪を払い額に軽くキスをした。
それに何故かとても羞恥を覚え、彼の唇が触れた部分を手を押さえた。
「…なんか、悪いことしてる気分…」
暫く陶酔しそうになり、意識を引き戻す。
心の声は誰にも聞こえないし、この部屋に監視カメラがあるわけでもないのに、誰かに知られたらどうしようと緊張する。
この家の中では普通の後輩を装わなければいけない。
オンとオフの切り替えが上手にできないから、甘ったるい空気など僅かでも出してはいけない。
須藤家の皆はとてもいい人だが、心労が蓄積されるのも事実だ。
言葉通りすぐに戻ってきた拓海とソファに並んで座る。
ごしごしとタオルで乱暴に髪を乾かす姿は普段の繊細さとはかけ離れている。
「…さっき、おばさんと話しました」
「何か変なこと言ってなかった?」
「いえ、別に…」
おばさんとの会話を思い出すと酷く混乱してしまう。
本当は言いたかった。
そしてずっと一緒だよと笑ってほしかった。傷口に無理矢理蓋をするように。
しかしそんな弱音を吐いたら、優しい彼は僕がいらなくなったそのときも、さよならの四文字を言えずに悩むのだ。
そうなって欲しくないから喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。
「僕もう寝ます…」
「もう?」
「はい。少し、疲れてしまって…」
「そっか、じゃあ僕も寝ようかな」
「無理しないで下さい」
「いいんだ。蓮の寝顔見てるだけで楽しいから」
「そんなことあるわけないです」
「あるんです。さ、おいで」
手招きされ、大きなベットに二人で潜り込んだ。
拓海に優しくされると辛い。
いつかは離れなければいけない運命なのに、それならば優しくなんてしないで。好きだと囁かないで。
それは拓海本人が一番よくわかっているのに、それなのに彼は運命に抗おうと必死だ。
それについていけるくらいの強さが自分にもあったなら。
けれど思ってしまう。自分は邪魔な存在なのだと。彼の将来を穢し、乱すだけの存在なのだと。
ちっぽけな自分のために、拓海が苦労をする必要はないのだ。
好き勝手自由に振舞える学生だからこそ今こうして一緒にいられる。そうでなければきっと、彼は自分なんかには振り向きもしなくて。
僕たちは年齢を重ねていって、そしてお互い大学生になった頃には拓海に重責が圧し掛かる。
須藤家に生まれ、そしてその人生を真っ当しなければいけない運命の糸が彼には纏いつく。
そのとき彼の心を乱す存在になりたくない。
そのときがきたら、不埒な自分を演じてでも彼に嫌われるように仕向けると思う。
心残りなんて一切残さないで、夏目蓮という存在そのものを記憶から抹消してもらえるように。
「…拓海…」
「なに?」
「拓海はいつか…」
「いつか?」
「…ううん、なんでもないです」
こんな想いを拓海に告げれば、彼は道は開けると笑ってくれるだろう。
わかりきった答えだからこそ聞かない方がいい。
あのときああ言ってくれたのに。なんて思うことがないように。
拓海から与えられる優しさはもう十分もらった。
容器に収まらないくらいぎゅうぎゅうにされるから、少しずつ零れている気がする。
最後を考えると耐えられないほどに、幸福な思い出ばかりを残していく。
優しく髪を撫でてくれるこの指もいつかは遠く離れるのだろうかと思うと、なかなか寝付けなかった。
「蓮、もう寝た?」
「…起きてますよ」
彼の胸に鼻を擦り付けるようにする。
音すらも吸い取る闇の中、彼の心臓の音が静かに聞こえて、自分のそれと重なり合うような瞬間が好きだ。
「ちょっと頭上げて」
言う通りにすると彼の右腕が頭の下に滑り込み、ぎゅっと全身で抱き締められた。
寮にいるときより、学校で隠れてキスをするときより何倍もの背徳感で苦しくなる。
「…好きだよ」
脈略もなく拓海が呟いた。
それは僕に聞かせたかったというよりも自分自身に言い聞かせているようだった。
「…僕もです」
「うん…」
お互いの気持ちは同じだと確認したのに、離れる腕を引き留めるように力強く抱き締められた。
肺が潰されて苦しいのに、呼吸が浅い苦しさとは別のものが混じっている。
浅瀬で溺れているようだ。足を踏ん張れば楽になれるのになぜかそれができなくて、ほんの僅かな水にすべてを浚われる。やるべきことはわかっているのにできない。
苦しくて楽になりたい。でもこのまま溺れても構わないかもしれないという少しの諦め。
凪いでいる海のように拓海との時間は過ぎていくのに、時折どうしようもなく足を引っ張られる瞬間がある。
彼がなにを考えているのかはわからない。
自分では理解できないような深い場所まで潜っているのかもしれない。
ただ、高校生である今を大事にしなければと思った。
後から後悔したり苦しくなっても、拓海を忘れたふりをして生きて、僕は誰か他の女の子に恋をするのだろう。
「…そろそろ眠ろうか」
「はい…」
彼は力を緩め僕を抱きかかえるようにして、僕も彼の腕の中にすっぽりと収まった。
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