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恋人との丁度良い距離感というものを誰か教えてほしい。
ノートに向かってペンを走らせるたび、さらりと揺れる黒い髪に手を伸ばしそうになり寸でのところで自制する。それをこの短時間で何度繰り返しただろう。
後頭部を掻きながら鞄を鷲掴んだ。

「帰るわ」

「……もう?」

「勉強の邪魔になるし」

「あ、そう……」

月島が沈んだ表情を見せるものだから、やっぱりもう少しいようかなと言いそうになる。
だめだ、だめだ。
振り切るように見なかったふりをし、自室へ戻った。
ベッドに転がり面倒臭いと呟く。
月島との関係は恋人というにはまだよそよそしく、友達では深すぎる。
月島は初めての感情に振り回され、見ているほうが可哀想になるほど定まらない。
ならば自分が手を引っ張ってやらなければと思うのだが、どの程度の距離感が正解かわからずもたもたしている状態だ。
今までのように何も考えず、己の思うまま行動すればきっと、同じ過ちを繰り返す。
束縛が激しいとか、余裕がないとか、重たいとか、そういう言葉を投げられ呆気なく終わった今までの関係。だから今度は絶対失敗したくない。
束縛せず、余裕をもち、重くなり過ぎないように。
考えれば考えるほどわからない。わからないけど多分、今までの自分じゃだめなことは確かで。
こちらが我慢すれば成立する関係でも構わない。自分にとっても多くを学ぶ機会になるはずだから。
自分基準で素っ気ない程度が世間的には丁度良いのだろう。
好きになるほど際限なく欲しがる癖をいい加減直さないと。もう幼い子どもじゃないのだから。
なのに身体と心に染みついた防衛本能とでもいうのか、兄に奪われた敗北続きの過去が足首をぎっちり握って離さない。
そうやって不安や焦燥が蓄積され、相手の自由を奪い、いい加減にしてと喧嘩になり、そうするともっと切迫する悪循環。
どこからも断ち切れず苦い別れを何度繰り返してもやめられなかった悪癖。だから今度こそちゃんといい恋人でいなきゃいけない。
初めてのおつきあいの相手は最低な男でした、で終わったら月島が可哀想だ。
どんな最後になろうとも、まあいい恋愛だったなと思ってもらえるくらいになりたい。
目標は明確でも、術がわからない。だから自制しかできない。
もっと器用に、上手に立ち回れる性格ならよかったのに。

「おーい」

開けっ放しの扉から聞こえた意外な声に慌てて身体を起こした。

「勝手に入って悪い。鍵開いてたのに返事ないから具合でも悪いのかと思って……」

苦笑する楓さんを見た瞬間、えもいえぬ安心感に包まれた。
自分の家に帰ったような、すべてを癒す薬に出会えたような、とにかくもう平気なのだという安堵。
楓さんの笑顔を見ると燻る暗雲が綺麗さっぱり消え失せる。片想いを拗らせていたときからそうだった。

「楓さんなら好きに入って大丈夫」

「おやおやー?そんなこと言っていいのかなー?」

「信じてるし」

楓さんはくすりと笑い、ベッド端に腰掛けた。
鞄から包みを取り出し、よかったらどうぞと封を開ける。

「お菓子?」

「甘さ控えめクッキーだ!俺が作った!薫にも連絡したんだけど、あいつなんて言ったと思う?僕は楓ちゃんと違って忙しいんだよ、だって。憎たらしい」

毎度毎度、弟はかわいげないと口では言うけれど、本心は別にあるとわかっているから笑って流せる。
楓さんが作るものなら料理でもお菓子でもなんでも嬉しい。美味しいに決まってるから。
クッキーを頬張り美味いと呟くと、楓さんはそうだろう、そうだろうと自画自賛を始めた。

「どこで作ったの?」

「調理室。家庭科部の活動成果」

「そんな部活あったんだ」

「俺が作った!だって委員会活動とか面倒くさいだろ?なのに部活入らない奴は強制参加。そんなんやってらんねえなと思った結果がこれ。作るのが得意な俺と、食べるのが好きな友だちと、その他暇な友だちを合わせて家庭科部の出来上がり」

「楓さんますますモテるようになるな」

「ふふん、そうだろう。これからの時代男も家事ができて当然だからな!」

恐らく楓さんは女性にちやほやされる場面を想像しているのだろうが、多分その夢は叶わない。あの兄が楓さんを手放すとは到底思えない。
まだ見ぬお嫁さんのために磨いた家事スキルも、結局兄のために使う破目になる。

「じゃあこれからは実家に連行しなくても楓さんの飯が食えるってこと?」

「まあ、そんな頻繁に活動しないけど作ったらあげるよ。それかお前も部活入る?」

「それもいいな。委員会とか面倒くさいし、でも運動部は嫌だし。食べるだけなら楽そうだし」

「馬鹿いえ。入部するからにはどこに出しても恥ずかしくない男にさせてやるからな。とりあえず料理のいろはを仕込んでやる」

「えー……」

それならどこかの幽霊部員になったほうがましだ。
人数がぎりぎりの部なら名前を連ねるだけでいいというところも多い。

「薫を助けると思ってさ」

「なんで月島がでてくんの」

「うちの薫は料理のセンスがあまりない。おまけに食を疎かにする。今はまだいいけど将来一人暮らししたら最悪の結果になるだろ」

勉強や仕事に明け暮れながら適当にチョコを抓んで終わらせる姿が簡単に想像つく。
セルフネグレクトは身体が瀕死に陥ってから顧みても手遅れだ。
そうならぬよう、周りの人間が手助けできたらいいけれど、月島は他人をやんわり拒絶する。
しかし自分との関係がそこまで続くだろうか。恋人関係が終わったとしても友人として傍にいることは可能だけれど。
月島との未来なんてまったく想像できない。三ヵ月後すらどうなっているかわからない状態なのに。

「……楓さんはこの先も俺が月島の傍にいると思ってんの?」

「違うのか?」

「さあ。わかんないけど、兄貴と楓さんみたいに先の話しができるような関係じゃないしな」

立膝に肘をつき、自分の髪をくしゃりと掴んだ。

「……そっか。俺は薫を上手に扱える人間、京以外現れないと思ってるからできれば仲良くしてほしいけど」

「大丈夫だよ。月島だってそのうち性格丸くなるだろうし、俺以外にも大事にしてくれる人はいる」

「いない!」

あまりにも強く否定され、びくっと肩が強張った。

「お前が思ってる以上に薫はやばい!あいつの本性を知っても好きなんて寝言言うのは京だけだ!」

これは弟をディスってるのか、それとも俺?

「それに、薫が誰かを特別に思うなんて今まで家族以外一度もなかった。だから京は最初から特別。嫌いって感情すらあいつにはなかったし」

「ああ、誰かを嫌うエネルギーが勿体ないとか?」

「そう。心の中で散々罵って見下して悪態をついたら記憶から抹消する」

「月島らしい」

「本当に京は特別なんだよ。お兄ちゃんが言うんだから間違いない」

うーん、と言葉を濁した。
楓さんを疑うわけではないが、特別になるようなことをしたわけじゃないし、思い当たる節がない。
兄弟といえ、相手の心の内すべてが理解できないように楓さんが見落とす月島も存在するだろう。

「……じゃあ一個教えてほしいんだけど、恋人の距離感ってどんなもの?」

「それは俺より京のほうがわかってるんじゃ?」

「俺は……そういうの下手だから」

俯きそうになると、無理にクッキーを押し込められた。
もごもご口を動かすと、楓さんは大きく笑いながら背中を叩いた。

「そういうのは二人でゆっくりみつけたほうがいい。人によって違うんだし、正解なんてないだろ」

「そうなる前に終わるかもよ?」

「うーん。俺から言えることは、薫は誰にも心を開かない分、本性を見せる人間にはとことん甘えるってことくらいかな。それでも京が悩むなら、そうだな、例えばだけど会いたいと思ったら二回我慢して、三回目に会いに行くとか」

「なるほど……」

その手があったか。明確に回数を決めてもらえると心の置場がわかりやすくていい。
ゴールがあればがんばれる。あと二回我慢しよう、あと一回我慢しよう、そうやって丁度良いを見つければ月島も負担に思わない。

「俺的にはそんな心配無意味だと思うけどね。薫の執着心の強さは俺でも引くくらいだし」

「そうか?月島はさっぱりしたつきあいを望んでると思う。連絡もまれだし、用がないと訪ねてこないし。だから価値観が違いすぎて上手くいかない気がする」

「弟は二人ともお互いがまったく見えてない。ま、時間ならあるんだしゆっくり知ればいいよ。つきあってすぐなんでもかんでも上手くいくわけないし。そうでなくともお前らは仲が悪かったんだから」

「……そうだな。俺が考えすぎてんのかも」

「大丈夫だよ。お前たちは大丈夫。お兄ちゃんを信じろ」

「楓さんが言うと説得力あるけど……」

一旦言葉を区切ると、自分が未熟なせいで招いた別れが走馬灯のように頭を過った。

「……俺は月島を好きになりたくない」

そうでないとだめなんだ。月島にとっても、自分にとっても。
好きになるほど醜く崩れる自分の心。きっと月島は受け止めきれない。
情緒が育ちきってない月島に負担をかけたくない。傾きすぎなければいい按配でいられるというものだ。
楓さんは少し悲しそうに笑ったけれど、それには気付かぬふりをした。


教室の隅、机に片頬をつけた。
なんとなしにスマホを眺める。
"今日は生徒会だから"
簡素な文章にちっと舌打ちしそうになった。
ただ帰りに少し部屋に寄っていいか聞いただけなのに、文章からも高圧的な態度が見て取れる。
生徒会だから終わったあとでいい?とか、何時頃には終わりそうだから僕から訪ねるよとか、そういうのはなしか。もう一週間もまともに顔を合わせてないのに。
楓さんのアドバイス通り、あの日から自分を押し殺し続けている。少しくらい褒美があってもいいはずなのに。
一通り憤りをまき散らし、そんなものを月島に期待する自分が悪いと結論付ける。
不遜で、傲慢で、高圧的で鼻で嗤いながら下等生物と見下す。それが月島薫。かわいげとかいじらしさとか健気とか、そういうものとは対極にいる人間だ。
それでもふとしたときとびきりかわいく見えるし、強固な塀の隙間から漏れ出る本音は雷に打たれるような衝撃をもたらす。
ギャップか。これがギャップ萌えというやつか。もう頭が正常に回らない。
自分という人間を粉砕し、一から新しく作り替える作業は想像以上に苦痛だ。
欲を抑え込み、自身を非難し、少しは成長しろと叱責する。繰り返し、繰り返し、そんなことをしているせいで、アイデンティティとやらが迷子だ。
兄のようにこれが自分ですから?と胸を張って突き進めたらどんなに楽か。

「京まだ帰らないのー?」

「……帰るよ」

「元気ないね。風邪はやってる?月島も最近元気ないんだよね」

条件反射で顔を上げた。

「月島風邪ひいたのか」

「わかんないけど元気ない気がする」

溜め息を吐く。
月島は限界をしっかり把握しているのだろうか。
新しいクラスメイト、新しい同室者、面倒な生徒会。無難で無害な人間を装うために四六時中休む暇なく仮面を貼り続けている。本人が思う以上に精神的圧力を受けているはず。
以前なら家や部屋に戻れば鎧を脱ぎ捨てられたけど、今は黒田がいるからそれもできない。
本性でぶつかっても黒田は気にしない。何度言っても猫かぶりをやめない。そりゃ元気もなくなるわけだ。
もういい。自分の問題より月島の精神状態を癒すほうが優先だ。そうしないと大爆発して手の付けようがなくなる。こっちだって月島を甘やかせなくていつもなにかが足りない気がした。
自分は恋人には尽くしたがりの世話焼きだ。目一杯甘やかしたいし望むすべてを叶えたくなる。
きっと月島は鬱陶しいと言うだろう。だけど互いのストレス値を正常に戻すため、今日くらいは我慢してほしい。

「黒田、お前今日俺の部屋泊まれよ」

「へ?」

「俺がお前の部屋泊まるから」

「いいけど何で俺いちゃだめなの?」

「白石がもっとお前と話したいってよ」

「マジ?じゃあ白石との仲を深めますか」

すまん、白石。心の中で拝み手をする。
白石と黒田は誰とでも仲良くできる平和主義だし、問題ないはず。
"寮に戻ったら連絡して"
月島にそう送り、帰路についた。
自室に戻り、黒田の相手をすること数時間。白石が帰った瞬間スマホが鳴った。
今戻ったという月島からのラインにだらけていた身体を起こす。
必要なものをポケットに突っ込み、あらかじめ買っておいたお菓子が入った袋を持って部屋を訪ねると、やつれた顔の月島が出迎えた。

「久しぶり」

ぶっきら棒で冷めた声色。おまけに視線まで鋭い。
こういう態度をとられると恋人同士なんて夢で、現実は犬猿の仲のままなのではと疑ってしまう。

「飯食った?」

「食べた」

月島は疲れた様子でソファに着き、溜め息を吐きながらネクタイを緩めた。
ちょっと見ない間にやつれてないか?それにくまもひどい。
隣に座り、指の背でそうっと目元をこするとその手を振り払われた。

「急に触るからびっくりした」

いい加減慣れてほしいのだが、他人とのスキンシップの一切を拒絶してきた月島なら仕方がない。
警戒心の強すぎる猫のようだが、その分懐かせ甲斐もあるというもの。

「お菓子買って来た」

「……うん。あとで食べる」

「体調悪いの?」

「別に」

「じゃあ疲れてんだな」

すました横顔を眺めながら妙な違和感を感じた。
月島はストレスが溜まるほど俺や楓さんに甘えることが多かった。なのに今は分厚い殻を纏ってこちらを拒絶するような雰囲気だ。だとしても帰るつもりはない。こっちだって限界なんだ。

「俺今日泊まるから」

「……なんで?僕に相談もなく?」

「嫌なら帰るけど」

月島はむすっとしたまま口を閉じた。
こいつは本当に扱いが難しい。まったく読めない。浮き沈みが激しい上に難しく考える癖があるから単純な自分では理解してやれない。
ふっと細い溜め息を聞き、台所へ移動した。
温かい飲み物でも作ってやろう。珈琲より紅茶が好きと聞いたがそういったものはない。冷蔵庫を開けると牛乳があったので、それを温め蜂蜜をたらした。
カップを手渡すと、月島は礼もなしに受け取った。
掌でカップを包んだまま、真っ白な表面をじっと眺めている。

「風呂入ったらマッサージしてやろうか」

「いいよ。お風呂入ったらすぐ寝るから」

「たまには大浴場行くか?広い風呂のほうが疲れとれると思うけど」

「いい」

つっけんどんな物言いは珍しくないが、あまりにも棘がある。
気持ちを確かめてからはこんな態度とらなかったのに。

「なんか悩みでもあんの?クラスでうまくいってないとか?」

「そんなわけないだろ。僕はいつでも完璧に月島薫をやってるよ」

「だから疲れんだって。せめて部屋では普通にしてろよ。黒田はお前を嫌ったりしないから」

よしよし、と言いながら頭を抱え込むように撫でた。
月島は下唇を噛むと、急に立ち上がった。

「なんだよ。なんでこういうことするんだよ!」

「……なんでって、いつもしてるだろ」

「もういいよ。わかってるよ。君が僕を本気で好きじゃないって」

「急になんの話しだよ」

月島の顔がぐにゃりと歪んだのを見てまずい、と思った。
このままではまた泣かせてしまう。なのに理由がわからない。

「……君の良心につけこんで思い通りにしようとした罰があたったんだ」

「罰?お前は悪いことしてないだろ」

「したんだよ。君に呪いをかけたんだ。君が僕に対して責任を感じるよう、じわじわと。だから僕と君の気持ちが違うことくらい最初からわかってた。わかってたけど……」

ついに大きな瞳から大粒の涙が零れた。
月島はシャツで目元を擦り、堪えるように顔を上げた。

「僕を好きになりたくないって君が言ったのを聞いて、もうがんばれないと思った」

何度も何度も目元を擦る手を握った。
そのままぎゅっと胸に抱き、記憶を整理する。
そんなひどいこと月島に言った覚えはないが、楓さんには言った。月島が想像するような意図ではないけれど。

「楓さんに言ったの聞いてたんだな」

こくりと頷いたのを見て、月島のこの様は自分のせいだったのかと気付いた。
ごめんと呟きながら力を込める。

「もういい。もう僕はがんばれない。君を解放するよ」

「違う。あれは……」

このまま吐露していいものか。情けない性格と、みっともない過去を。
恋人の前ではかっこつけたい。それって普通だろ。
だけど正直に話さないと気難しい月島は歪曲して自分勝手に決着をつける。今まさに別れの危機なのにぐちぐち言ってる暇はない。
とりあえず抱っこの状態でソファに座り、月島の後頭部を撫でた。

「……今更お前の前でかっこつけても無駄か」

溜め息を吐き、俺の話し聞いてくれる?と問うとこくりと頷いてくれた。

「月島を好きになりたくないって言ったのは、お前に嫌われたくなかったから。俺、相手を好きになるほどうざくなるから。なんでもしてやりたくなるし、束縛もする。その結果愛想尽かされた。だから今度は失敗したくなかった」

ぐすん、と鼻を啜る音を聞き、背中をとんとん叩いてやる。

「月島のこと好きだよ。良心とか、呪いとか、そういうんじゃない。かわいく見えるし、会いたくなるし、触りたくなる」

「……こんな面倒くさい人間なのに?」

「面倒くさいのがかわいいんだよ」

「……本当に擦り込みじゃない?ちゃんと僕が好きなんだね?」

「好きだ」

「じゃあ、もっともっと好きになってよ。束縛だろうがなんだろうが僕は平気。嫌なことには従わないし、君との喧嘩なんて慣れっこだよ。それより不安でぐちゃぐちゃになるほうが苦しくて嫌だ」

「ごめん。悪かった」

頬を包んで視線を交わした。
涙を親指で拭い、雫を孕んだ睫毛が重たそうに揺れるのを眺める。
恋人を泣かせるなんて最低だけど、月島の泣き顔は何度でも見たくなる。ちりっとした欲望は見ぬふりをして額に口付けた。

「月島を泣かせたお詫びと、俺のために今日はなんでも言うこと聞くし、甘やかすから」

「それが君のためになるの?」

「なる。かわいがって、甘やかさないと禁断症状がでる」

「なんだそれ。変な奴」

小さな笑みに安堵した。
とりあえず最悪だった機嫌は上向きになったようだ。

「風呂に入れてやる。髪も乾かすし、歯も磨いて、マッサージして、それからー……」

「お風呂は一人で入るよ!」

「なんで。お前はなにもしなくていいんだぞ?楽だろ?」

「き、君の前で服を脱ぐなんて……」

「男同士なのにまだ恥ずかしいの」

「好き合ってるなら同性異性関係ない。僕の裸見ても平気でいられるなら香坂のそれは恋愛感情じゃないんだよ。試してみようか?」

シャツの釦を開け始めたのをぼんやり眺めた。
別に同じ身体だろ。平坦な身体を見たからなんだってんだ。ストリップを楽しむ気分で鼻で笑ったが、自分と違う真っ白な肌が露わになるたび心がそわそわした。
全ての釦が外され、シャツが肩をすべりそうになった瞬間、合わせ目をぎゅっと掴んで隠した。

「やっぱなしで……」

「……耳の先赤くない?」

「赤くない!」

「へえ?男同士なのに恥ずかしいの?」

ぎりっと奥歯を噛む。悪かったからもういじめないでくれ。
同じ構造でも月島は別物だ。当然、普段友人の身体なんて意識しない。だけど月島の細い首とか、はっきり浮き出る鎖骨とか、薄い腹の先の腰骨とか、自然と引き付けられる。蠱惑的な誘惑に負け、無理に手を出したら最低を突き抜けるだろ。

「僕の気持ち、わかった?」

「すみませんでした」

「わかればよろしい。じゃあデザート食べたらお風呂入る。せっかくだから髪は君に乾かしてもらいうよ」

袋を漁る手を止め、小さく切られたロールケーキを月島の口元へ持っていった。
彼は至れり尽くせりだね、と不遜に笑いながら小さな口でクリームを頬張る。真っ赤な舌が唇をなぞるのを目で追ってしまい、童貞かと自分に突っ込む。
だめだ。一度意識し始めると止まらない。
この場から逃げてしまいたいが、また彼にいらぬ誤解を与えるので我慢しよう。なんて拷問だ。
デザートを食べ終えたあと、少しお腹を休めたいというので先にシャワーを浴び、入れ替わるように月島が風呂場へ向かうのを見送る。
冷たい水を冷蔵庫から出し、一気に半分飲んだ。ちょっと頭を冷やしたい。
今まで散々ひっつかれても普通にできた頃に戻りたいけど、この状態が好き合ってる証拠なら受け入れよう。
そうなると今度は欲情を抑え込む日々が待ってるということか。
即物的で直情的。理性的な人間とは思えない。そうやって失望されぬよう心がけよう。忍耐力は自信があるから大丈夫。

「香坂」

裾を引っ張られはっと顔を上げた。
どうやら長い間唸っていたらしい。
ソファに座らせ、真っ黒で指通りのいい髪を乾かしてやる。気持ちよさそうに瞼を落とすのがかわいい。

「僕もやってあげる」

月島は楽しそうに温風を当て、くすっと笑った。

「前はこの色が嫌いだった。すごく目立つからどこにいても君を見つけちゃって。だけど今は気に入ってるよ。君によく似合うし」

「じゃあ学生のうちはこの色でいようか」

「うん」

乾かし終えたあと、もう一度ホットミルクを作ってやり、のんびり配信を眺めたりして、欠伸したのを見て洗面所まで連れて行った。
あ、と口を開ける赤子のような月島の歯を磨いてやる。

「僕、なにもしない人間になりそう」

「俺がいないと生きられなくなる?」

「そう。だめ人間」

ああ、それはいいかも。
ベッドから動かない月島に飯を与え、水を飲ませ、自分がいなければ呼吸さえままならない。そうして依存させたら不安も焦燥も無縁になるのでは。
ぽっと浮かんだ思い付きを馬鹿馬鹿しいと一蹴したが、だけど万が一そうなったらどんなに幸せだろうとも思った。
だって好きな相手が自分から逃げないと確信を持てるなんて、それ以上求めるものがあるだろうか。

「こうひゃか、まだ?」

「あ、ああ。もう大丈夫か」

口をゆすがせ、歩きたくないという我儘をきいて横抱きでベッドへ運んだ。
男にしては細いといっても男には変わりない。ずっしりした重みに耐えるためもう少し力をつけないと。
横臥した月島が隣をぽんぽん叩く。添い寝を所望する合図で、今までは気にせず転がっていた。
だけど今は身体的変化が起きそうで、しかもそれを悟られたらどうしようと思う。
月島を甘やかしたい。触れて、撫でて、口付けて。それと同時にもっとひどく、自分勝手な欲が頭を混乱させそうだ。

「甘やかすのはもう終わり?」

しょんぼりされると断れない。
がんばれ、がんばれ自分。言い聞かせながら隣に転がる。
月島が頭部を持ち上げたので腕を差し込み、肘を折って指先で頭を撫でた。
きっと眠る前にキスをせがまれる。そのとききちんと止まれるよう、心積もりをしておこう。
そもそも月島に性欲はあるのだろうか。禁欲主義にも見えるし、他人とのスキンシップを極力避けるから。
心を繋ぎ止める手段の一つとか、パートナーとしての義務くらいにしか思ってなさそう。
しかもこいつ、自分より図体のでかい俺を抱こうとしてる節がある。
男としてその選択は間違ってないのだけど、俺相手にそんな気持ちになるか?といつも疑問だ。
尽くしたいのだから当然、セックスだってされるよりするほうが好きだ。
性格的にも身体的にも月島が抱かれたほうが丸くおさまると思うけど、無理に言い聞かせるつもりはない。こういうことは互いに納得した上で進めないと大きな遺恨を残してしまう。

「香坂!」

「……あ、悪い、考え事してた」

「僕のこと?」

「そう」

「なら機嫌悪くするのはやめるよ」

幼い子どもが僕を見てと主張するように、月島も自分にそれを求めてる。余計な思考はあとにして、今は目の前の月島に集中しよう。
腕枕とは別の手で彼の背中を引き寄せた。
密着するのは怖いが、万が一勃起してもそれの何がいけないんだと逆ギレをかますしかない。気持ち悪いとか言われたら暫く立ち直れないけど。

「ねえ香坂」

顎をつきだす仕草を見て心頭滅却と唱える。
軽く触れるだけにして放そうとすると、胸倉を掴まれ引き寄せられた。

「僕のことかわいがってくれるって言ったじゃん」

俺は忍耐強いんだ。横暴な兄に、我儘で気位の高い彼女たち。すべてを受け入れ昇華してきた。
なのに月島は助走をつけて振り回し、自分をかっこ悪いなにかに変える。
頭の中で理性をかき集めたけどあまり長くはもたないだろう。
今度はもう少し深く口付けたが、頭の端ががんがん嫌な音をたてた。

「……やっぱ足りねえな」

キス以上しなければいいんだろ。ならキスくらい好きにさせろ。
誰に対する言い訳だろう。
わからないけどもう難しく考える力が残ってない。
月島の歯の間に親指を突っ込み、閉じられぬよう封じた。
舌を突き刺し、唇と一緒で厚い舌を絡めとる。
一瞬でも逃げないよう後頭部をがっちり掴み、自分以外に縋れぬよう退路を塞ぐ。ほら、自分はこうやって相手のすべてを、自由を奪おうとする男なのだ。
だとしても知らん。挑発する月島が悪い。完全な開き直りで彼の口内を好き勝手した。

「く、るし。息が、できない」

殺すわけにはいかないので一度顔を離し、数回呼吸したのを確認して再び口を塞いだ。
背中に回した手でがっちり固定し、どこもかしこも触れ合うように。

「こうさか、ちょっと」

待たない。
自分のかわいがり方はこうなのだ。身をもって知ってくれ。知ったら今後は無駄に挑発しないでほしい。
呑み込めない唾液が白い肌を伝うのが綺麗で、下から舐めとる。
これで終わりと安堵した表情を浮かべる月島が可哀想でかわいい。
終わるわけないじゃん。
久しぶりに触れたし、月島はかわいいし、彼に欲情する自分に気付いたし。

「もう一回」

顔を寄せると、月島は息を乱し、ぼんやりしたまま頷いた。
まともな状態でないとしても許可はとったから同意の上。クソみたいな理屈で罪悪感を打ち消す。
震える舌を自分から突き出した月島を見て、心が満たされた気がした。
攻撃的な彼が素直に言う通りにしてくれる。できる範囲で望みに応えようと必死になって。警戒心を解き、無防備に身体を委ね、弱点だって自ら晒す。普段の態度や表情からは想像もつかない。
頭からばりばり食べたいくらいかわいい。食べたら消えてしまうので、代わりに気持ちよさだけ与えよう。
強請る舌を捉え、撫でてやる。
水音と、月島の鼻にかかった苦しそうな声。漏れてしまう吐息と、眦を濡らす涙。こんな状態でも理性を離さなくて偉いねと褒めてほしい。
もっと近くにいてほしくて更に背中を抱き寄せた。
その瞬間、月島の中心が自分の腹に擦れた。

「あ、これはっ……」

恐慌状態に陥ったのだろう。月島は自分の耳を塞ぐようにしながら顔を真っ赤にした。
これを計算じゃなく天然でやるんだから本当にたちが悪い。

「ちがう、これは、生理現象、で……」

「触ろうか?」

触ってくれと言ってほしかったが、月島はぶんぶん首を振った。
やっぱりキス以上はまだおあずけか。非常に残念だ。

「放っておけばそのうちおさまるし……」

月島はパジャマの裾を引っ張って隠そうと必死だ。
わざとらしい溜め息を吐く。本当に天然か?計算してると言われたほうが納得いく。わざと煽ってるようにしか見えない。しっかり待てができるか試してるんじゃ。

「……ごめん、なさい」

溜め息を別の意味に受け取ったらしい。彼は堪えるように唇を噛み締めた。

「違う。こう、かわいすぎてぐしゃっと潰したくなっただけ」

「ぐ、ぐしゃ……?」

「乱暴はしない。そこまでクズじゃないから大丈夫。ただ、触りたかったから」

「触りたい!?君と同じモノなんだよ!?」

「関係ない。好きな奴の身体は触りたいだろ」

「そうだけど……。君は平気なんだね」

「俺はー……」

「やっぱり経験があるとこれくらいで興奮なんてしないよね」

馬鹿いうな。俺がどんな想いで耐えたか、一から全部見せてやりたくなる。
怖がられぬよう、失望されぬよう、そりゃあもう必死にかっこつけてんだよ。
そうやってがんばった結果、半勃ちという中途半端な形でおさまったわけだけど。
月島の腰を引き寄せ、自分のものを擦り付けた。

「俺もがんばって我慢してんの」

「……君も、硬くなってる」

「口に出すな」

「嬉しい。本当に僕で興奮するんだ」

「するからちょっと黙ってろ。今日はもう何もしないからさっさと寝ろ」

「何もしないの?」

あー、そう。そういうこと言う。
俺を振り回すのはそんなに楽しいか。忠犬だって限界を超えれば主人に噛み付くというのにこの男は。

「していいの」

「ぼ、僕がしてあげる。君のこと気持ちよくしたい」

「でも今日は俺が月島を甘やかす日だろ」

月島の形のいい小さな耳を甘噛みすると肩を強張らせ、くすぐったさから逃げるように身体を捩った。
尖らせた舌で輪郭をなぞると、普段冷ややかな声が甘く崩れた。

「ん、うぅ……」

「薫」

耳元で呼ぶとふわん、と変な声で鳴かれた。月島は名前を呼ばれるのが好きで、そうやって押し通すと案外素直に言うことを聞いてくれる。そこまでもっていくのに苦労するけど。

「触っていい?」

「……う、ん」

なし崩しのようで申し訳ないが、月島に考える隙を与えてはだめだ。
ちょっと待って、この立ち位置おかしくない?そう言わせたらアウト。マウントをとろうとしてくるだろう。
だからこのまま、状況についてこられないくらい快感だけを与えて──。
よし、いけると算段を整えた瞬間、枕元に放り投げていたスマホが鳴った。

「……スマホ、なってる。多分君のだよ」

手を伸ばし、相手を確認したのち放り投げた。

「ほっとけ」

鳴りやんだ着信音に安堵したが、今度は月島のスマホが鳴った。
手を伸ばそうとする彼を止めたが、一歩遅かった。
画面を見て、これ出ないと一生止まらないパターン、と月島が呟いた。
その通りだけどこの状況で出なくてもいいだろう。電源を落とせばすむ話しなのに。

「はい。……はい、いますよ。代わります」

月島のスマホを受け取り、眉間に寄った皺を抓んだ。
クソ兄貴。何度も殴りたいと思ってきたが、今ほど強い殺意を覚えたことはない。
電話に出ながらベッドから立ち上がった。
リビングに移動し、用件を聞いたのちあのさあ、と不機嫌を露わにした。

「今度から急ぎじゃないならラインにしろよ」

『なんでー?』

「わざとだな?」

『わざとに決まってんだろ。楓が心配してんだよ。ようやく人間らしくなった薫に合わせてゆっくり進んでほしいってよ』

「合意なら問題ない」

『俺は別にいいけどね。弟の性事情なんて知ったこっちゃねえし。でも楓は弟に過保護だからなー。楓に嫌われちゃうかもなー』

ぐっと喉を詰まらせた。
なし崩しのまま、判断力を鈍らせるという卑怯な手を使った自覚はあるので反論ができない。悔しさに任せ、別れの挨拶もなしで電話を切った。
もっと月島を尊重しなきゃ。邪魔が入らなかったら、無知な彼につけこんで自分勝手に進めただろう。
一時の欲に支配され、彼の尊厳を傷つけたくない。頭を冷やして反省しよう。
暫くその場で深呼吸をし、ベッドに戻った。

「香坂さんなんだって?」

「実家招集の連絡」

「そう」

月島の表情はすっかりいつも通りだ。
これでよかったと思うのと同じくらい、残念に思う。
だってほろほろに崩れた表情は本当にかわいかった。呂律の回らない喋り方も、砂糖をコーティングしたような声も。
反省したくせに、一度知った旨味は簡単に忘れられない。
最初と同じように腕枕をして、つむじにキスをした。

「ちょっと焦りすぎた。これからは月島が嫌なことはしないから」

「別に嫌じゃ、ないけど……」

尻すぼみで、最後は消えそうなほどか細い声だ。

「その、もっと知識と覚悟を準備してからでいいかな」

知識と覚悟を準備されるとマウント合戦になるのは明白。なにも知らない月島に、お前は抱かれるほうが合ってるよと刷り込ませるほうが楽だ。楽だけど最低な方法だ。
話し合いを重ねたり、お互い譲歩し合って決着するべきなのだろう。
月島が煽ってこちらの理性をぶちキレさせたら知らないけど。

「……そうだな」

「あ、でも今日みたいなキスはまたしてね」

「そんなによかった?」

「……うん」

口を尖らせて羞恥に耐える表情にむらっときた。
あー、あー。
頭を抱えたい。月島は俺を試す悪魔だ。ぐっとくるポイントばかりを狙ってくる。
いつまで我慢できるだろう。忍耐力は強いはずだったのに。
もうこれ以上喋らせたくなくて、彼の背中をとんとん叩き眠りに誘った。


END

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