Episode6:蜜の味
須藤家に招かれるのはこれが三回目だ。
先輩はあまり実家には寄り付かなくて、けれども特別家族仲が悪いわけでもなくて。
自分は拓海の家族が気に入っている。自分の家のような、緊張感が常に漂っているわけではないし、何よりも拓海の母親の纏う穏やかな空気が自分にはよく合っていると思う。
拓海はそんな母親に対してネジが飛んでると、とんでもない暴言を吐くが。
今日は久しぶりに顔を見せて欲しいというおばさんの要望通りに、拓海と共に家を訪ねた。
自分が行って邪魔にはならないかと聞けば、お友達も良かったら連れてきてと、おばさんから言ったらしい。そこで、選んだ友達が自分だったのだ。
友達という関係ではない分、負い目を感じるけれど。
拓海の実家は大きな病院をいくつか経営している。
その中でも特別大きな総合病院の院長の座を拓海の父親が握り、二人いる兄もその病院で医師として務めている。長男は、外科医、次男は内科医として。次男はまだインターンが終了したばかりで、右も左もわからぬままだと言うが、長男のお兄さんは時期院長として、毎日忙しくしているようだ。
そして、拓海もいずれ医者となり、三人揃って病院に勤めるのが須藤家の決まりだ。
未来を拘束されるのは辛くないだろうかとふと思うことがある。
夢や希望を持つ暇もなく、幼い頃から医師となるべく教育を受ける。
もし他にやりたい職業が見付かってしまったとき、拓海はきっととても悩んで、そして壊れてしまうのではないかと心配になることもある。
拓海の実家は木内先輩や香坂先輩も住む街にあり、そして距離も然程離れてはいないらしい。
元は海外の方が建てた古い洋館で、それをおばさんが気に入って中古物件として売られていたものを購入したらしい。
物々しい門を潜れば、アーチ状に草花が玄関まで誘導してくれる。
庭も綺麗に手入れされていて、まるで異国へ舞い降りたような錯覚を覚える。
何度来ても、何度見ても、感嘆の溜め息が零れる。
「蓮、あまりかたくならないで」
「はい」
初めて拓海の家に招かれたのはいつだったか。あれからどれくらいの時が過ぎたのかも覚えていない。
インターフォンを押せば、すぐさまおばさんが出迎えてくれた。
彼女は専業主婦をしているのだが、あまり家事が得意ではないらしく、お手伝いさんが数名いる。
「お帰りなさい、拓海さん。それから蓮ちゃんも」
「ただいま」
「お久しぶりです」
腰を九十度に曲げると、おばさんも同じように頭を下げてくれる。
こんな自分が言うのもなんだが、おばさんは年齢が不詳な上、かなりの天然だと思う。
見た限りでは、三十代後半くらいに思える。実際は三児の母だが。
この洋館を綺麗に形作っているだけあり、おばさんもかなりの少女趣味だ。
いつも出迎えてくれるときは、ふわりとしたワンピースやスカートをはいていて、眠るときですらズボンをはいた姿を見たことがない。
「今日は弘海さんがお休みで家にいるのよ」
招き入れられ靴を揃えていると、嬉しそうにおばさんは両手を合わせた。
しかし、拓海の反応はすこぶる悪い。
弘海というのは、次男のお兄さんのことで、拓海はあまり好きではないらしい。
昔よく苛められていたと、愚痴を零しているのを聞いたことがある。
「…弘海兄さんは寝室?」
「ええ、眠っているわ」
医師という職業は、非常に過酷なもので、まだ新米の弘海さんにとっては毎日が戦争なのだろう。
たまの休日くらいは、何も考えずに眠りたい気持ちはわかる。
「荷物、置いてくるから」
「はいはい。ママはリビングにいるから暇になったらおりてきて。蓮ちゃんも一緒に」
にっこりと微笑まれ頭を下げた。
おばさんは本当に優しい。纏う雰囲気そのものの性格で、そしてともても可愛らしいのだ。
ふんわりとウェーブがかかった長い髪の毛もよく似合っている。
「蓮、行こう」
「はい。失礼します」
再び頭を下げれば、待ってるねと手を振られる。
古い洋館の中は現代風にリフォームもされぬまま、当時の面影を色濃く残している。
螺旋状の階段の手すりには繊細な彫刻が施され、壁紙と木の調和も美しい。
こんな素敵な家で育てば、感性も磨かれるものなのだろうか。
「兄さんが起きないように静かにしてようね」
「はい、そうですね。折角寝てるのに起こしたら悪いですもんね」
「ていうか、起きたらまたうるさいことになりそうだから」
拓海と弘海さんのやりとりは何度か見たが、あの拓海が敵わないといった様子で、それがとても新鮮で見ている分には楽しいのだけれど。
部屋の扉を開け、軽い荷物をソファの横へ置いた。
この部屋も洋室に合わせて、すべてアンティーク調に整えられている。
母親の趣味に合わせなければこの家では生きられないらしい。
「疲れた?」
「いえ、全然」
「テレビ見てもいいし、パソコンつけてもいいし、自由にしててよ。僕、ちょっと病院の方に行ってくるから」
「はい」
帰省したときは決まって病院に向かい、おじさんとお兄さんに帰った旨を伝えるらしい。
どちらも泊りがけも多いお勤めで、あまり家には帰れないのだという。
自分が出向かなければ、年に数回しか顔を合わせられないらしい。
自分も、父に関しては同じようなものだ。
「行ってらっしゃい」
「ごめんね、一人にして」
「いえ、大丈夫ですよ」
「じゃあ、行ってきます」
到着早々、再び鞄を持った彼に手を振り、行ってらっしゃいと扉の前まで見送る。
こんな風にしていると、まるで新婚のようではないだろうかと思い、そんな想像をした自分を恥じた。
彼に言われた通りテレビのスイッチを押し、寮のテレビとは比べられないほどの大画面に心の中が躍る。
「すごい…」
音も映像も何もかも違う。
DVD等、好きに見ていいと言われたのでお言葉に甘えることにする。
シリーズ化されたサスペンス映画をセットし、ソファに座りながら眺めた。
恐ろしい描写も多い映画だが、こう見えてそういった類のものが平気だ。
むしろ、好んでホラー映画を見ては、楓に信じられないと言われるのだ。
映画を見始めて一時間程した頃、部屋の扉がノックされ、拓海が帰ってきたのだろうと扉を開けたが、そこにいたのは弘海さんだった。
「おーっす、久しぶり」
「お久しぶり、です…」
「あれ、可愛い弟はいねえの?」
「病院に…」
「へえ。子羊ちゃん一人残して?」
「子羊て…」
言わずとも自分のことだろう。今に背も大きくなって、身体もがっちりとするのだ。容姿をからかわれるたび心の中で悪態をつく。
弘海さんに部屋へ入っていいかと問われ、どうぞと招いた。
ラフな部屋着で、頭には少し寝癖がついている。
この弘海さんという人は、あまり拓海とは性格が似ておらず、活発で悪戯っ子のような雰囲気がある。
どことなく楓に似ている気がして、勝手に親近感を持っている。
「一人じゃ暇だろ?」
「いえ、映画見てたんで」
ソファに豪快に腰を下ろした弘海さんは、隣に座れとソファの上をぽんと叩く。
「うちの弟にいじめられてない?」
「そんなことありませんよ」
「そっか、そりゃよかった。あいつもいじめっ子だからなあ。どこで性格曲がったんだが。俺のせいかね?」
「いじめっ子ですか…?僕は全然…」
そんなイメージは拓海には勿論持っていない。
むしろ誰にでも平等に優しくて、いつも笑顔で、柔らかい性格で、意地悪なんて絶対にしない人だと思う。
「ふーん、そっか。仁と涼は元気?」
「元気ですよ」
「一は?」
「会長も、多分元気だと思います…。あまり、見かけないですけど…」
「ああ、そっか。受験だもんなー」
拓海が木内先輩たちと幼馴染ということは、勿論弘海さんも木内先輩たちと長い付き合いなわけで。
あの大人に見える会長ですら、弘海さんからしてみれば可愛い弟のような存在なのだろう。
「で、蓮君は?テスト終わった?」
「はい」
「頭、いいんだってね」
「そんなことないですよ。平均くらいです」
「またまたー。将来お医者さんになればいいのに。うちは大歓迎だよ。医師不足だしね」
「僕がお医者さんなんてなれるわけがないです」
「どうして?」
「そんなに頭よくないですし、要領も悪いし不器用なので、患者さんに悪いです」
「んー、じゃあ看護師とか。最近は男の看護師も少なくないよ」
「そうなんですか」
看護師なんて、考えたこともなかった。けれど、人を助ける仕事はとてもやり甲斐があって、素敵な職業だと思っていた。
もし看護師になれたら拓海とこれからもずっと一緒にいられるかも。なんて邪まな気持ちもなくはない。
そんな浅はかな考えで職業を選んではいけないとは思う。のだが…。
「明日帰っちゃうの?」
「はい、今日泊まらせて頂いて、明日帰ります」
「そっかー。でも俺今日休みだからたっぷり遊べるね」
「はあ…」
お兄さんとの時間は緊張してしまうが、弘海さんが話題を振ってくれるので気詰まりな空気はない。
人見知りが激しい性格だということを弘海さんはわかってくれている。
「そろそろ拓海が帰ってくるかな」
部屋の時計に目を走らせた弘海さんはにんまりと笑みを作った。愛嬌のあるその笑顔は万人受けするだろうし、患者さんにも人気があるだろう。
「ただいま……って、なんだ、兄さんいたの…」
「残念ながらいましたよー」
弘海さんの予想通り、拓海が帰宅し、弘海さんを見るや顔を顰めた。
「兄さんが休みだって知ってたら帰ってくるのも考えたんだけどな」
「なんだよ、相変わらず俺に冷たい奴。いつまでも昔のことを根に持つなよ。女々しい男は嫌われるぞー」
「…根に持つほどのことをしたのは誰だっけ?」
「おー、恐っ。蓮君、あんまり拓海と仲良くしない方がいいよ?こいつすげえ陰険だから」
「…はあ」
「変なことを言うのはやめて下さい。ほら、出てった出てった」
「はいはい、若者の間におじさんが入ろうなんて思ってませんから、言われなくても出ていきますよー」
弘海さんは、最後にこちらに手を振って部屋から出て行った。
「兄さんに変なことされてない?何か言われてない?」
「ただ話してただけですよ」
「そっか…。あの人は突拍子もない悪戯とか仕掛けるから本当に怖い…。冗談で済まないようなことも平気でするからね。キスとか急にしてくるからね僕にも」
「はは。それはおもしろいお兄さんですね」
その場面を想像して吹き出した。きっと拓海は思い切り弘海さんの頭を叩くのだろう。
「おもしろくないよ。早く結婚でもして家から出てほしい」
「お兄さん彼女いるんですよね?その人とは結婚しないんですか?」
「彼女って呼べるような人かどうかは知らないけど、そんな気配は微塵もないね」
コートを脱ぎ捨てた拓海は、お茶でも持ってくるよと、忙しなくまた部屋から出て行った。
途中、邪魔されていたDVDに視線を移したがもうエンディングに近い。
何度も見ているのでじっくり見る必要はないと思いながらも、惜しいことをした気分になる。
温かい紅茶を持ってきた拓海に頭を下げて礼を言い、飲み込んだ。
「美味しいですねー」
「まあ、翔が淹れてくれたやつのが美味しいけど」
「そうなんですか。今度僕も飲みたいです」
「言えばいつでも淹れてくれるよ?」
隣に座る彼にぽんぽんと頭を撫でられ、撫でられた部分を自分でも撫でてみた。
拓海に髪を触られるのはとても好きな行為の一つだ。動物が毛繕いをするのと同じ心理なのかもしれないと思う。
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