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眠りについてから然程時間が経たない頃、壁一枚向こうがうるさくて目を覚ました。

「んだようるせー…」

眠りを邪魔された苛立ちで前髪をくしゃりとする。
タオルケットを首まで引き上げ顔を埋めるようにした。もう一度眠ろうと思ったのだけど、うるさい咳は止まらず、むしろひどくなっているように感じる。
眉を近くしむくりと起き上がった。ぼんやりする頭を左右に振りベッドから降りる。
隣の部屋をノックし静かに開けると柴田がベッドから上半身を起こし苦しそうに胸を抑えていた。

「…おい、大丈夫か」

そちらに近寄り背中を擦る。顔を覗き込むと咳のしすぎて目の縁に涙が溜っていた。
とんとん、と軽く叩いたり、ゆっくりと擦ったり、暫くそうしていると咳の頻度が落ち着いて、こちらを横目で見た柴田が小さく悪いと呟いた。
これは重症だ。こんな弱々しい姿を自分に晒した挙句礼を言うなんて彼らしくない。
不遜な態度で少しは役に立つんだな、くらい言ってもらわないと困る。調子が狂うではないか。

「…なんか飲むの持ってくる」

ふらりとキッチンへ向かい、冷蔵庫の中にあった牛乳を温めて柴田に手渡した。

「蒸気吸った方がいいらしいぞ」

恐る恐るアドバイスすると素直に聞き入れ、肺の辺りを抑えながら飲み込んだ。
余程辛かったのだろう。自分なんかの施しを受けるほど。
そういえば最近また風邪が流行っているから気を付けるようにと浅倉が言っていた。季節の変わり目で気温が安定しないことと、乾燥した空気が原因だろう。
屈強な柴田でもウィルスには勝てないのか。初めて勝った気になって、しょうがないから世話してやるかと上から目線で思う。

「…もう大丈夫だ」

「おう」

カップを奪い、タオルを濡らし、ハンガーにかけて彼の部屋に吊るした。
こんなものでは湿度はあまりあがらないだろうがないよりはましだろう。加湿器でもあればいいが、そんな気の利いたものは持っていない。

「んじゃ、おやすみ」

「ああ」

柴田は苦しそうに眉を寄せたままなので、もしかしたらまた咳が出るかもと思った。
季節の変わり目は必ず弟が風邪をひくので看病のノウハウは心得ている。そういえば薫は大丈夫だろうか。最近顔を見ていないなあと思い、明日になったらラインを入れようと決めた。


あまり寝た気がしないまま朝を迎え、柴田の部屋を覗き込んだ。

「おい、朝だけど学校どうする」

「…あー、休む」

「熱でた?」

「たぶん」

「そうか…」

それならばと薬と水をベッドサイドに置いた。
ついでに毛布も引っ張り出してかけてやる。風邪ひいてんのにタオルケット一枚で寝るなんてこいつは馬鹿だ。

「学校には言っとくから」

「…頼む」

弱々しい声にしっかりしてくれよと思う。
いつも不遜で憎たらしくて喧嘩ばかりしているけれど、そうでなければ背中がそわそわする。しおらしい柴田なんて気持ち悪いし張り合いもない。あまりひどいようなら須藤先輩に助けを求めよう。
昼休み、学食で会った香坂にわけを話し、一度寮へ戻って食べ物を届けると言ったが、彼は自分の首根っこを掴んで誰かに電話し始めた。

「――高杉に言ったから大丈夫だ」

「高杉先輩で大丈夫かよ。あの人看病とかできなさそう」

「おい、高杉を馬鹿にすんな。看病どころか優しい言葉一つかけねえぞあいつは」

「香坂の方がひどいじゃん」

「お前に傍にいられるより高杉の方がいいだろ。多分…」

「世話を焼くのは俺の方がうまいと思うけど」

「随分優しいじゃん。俺にもそれくらい優しくしてほしいもんだ」

「俺はいつも優しいし」

「それはどこの世界線の月島楓?」

「ここ!ここの世界の月島楓!」

ふん、と顔を背けると、彼はテーブルに頬杖をついて笑った。
そんな顔しても騙されないぞと自戒する。自分はつくづくこの男の顔に弱い。仕方がない。男ならこの顔を羨望しない者はいないと思う。
その顔一つで人生イージーモード。生まれた瞬間に勝ちが決まっているようなものだ。
両親のできが違うので仕方がないが、見惚れる分ぐちゃぐちゃにしてやりたくもなる。

「風邪うつんねえように気をつけろよ」

「俺はそんな軟じゃない。健康第一」

胸を張ってみせると、馬鹿は風邪ひかないからなと嫌味を言われる。
むかついたので彼の飲みかけのオレンジジュースをすべてじゅっと吸ってやった。

必要な物は高杉先輩が買っているだろうが、自分も一応喉の通りが良いゼリーやアイスを買って部屋に戻った。
半開きになっている部屋を覗くと高杉先輩がベッドに凭れるようにしてうたた寝している。冷えピタを額に貼られた柴田は彼の首に腕を回して瞳を閉じていた。
起こさぬように退散し、自室に戻ってネクタイを引き抜く。
部屋着に着替え、ベッドにごろんと横になってゲームを起動させた。
そのうち眠気が襲い、目を覚ましたときには窓の外はすっかり暗くなっていた。枕にうつ伏せにしていた身体を起こし、垂れた涎を手の甲で拭く。

「やべ、寝てた」

時間を確認し、早く学食に行かないと、と思うけれど、食欲がわかずだるい身体をもぞもぞ動かす。
この感じ覚えがある。柴田のクソ野郎、風邪うつしやがったなと悪態をついた。
昼間香坂に威張っていたくせに情けない。自分もウィルスには勝てなかったのか。俺の免疫力、頑張れ。
はは、と一人で笑い、ぼんやりと天井を見上げ、誰か助けてくれーと心の中で叫ぶ。
蓮あたりに助けを求めよう。しかし携帯が遠い。起き上がるのも億劫なので、死ぬわけじゃないしいいやと諦めた。
最悪、高杉先輩に二人分看病してもらおう。一人も二人も変わりない。
それよりも高杉先輩に風邪がうつったら大変だ。自分はどうせ授業も寝て過ごすような出来の悪さだが、先輩は毎日きっちり勉強しているだろうし生徒会だってある。
まずいなあと考えていると扉から香坂が顔を出した。

「なんだよ電気点けろよ。いねえと思ったわ」

「…おりますよー」

へろへろとした声しか出ないが一応返事をした。

「…どうした」

「風邪うつった」

「やっぱり。こうなると思ったんだよなあ」

香坂はベッドサイドにしゃがんで額に手を当てた。

「なんか食うか?」

「…今はいい。冷えピタ貼って。あとポカリ。あ、あと、薬と着替えも出して」

「へいへい」

香坂はよっこらしょとおっさんくさい掛け声をかけながら立ち上がりてきぱきと動いた。
温かい布団をかけられぽんぽんと胸の辺りを叩かれる。

「他にご要望はございますかお坊ちゃま」

「あー、それ気分いい。香坂が執事で俺が主人」

いつもと立場が逆だ。優越感で顔がにやけた。
熱のせいで頭の中もぽやぽやし、まともな思考はできず、へろりと意味もなく笑った。

「風邪ひいてる間だけな」

「わかってるよ、俺様香坂様」

「それやめろ」

もう一度笑うと、早く寝た方がいいと前髪を払われた。

「…泊まる?」

「ああ」

「…そっか。よか、った…」

風邪のとき一人きりの部屋は辛い。身体も心も。誰かの温もりがほしくて、世界の終わりかのような心細くて泣きたくなる。
そういえば幼い薫もいつも泣きそうな顔しながら行かないでと甘えたっけ。
自分は滅多に風邪をひかないので、こんな心細さも忘れていた。
こういうとき、素直に甘えられる存在がいるというのはとても貴重なことだと思う。薄らと瞳を開け、熱でじんわり涙が滲む目で彼を見た。

「なんだよ。そんな顔して。ちゃんといるって」

「…うん」

今度こそしっかり瞼を落とし、熱に魘されながら浅い眠りについた。


目を覚ますと香坂は隣にいなかった。
あれ、と室内をぐるりと見て、リビングからの光りに吸い寄せられるようにベッドから降りる。
パーカーを羽織り、扉を開けると高杉先輩と香坂がソファでお茶を飲んでいた。

「…こう、さか」

「なんだ。何か欲しいか」

「えっとー…」

呂律まで回らず、ふらふらと身体を左右に揺らしながら彼の元へ歩く。

「トイレ?」

「ちがう」

やっと辿りつき、ぼすんとソファに倒れるように座った。
かたかたと震える身体は頭も重苦しく、香坂の肩に凭れるようにした。

「月島君も相当辛そうだな」

「熱はそうでもないけど滅多に風邪ひかないから慣れてないんだろ」

「そうだな。柴田も同じようなものだ」

高杉先輩の溜め息が聞こえ、早くよくならなければと思う。

「さすがの香坂も病人相手には甲斐甲斐しいんだな」

「お前の中の俺ってどんだけ最低なの?」

ふっと高杉先輩が笑った気配があった。

「月島君、ベッドで寝た方がいいぞ。香坂は返してやるから」

「…あい」

「辛いだろうが頑張ろうな」

高杉先輩が優しく頬をさすり、冷たい手が心地よくてもっとと摺り寄せた。

「あー、高杉はそうやって誑し込む」

「人聞きが悪い。早く運んでやれ」

「へいへい。楓、行くぞ」

香坂の肩を借りゆっくりベッドまで戻り、再び寝かしつけられる。

「ふらふらすんなよ?しっかり休ませればすぐ治るからな」

こくりと頷く。よしよしと布団の上から身体を擦られ、香坂のこの優しさが常時備わっていたらいいのに。

「…そういう顔すんのやめてくれます?」

「そういう顔?」

「目、うるうるさせて上目遣いとかぐらっとくるじゃん」

香坂は苦笑しながら張り付いた前髪を払った。
おかしなことを言うなあと思う。綺麗な人、可愛らしい人、スタイルがいい人、色んな女性と関係を持ってきた彼が、平凡な男に欲情するなんて。
平均の顔、出来の悪い頭、普通にごつごつと触り心地の悪い身体。どんな女性だって手玉にとれるだろうによりによって選んだのが自分だ。
彼に片想いする女性が知ったら癇癪を起こしそうだ。当然だと思う。自分なら絶対自分を選ばない。
風邪のせいか不安がむくむくと育ち、彼に手を伸ばして片頬を包んだ。

「…ぐらっときてもいいよ」

「さすがの俺も病人に無体は働かねえよ」

ちっと舌打ちするとぎゅっと頬を抓られた。

「煽んなよ」

「…じゃあキスくらいはいいよな」

「俺にうつすつもりか」

「うん」

「…まあ、それでもいいか」

香坂はこちらに身を乗り出しゆっくりと口付けた。
触れるだけで離れそうな気配を察し、彼の首裏に手を回して引き寄せる。舌を突き出して歯列をなぞると一瞬戸惑った後絡めた舌を吸ってくれた。熱のせいか、香坂の口内がとても冷たく感じて気持ちがいい。
ちゅっと音を立てて離れていく口を眺めた。

「…もっと」

「だめ」

「なんで」

「高校生のガキは我慢すんのも大変なんだぞ」

「しなくていいってば」

「お前の身体は今風邪を治すことで精一杯なの。負荷をかけたら治り遅くなるぞ」

頑として譲らない姿は天晴れだと思う。ここで誘いに乗る男の方がクズだ。わかっているけど寂しく思う。

「治ったらな」

額に軽いキスをされ、ぶすっとしながら頷いた。



「香坂ー、腹減った」

布団から目を覗かせて訴えた。

「お前もう治ってない?」

「治ってない。風邪は治りかけが一番大事」

言うと、ちっと舌打ちをしながらアイスを渡される。
あれから二日、香坂と高杉先輩は泊まりがけで看病を続け、柴田も自分も微熱程度までよくなった。

「風呂入りたい」

ゴミを香坂に押し付けながら言う。

「治りかけが大事なんじゃなかったか?」

「汗は流した方がいいんだ」

「へー…」

「お風呂わかして?」

「お前ちょっと調子乗ってきてんな」

「う……頭が痛い…」

ベッドの中で転がると、彼はわかったよと溜め息を吐いた。
いつもいつも自分が世話しているのだからこんなときくらい我儘を言っても釣りがくるくらいだ。
それも今日までかな。さよなら、優しさの塊だった香坂。次に会えるのは何年後だろう。
風邪は辛いが、香坂が優しくしてくれるならもう少し長引いてもいいかな。
不埒なことを考えていると、風呂沸いたから入れと命令され、そそくさと逃げた。
だめだ。香坂の限界が近い。爆発すると倍の俺様を発揮してこちらが苦労する破目になる。長引いてもいいかな、なんてのは撤回だ。そろそろ解放しないときれ散らかす。
ゆっくりと身体を温め、さっぱりした心地寄さで部屋に戻る。
ベッドに座り、胡坐を掻いて漫画を開いていた香坂の背中をとんとんと叩いた。

「なんだ」

「…部屋戻っていいぞ。もう微熱だし」

「…いいよ」

「でも…」

「行ってほしくないって顔に書いてるぞ」

「書いてねえよ!」

げしっと彼の背中を蹴るとうんざりした顔で振り返った。

「熱出てるときのお前はしおらしくて可愛かったなあ!」

「看病してるときの香坂はいい男だったなあ!」

言い返してやると俺はいつでもいい男だとぴしゃりと反論される。言い返せないのが辛い。

「そんなに元気があるならもう大丈夫だよな」

なにがと問う間もなく馬乗りになられ背筋が凍る。

「冗談だろ」

「あんだけ誘っといて?」

「だって隣に柴田と高杉先輩いるし…」

「大丈夫だ。あいつらも同じようなことしてる」

「なわけねえだろ!」

言うと同時、隣からかたん、と何かが落ちるような音がし、びくりと肩を揺らした。

「ほらな?」

「ち、違う!なんか落ちただけ!それに、こんな薄い壁じゃ絶対声聞こえるじゃん」

「構わねえだろ」

「構う!俺が柴田にいじられる!」

「うっせえなあ」

べろりと上着を捲られ、情緒もへったくれもないと彼の頭を叩いた。

「俺めちゃくちゃ我慢した」

「う…じゃあせめて香坂の部屋で…」

「移動すんの面倒くさい」

「こんなのあんまりだー!」

「もっと色気ある声出せよ」

がりっと耳を噛まれ痛みで眉を寄せた。
香坂執事バージョンは終了のお知らせらしい。ずっとああだったらよかったのに。それはきっと彼も思っているだろう。ずっとしおらしかったらいいのに、と。
だけどやっぱりいつものこいつじゃないと違和感があるのも確かで。
反動で俺様に拍車がかかったとしても、むしろほっとする自分は彼に飼い慣らされているのだろう。
溜め息を吐き、じたばたと動かしていた四肢から力を抜いた。

「…後処理は香坂がやれよ。一応まだ微熱あんだからな」

「了解」

首元に顔を寄せる香坂の背中に手を回した。
甘やかしている自覚はある。あるけどこれが惚れた弱味というやつだ。


END

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