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考えるより先に身体が動いた。
透明な壁の向こう側で泉がはにかんだように笑う。憂いを帯びた瞳をする。気恥ずかしそうに俯く。名前も知らない一年が彼の皮膚に触れた瞬間のあの表情。
自分だけが知っている顔、自分だけに向けられる表情。それを自分以外の誰かに惜しみなく与える。
気付いたときには扉を開け、泉を追い出していた。
頭の片隅が冷静になれと言っている。なにがそんなに気に喰わない。自分が知らない交友関係が泉にあるのは当然。すべてを把握したいわけではないし、そんなの面倒なだけだ。
だけどあんな顔を見せる相手が自分以外にいたというのがショックだった。
一年に名前を聞き、談話室を去る。
自室に戻りながら寮の壁を殴った。ちょっと待ってくれよ、これではまるで束縛の激しいクソ面倒くさい底辺男ではないか。
違う。自分はそんな人間じゃない。
泉は泉で好きに生きる権利がある。勿論自分にも。
他人の自由を阻害できる立場じゃないし、誰と遊ぼうが話そうが彼の勝手で関係ない。
そうだ。関係がないのだ。
言い聞かせるがもやもやと苛立ちが隅っこで燻った。
「あー…」
壁に背中を預けしゃがみ込んで頭を抱えた。
嫌だ嫌だ。自分が塗り替えられていく。十六年間かけて築きあげた自分ががあっさりと崩れ、自分が自分でいられなくなる。
淡泊、冷酷、自己中、関係を持った女性にはそんな風に言われてきた。
人を好きになったことある?自分のこと以外考えないんだね。逆に何だったら興味持つの。
捨て台詞のようなそれらに心が動かされることはなかったし、それが自分ですからと鼻で嗤った。
なのにこの為体。しかも相手はあの泉だ。
好きだ好きだと騒ぎ立て、どんな関係に落ち着こうともストーカー行為をやめようとしない。
溢れる感情を発散しないとおかしくなってしまうのだと言い、こちらの都合もおかまいなしに大きな気持ちをぶつけてくる。
疑う余地なんてないのに。泉の気持ちは変わらず自分にあるだろう。なのに、どうして。
「うわ……」
頭上から響いた声にのろのろ顔を上げた。
「なんだお前。腹でも壊したか」
ズボンのポケットに両手を突っ込みこちらを見下ろす木内先輩の姿を捉え、もう一度がっくりと首を垂れた。
舌打ちしそうになるのを堪えただけでも偉いと思う。
「……大丈夫か」
もう一つの声にもう一度顔を上げた。
木内先輩のでかい身体からひょっこりと顔を出した真田に、平気という意味を込めて右手を挙げる。
仲良く一緒に晩御飯ですか、そうですか。校内だろうと寮内だろうと所構わず共に行動して随分と仲がいいこと。皮肉を込めて思う。
ひそひそと噂されることも多いくせによく堂々としていられるものだ。
噂の真相を知るのは二人と親しいごく一部の人間だけだろうが、真田の容姿ではあることないこと吹聴される。こいつも苦労してんだろうなとふっと笑った。
「うわ、三上が笑ってる。気持ち悪い。そんなに腹痛いの?」
木内先輩はいつだって失礼だ。
「ゆうき、三上とちょっと話すから先に戻ってろ」
「はあ。別にいいけど」
ちらりとこちらに視線を投げられ瞳だけでタスケテと言った。
「……じゃあ、またな」
無視しやがったよこいつ。
木内先輩は隣にしゃがみ顔を覗き込むようにして嫌な笑みを作った。
「で、どうしたよ」
「なんかあったとしても先輩に言うと思います?」
「言ってみろ、可愛い後輩よ」
「一番相談したくねえわ」
「こう見えて頼りになるんだぞ」
ぶりっ子するように両手を拳にされ気持ち悪くて吐くかと思った。
「……真田、一人で帰らせて大丈夫ですか」
「普通に大丈夫だろ。誘拐されると思ってる?」
「だってあの見た目ですし。よからぬことを考える輩も多いだろうなと」
「いやー、俺との噂があるのにそんなことしたら逆に天晴れだよな」
「まあ……」
ああ、そのために無駄に一緒にいるのかと納得した。
噂を放っておくのは、真田にとって木内先輩という存在が大きな盾になりうるから。
脳筋のようで頭が切れるから木内先輩は嫌いだ。
「まさか三上俺のゆうきをやらしい目でみてるんじゃ……」
「殴りますよ」
はは、とにやけた面を隠さない先輩に呆れる。前はこんな人じゃなかった気がするのだけど。雰囲気が硬く、どこか心を閉じて無鉄砲に周りも自分も粗末にするような人だった。
「すっかり尻に敷かれてるんですね」
「さあなあ」
「どこがそんなに……」
はっとして言葉を噤んだ。隣から怒りのオーラがひしひしと伝わる。
すすす、と視線を逸らしたが頭を手で抑えつけられた。
「あんな美人、滅多にお目にかかれないだろ。タダで見れる同級生という立場に感謝しろ」
「美は衰えますよ」
手を振り払いながら言うと勝ち誇ったような笑みを見せられた。腹立つ。
「見た目だけじゃねえよ。中身も美人だ」
「はあ。なんっつーか、先輩見る影なしって感じですね」
「ますますイケメンになっただろ」
「鏡見てくださいよ。だらしない顔してますよ」
怒られるかと思ったが、木内先輩とくっと笑うとそうかと嬉しそうに言った。
「ゆうきがそう変えたなら悪くねえなあ」
「惚気とかマジ勘弁してほしいんですけど」
「三上、手前を変えられる人と出逢えるってのはそうないもんだぞ」
よ、と言いながら立ち上がった木内先輩を見上げた。
「俺だって根っこの部分は変わっちゃいねえよ。でもな、ゆうきがそうさせてくれねえんだよ」
じゃあな、と手を振る後ろ姿を随分と眺めた。
なにが悲しくて木内先輩の惚気を聞かされたのだろう。
深い溜め息を吐き自分も立ち上がった。泉が部屋で待っている。どんなに遅くなろうとも、主人が帰るのを待つ犬のように扉を気にして、耳と尻尾を垂らしているのだろう。
首に手を当て軽く回しながらどうすっかなと頭の中で考えた。
もう一度息を吐き出しながら扉を開けた瞬間、泉が腹に突進してきた。
「おかえり!三上から誘ってくれるなんて嬉しくてどきどきしながら待ってたよ!」
「鬱陶しい」
べりっと身体を引き剥がし、お茶、と短く言った。すぐにはい、と返事があり冷たいお茶がテーブルに乗る。便利だ。泉はとても便利。
向かいのソファに着いた泉はにこにこしながら視線を外さない。
好きだ、好きだと言う癖にこうやって一定の距離を置こうとする矛盾に苛つく。
「おい」
隣をぽんぽんと叩くと、少しだけ戸惑った様子でおずおずと隣に正座した。なぜ身体をこちらに向けるのだろう。普通に座ればいいのに。
「……さっきの」
あれは誰と聞こうとして言葉を呑み込んだ。
これ以上鬱陶しくなりたくない。泉のすべてを把握しないと気が済まないなんて、そんなの絶対に間違ってる。
木内先輩は変わったことが嬉しいと言うけれど、とてもそんな風には思えない。
寄り掛かり過ぎず、お互いの生活をベースにしながらちょっとした息抜き程度の関係が一番いいと思う。心を傾けすぎると碌なことがない。
「……なんでもない」
きょとんとした顔がむかつく。誰のせいでこんな悩んでいるかわかっているのか。
頬を摘んで思い切り伸ばしてやった。
「いでで、今日も嫌なことあったの?」
お前のせいだ。なにもかも。
歯車がぎしぎし崩れていく気持ち悪さに胸がざわつく。油を差してスムーズに動くようにしたいのだけど、もう二度と元には戻れない気がする。
「……木内先輩に惚気を聞かされた」
誤魔化すと、泉はぷはっと吹き出した。
「楽しそうだね。僕も聞いてみたいな」
「地獄だぞ」
「そうかな。誰の惚気でも聞いてると幸せになれるから」
「幸せ?」
「うん。幸せは伝染するからね」
「へー……」
まったく理解できない。他人の心の内を聞いてなにが楽しいというのだ。自分だけで精一杯なのに。
ソファに仰向けになり肘置きに頭を乗せた。
泉の腕を引くと素っ頓狂な声を出しながら覆い被さり、顔を上げると恥じらうように視線を逸らした。
ああ、この顔だ。全然可愛くないのに他にお裾分けされると腹立つ。
泉の後頭部の髪を掴んで性急に口を塞いだ。
「なに……」
顔を離すと大きく息をしながら泉がくすりと笑った。
「なんだよ」
「いや、随分苛々してるんだなと思って。そんなに先輩にひどいこと言われた?」
見当違いな理由で笑い続ける泉が憎い。
俺しか見てないというわりにこちらの気持ちを察するのが下手だ。
「キスしても余裕になったじゃん」
「うーん。余裕ってことはないけど……」
「じゃあもうその先も大丈夫だよな」
「そんなわけないじゃん!こんなにテンパってるのに!」
「そうは見えねえけど」
「これでも必死にできる男を演じてんだよ!」
今度は自分がくっと笑った。なんだよ、できる男って、と突っ込みながら泉らしい天然に安堵する。
胸に顔を埋めるように抱き指先に力を込めた。
「……もしかして具合悪い?」
「なんで」
「三上が甘えたなの珍しいから」
「甘えてませんー。甘やかしてやってるんですー」
「え、すごいサービス」
言葉通り受け取るなんて相変わらず泉は勉強ができる馬鹿。
「じゃあ折角なのでもう少しこのままでお願いします」
泉は瞳を伏せ、ふんわりと笑いながら言った。
離せと言われても離さないつもりだったが、仕方がないなんてまた泉のせいにした。
自分は泉に甘えている。すべての感情をお前のせいだと押し付けて。泉がそれでいいんだよと笑うから。
自分が変わることよりも、その方が余程情けないことに気付きぼんやりと天井を見上げた。
「……三上、好き」
「あ、そ」
「うん」
心臓の音を聞きながら笑った泉を見て、いつか自分以外の誰かのことをこんな風に強く想うのだろうかと想像した。
泉の気持ちは疑わないし、傾いてるのは彼の方なのに自分の方が負けている気がする。
とんでもない奴を懐に入れてしまったと後悔し、だけど手放せない、矛盾の狭間をゆらゆらと揺れた。
END
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