輪をもって貴しとなす





日直の仕事で職員室に日誌を届け、教室へ戻った。
ふうと一息ついて黒板消しに手を伸ばす。
窓の外は茜色で、教室はおろか、校内に人の気配はない。
グラウンドや体育館の方から活発な声が聞こえ、運動部は今日も一生懸命らしいと知る。
軽く背伸びをして黒板消しを持つ右手を左右に動かした。
不備があると次の日も日直をやらされる破目になる。
中年の担任は東城の中でも特に厳しいと有名らしい。
一年のうちからしっかりと躾ようという魂胆が透けて見える。
幸い、自分は成績も良く、ぱっと目を引くような功績はないが逆に目をつけられる愚行もない。
良くも悪くも目立たない存在だ。教師の中では。
同級生からは物珍しい視線を不躾に送られ、自分の意志とは関係なしに目立つ存在になってしまった。外部生というだけで噂の対象にされるらしい。
しかも外部生に加えて月島楓の弟だってよ。なんてひそひそとされる。
目立ちたくないのに、兄といえばすっかり有名人らしい。
香坂先輩のお気に入り。兄の東城での立ち位置はそこだ。
人前でべたべたと関係を匂わせる行為をしたわけでもあるまいし、何故そんな風に囁かれるのか不思議だ。
香坂先輩が後輩に目をかければすべてお気に入りになるのだろうか。
少年の想像力は逞しい。冗談でお気に入りなんじゃない?と誰かが言った言葉が、あの香坂涼ならありえると、どんどん尾鰭背鰭がついた挙句定着した。
真実なので別に構わないが、それで自分もひそひそと噂されるのは御免だ。
それももう少しの辛抱だ。夏休みが終わればまた別の楽しみを見つけてくれるだろう。

黒板消しを置き、固く絞った雑巾で拭きあげた。これだけやればやり直しもくらわずに済むだろう。
漸くすべてが終わり、ぴかぴかになった深緑の一面を見てふっと溜め息を零す。

「あれー。月島薫じゃね?」

突然聞こえた声に後ろを振り返った。
開け放たれた扉から数人がこちらを指差している。
いかにも今時の若者らしい見た目と、人を指差す時点で程度が知れる。
たまにこうして声を掛けられる。裏でひそひそされるよりはましかもしれないが、対応が面倒なのだ。
三人は親しげに右手をあげ、こちらに近付いてきた。
面倒な日直に面倒な人間の相手。今日は厄日だ。

「月島薫だよな?」

「そうだけど」

黒板に追い詰めるように取り囲まれる。
自分も身長は平均はあるので体格は大差ないが三対一は分が悪い。

「俺初めて見た」

「んー。近くで見るとあんま兄貴に似てないんだな」

こちらをじろじろと観察し、それぞれが好き勝手に感想を述べる。

「お前の兄貴香坂先輩に掘られてるってマジ?」

あまりにも直接的な問いにぎょっと目を丸くした。
確かにそうだが、もう少し言い方というものがあるのではないか。

「…さあ。そういうことは話さないからわからない」

「えー。兄貴の噂気になんねえの?」

「別に興味ないよ」

「兄貴がホモでも?」

「そうだね」

だから、もう少しオブラートに包んだ話し方があるだろう。
自分も人に厳しく言える立場ではないが、さすがに初対面の人間にこんな低俗な質問はしない。
心の中で勘弁してくれと溜め息を吐き、ちらりと扉の方を見ると、丁度同室者の香坂京が廊下を歩いていた。
ばっちりと目が合い、彼は数秒考えるように足を止めたが、見なかったことにしよう、というようにまた歩き出した。
この薄情者。
目の前の下等生物は燃やしてやりたいくらいだが、彼も同じくらい気に入らない。
自分が逆の立場ならやはり同じようにしたが、それは棚に上げて勝手に恨む。

「じゃあお前も男の方が好きなの?」

笑いながら言われ、そんなわけあるかと心の中で反論する。
こういう輩は、派手に反応すると面白がって更に行動がエスカレートする。
無視が一番だがそれも火に油で、結局柔軟に温和に対応するのが一番だ。

「僕は女性が好きだよ」

「とか言って、まさか兄弟で香坂先輩の処理係とかしてんじゃねえの?」

ああ、あれがほしい。ノートに名前を書くと死んでしまうやつ。

「お前の兄貴に頼めば俺も相手してくれる?」

にやにやと嫌な笑みを向けられた。そうしたいならしていいが、返り討ちに遭うだけだぞ。
お前もホモじゃん。香坂先輩にしばかれるぞ。勝手に三人で盛り上がっている。
下種な言葉に特に感想はないが、何故自分がこんな奴らの相手をしなければいけない。
下らない。だから学校は嫌いだ。勉強だけして他の面倒な人間関係すべてを放棄したい。
ぼんやりと早くこの時間が終わらないかと思っていると、ねえ、聞いてる?と顔を覗き込まれた。
何が欲しいのだろう。金だろうか。なら生憎、自分はたくさん持っていない。
私立に入学したけれど、うちは平凡な一般家庭だ。

「なんか言えよ。つまんないな」

「兄貴を馬鹿にするなー、とか、そういうのないの?」

「…そんな歳じゃないから」

「へーえ。随分大人なんだね」

「で、実際はどうなの?あの噂は」

「…直接香坂先輩に聞いてみたらどうかな」

「うえ。そんなことできないからお前に聞いてんじゃん」

調子に乗りたいだけの腰抜け野郎が。ぶっ飛ばしたい。目立たず、平凡に、名前も覚えられないくらいの存在でありたかったが、今すぐ抹消したい。

「じゃあ俺に聞けば?」

扉の方から聞こえた声に虚を突かれ、全員がそちらを向いた。
さきほど立ち去ったはずの香坂が扉に肩を預けるようにして立っていた。
一瞬水を打ったような静けさの後、冗談じゃん、という引きつった声が聞こえた。
三人はまたなと笑いながら彼の横を通り過ぎた。
この同室者もまた、香坂涼の弟として一年では有名人だ。
漸く解放されてほっと溜め息を吐く。もう少しでぶん殴るところだった。

「お前なにしてんの?」

「なにって…。下等生物にからまれてただけ」

「お前ならなんとでもできんだろ。なんでいいようにされてんの」

「面倒なんだよ。後が。どうせすぐ僕に興味なくなるだろうし少しの間我慢した方がいいじゃん」

下手に手を出して三年間目の敵にされるよりずっといい。
虐めるのも嫌だし、逆も御免だ。下らない。

「お前ががつんと言わねえから調子乗んだよ。ああいう奴らは」

「言わせとけばいいよ。こんなことたまにしかないし、今日は運が悪かっただけ」

ブレザーを脱いで背中についたチョークの粉をぱんぱんと払った。
彼はこちらに近付き、深い溜息を吐いた。
顔を覗き込まれ、その近さにぎょっとした。

「なに」

「殴られたりはしてねえんだ」

「されるかよ。そこまでされたら僕も黙ってないし」

間接的に犯人が自分だとわからない程度の嫌がらせを仕掛けてやる。

「だよな。ほいほいやられる玉でもねえよな」

「それより、なんで一回素通りしたんだよ。薄情者」

「戻ってきてやっただけでもありがたく思えよ」

「あのとき声かけてくれれば無駄な時間も短くすんだものを…」

「あ?ありがとうとか言えねえのかよ」

「ありがとうございました」

「うわ、ちょー棒読み。逆にむかつくわ。戻って来なきゃよかった」

そんなことない。少しは感謝の気持ちを込めた。伝わってないらしいが。
僕はどうも謝罪とか、感謝とかが苦手だ。
今まで言われることは多々あれど、逆は滅多になかった。
誰かに頼るような真似はしなかったし、自分一人でなんでもできた。
それに、彼相手だとどうしても心が固くなって意地を張ってしまう。
その他大勢にするように、さらりと嘘の感謝を伝えられない。
性格悪いよなあ。心の中で再確認する。
逆の立場だったら侮辱されようが殴られようが放っておく。いい気味だと思いながら。
だけど彼は来てくれた。散々僕と喧嘩して、いい加減お互い呆れ尽くしているのに。

「じゃあな。また変なのに会う前にさっさと帰れよ。それとも一緒に帰ってあげましょうか?」

見下すようににたにたと笑われる。
くそ。やはり助けてもらわなきゃよかった。一つ貸しができてしまったし、弱味も握られた。

「ふざけんな。誰がお前なんかと」

「あっそ」

くるりと背中を向けられたので、咄嗟に彼のブレザーに手を伸ばした。
売り言葉に買い言葉ばかりで、彼の前では冷静な自分に戻れない。
どうして他の人間と同じ扱いができないのだろう。
何故こんなに嫌いなのだろう。

「なんだよ」

「…た、助かった…」

俯きながらぼそぼそと言った。どうせまた揶揄されるような言葉を掛けられる。
そう思ったが、彼はぽんぽんと僕の肩を二度叩いた。気にするな、そう言うように。
こんなに彼がお人好しだとは知らなかった。

「礼は日曜日の飯でいい」

「コンビニ?」

「そう。それでチャラな」

「君の方が絶対金持ってるのに僕にたかるっておかしくない?」

「じゃあ何だったらいいんだよ」

礼をするとすれば、ご飯をおごるくらいが妥当だが、学生にはたかが千円も貴重なのだ。
他に遣い道もないので構わないけどなんとなく悔しい。
他になにか、と考えて彼のブレザーのポケットに折りたたまれ、先端だけ顔を出しているネクタイに視線をやった。

「じゃあそれ。これから僕がそれ結んであげるよ」

ネクタイを指差して言うと、彼は不思議そうに首を傾げた。
中学の頃は学ランで、ネクタイは結べないと言っていたのを思い出したのだ。

「別に結ばなくてもいいだろ」

「先生にうるさく言われてんじゃん」

「無視すれば別に…」

「君は成績も悪いし見た目もチャラチャラしてるんだからもう少しきちっとしないと――」

「あーあー、わかったようるせえな」

じゃあ早速、とポケットからネクタイを引っ張った。

「これ俺への礼になってんの?逆にいらないこと押し付けられてんじゃねえの?」

シャツの襟を立てると不服そうな声が降ってきた。

「毎日じゃなくても、式のときは結ばなきゃだめだろ。そういうときやってあげるよ」

「あ、そ…。いや、覚えられるよ俺。そこまで馬鹿じゃねえし」

「無理だと思います」

「あ?」

無駄話しをしながらせっせと結ぶが、向かい合ってやるとなかなかうまくできない。
彼の腕を引いて近くの椅子に座らせた。
後ろから羽交い絞めにして、いつも自分で結ぶ手順で手を動かした。

「お前意外と不器用なの?」

「だって人にネクタイ結んでやったことなんてないし、方向が変わると意外と難しいんだよ」

そもそも、自分で結べない人間に言われたくない。

かたん、と背後から音がして、結んでいる途中だったがそちらを振り返った。

「あ…。お、お邪魔しました…?」

「え…」

確か彼はクラスメイトだ。名前は思い出せないが。
同室者と僕を交互に見て、失礼しましたと去って行った。嫌な予感がする。あの位置からだと、僕が彼の首に腕を回して抱きついているようにしか見えない。

「…ふざけんな」

「なんだよ」

「…折角噂も終わるだろうと思ってたのに、明日から別の噂される予感しかしない…」

「なに言ってんのお前」

「お前のせいだ!」

「なんだよ急に!」

「くっそむかつく。なんで僕が…!」

結びかけだったネクタイを放り投げ、彼の背中を思い切り叩いた。

「いった!なんなんだよ!」

「知らん!もう僕に話しかけんな!」

「はあ?」

眉間に皺を寄せている彼には何も言わず、鞄をぎゅっと握った。

「おい!」

背後から声を掛けられたがもう知らん。一緒に仲良く下校などしたらますますひどい事態になる。
やはり彼と関わると碌なことがない。
知っていたはずなのに、善良な自分がたまたま顔を出したせいでこんな破目に。
礼などしない。助けてくれなんて頼んでない。
いつものように突っ撥ねればよかった。
弟二人もできてるらしいよ。
そんな言葉をひそひそ言われる未来にげんなりした。
ふざけるな。僕まで同性愛者にするな。
噂など放っておけばいい。今までずっとそう思ってきたが、あんな奴とできているなんて心外にもほどがあるので、言っている奴を見かけ次第しばこうと決めた。


END

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