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「お腹が痛い気がする」

ジャージのチャックを一番上まで上げながら隣に立つ白石に言った。

「そんな定番の嘘を…」

「嘘じゃない気がする」

「嫌なのはわかるけど頑張ろう?」

五月中旬、初夏の香りがする澄んだ空気の中、校庭に一年が全員並んだ。
今日は一年全員でマラソンをするらしい。伝統なのかなんなのか知らないが、この行事になんの意味があるのだろう。
青白い顔を更に青くしながら先生が読み上げる注意事項を聞き流した。
ルートは把握しているし、カラーコーンや先生たちの誘導に従い走るだけ。ただそれだけなのだけど、運動がしこたま嫌いな自分にとっては地獄で焼かれるに等しい。

「いいよね運動部は。こういうの慣れてるでしょ」

「そんなことないよ。俺も嫌だし。でも頑張らないと先輩うるさいし…」

「うわ、いかにも脳筋」

「まあまあ」

「だいたい、マラソン大会なんて高校生にもなってすることかな」

「噂では理事長が廃止したらどうかって言ったけど体育の先生が異を唱えたらしいよ」

「へえ。脳筋は健やかな精神は運動で培われるとでも信じているのかな?」

「あながち間違いでもないかもよ」

「白石も筋肉党だな」

いくらくだを巻いても仕方のないことだ。
この場から逃げることは不可能。この日休んだとしても後日一人居残りで走らされる。これは体罰に近いのではないか。教育委員会に訴えてやる。
平成も終わるというのにやっていることは昭和初期と変わらない。なんて嘆かわしい。義務教育の敗北。
つらつらと文句を唱え、身体が辛い者は遠慮なく途中で棄権するようにとの声に一縷の望みをかけた。
スタート位置まで移動する途中、友人たちと楽しそうに笑い合う同室者を見つけ、よくさぼらなかったなと感心した。彼らのグループからビリになった奴は焼肉奢り、そんな声が聞こえ、いくらでも奢ってやるから自分の代わりに走ってくれないかと思う。

「かーおるー!」

頭上から兄の声がし、そちらに視線を移すと兄とその友人が教室のベランダからこちらを見下ろしていた。
大きく手を振られたので胸の前で小さく振り返す。

「頑張れよー!ちゃんと走るんだぞー!」

一年の視線が兄に注がれ、次に自分に移る。恥ずかしいからやめてくれ。俯いて白石の背中に逃げるようにした。

「先輩は今日も元気だね」

「どこからあのパワーが生まれるのか…」

白石の背中にしがみ付いたままスタート位置につく。
先に行くであろう彼に頑張れと言い、自分はゆっくり、歩きながら完走しようと決めた。
途中棄権もありなのだし、要は参加すればいいのだろう。面倒だが仕方がない。
先頭付近にいた運動部が走りだし、自分は後方でゆっくり足を踏み出した。
こんな日に限って気温は高いし晴天だし本当に嫌になる。
数メートル走ったあたりで早くもふくらはぎが痛みだす。これは明日ひどい筋肉痛になるだろう。筋が切れているのがわかる。
意味もなく走るより勉強した方が自分のため、延いては日本のためにもなると思うのだけど。
文句は止まらず、この無意味な行事と体育教師への殺意をモチベーションにして走り続けた。
最後方の運動が苦手な部類の生徒が団子になっている輪の中に自分もいるのだが、全員息は上がり苦しそうにし、走るというよりもがいている。
折り返し地点のカラーコーンが見え、まだ半分かよと膝から崩れ落ちたくなった。

「ご苦労さん。ポカリ飲んでけよー」

テントの下に設置された長机から浅倉先生が紙コップを差し出した。

「…まだ、半分ですか」

「だな。まあ、辛かったら歩いたり休憩して適当に頑張りなさい」

液体を一気に飲み干し、へろへろと走る集団の中で自分も幽霊のようになりながら走った。
暑い、苦しい、辛い。
長袖のジャージを脱ぎたかったが持って走るのも邪魔だ。
集団からは徐々に脱落者がでて、一人、また一人と歩き出した。
自分も限界が近く、震え始めた足をどうにかこうにか動かしながら前に進んだが、遂には痙攣を始めたので縁石ブロックに座って息を整えた。
あとどれくらいだろう。もう無理だ。棄権しよう。真面目で優秀な自分が無理だと言うなら教師も仕方がないと思ってくれるだろう。
肩で息をしている間もうなじに強い太陽の光りが注がれじりじりと焼かれていく。

「…おい」

頭上から声が降ってきたのでのろのろと顔を上げた。
なぜここに憎き君がいるのか。声に出したいがもう口を動かすのも辛い。

「影で休んだ方がいいんじゃねえの」

木陰を指さされたがもう一歩も動けないのだから放っておいてほしい。

「あれになるぞ。熱中症だっけ?ただでさえ体力ねえんだし」

「…うる、さい…」

「重症だな。マラソンくらいで」

「っ、そういう、君も、こんなところで休んでるじゃないか」

「ビリは焼肉奢りだから」

「は?」

「金持ってる俺が負けた方がいいだろ」

「嫌味かよ…」

うんざりして俯いた。
金がある奴は心にも余裕があるというが、こいつの場合、これは余裕の中に入るのだろうか。どちらかというと見下してるといった方がしっくりくる。
高校生の懐事情は大変厳しいものがあるので、タネを知らなければ他の連中には喜ばしいことかもしれないけど。

「お前がきたってことは最後尾だな」

「決めつけないでくれないか。もっと後ろにも何人かいたよ」

「何人か、ね」

馬鹿にしたように笑われ、こいつも筋肉党の仲間入りと勝手に決めつけた。

「お前は?まだ休むの」

動きたいのは山々だ。いつまでもここにいたくないし、身体は熱いし、早くゴールして水を飲みたい。でも足がいうことをきかない。

「まあいいや。じゃあ俺行くな」

さっさと行けと手をひらひらさせて追い払った。
あいつが話し掛けるから無駄な体力を削られたではないか。
俯いた額からぽつぽつと汗が零れ、アスファルトに染みをつくっている。
自分の汗が甘くて、固形に変わるものなら蟻の餌になったのになあ。馬鹿なことを考え始めたので脳味噌も沸騰寸前なのだろう。
そういえば視界がぐにゃりと歪んでいる気がする。それともこの道路が水平を保っていないのだろうか。ああ、水はけを良くするために傾斜しているのか。それにしても歪み過ぎではないだろうか。
そこまで考えた瞬間、身体が後方へ引っ張られた。どさりと倒れ、自分でも驚いて天を仰ぐ。
身体が限界に達したらしい。彼が言うようにマラソン程度でこれでは情けない。

「…おい、月島?」

走り出した彼が音でこちらに気付いたのか、ぼんやりしながら名前を呼んだ。
大丈夫、意識はある。ただ少し頭の中が回って気持ち悪いだけ。

「月島!」

慌てた様子でしゃがみ込み、身体を揺すられた。
やめろ。具合悪いのに悪化する。
眉間に皺を寄せ、文句を言おうと思うのに声が出ない。喉もからからで身体中の水分が消えたような感覚。

「おい、大丈夫かよ!」

今度は頬をぺちぺち叩かれた。こいつもしかしてわざとか。心配するふりをして僕を殺そうとしているのかもしれない。

「薫!」

名前を呼ばれ、ぱちっと瞼を開けた。こちらを覗き込んでいた彼は怒ったような、安堵したような、奇妙な顔をしていた。

「…天野先生のとこまで運んでやる」

背中を向けてしゃがみ込まれ、おぶるという意味だろうとわかったが、もう動けない。

「横抱きするか?」

「…死んでも御免だ」

「じゃあ早く」

背中に手を差し込まれて上半身を起こされ、最後の気力を振り絞って彼の背中に凭れた。
本当はこの状態もクソ喰らえだが、今は他にすべはない。あの場で干からびるよりはましだろう。
意地を張る性格だが、さすがに生死に関わるときくらいは誰かに甘えるべきだ。その相手がこいつというのがひどく不愉快ではあるが。
彼は、よ、と掛け声をかけながら立ち上がったので、肩に片頬をつけるようにぐったりとした。
力の入っていない人間の重さはひどいものだ。彼が筋肉党でよかった。たまには筋肉も役に立つらしい。

「先生が車で巡回してるから来たら乗せてもらうぞ」

「…うん」

「クソ暑いのにそんな厚着して走るからこういうことになんだよ馬鹿が」

「…うる、さいな…」

彼は影を選びながらゆっくりと歩いた。
彼の腕や脚が心配になったが震える様子もないし、もしかして自分は平均的な男子高校生の半分以下しか体力も筋力もないのではと今更知る。
運動なんてなんになる。知識を詰め込んだ方が絶対にいいと信じていたが、少し反省した。少しだけ。

「おーい、月島どうした」

やっと巡回中の先生が来て、運転席の窓を開けた。

「わかんねえけどへばった」

「そうか。後部座席に乗せてくれ」

地面に降り、支えられながら後部座席の扉を開けるとすでに二人、シートに凭れて吐きそうな顔をしている生徒がいた。
シートに座ると吐くときはこれにとエチケット袋を渡される。

「香坂も乗ってくか?」

「あー、んじゃ乗ってく」

香坂は助手席に座り、Tシャツの襟部分をばたばたとさせて暑いと呟いた。

「今日は保健室が満室になるなあ」

先生は運転しながら苦笑し、毎年のことだけど、と付け加えた。
学園に戻ると、自分たちが一番最後だったらしく、他の生徒は解散した後なのか、好き勝手に過ごしていた。
後部座席でへばっていた他二人は教室に戻れると言ったが、自分は保健室へ行く方を選んだ。

「じゃあ香坂送ってやってくれ」

「えー…」

香坂は文句を言いつつ律儀に肩を貸してくれたが、校内にに入るとぴたりと足を止めた。

「おい、お前、なんだっけ名前」

「…俺?」

「そう、お前。こいつと仲よかっただろ。後頼むわ」

「わー、月島ダウンしたの?」

「そう。保健室までな」

「了解、任せて」

頭上で繰り広げられる会話で香坂から白石にバトンタッチされたのがわかった。
うっすらと瞳を開けると、香坂は既に背中を向けて去ってしまい、礼を言うタイミングを逃してしまったと知る。
同室なのだからいくらでも機会はあるのだけれど、体力が削られてまともに思考できないときでないと素直な言葉が出ないのだ。
いつも通りに戻ったら、きっとまた憎まれ口を叩いてしまう。

「月島大丈夫?先輩に連絡する?」

「いい…少し寝れば、大丈夫…」

「じゃあ保健室に急ごうな」

歩くたび吐きそうになりながらどうにか保健室まで辿り着いたが、室内はまさに地獄だった。
ソファや椅子の上でぐったりする生徒で溢れ、天野先生も忙しそうだ。

「月島君もダウンしたかー」

「重症みたいなんでベッドに寝かせてやってほしいんですけど…」

「そうさせたいんだけどこの有り様で…とりあえず椅子に座ってもらっていいかな」

「…はい」

顔が真っ青と笑う白石を睨み、もう帰れという意味を込めて胸を押し返した。

「もう大丈夫だから。昼飯食い損ねるよ」

「わかった」

「運んでくれてありがとう」

するりとでた感謝の言葉に違和感があった。どうして白石には言えるのに彼には言えないのだろう。余計な言葉ばかりが口をつく。
天野先生に脇と太腿の付け根を冷やすように言われ、保冷剤を当てながら先程の出来事を反芻した。
急に名前を呼ばれて心底驚いた。もしかしたら初めてかもしれない。
それ以前に名前を憶えていたことが意外だ。おいとか、お前とか、たまに苗字で呼ばれる程度でお互い下の名を口にしたことがなかった。
名前なんてたくさんの人に呼ばれるし、個を判断するだけのものだ。特別に意識したことはないし、どうだっていいとすら思う。
だけど彼の声で、切羽詰まったような響きのそれは僕の心臓を大きく動かした。
気安く呼ぶなと憎まれ口を叩く暇もなかったのが悔しい。
深く息を吐き出して瞳を閉じた。
こんな調子じゃ部屋に戻っても礼の一つも言えないかもしれない。
ごめん、自分でもどうしてかわからないんだ。気持ちがそのまま伝わるようにできていれば、自分と彼の関係もここまで悪化することはなかったかもしれないのに。
馬鹿馬鹿しい。
小さく笑い、なにを感傷的になっているのかと叱責する。体調が悪いときは碌なことを考えないから嫌になる。
回復した生徒が保健室から去り、空いたソファに仰向けになる。
腕を折って目元を隠し、身体より沸騰した頭を冷やしたいと思った。

「せんせー、月島いる?」

扉が開く音と共に同室者の声がし驚いて目を開けた。

「いい感じにへばってんな」

腕をどかされると片方の口端を持ち上げた彼が視界いっぱいに映る。

「…なに」

ぶっきら棒に言うと清涼飲料水のペットボトルを額にごつんと置かれた。

「いったいな」

「ありがたくちょうだいしろよ」

その綺麗な顔に思い切り爪を立てて引き裂いてやりたい。

「香坂君買ってきてくれたの?助かるよ。今丁度買いに行こうと思ってて」

「気がきくだろ?だから今度サボらせて」

「それはだめ」

はは、と笑う彼をまじまじと見た。普通だ。
僕と一緒のときはいつも怒っているし、香坂さんや楓ちゃんといるときもむすっとしていることが多い。
こうしていると歳相応の高校生だし、無駄にむかつくこともない。いつもこうなら僕だって少しは態度を改めるのに。

「飯は」

こちらを振り返ったときには厳しい声色と涼しい視線に戻っていた。
そんなに嫌いなら放っておけばいいのに。なぜか悔しくて下唇を噛み締めた。

「食えるならなんか買ってくるか」

「…いらない」

ああ、そう。無関心な様子でそれだけ言い残すと香坂は背を向け扉に歩き出した。
また一つ貸しができて、また礼を言えなかった。

「月島君、ベッド空いたから寝ていいよ。水分はたくさんとってね。足りなかったら声かけて」

「…はい」

真っ白で清潔なカーテンに仕切られた空間でごろりとベッドに転がる。
可愛くないよなあ。だから自分は嫌われるし、みんな楓ちゃんを好きになるのだ。
楓ちゃんも強がりで素直じゃなくていい加減だが、大事な場面ではきちんとありったけの気持ちを口にする。
対して自分は追い込まれるほど気持ちを奥に隠すので、おりこうで勉強ができる反面、腫物を扱うように遠巻きにされてきた。
こんな自分でも愛想をつかさずいてくれるのは両親と兄だけで、他人はあいつにはなにを言っても無駄と離れていった。
いつか香坂もそうなる。なにを言っても無駄。聞かないし素直に頷かないし接するだけ苛立つから存在を無視しようと。
突っかかったり、喧嘩したり、方法は最悪な形だとしても、僕を見てくれたのに。
ざわりと胸が気持ち悪くなり上半身を起こした。
ベッドから降り、ペットボトルを握って天野先生にもう大丈夫だから戻ると告げる。
本当はまだ調子が悪いけど、香坂のところに行かなきゃ。
そうしないと、そうしないと――そうしないとどうなるんだっけ。ああ、もうなんでもいいや。
足を引き摺りながら香坂の教室へ行き室内を覗いた。
机の上に腰掛けながらクラスメイトと談笑する姿を見つけ、近くにいた生徒に悪いけど呼んでほしいと頼んだ。本当は自分から行くべきだがもう足が限界だ。

「…なんだよ」

香坂は心底面倒そうに頭を掻いた。

「あの……」

開いていた口を閉じた。
自分はなにをしているのだろう。冷静な判断ができないにもほどがある。
香坂なんて目障りで大嫌いで、離れていくならよかったと両手を挙げて喜ぶべきではないか。寂しいとか悲しいとか思えるような仲じゃないのに。
冷静になった途端、吐き気を思い出して口元を抑えた。

「おい!」

しゃがみ込むと大丈夫かとか、どうしたと周りの生徒が集まってくる。

「なにやってんだよお前……悪いけどB組行ってこいつの荷物とってきてくんね?」

「オッケー」

う、う、と嘔吐きながら香坂のシャツを掴んだ。

「……あのさ…」

「いいから黙ってろ」

きっとこんなときにも文句を言うと思っているのだろう。

「…悪かった」

言うと、香坂は目を丸くしてこちらを見て長い溜め息を吐いた。

「荷物とってきたぞー」

「おう、サンキュ」

「こりゃ早退した方良さそうだな。どうせ五限で終わりだし」

「ああ。俺も一緒に帰るわ。適当に言っといて」

「了解っす」

「こいつ俺の背中に乗せてくんね」

「よっし。月島、少し我慢な」

身体を支えられ、熱い背中に乗せられた。
この体勢だと背中に吐くかもしれない。それはさすがに申し訳ないので一人で帰ると言いたかったがもうだめだ。

「んじゃな」

「お大事にー」

多分擦れ違う生徒みんなこちらに注目しているだろう。くすくすと笑われているかもしれない。ぐわんぐわんと頭の中を掻き回されるような気持ち悪いさと戦いながらそんなことを思った。
礼を言いたいだけだったのにまた迷惑をかけて、今度こそ放り投げられるのではないか。
後手後手になるなんてらしくない。
歯を食い縛って吐き気を我慢し、漸く部屋に戻ったときにはいっそ殺してほしいと思うほど気持ちが悪かった。
横になって深呼吸を続けていると額に冷えピタを貼られる。
嘔吐きすぎて涙が溜った瞳でベッド端に座る彼を見上げた。

「…こうさか…」

「いいから寝ろ」

良くない。今しかない。全快したら文句しか言えない自分になる。ぎゅっと腕を掴むと香坂が呆れたように息を吐いた。

「わかったから」

それを聞いた瞬間胸を圧迫されたように苦しくなった。
本当にわかっているのだろうか。わかるわけがない。他人同士で犬猿の仲でまともな会話すら組み立てられない自分たちだ。

「…大丈夫だからうろうろしないで大人しく寝ろ」

瞼を閉じるように手を翳され瞳を閉じた。
馬鹿だな。日頃の恨みを晴らすべくさんざんいじめることができるチャンスなのに。
弱っている相手を蹴り上げるような奴ではないと知っているけど、そういうところが大嫌いだし、心底馬鹿だと思う。
なのに、そういう香坂に安堵するように落ち着いた自分がいた。


END

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