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「…謝らないで下さい。悪いこと、してないじゃないですか」
「いや。百%僕が悪い。醜くて子どもっぽい嫉妬で蓮を困らせた。悪い」
嫉妬、と彼が口にした瞬間、楓と香坂先輩の言葉を思い出し、笑いが込み上げた。
先輩は突然笑い出した僕を怪訝そうに覗き込んだ。
「本当に、わかっていないのは本人同士だけですね」
そんな容易い問題ではないのに、と楓に唇を尖らせていたが、わかっていないのは自分の方だった。
恋は盲目。まさしくその通りだと思う。
嫌な部分が見えないし、同時に良い部分も見えなくなる。
自分の心ばかりに目を濁らせて、相手の本音がとことん遠くなる。
恋というのは本当に厄介な生き物だ。
一しきり笑い終えた後、須藤先輩の瞳を見詰めた。
真っ直ぐに見れば、自分も先輩も不安ばかりを胸に押し込める臆病者だ。
「…嫌いになりました」
「え!」
「…って、言ってみろって香坂先輩が」
「……勘弁してくれよ。心臓がぎゅってなった…」
心底焦った様子の須藤先輩に、また笑いが込み上げる。
揶揄して笑うのは最低だと思うが、いつも余裕を崩さない彼のそんな表情が見たかったのだ。
「僕のこと、怒ってる?」
須藤先輩は大人で、身体だって自分よりも大きくて。
なのに今の彼は叱られた小さな子どものようだ。
「いいえ。先輩も嫉妬とかするんだな、って思っただけです。でも、それならちゃんと言ってほしいです。なにがいけなかったのか悩んで、別れるのかと思って怖くなりました」
「ごめん」
ぽんぽんと、いつも皆がしてくれるように先輩の頭を撫でた。
先輩は驚いたように目を丸くして、けれども微笑んで好きにさせてくれた。
「これ、何買ってくれたの?」
ベッドを背凭れにして並んで座り、須藤先輩は小さな紙袋の中を覗き込んだ。
「香水です」
青いリボンを解き、包装を綺麗に外し、出てきた香水を嬉しそうに微笑んで眺めている。
その顔が見たかった。
想像以上に自分が幸福を感じていると実感する。
もうだめかもしれない、と諦めた分だけ、嬉しさに跳ね返ってくる。
「いい香り」
先輩が両手首に擦りつけるとふんわりと香りが広がって、そう呟いた。
「うん。いい香りだね。僕に合いそうなのを探してくれたんだね」
「はい。一個一個匂いを嗅いで、ぽんときたのがこれだったんです。やっぱり先輩によく似合ってます。この香り」
「じゃあ毎日つけるよ。この香り、蓮にも似合うと思うよ」
「僕、ですか…?」
それは背伸びしすぎではないだろうか。
そもそも香水の香りというものが似合うような男ではない。
自己表現しないような、人畜無害の無臭が自分にはお似合いだ。
「いや、大人っぽすぎますよ…僕は香水とか似合わないですし…」
「そんなことないよ。蓮は僕なんかよりも大人っぽいじゃないか」
「そんな。あるわけないです」
マスコットキャラとしてクラス中に扱われている自分が須藤先輩に勝るはずがない。
「いや、蓮はしっかりしてるし、大人だよ。なんだろうな。優しいお母さんみたいな感じ?」
「お母さん!?」
「うん。どことなく母性がありそうだよね。僕のくだらない嫉妬も笑って許してくれるし、心が広いできた人間だよ」
誉められていると解釈していいのだろうか。
マスコットからお母さんに変わっただけだけれど。
どちらも男らしさからは程遠く、やはり自分が理想とする自分になるには、道は長そうだ。
「…まあ、いいですけど」
「あれ?誉めてるんだよ?」
「わかってますけど、男らしくなりたい僕としては複雑というか…」
「もう男らしいじゃないか。僕なんかよりもよっぽど」
「えー…」
釈然としない。けれど、彼の中の自分がましなものならそれでいい。
「蓮」
片頬を包み込まれ、急に唇を塞がれた。
あまりにも突然のことで、上手く対応できない。
「…喧嘩して、泣いた?」
「泣いてないです」
「本当?」
「今回は泣いてないです」
胸を張ったが、自慢できるようなことではないと後で気付いた。
「それはそれで少し残念だな」
揶揄しながら笑う先輩の腕を軽く抓った。
こちらは本当に辛い想いをしたというのに。自分ばかりが踊らされて恨めしくなる。
けれども彼は、すぐに表情を引き締めて、再び片頬を包んだ。
「傷つけて、ごめんね。大事にしようって決めたのにな…」
「…いえ。充分大事にされてます。大丈夫です」
彼が傍にいてくれる。
好きだと囁いてくれる。
抱き締めてくれる。
これ以上望むのは愚かだ。欲張るほど、本当に欲しいものが遠ざかっていくと思うから。
頬を包む先輩の手に自分の手を重ねた。
この温もりだけで幸福になれる。誰かは安いというかもしれない。でも、自分には勿体無い代物なのだ。
些細な喧嘩をして、それを再確認した。
顔を先輩に近付け、自分から軽い口付けをした。
先輩は微笑み、身体が軋むほどきつく僕の身体を抱き締めた。
どこかで自分は、優しい須藤先輩が簡単に自分を捨てるわけがない、と驕っていたのかもしれない。
冷酷な瞳と声にあんなに動揺したのはそのせいではないだろうか。
今が当然ではないのだと言い聞かせた。
先輩とこんな風に過ごせるのは、いくつもの奇跡の上に成り立っていて、とても尊いものなのだ、と。
お互い言葉を発しない穏やかな空気が流れていた。
それを断ち切るように、くっついていた身体を離しながら先輩が口を開いた。
遠くなる体温が残念で、咄嗟に手を伸ばしそうになる。浅ましい願いだ。
「秀吉君ってさ」
「…はい」
「蓮のこと、好きとかじゃないよね?」
「な、なに、馬鹿なこと言ってるんですか。あるわけないです」
あまりにも意外な言葉に必要以上に声を上げた。
「そう?」
毎日毎日、聞き飽きたと顔を顰めたくなるくらいに神谷先輩の惚気話しを聞いているのだから間違いない。
「はい。これは絶対に。友達です。秀吉は他にちゃんと好きな人がいますから。毎日惚気て、皆うんざりしているくらいですよ」
「そっか。蓮は男にも女にも魅力的に映りそうだから心配だよ」
「そんな風に思うのは先輩だけですから。大丈夫ですよ」
むしろそれはこちらのセリフだ。
また、お互いだけが理解できないループに突入しそうになる。
どんなに想っても全然気持ちが伝わらない。
自分の正直な想いを口にするのは苦手だった。
恥ずかしいし、相手に重いと感じられたらと思うと不安で。
けれど、今伝えなきゃ。今言わなきゃ。
「…僕は、先輩しか好きじゃないです。先輩が不安に感じる必要なんて、一つもないんです…」
意を決して言葉にしてみたが、とても目は見れずに俯いた。
「ありがとう、嬉しいよ」
言った後でじわじわと羞恥が身体を駆け巡る。
やはり苦手だ。口にせずとも伝わるような機械があればいいのに。
「蓮、お願いがあるんだ」
先輩は頤に手を添えてくっと上を向かせた。
真摯で、けれどもどこか苦しそうな表情に視線を奪われる。
「なんですか?」
「蓮を抱きたい。今まで我慢してたけど、そんな可愛らしいことを言われたら耐えられないな」
目を細めて僕を見詰める姿はとても優しい。けれど、男の色香も交じっている。
いつだって理性的な彼なのに、今は野性味が加味されていて、須藤拓海の本能を見た気がした。
「あの…」
動揺を隠せなくて、目が泳いでしまった。
「まだ、早かった?」
「いえ、そんなことはないですけど…」
あまりにも唐突だったので心の準備ができていない。
行為自体の経験はあるし、予想の範囲内のことをするので恐怖はない。
けれど、相手が変わればまた一から緊張しなければいけない。
女の子でもあるまいし、と呆れられそうなので口にはしないけど。
「蓮がいいって言うまで待とうと思ったんだけど。自分がこんなに我慢ができない人間だと思わなかったよ」
先輩は充分に理性的に対応してくれた。
こちらが足りないと思うほどに。
自分も男なので、身体でも繋がりたいと思う。
けれど、抱く側ならまだしも、今回も自分は抱かれる側で。
そうなると覚悟と整理が必要で。
ましてや先輩は男との経験はないだろう。
いざ蓋を開ければ、やはりば同性の身体では無理だとなるかもしれない。
どう頑張っても、女性のように滑らかでふくよかな身体ではない。
「…僕は平気です。けど、僕男ですし、やっぱり無理だなって思ったら遠慮なく言って下さい」
小さく不安を訴えると、頭上で彼が苦笑したのがわかった。
「そんな心配いらないと思うよ。蓮は本当に平気?抱かれる側は嫌じゃない?」
「平気です。僕が先輩を抱くっていうのも、ちょっと想像できないですし…」
自分が抱かれた方が自然なのだと思う。
男同士の時点で不自然だけれど。
「まあ、そうだね。蓮、好きだよ」
「…僕もです」
先輩は優しく、けれども雄の笑みを浮かべて僕の顔に影を落とした。
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