1
泉真琴は人好きのする人間だ。
気弱な面はいじめられたり、からかいの格好の餌食になるだろうし、地味で存在感が希薄なためあえて深く付き合いたいと思えるものもないが、一度向き合えば心根の優しさ、芯の強さ、怯むほどの前向きさを知り、一転して好印象に変わる。
噛めば噛むほど味がでるスルメのようなもので、知る程嫌いになるどころか好意を抱く者が多い。自分の周り限定で。
自分もストーカーやいきすぎた好意を寄せられなければ普通にいい奴程度に思えただろう。
腕を枕代わりに机に突っ伏して眠っていた。数分前まで。
瞳をちらっと開け、隣の席で文庫本を開く泉を眺めた。何故ここにいる。お前のクラスじゃないだろう。
ホームルームもいつの間にか終わっており、帰り支度をするクラスメイトで室内は賑やかだった。
どんなに騒がしくとも自分の周りはいつもぽかんと空白だ。
ほとんどの生徒に避けられているのでわざわざからんでくるのは一握りで、その中で一番厄介なのが泉だ。
起きて寮に戻りたいが今起きたら泉に捕まるだろう。部屋に行きたいが始まって、しつこさに苛立つのは目に見えている。
トイレとか行ってくれないだろうか。そうしたらその隙に逃げられるのに。
本を持参したということは何時間でも待つという意思表示だ。
こいつの強情さと粘り強さだけは誉めてやるが、自分に対してはもっとあっさりしてくれたらとも思う。
「真琴、起こした方早えんじゃねえのか」
皇矢の声が頭上から降ってきた。お前もいたのかとげんなりする。
「寝起きの三上、機嫌最悪なのにわざわざ起こしたらもっと不機嫌になるよ」
「じゃあ俺が起こしてやろうか」
「いいよ。約束してたわけじゃないし……」
「まーたそんな健気なこと言う。約束してようがしてなかろうがもっと我儘になっても罰は当たんねえぞ」
「はは、うん、そうだね」
気恥ずかしそうにはにかむ泉の頭に皇矢の手が伸びた。ぽんぽんと励ますように撫でられ、皇矢が苦笑する気配がした。
「こいつとつきあえんのはお前だけだよ」
「そんなことないよ」
皇矢はそのいじらしさの半分でも高杉先輩にあったら可愛らしいのにと最後に文句を言いながら去って行った。
可愛くないから可愛いといつか言っていたくせに。隣の芝生は青く見えるのかもしれないが、二十四時間言葉でも空気でも好きだと言われ続ける苦労もわかってほしい。
悪意を向けられた方がまだましだ。応えきれない好意はどう処理したらいいのかわからないし、適当に放っておくしか方法を知らない。
「泉ー」
今度は秀吉の声が響いた。
「あんな、楓が洋服もらってくれる奴おらんかって。お前楓と背近いしどう?」
「いいの?」
「ええのええの」
「月島君から洋服もらったら僕がおしゃれになってしまう……!」
「はは、そりゃええことや。適当に楓の部屋行ってな。柴田と同室やから」
「うん。ありがとう」
「ほな」
会話が済むと甲斐田も泉の頭をぽんと撫でてから去った。
皆無意識なのだと思う。猫や犬を撫でる感覚と同じようなもので、特に意味はなく、習慣のように手が出る。
泉はパーソナルスペースがはっきりしているタイプではないし、誰かとの会話も軽いスキンシップも大いに喜んでいるので構わないけれど。
いい加減、狸寝入りはやめよう。頬を腕に懐かせたまま泉を眺めた。
彼は開いた本を熱心に目で追っており、こちらの視線に気付く気配はない。
教室にはいつの間にか自分たちだけで、遠くから響く部活動の掛け声と柔らかな風と海の底のように静かな空気。
もう少しだけこのままでもいいかもしれない。柄にもなくそんなことを考えていたからだろうか、泉越しに廊下を通過する有馬先輩を見つけ反射的に瞼を落とした。
起きてると悟られたら面倒なことになる。ああ、どうしてもう少し早くこの場を去らなかったのだろう。有馬先輩と鉢合わせするほどの悪事は働いていないのに。なんて不運な日だ。
「泉くん」
スルーしてくれますように。願いも空しく有馬先輩が室内に入ってきた。
他人と上手に付き合えないこの先輩は、後輩を目に掛けることもなかったはずなのだ。
自分や皇矢は小間使いや退屈凌ぎに揶揄されるだけで可愛がられた覚えは一度だってない。なのに泉はあの有馬先輩すら懐柔した。
可愛がり方に難有りなので、泉は苦手だと言うけれど。
「潤の居場所知りません?」
「僕がここに来たときにはもういませんでしたよ」
「あの子は本当に……」
「電話も繋がらないんですか?」
「はい。どこで油を売ってることやら。約束の一つも覚えていられないなんて困ったものです」
先輩はわざとらしい溜め息を吐き、泉は苦笑した。
「……三上が起きるのを待っているのですか?」
「はい」
ぎくりと肩を揺らした。自分のことは無視してくれていいからさっさとどこかへ行ってほしい。
「へえー……」
目を開けずとも有馬先輩の視線が首辺りに刺さっているのがわかる。ばれませんように。
「では退屈凌ぎに話し相手にでもなりましょう」
「い、いいですよ。有馬先輩忙しいし……」
「潤が約束すっぽかしたので大丈夫です」
椅子を引く音がし、先輩は泉の前の席に腰を下ろした。有馬先輩がいる限り目を開けられない。こんなことなら泉に騒がれても帰るべきだった。
「この前のこと、考えてくださいました?」
「あ、はい……」
彼らの間にすっと重苦しい空気が流れた。
「……やっぱり僕には無理だと思います」
「そんなことありませんよ。私に任せてくれれば」
「でも──」
「泉くん、あなたしかいないんです」
ちょっと待て。なんだこの会話。
「あ、有馬先輩にそう言ってもらえるのは嬉しいです。だけど僕には……」
「こんなにお願いしているのに?」
衣擦れの音がし、泉が息を呑んだのがわかった。
瞬時に目を開け泉の肩の上に置かれた有馬先輩の腕を掴む。
「……おはようございます三上」
呑気に挨拶をされたが無視を決めた。
「帰るぞ」
「え、あ、うん」
泉は有馬先輩に深々と頭を下げ、足早に歩くこちらに駆けた。
「もしかして起こした?ごめんね。あの……有馬先輩との話し聞いてた?」
窺うように問われ小さく舌打ちをする。聞かれちゃ困るような内容なのか。
返事はせず、いつもより大股になりながら歩いた。せっせと背中を追いかける彼は不機嫌の理由を探していることだろう。
前だけを見て歩いていたが、背後からシャツを引かれ寮のエントランスをくぐる一歩手前でようやく立ち止まった。
「……待ってたから怒った?」
「怒ってねえよ」
「そっか」
ごめん、と苦笑しながら俯きがちに言われ、口を開いたが言葉が出てこない。
泉の手を振り払うようにして寮に入り部屋にこもった。
制服のままベッドに横臥し息を吐く。
自分は感情を言葉にするのがとても苦手だ。そのせいでいらぬ誤解を受けたり陰口を叩かれることも多い。
自分の態度や言葉をどう解釈するかはその人の自由だし、他人の感情にまで責任を負う必要はないと思っている。
だけど泉に関してはそれでいいのだろうかと迷うときがある。一瞬の迷いに戸惑い、なにもできなくなる。
ただの同室者の関係なら泣こうが喚こうが知らんと思えたのに。
「面倒くさ」
もうやめたい。恋愛なんて碌な物じゃない。自分と対極にありすぎて向いてない。
誰かがいるだけで世界が輝くことはないし、会えない時間の寂しさも抱き締めるときの愛おしさも知らなくていいし知りたくもない。
欠陥人間と蔑まれようが己の人生に不必要としか思えないのだから仕方がない。
誰かが自分の中に深く関わるほど、矛盾したり、感情に振り回されたり、それを受け入れながら過ごさなければいけない。自分の感情だけで片付けてきた今までとは違うのだ。
じゃあ今からやめますと割り切れないから厄介だ。機械のようにスイッチがあったらいいのに。
「あーあ……」
本当はわかってる。こうして考えている自分が一番面倒くさい。
言葉にするだけ泉の方がましだ。言ってくれなきゃわからないと散々叱った自分がこんな状態なんて笑える。
自嘲気味に鼻で嗤い、上半身を起こした。
ベッド端に座り直し、膝に肘をつけ頭を抱えるようにした。
すべてを言葉にするのは無理だけど、気に病むことはないとだけ告げよう。
他の感情は端に寄せ、知らぬふりで蓋をする。すべてを咀嚼するのは無理だし、後からやるボックスに入れて時間をかけて呑み込むしかない。
なんで自分が泉なんかのためにとか、言い訳するなんて見苦しいとか、そういう気持ちより無駄に悲しませるのはやめようと思う方が勝ってしまう。ああ気持ち悪い。
自分に唾を吐きながら泉の部屋へ行くため腰を上げた。
がしがしと頭を掻きながら廊下に続く扉を開けるとぽつんと泉が立っていた。
「っ、びっくりした」
それはこっちのセリフだと心中で反論する。
どうした、なんの用だと聞かずともわかる。意味不明な自分の態度におろおろした挙句、居ても立ってもいられずここに来たのだろう。しかしますます機嫌を悪くすることを危惧しノックはできなかった。おおよそそんなところだと思う。
そんなことをさせる自分が悪い。余計に気を遣わせて、泉には穏やかに心休まる暇もない。
不甲斐ないと思うが、自分はこういう性格なのだと突っ撥ねたくもなる。
「……入れ」
お互い無言で向き合っているわけにもいかずに招き入れた。
秀吉が帰って来るかもしれないので個人部屋へ入れ、再びベッドに腰掛ける。
泉は無意味に両手の先をいじりながら何処かへ行くなら後でもいいと言った。
「お前のとこに行こうと思ってた」
「僕のところ?」
「とりあえず謝ろうと思って」
「あや、謝る?三上が?」
そんなに驚かずともいいだろう。謝罪もできない人間ではないぞ。
「……お前のせいじゃないから」
ぼそりと言うと泉は勢いよく顔を上げ、暫くこちらを眺めた後深く息を吐き出した。
「そっか……」
心底安堵したように言われ、泉がびくびくおどおどする癖が直らない責任の一端は自分にもあると思った。
威圧するような態度ばかりで、優しく包み込むことができないから。
相性が最悪だと思う。たぶん泉もわかっている。それでも惹かれ合うから齟齬が生まれる。
「じゃ、じゃあ、まだ僕のこと好き?」
まだ、という言葉に引っかかりを感じたがスルーした。
それよりもこんな恥ずかしいことをさらりと言えるこいつはすごいと変に感心する。
「かもな」
「かも……」
「それより」
追及を避けるために泉の顎を掴んで顔を上げさせた。
「クソ眼鏡とのあの会話はなんだ」
「や、やっぱり聞いてた?」
掴んでいた手に力を入れて早く答えろと言う。
「いでで!せ、生徒会に入らないかって」
「……生徒会?」
「う、うん。でも僕はそういうの向いてないし三上との時間が削られるの嫌だから断ってるんだけど……」
ぱっと手を放すと、泉は握られていた部分を労わるようにさすった。
有馬先輩のことだからとんでもない誘いを仕掛けているのだと思った。
あの人が真面目に自らが去ったあとの学園を心配するなど誰が想像できようか。
奥歯をきつく噛み締めた。だから有馬先輩は嫌いなのだ。含みを持たせる言い方もさることながら、普段の行いが悪すぎるせいですべてを疑ってしまう。
脱力しながら前髪をかき上げた。
「大丈夫、断るからね」
「やりたきゃやれよ」
「でも三上といたいし」
「今はほぼ有馬先輩と高杉先輩で回してるから大変なだけでちゃんと人数揃えば大丈夫だ」
泉の肩をぽんと叩いた。
生徒会に入ってくれたら万々歳。しつこく付きまとわれることも少なくなる。
「うーん、でも僕勉強と両立できないと思う……」
「できる。お前ならできる」
「やけに勧めるね。まあ、理由はわかるけど。わかってしまうことが悲しいけど」
泉はくっと顔を逸らして眉を寄せた。
「まあ、他にも声掛けてる人いるみたいだし、きっと僕より優秀な人がやってくれると信じよう」
泉が有馬先輩のごり押しに負けてくれたらいいのに。
いつもは有馬くたばれくらいに思っているが、今回だけは応援しよう。
「それより、さっきの返事は?」
「返事?」
「ぼ、僕のこと……」
「もじもじすんな気持ち悪い」
「言い方がきつい」
ふん、と顔を背けると泉はまだ片手で足りるくらいしか好きと言ってもらったことがないと吠え始めた。
一々カウントしていることに引いたし、片手で足りるほど言ってるなら十分だと開き直った。
何度も確認したくなるほど態度が悪いというのは承知だが、そういうのは言葉にするほど安っぽくなるというのは古い考えなのだろうか。
「じゃあ言わなくていいからぎゅってしてよ。ぎゅって」
さあどうぞと両手を広げられ、泉に羞恥心は備わってないのだろうかと思う。
準備万端にされ抱きしめるなんて自分には無理だ。
代わりに泉の髪に両手を差し込んでわしゃわしゃと撫でてやった。
手を放すと斬新な髪型の出来上がりで、泉は文句を言いながら整える。
途中、へらりと笑い出したので気でもふれたかとぎょっとした。
「僕、今日色んな人に頭撫でられたけど、やっぱり三上にされるのが一番嬉しいや」
僅かに目を見開いた。
嬉しい、楽しい、幸せ、ポジティブな感情は素直に言葉にする。泉の最大の長所はそこだと思うし、その言葉に安堵した自分は狭量な男だと知った。
END
[ 63/81 ]
[*prev] [next#]