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香坂家の門扉前で家を見上げた。
一緒に実家へ帰ろうと誘われたのは昨晩のことだった。
唐突な提案に疑問を呈すと、海外単身赴任中の父親が帰国する前に僕を連れて遊びに来たら?と母親から言われたらしい。
香坂が僕に予定を問うのを忘れた結果前日の夜に急遽決定したわけだ。
勿論計画性のなさとか、忘れっぽいところとか、ネチネチ説教をかました。
友人らしい友人もいない僕だから急な予定にも対処できるが、楓ちゃんのように社交的な人間ではこうはいかない。

「……君の家に来るたび思うんだけど……すごく大きいよね」

「あ、それベッドで聞きたいセリフ」

「君の頭は思春期の中学生なの?」

呆れながらロック解除する香坂を横目で見る。
玄関脇のインターフォンを押しながら鍵を開けると、すぐさま綾さんが出迎えてくれた。

「いらっしゃーい」

「お邪魔します」

控えめにほほ笑みながら小さく頭を下げた。
どうして綾さんが僕を指名したのかはわからない。同室だったよしみとか、楓ちゃんの弟という付加価値とかそういったものだろうか。はたまた僕の恋心を知りちょっとしたフォローのつもり?
香坂と気兼ねなく付き合っている友人は他にたくさんいるのに。
友人をすっ飛ばしていきなり恋人になったせいで"香坂京の友人"を上手に演じる自信がない。
それでも無駄な発言を控え、愛想良く振る舞えばその場しのぎは簡単だと高を括った。
最大の秘密である香坂への好意を知られているわけだし、両想いで絶賛お付き合い中という事実さえ隠せればそれでいい。
改めて考えると母親である綾さんに恋心を吐露なんて、ぶっ飛んだ作戦をよく決行したものだ。
失うものはないし、二度と顔を合わせなければいいだけとふんだのだが。
お茶と菓子を用意すると綾さんはにこにこしながらこちらに身体ごと向き合った。

「あー、つっかれた。実家帰るだけで小旅行だよな」

「あら、楽しそう」

二人の声のトーンや会話のテンポは親子というより姉弟や友人のようだ。
我が家の親子事情とはまったく違うので慣れない。
うちは母を頂点に完璧なピラミッドで成り立つ階級社会だ。誰も母には逆らえず、彼女の言うことは絶対。理不尽や価値観を押し付けたりはしないが、強硬な態度のせいで楓ちゃんとは口論になることも多い。
対して綾さんはとても柔軟だと思う。
受け入れられるものは受け入れ、そうでないものは受け流す。
真正面から批判をしたり、断罪したり、自分の正しさを振りかざさない。
そういう人もいるのね〜と軽い調子で見ぬふりもできる。
彼女をよく知らない自分ですら予想できるほど、言葉の節々から柔らかさを感じる。
そうでなければ僕が香坂を好きだと言った段階で息子には近付くなとか、二度と顔を見せるなとか言ってもおかしくない。間違っても恋バナしよう、なんて言葉は出ないはず。

「今日は何頼む?それともどこか食べに行こっか?」

「もう外出たくないから出前でいいよ」

香坂はソファに深く背中を預け、スマホアプリで料理を選びはじめた。
もう少し香坂が早く起きてくれれば外が明るいうちに来れたのに。
寝ても寝ても眠いと悪びれもせず堂々と言うものだから成長期だしな、なんて納得してしまった。
どうせ昨晩遅くまでゲームをしていたせいだろうけど。

「薫くんにも選ばせてあげてよー?」

「あー、大丈夫大丈夫。こいつ楓さんの飯以外なんでもいい人間だから」

「なんでもいいけどなんでもよくない」

「また面倒くさいこと言い出す」

スマホを見せろと催促するとそっぽを向かれた。
背中からスマホに向かって手を伸ばすと、ひょいひょいとかわされる。

「仔犬がじゃれてるみたいで微笑ましい」

綾さんにくすりと笑われ慌てて元の場所に戻ると、服を引っ張られ内緒話しをするように顔を寄せられた。

「京には好きなだけ我儘を言ったほうがいいわ。あの子、そういうのが好きなのよ」

「わ、わあ……。有益な情報ありがとうございます……」

罪悪感から笑顔が引きつる。
既におたくの息子さんにめちゃくちゃ我儘放題してますとは口が裂けても言えない。
我儘を押し通したせいで付き合えたし、彼の気持ちを強引に引き寄せられた。

「ピザだな」

選び終えた香坂が言い、すぐさま嫌だと反論した。

「じゃあとんかつ」

「嫌」

「……焼肉」

「やだ」

「じゃあなんならいいんだよ!」

「そうそう薫くんその調子」

事情を知っている綾さんは愉快そうに笑い、香坂は苛立ちから眉根を寄せた。

「麺がいい。パスタとか」

「最初から言えよ」

「君が選ばせてくれなかったんだ」

「はいはい、全部俺が悪いです」

不貞腐れながら再度選び直す彼を見ながら二人でこっそり笑った。
僕は母親では知りえない香坂を知っているが、根本的な性格や、性質は綾さんのほうが熟知している。彼の上手な取り扱い方法も。
僕への嫌悪感がないのなら、綾さんから上手く情報を引き出し今後の相談に乗ってもらうのも手かもしれない。香坂は絶対に嫌だというだろうけど。
使えるものはなんだって使う。最大限の努力で関係を守ればいつかくるかもしれない別れを遅らせることができるはずだから。


夕食を終えると、綾さんは急かすように香坂を風呂へ追いやった。
新しいバスソルトを買ったから動画配信サイトでも見ながらゆっくり、ゆーっくり入りなさいと言い添えて。
キッチンで支度を終えた綾さんは、前回と同じように温かい紅茶とお菓子をずらりと並べ、前のめりになって微笑んだ。

「最近京とはどう?」

「えっとー……」

つきあってます、なんて勝手に言えないし、息子として親には隠したい気持ちもあるだろう。曖昧に濁すしか術がない。

「……僕は男だし色々難しいですよね」

「あら、そうかしら。薫くんはとても魅力的よ。自信もって」

ファイト、とでもいうかのようにぐっと拳を作られた。

「それに、偏見や固定観念で線引きするような子に育てた覚えはないから平気よ。もしも京がひどいこと言ったら私がこっぴどく叱ってやるわ」

「それは心強いです」

「でしょ?母親は味方にしたほうが何かと得なのよ」

「経験談ですか?」

「そうなのー」

うふふ、と笑う姿は女狐そのものだ。
綾さんも嫁姑問題とかあったのだろうか。他人様のデリケートな部分に土足で踏み込むつもりはないが、人生経験豊富そうだし様々な困難を乗り越えたのだろうと予想はできる。歴戦の勇者のようだ。

「困ってることがあるなら何でも聞いて」

「じゃあお言葉に甘えて。以前香坂にも言われたことがあるんです。我儘な子が好きって。でも僕的には納得できないです。我儘なんて面倒くさいしうんざりするから。だからいつも我儘言う前に大丈夫か不安になります」

「そうねえ。京は自分が相手に何を与えられるかわからないのね。だからどんな無理難題でも我儘を聞いてるほうが不安が薄れるんだと思う」

「そんなに気負わなくても香坂なら相手を幸せにできるのに」

「苦い経験のせいかな?涼と自分を比べて何かが足りないと思い込んでるのかも」

「そんなことないのに……」

なんだか悔しい。香坂にそんな恐怖心を植え付けた彼女たちに腹が立つ。
悪意があってそうしたわけじゃないだろうし、心変わりは誰にも責められない。だけど理屈で片付かない部分がもやもやする。
香坂は今のままで充分だ。
だらしないし、寝坊するし、口も悪いし喧嘩っ早いけど、それでも今のままでいい。何一つ変わらなくていいし、そのままの香坂京が僕は好きだ。

「京も頭ではわかっていると思う。でも理性でどうこうできない部分で同じことを何度も考えて、癖になった思考からは簡単には抜け出せないのね」

コンプレックスや兄弟との比較、痛いほどよくわかる。
しかも香坂は最愛の人を奪われる痛みを何度も繰り返した。香坂さんは何も悪くない。行き場のない怒りや恨みを自分の内に溜め込んで、原因を自分に仕向けることで納得させてきたのだろう。
なら僕が香坂に思い知らせてやろう。君は欠けてないし、香坂さんに劣る部分などないと。もし香坂が傷つき続けているのなら何度でも絆創膏を貼るのが自分の役目なのではないか。
甘えるだけじゃ関係を保てない。僕も彼に何かを与える存在にならなければ。

「……僕は香坂さんに心変わりした人の気持ちが全然理解できません。香坂さんはいい先輩だし、頼り甲斐もあるけど香坂みたいな人を裏切るなんてもったいないです」

「そっか。薫くんは京を買ってくれてるんだね。誰かにとっては涼のほうが魅力的で、誰かにとっては京のほうがよく映る。涼に心変わりしたってそれはしょうがないことだし、彼女たちを恨んでもない。だけどそんな風に言ってくれる子が京の近くにいてくれてよかったな」

綾さんはアーモンドを口に放り込みながらはにかむように笑った。
ぼんやりとその表情を眺める。どうして綾さんはこんな風に言えるのだろう。勿論彼女が柔軟な思考の持ち主というのもあるし、ジャンダーに関わる仕事柄、こういう話題も珍しくないのかもしれない。
だけどそれと親心は別だと思う。
他人ならどんな風に生きようが、どんな思想だろうが関係ない。でも息子となれば話しは別。生まれた瞬間から自分が死ぬまで守るべき存在で、脇道に逸れぬよう正すのが親の役目だと思う。
綾さんの言葉も偽善、なのだろうか。

「……あの、どうして僕によくしてくれるんですか?前話したときも息子に近付くなって言われる覚悟でした」

「あ、私疑われてる?」

「疑うというか、わからないことははっきりと理由を聞きたいんです」

「うーん……。じゃあ涼や京には内緒にしてほしいんだけど……」

綾さんは手にしていたソーサーにカップを置くと、少し苦い顔をした。

「私とパパは歳がはなれてるし、私の格好や髪型も派手なほうだったから結婚するとき周りから色々言われたの。そういうとき二十歳そこそこの小娘は縮こまるか感情任せに怒るくらいしか方法がわからなかったけど、お義母さんが盾になって理性的に親戚連中に言い返してくれたの」

「優しい人なんですね」

「ううん、逆。すごく厳しい。けど無意味に意地悪したり下世話な噂話しを良しとする人じゃなかった。息子が愛した人を信じて歓迎するのが手元を離れる子どもに最後にできることって言われたの。だから私も将来子どもが生まれたら絶対そうしようって決めてた」

綾さんは恥ずかしい話しだから内緒よ?と念を押した。

「息子たちが選んだ人なら誰であろうと私は大歓迎よ。できればお互い同じだけ愛し合って、大事にして、仲良くしてくれるともっと嬉しい」

納得したと同時、綾さんなら楓ちゃんと香坂さんの関係を問題視しないだろうと安堵した。
楓ちゃんが傷つく心配はなさそうで、それだけでも自ら火中に入った甲斐があったというもの。
僕と香坂はまだしも、兄たちは気持ちが変わらぬ限りこの先も共にいる道を選ぶだろう。
万が一実親に認められなかったとしても綾さんだけでも受け入れてくれたら、兄たちにとって心強い存在になるはず。
まずは障害の一つを突破した気持ちになってふっと息を吐き出した。

「楓ちゃんにも聞かせてあげたかったな……」

ぽつりと言ってから慌てて口を噤んだ。
ちらっと綾さんに目をやると、破顔したままティーカップを口元に寄せた。

「涼は京と違って秘密主義というか、自分のテリトリーは親であっても許さないというか……。でも何も知らないふりをしたほうが涼と楓くんの気が楽ならそれでいいの。どっちにしろ私の態度は変わらないし」

ああ、楓ちゃん、君たちの関係絶対バレてるよこれ。
ご愁傷様です、と心の中で拝み手をした。

「京は私に似て単純だからそういう計算しないでなんでも言っちゃうんだけどね」

「それは僕には長所に思えます。裏側を疑わなくていい人間って一緒にいると安心できます」

「あ、それ私もパパに言われたことあるー。じゃあ薫くんにとって京がそういう存在なんだね」

「……そう、ですね……」

「赤くなってる!かわいー!」

指摘されるとますます耳がじんじん痛む。
綾さんの前でツンと澄まして虚勢を張っても無意味とわかっているからこそ、こういうときどういう表情をしたらいいのかわからない。
大人ぶるのに慣れすぎて子どもらしい振る舞いを忘れてしまった。

「京の気持ちわかるわあ。薫くんも楓くんも違ったかわいさがあるなあ」

「か、かわいいはちょっと……」

「私にとっては息子も薫くんも楓くんも全員かわいいよ」

そりゃあそうだよな。
一定の年齢以下の子どもは見た目や性格に関わらず全員かわいいのカテゴリーに分類される。
綾さんにかかれば有馬先輩や三上先輩ですらかわいいお子ちゃまだ。
赤くなった頬を手の甲でごしごし擦ると、風呂から上がった香坂が扉からひょっこり顔を出した。

「あ、ねえ、京ー。薫くんすごくかわいい。京の気持ちわかった」

「だろー」

香坂の返答にぎょっと目を丸くした。
あえて乗っかって流したのだろうか。変に否定したり強く言い返したほうが怪しまれるとか?高度なコミュニケーション術はよくわからない。

「涼がね、京は見る目ないって散々ぼやいてたけどそんなことなかったのね」

「綾に似てな」

「あら、それならこの先も安心だわ。私は出会った頃から今でもパパが一番かわいいもの」

「あんなおっさんがかわいいの?」

「そうよ。とってもかわいい」

「じゃあ俺も月島がおっさんになってもかわいいーとか言うの?」

「そうよー。歳を重ねるほどかわいいんだから」

「ちょ、ちょっと待って!」

香坂の口を咄嗟に塞いだ。
これでは綾さんに色々勘づかれてしまうじゃないか。
別に警戒する必要はないけれど、せめて交際中という事実は伏せたほうがいいのでは。

「じょ、冗談も度が過ぎると変な誤解を生むと思うんだ」

な?と香坂に圧をかけたが、彼はきょとんと首を捻った。
おまけに口を塞いでいる掌をべろっと舐めやがった。

「っ、ぎゃ!」

「冗談を言ったつもりはねえけど」

「あ、綾さんが誤解するといけないから!」

「……ああ、綾知ってるから大丈夫」

「知ってる、とは……」

「俺らがつきあってること?」

ぽかんと口を開け、盛大に間抜けな顔を晒した。
その顔のまま綾さんを振り返ると、にっこり微笑みながら頷かれた。

「あ、わ、ぼ、僕はデリケートな問題だから知られないほうがいいと……」

「薫くん、京はなんでも言っちゃうのよ?」

「そうそう。怒られること以外は素直に申告すんの」

両手で顔を覆った。
ということはなんだ。二組の兄弟で妙な関係を築いてしまったことすべて、綾さんはわかっているというのか。
わかっていながらこんな穏やかに接してくれるのか。この人本当にぶっ飛んでる。

「あ、もしかして薫くんも知らないふりしたほうがよかった?」

「……いえ。僕は兄と違って言葉の裏側をあれこれ考える人間なので気を遣われないほうが楽です」

「そう。よかった。ということで末永く京をよろしくね。できれば勉強のほうも面倒みてくれると助かるなあ」

「香坂が望むなら教えますけど……」

ちらっと視線をやると露骨に嫌な顔をしていた。

「……ねえ、涼も京も苗字呼びだと紛らわしくない?私も香坂だし、パパも香坂だし、雛も香坂だし。どうして名前で呼ばないの?」

「な、慣れてないので……」

「かーわーいーいー」

綾さんの揶揄するような口調に、香坂もけらけら笑った。
二人に挟まれ玩具にされるともうどうしようもない。綾さんに暴言を吐くわけにはいかないし、ここは大人しく玩具に徹しよう。

「京も薫くんのこと苗字で呼ぶじゃない?」

「俺は特別なときだけ名前で呼ぶから」

「うわ、マセガキ。今の顔涼にそっくりだったわ。あー、嫌だ嫌だ」

綾さんはひらひら手を振り、カップの紅茶を飲み干した。

「薫くん先にお風呂どうぞ。私は二階に上がることはないから気にしないで過ごしてね」

「はあ……」

「余計な気回さなくても学生らしく清い交際してるんで」

「あらまあ。それはびっくり」

「俺は待てもお座りもできるいい子なの」

「涼にも見習ってほしいわね」

「まったくだ」

あわわ、と震えることしかできない。そんな明け透けな会話を目の前でされるとは。
放心状態でいると、香坂に腕を引かれ風呂場へ連行された。

「着替え置いとくからごゆっくりどうぞ」

「あ、はい……」

ぼんやりしたまま服を脱ぎ、湯船につかってからふつふつと羞恥が沸き上がった。
綾さんがこの関係を知っているなら一言言ってくれてもよかったのでは。
だからといって自分の態度が変わることはないけれど、無駄に気を遣ってしまったじゃないか。
どうせ上手に誤魔化すことはできなかっただろうが、もっと肩の力を抜いて話すことができただろうし下手な芝居を打つ必要もなかった。
楓ちゃんのように綾さんの立場をあれこれ考え罪悪感を覚える性格じゃないし、彼女が受け入れてくれるなら儲けもんと思うくらいには図々しい。
香坂のことだから忘れてたとかくだらない理由だろうけど。
ああ、だけど一つだけ心残りがある。
ざばっと湯船から上がり、急いで身体を洗う。
髪もろくに拭かず、用意されていたスウェットに着替える。
香坂の部屋には向かわずリビングの扉を開けた。まだいてくれるといいのだけど。
扉から顔を覗かせると、こちらに気付いた綾さんがにっこり笑った。

「忘れ物?」

「いえ……。その、お礼を……」

「お礼?」

「僕は人の目を気にしない性格ですが香坂の不利益になるような行動は慎もうと思ってます。だから香坂とのこと、大っぴらにするつもりもないです。それに不満も不自由も感じなかったけど、綾さんが受け入れてくれて、なんていうか、喉のつっかえが少し収まったような気がしました。だから……」

指先をもじもじいじる。謝罪とか、礼とか、柔らかい感情を表に出すのが下手だし苦手だ。
綾さんがふっと笑った気配があり、視線だけ上に向けた。

「薫くんは芯が強そうだから必要ないかもしれないけど、困ったことや辛いことがあったらいつでもここに逃げてきなさい。いい?」

「はい。ありがとう、ございます……」

「そうだ!寝つきがよくなる飲み物あげる。京と一緒に飲んでみて」

綾さんは殊更明るい声色で言いながらぱんと手を叩いた。
上機嫌でキッチンを歩き回る姿を眺めていると、小ぶりなお盆を差し出された。
タンブラーに入ったミルクティー色の飲み物からは湯気が上っている。

「冷めないうちに飲んでね」

「はい。ありがとうございます」

おやすみなさいと頭を下げ、零さぬよう慎重に階段を登る。香坂の部屋を足先でノックし、両手が塞がっているから開けてというとすぐさま扉が開いた。

「何持ってきたんだ」

「綾さんが寝つきがよくなる飲み物だよって」

テーブルにお盆を置き、ベッドに寄り掛かるように座る。さっそくタンブラーを口元に近付けると紅茶の香りがした。
口に含むと紅茶のほかにアルコールの苦みを感じた。
紅茶リキュールのミルク割りだろうか。アルコール度数に負けず紅茶の香りが残っているのは上質である証拠だ。
隣の香坂も一口飲むと思い切り咽た。

「っ、綾、またあいつ……」

「初めて飲んだけど美味しい。綾さん仕事関係とかで色んなものもらうんだろうね」

「そうだけど……。ああ、お前は酒強いんだっけ」

「……楓ちゃんよりは?」

以前酔ったふりして香坂に甘えたことがあるので胸を張って強いですとは言えない。

「そういえば君がお酒を飲んでるの見たことないかも。反抗期まっしぐらのくせにそういうところは真面目なんだね」

「別に……」

そわそわしながらタンブラーをテーブルに戻す姿を見てぴんときた。
もしやお酒が嫌いか、弱いな?それならそうとはっきり言えばいいのに何をためらっているのやら。
知らぬふりをできる性格ならよかったが、つい意地悪したい欲求が沸き上がる。

「これくらい低い度数ならジュースみたいなものだよね」

本当は低くないけど。

「冷めたら美味しくなくなっちゃうから早く飲んだほうがいいよ」

本当は温かいほうが回りが早いけど。

「ね、香坂」

「……そう、ですね」

寝坊したり、報連相を怠った罰としてこれくらいの意地悪は許されるだろう。
さすがにこの程度で酔ったり、具合が悪くなるなんてことはないだろう。少し上機嫌になって気分良く眠れるはず。常に寝不足の彼にはもってこいだと思う。
それに素面だとすぐゲームに手を伸ばすから。たまには僕のお喋りに付き合ってほしいと望むのは決して悪いことじゃない。
理由付けをして自分を納得させながらタンブラーの中身を飲み干した。
隣の香坂は僕が空にしたのを横目で見ると、小さく吐息を吐いてから一気に飲み込んだ。
それから暫くはお互いスマホを眺めたりしたのだが、突然香坂がスマホを放り投げベッドに顔を突っ伏した。

「あー……」

「どうしたの?具合悪い?」

「全然。頭ふわふわしてるだけ」

アルコールが苦手なのか、弱いのか、どちらだろうと思ったけれど、どうやら極端に弱いらしい。たったあれしきでふにゃふにゃになってしまうなんて。
緩んだ表情やとろんと零れそうな目元がかわいい。このまま押し倒してやりたいと一瞬思ったのは人間的に間違ってるけど男としては間違ってないだろう。実行に移さなければセーフ。
誰かに言い訳すると、香坂が肩に頭を寄せてきた。
洗ったばかりで柔らかい髪を撫でてやる。
香坂が甘えるなんて珍しくて、やっぱり無理にでも飲ませて正解だったと歓喜した。
次いつこんな機会があるかわからないから目一杯堪能しないと。

「……お前は全然平気そうだな」

「まあ……」

「つまんねえな。今度べろべろになるまで飲んでみて。絶対かわいいから」

「ふーん。酔わないとかわいくないって?」

「嘘。普段からかわいい」

くすりと笑われ頬が熱くなる。そんな風に返されるなんて予想していなかった。
突発的な出来事に弱いので、淀みない減らず口が形を潜めてしまう。
上手に切り返したり、甘えてみたり、そういう軽いスキンシップができないと香坂も楽しくない。なのに何か言わなきゃと焦るほど言葉が出てこない。

「なーに赤くなってんの」

「お、お酒回っただけ!」

「強いんじゃなかったっけ?」

「強くても身体的変化はでるものなんだよ!」

「ふーん。じゃあ心臓がうるさいのも酒のせい?」

「そう、だよ」

「酒って便利だな。色んな言い訳に使える」

「言い訳じゃ──」

ない。言おうとしてやめたのは香坂に口を塞がれたから。
髪を耳にかけるように手を差し込まれ、触れては離すを繰り返される。

「酔ってる俺より真っ赤」

息がかかる距離で指摘され奥歯を噛んだ。
いつも思う。こんなはずじゃないのにって。
キスだってその先だってもっとスマートにリードしたい。気持ちいいとか、嬉しいとか、幸せとか、プラスの感情だけを与えられる男になりたい。なのにちょっとキスしただけで蓄えた知識も余裕も冷静な判断もすべて彼に奪われる。
自分自身を取り戻そうとするけれど、待ってくれない香坂にされるがままだ。
そのままゆっくりラグの上に押し倒され、圧し掛かるように抱き締められる。
香坂は思い出したように顔を上げるとそのたびにキスをして満足そうに小さく笑う。
なんだかよくわからないけど幸せそうだから好きにさせた。
やんわり背中に手を回し上下に摩ってやる。

「……綾に変なこと言われなかった?」

「変なことって?」

「俺の元カノの話しとか?あいつ意地悪いから」

「聞いてない。興味ないって言ったら嘘になるけど、君を捨てた元カノより僕のほうがまともってことは確かだしね」

辛辣に言い切ると香坂はくつくつ笑った。

「お前は兄貴を好きにならないだろうけど、他の誰かに心変わりするかもしれないだろ?だとしてもまともじゃない理由にはならない」

「君を傷つけた元カノを庇うなんてお人好し。むかつくとか見る目ないとか素直に言わないからもやもやがたまるんだよ」

「別に庇ってるわけじゃない。ただお前がそうなっても自分を責めるなってこと」

「ならない!」

喰い気味に否定した。
未来など誰にもわからないし、断言も約束もできない。
だけど僕は香坂から誰かに心変わりする未来なんて一ミリも想像できない。ただでさえ人に好意を抱く機会が極端に少ないのに、素直を忘れた天邪鬼の僕を理解し受け入れてくれる香坂を捨てるなんて正気の沙汰じゃない。

「断言しちゃっていいの?あとで後悔するかもよ」

「しない」

こんなことを聞いてしまうのは、香坂の心がまだ傷ついている証拠だ。
癖になった思考を直すのは難しいと綾さんは言った。
なら僕ができるのは時間をかけて信頼を勝ち取ることだけ。
得意分野なので心配はしない。愛情の亜種である執着心は人一倍強いから。

「香坂」

頬を包み、至近距離で視線を合わせた。

「僕を上手に扱えるのは君だけ。って楓ちゃんに言われたことない?」

「……ある」

「じゃあ君がしっかり手綱を掴んで。そうしてる内は僕はどこにも行ったりしない」

「……ほんとかよ」

「本当だよ」

背骨が折れそうなほどきつく抱きしめられ、う、と呻き声を上げた。
酔うと人間の本性が現れるという。
香坂は勝気で意地悪でむかつくけど、そうやって武装をしながら繊細な部分を隠しているのかも。
心の端が不安に揺れ、わかっているのに言葉にして確かめたくなる。そういうどうしようもない部分が酔いで表に出たのだろう。
彼が安心できるなら素直をかき集めていくらでも言葉にする。
きっと伝えてもほとんどが彼を通過し消えていく。手を尽くしても簡単には彼の心に根を張れない。それでも何百回、何千回と伝え続ければ、いつかは不安など無縁な関係になれるかもしれない。
楽観主義ではないけれど、大事な人との未来には希望を持ちたい。

「……だっせえ」

「へ……?」

力を緩めた香坂は僕の胸に片頬をぺたりとつけ、むすっと表情を曇らせた。

「こんな風に確認してだせえなって。聞けば聞くほどうんざりされるってわかってんのに」

「……それって経験談?」

「まあ」

香坂の耳の先をぎゅっと引っ張った。

「いった!なんだよ!」

「僕は過去の人とは違う!別の人間なのに一括りにされると腹が立つ!経験から学ぶのはいいことだよ。でも恋愛は必ずしも経験が正しいわけじゃない!実際僕はうんざりしてない!聞かれたらそのたび君が安心できるようにしたいって……思ったのに……」

そういう僕の気持ちまで一括りで蔑ろになれた気分だ。
過去と比べないで。ありのままの僕だけを見て。それって難しいことなのか。
過去なんてない僕ではわからない苦悩があるのかも。ああ、香坂の初恋が僕ならよかったのに。

「そういうつもりじゃ……」

「わかってる。でも所詮お前も元カノと同じって言われてるみたいでむかつく……」

「悪かったよ。同じだなんて思ってない」

「……かつく。僕も誰か好きになってればよかった……」

「は?お前の初恋が俺以外とか無理なんだけど」

「なんて自分勝手な……。自分は今まで散々恋愛してきたくせに……」

「自分勝手でも無理。好かれようと頑張んのも、ちょっとしたことでへこむのも、正しい答えがわかんないって狼狽えんのも全部俺が初めてじゃないと嫌だ。そういうお前のかわいいとこ他の奴が見てたかもって想像すんのもむかつく」

ぽかんと口を開けた。
暴論すぎる。子どもの我儘みたいだ。だけど全然嫌じゃない。

「なんていうか、君って結構僕のこと好きなんだね」

ふっと笑いながら香坂の頬を指先でつつくと、腕をきつく握られ床に縫い留められた。

「そうだよって言ったらなんかご褒美くれんの」

「っ、キ、キスしてあげる……」

苦し紛れに言うと、背中に手を差し込まれ起こされた。
胡坐を掻いた香坂の上に跨ると、手で輪っかを作って腰に回される。自分からは動かないからお好きにどうぞと言いたげな態度が悔しい。どうせ大したことできないと思っているに違いない。
キスなんて初めてじゃない。だから大丈夫。余裕をかき集め、勢い任せを封印した。
香坂の頬を撫で、改めてじっと見つめた。

「……なに」

「いや、香坂家の血はすごいなと思って。香坂さんは甘さがある顔だけどきりっとした君の顔は綾さん似かな?」

「月島家もすごいと思うけどな」

「どこが。僕も楓ちゃんも普通なんだけど」

「なのにかわいく見えるのがすごいってこと」

「はあー?楓ちゃんがかわいく見えんの?」

しまったという顔をしたのを見逃さなかった。
もう楓ちゃんに恋愛感情はないとわかっていてもむかつくものはむかつくんだ。

「過去の話し。今かわいいと思うのはお前だけ。な?」

そうやって簡単に懐柔しようとする。される自分にも問題はあるのだけど。

「喧嘩したくないから早くご褒美くれよ」

顎を突き出され、納得できない気持ちを端に寄せた。
いくら言い争っても平行線になるし、香坂の言葉を信じるしかない。あとは自分自身の問題なので、自分で決着をつけないと。
溜め息を吐き、香坂の首に腕を回した。
ゆっくり顔を近付け小さく触れてから舌で隙間をぺろっと舐める。素直に口を開けてくれたので彼の舌を追い回すように突き立てた。
粘膜に触れる心地良さを感じたけれど、なんていうか、どういうわけか物足りない。
息継ぎの合間にぐずるように香坂の服を握った。

「香坂ぁ……」

「なに。ちゃんとご褒美くれよ」

「あ、あげたいけど……」

どうすれば上手にできるかわからないなんて情けないじゃないか。

「ちゃんと言って」

「……君のキスがいい。もっと、気持ちいいやつ」

「すけべ」

「っ、ち、違う!」

顔を逸らそうとするより先に顎を持たれて塞がれた。
彼の長い舌で口内を蹂躙され、これがほしかったと思い知らされる。
わざと水音を立てるようにされ、呼吸が苦しくて涙が浮かぶ。
漸く離れた顔をぼんやり見つめると、親指で口を拭われた。

「どっちのご褒美かわかんねえな」

「次はちゃんと……」

「いいよ。慣れてないのがかわいいし」

「慣れてる君を見るたび僕はむかついてるけど?」

「あー……。でもほら、持てる技術を使ってお前を良くしようと努力してるわけだし、今までの経験も全部月島のためと思えば悪くないだろ」

「じゃあ僕以外にそんなキスしないで」

「もちろん。こうみえて浮気は一回もしたことない」

「一瞬だけ気持ちよくなる浮気と僕からの復讐を天秤にかければ馬鹿な真似はしないと信じてるよ」

「こーわ。さすが薫様。でもまあ、俺もお前が浮気したら檻の中閉じ込めちゃうかも」

さらっと恐ろしいことを言うのは香坂のほうだと思う。
執着心など微塵も出さない男から言われるとますます怖い。
だけどそれも悪くないかもと思う僕も相当いかれてる。
恋愛なんて正気じゃできない。だからこれくらいが丁度いいのかもしれない。


END

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