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保健室の布団を鼻まで引き上げた。チャイムが鳴り、光ちゃんがカーテンを引く。
「月島君、授業終わったけどどう?」
「んー、まだちょっと痛い」
「そっか。僕ちょっと席外すけどもう少し寝てていいからね」
「うぃーっす」
本当は痛みはほとんどないけれど、ぬくぬくと温かいベッドから出たくない。
毎日暑くなったり、かと思えば急激に気温が下がったり、安定しない天気が続いているが、今日は雨で空気も冷たく、布団の温かさが恋しい日だ。
光ちゃんと入れ替わるように蓮が鞄を持ってやってきた。心配そうに眉を寄せ、よくなった?と問う顔を見るだけで癒される。
ほわんと心の中心が温かくなったのに、蓮の背後から須藤先輩が顔を出し、ちっと舌打ちしたくなる。
二人の交際はとても良いことだと思うし応援もしている。須藤先輩はいい人だし、蓮を大事に大事に扱うので文句の付けどころもない。ただ娘をとられて無条件でイラっとする感覚に近い。
「お腹痛くなったんだって?」
須藤先輩に覗き込まれ苦笑した。
「食べ過ぎた?」
蓮がベッド端に腰を下ろしながら言う。
「いつもと同じくらい」
「じゃあ悪い物食べた?」
「んー、覚えはないけどなー。風邪気味なんじゃね?」
適当に答えると、須藤先輩が顎に手を当てた。
「…まさか涼のせいじゃないよね?」
「香坂?」
「ほら、あの…」
先輩は珍しく言い淀んだが、なにを指しているのかわからず首を捻った。
「…中で出すとお腹痛くなるんだよ」
察した蓮に言われ、ぽかんと口を開ける。
「…なんで?」
意味がわからない。勉強不足と詰られるかもしれないが、仕組みが理解できずに間抜け面を晒した。
「うーん…」
須藤先輩と蓮は顔を見合わせ困ったように頷き合った。
「まあ、それは後でいいや。帰れるなら帰ろうか。送るよ」
蓮にカイロを貼ってもらい、三人で寮へ戻った。蓮の部屋に招かれたので二つ返事で頷いた。何故か須藤先輩もついてきたけれど。
部屋では蓮の同室者がくつろいでおり、自分たちの姿を確認するとだらけていた姿勢を正した。
「お邪魔します」
右手を挙げると畏まって頭を下げられる。なんて堅苦しい奴なんだ。
「温かいココアでも淹れるね」
「サンキュー」
ソファに着き、テレビを適当に眺めた。須藤先輩は泉とにこやかに談笑している。
カップを渡され、両手を温めながらちびちびとココアを飲んでいると、今度は香坂がやってきた。
「腹痛はおさまったか?」
「まあぼちぼち…ってかなんで来たの」
「拓海に呼び出されたから」
「涼、楓君の隣に座りなさい」
「うわ、嫌な予感がする」
香坂は思い切り顔を顰めながらも言う通りにした。
「楓君のお腹が痛くなったのは涼のせいだと思うから、一度ちゃんと勉強してほしい」
「なに言ってんだこいつ」
須藤先輩を指差しながら言われ、さあ、とこちらも首を捻った。
「二人ともよく聞いてよ」
ごほんと咳払いをし、須藤先輩は簡単に説明を始めた。
男の精液に含まれるプロスタグランジンという成分は平滑筋を収縮させるため、直接吸収するとお腹が痛くなるのだそうだ。女性の生理痛の原因の一つとも言われているらしい。
「精液を飲んだせいでお腹が痛くなったりもするからね。これは男女問わず」
「へー」
気の抜けた返事を香坂がすると、須藤先輩がちゃんと聞けと叱った。
この場で真面目に先輩の言葉に耳を傾けているのは泉だけだ。さきほどから熱心にメモっている。
「楓君の身体を労わり、愛護するのは恋人として最低限のマナー!想像以上に辛いんだから」
「そうなの?」
問われ、偉そうに腕を組んでうんうんと頷いた。
須藤先輩の紳士さの半分でも香坂にあれば、自分も我儘し放題だったのに。だけど人間の相性は凹凸がぴたりとはまるようにはできておらず、がたがたに重なって、その隙間を埋めるために苦労したりする。
「というわけだから涼はもう少し考えるように!」
「あー、はいはい」
須藤先輩のこめかみがぴくりと動き、呆れたように溜め息を吐いた。
「…せいぜい愛想つかされないように気をつけろよ」
「俺が愛想をつかされるなんて、そんなことあると思う?」
これを冗談ではなく本気で言ってるから呆れを通り越して脱力したくなる。須藤先輩も自分も慣れているけれど。
何を言っても無駄と判断したのか、須藤先輩は解散と言った。
香坂はソファから立ち上がりながら俺の腕を引き、それじゃあとみんなに挨拶しながら引き摺った。
「お前の部屋行くの?」
背中に問うと勿論と返事をされる。
「今日はやれないけど」
「お前さあ…」
小さく吐息をつかれ、まあいいやと言われる。なんだよと聞き返すもそれ以上は答えてくれなかった。
香坂の部屋に入るとベッドに誘導され、またやる、やらないの攻防が始まるのだと思ったが、彼は自分だけをベッドに入れ床に座った。
「…なにこの状況」
「だって腹痛いんだろ?」
「うわ、香坂が気遣うとか怖い」
「お前本当に失礼な。ていうか本当に俺が原因?」
「さあ。香坂意外とちゃんとゴムつけるし違うんじゃね?」
「意外じゃねえわ」
「でも須藤先輩の説明からすると昼休みに口でしたとき飲んだのが原因かもな」
「今までも痛くなってた?」
「あんまり気にしたことない。たぶん寒暖差で身体が弱ってたからじゃね?」
香坂はふうん、と呟きながら視線を落とした。彼の長めの髪を指ですくい、ぽんと頭を叩いた。
「なに気にしてんの。らしくねえな」
「いや、そういう仕組みがあるなら今後楓の飲むのは控えようかと思って」
「お前最低な!」
「冗談だよ」
布団越しに腹を擦られ、疑念を含んだ視線を向けた。
「しばらく学校では手出さない」
「当たり前だ!しばらくじゃなくてずっと!」
「でも今日はお前が咥えたいって言うから…」
「あ、あれは!お前が先に変な触り方するからで…」
ごにょごにょと口の中で言い訳するとくすりと笑われた。
「が、学校は勉強するところ!」
「だってお前といると突然むらむらするときあるじゃん?」
「知らねえよ」
「お前日を追うごとに色気が増すから」
「それは香坂の目が腐ってるだけだ」
ぷいっと顔を背けた。
色気なんて微塵もいらないから男らしさがほしい。
男特有の色気なら大歓迎だが、恐らくそういう類のものではないのだろう。
完全に香坂の欲目だが、実際抱かれ続けていつしか女性らしくなったらどうしようという恐怖がある。だから努めて男らしくいようと思うのだが、男らしさってなんだっけ?と哲学的な命題に辿り着いたりする。
だからたまには自分が抱く側へ回りたいのだけど、香坂は頑として首を振らない。
「…たまには立ち位置交換しね?」
「だから嫌だって」
「他で浮気するかもよ?俺も男だし抱きたい」
「いや逆にすげえよな。俺を見て抱きたいと思えるのが」
「好きな奴なら抱きたいだろ」
「そうかそうか、楓はそんなに俺が好きか」
「話し逸らすな!」
「逸らしてない。可愛いなあと思っただけ」
反論したいが何度も同じ応酬を交わし、可愛いと言われてもスルーするようになった。
可愛くなんてなりたくない。格好いい方がいい。しかし言っても無駄なので諦めた。
「でも泣きながら喘いでるときが一番可愛い」
「デリカシーってものを学べよ!」
羞恥が爆発し、香坂に背中を向け布団で顔を隠した。
好きであんな状態になるわけじゃない。わけがわからなくなって何かが弾けて正気に戻って後悔する。それの繰り返し。できれば香坂の記憶からも抹消してほしいが、事細かに覚えているから性質が悪い。その記憶力を勉強に活かせないものか。
ぎしっとベッドが軋み、背後からすっぽりと包まれた。髪に鼻先を押し込んですんすんと匂いを嗅がれる。
「変態」
ぼそっと呟くとかぷりと耳の先を噛まれた。
「やめろ」
身じろぐときつく身体を抱き締められる。
「なにもしないから」
今してんじゃんという言葉は呑み込んだ。
たまにこうして甘えてくるのが可愛らしくて、自分にはないはずの母性本能のようなものが擽られる。
ああ、自分も香坂のことを可愛いと感じてしまう。
女々しいとか、男らしいとか、そういう次元のはなしではなく、惚れた欲目で溢れた愛おしさを可愛いという言葉に置き換えているだけなのだと知る。
「お腹痛いの治ったらする?」
したい、と言わないのが卑怯だと思うが、これが精一杯だ。
「当然」
不遜な態度にご褒美撤回を言い渡したかったが、こんな自分の身体で切なく眉を寄せる香坂が一番可愛い。結局似た者同士と気付いて小さく笑った。
END
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