僕の恋路を邪魔しないで




周りの人たちにくれぐれも迷惑をかけぬように。
玄関扉を開ける寸前まで炸裂する母の説教をうんざりした気持ちで聞き流した。
多くはない荷物を抱えながら電車に乗り込む。香坂が今日寮へ戻ることは確認済みだ。
戻ったら部屋移動のためゆっくりする時間はないだろう。
それでも、ぎゅっと思い出の詰まった部屋を振り返りながら最後の日を過ごしたい。
今生の別れでもあるまいし大袈裟と思わないでもないけれど、あの部屋で過ごした日々は人生の転換期と言っても過言ではないくらい大事なもので。
大嫌いで、喧嘩ばかりで、存在を消したいと願い続けた奴が、大好きで、触れたくて、傍にいてほしいに変わったのだから当然だと思う。
真逆な気持ちに振り切った心は未だ中間を探せず不器用にぎしぎし鳴る。
お試し期間の一ヵ月で彼が僕の手を放したら、時間をかけて折り合いをつけるしかない。どんなに苦しくとも表面上綺麗な丸の中で友人というものを演じるしかないのだ。
まだ時間は残ってるから大丈夫。
残りの日数を数えて憂鬱になる習慣なんて早くやめたい。
寮の部屋を開けると、既に香坂が引っ越し作業中だった。

「早かったね」

「ぎりぎりまでやらないんだから早く帰れって綾に言われて」

どの家庭の母親も息子への説教は必須らしい。だらしない姿ばかり見せているからしかたがない。
事前に配られていたプリントで次の部屋番号を確認する。
作業中の生徒たちで廊下はいつも以上に賑やかだ。
香坂は大判で頑丈なショッピングバッグに次々物を放り込んでいる。
小さな部屋に入るだけの荷物などたかが知れている。作業は数時間で終わるだろう。それはいいのだけど、雑な扱いをうける物たちが可哀想だ。

「もう少し慎重に扱ったら?大事なものとかないの?」

「物はいつか壊れるし買い直しもできるだろ」

そういう考えの人もいるんだ。
自分は気に入ったものほど壊れたり汚れたりするのが怖くて使えない性質だ。
使わないと意味がない、本末転倒と言われるけれど、昔からの癖は容易に直らない。ちなみに好物も一番最後に食べるタイプ。
きっと物にも他人にも粘着質なのだろう。ということは、香坂は他人に対しても粗略なのだろうか。壊れたり上手く機能しなくなったらさようなら?
新しく買い直すように空いた場所に他の人をあてがい、過去は一切振り返らない。
自分もその中の一人になるのだろうか。ああ、憂鬱だ。
あらかた移動が終わったのは二時間後。そこから清掃業者が入る前に軽く掃除をし、時計はとっくに昼を過ぎていた。
新しい部屋の片付けもしなくては。その前に腹ごしらえ。
財布をとりに新しい部屋へ向かうと、これから一年同室になる黒田くんが段ボール片手に大きく笑った。

「よお。これからよろしくな」

「よろしく……」

彼は香坂の友人で、背格好は僕と変わらず、いつもにこにこ平和主義の男だ。
争い事を避けまくるので僕のような人間でもある程度うまく過ごせるだろうと香坂のお墨付き。

「月島インテリアとか拘りある人?」

「全然。黒田くん拘りあるなら好きにしていいよ」

「マジ?ラッキー」

事前に約束事を決めないかと言うと、彼も大きく頷いた。
自分より寮生活を長く続けているだけあり、他人同士で暮らす苦労や、上手くこなすコツもわかっているだろう。
備え付けのリビングテーブルに紙を置き、これだけは守ってほしいという注意事項をお互い書き出す。
とはいえ、僕の要求はごく常識的なことだ。
帰らないときは連絡する。
夜中に騒がない。
共有部分は綺麗に使う。
掃除は分担制。
こんなものかと視線を上げると、頬杖をつく黒田くんと視線が合った。

「終わった?」

「うん。これくらいかな」

「了解」

「黒田くんは?」

「俺はないよ。月島は真面目だし、しっかりしてるだろうし、俺がごちゃごちゃ言うようなことないでしょ。むしろ俺がちゃんとしないと」

「そんなことないよ。生活の癖とかあるだろうし、許容できないことは事前にはっきり言ってほしい」

「んー……。あ、じゃあえっちな動画見るときはイヤホン必須」

飲みかけのお茶が喉に詰まる。ごほ、ごほと咳き込むと背中を叩いてくれた。

「そ、そんなものは見ないけど……」

「マジぃ?そっか。頭いい人は見ないのか」

「それは関係ないと思う……」

ただ興味がなかったから。
他人と深く接するのが苦痛で、肌を合わせるなんてもっての外で、人間関係なんて上辺だけ整えていれば充分と思っていたから。でも今は最深まで繋がりたい人がいる。

「でも、わかった。そういうのはちゃんとマナーを守るよ」

「うんうん。俺頭よくないからぱっと思い浮かばないけど、細かいほうじゃないしあんまり気遣わないでな」

「ありがとう」

自動的に貼り付けられる外向けの笑顔を作った。
今までは部屋に入った瞬間すべての機能を停止し、性格悪い月島薫を隠さずすんだのに、これからは学校でも部屋でも控えめで真面目な優等生を演じなければいけないのか。
猫被りをやめたいけれど、そうできる人間は限られていて、黒田くんの為人を知るまでは無理だ。
溜め息をはきたいのを堪え、ストレス値のキャパを超えないための対策を考えようと気持ちを切り替える。

「よし、じゃあ飯買いに行くついでに京の部屋冷やかしに行く?確か月島の友だちと同室になったんだよな?」

「うん。白石っていう……」

「ああ、白石な。バスケ部の奴だろ?」

「そうそう。有名?」

「背でかいから目立つよな。友だちも多いし、誰にでもいい奴じゃん?」

「そうだね」

僕のような人間と友人関係を続ける時点で彼はとんでもない人格者だ。
癖のある人が好きと言っていたけど、それにしても僕なんて癖強すぎだろ。
兄には友だちなんて白石の他に二度とできないかもしれないのだから一生大切にしろ、とまで言われた。
財布とスマホをポケットに突っ込み、然程離れていない香坂と白石の部屋を目指す。
扉が開け放ったままだったので覗き込むと、香坂と白石は散らかったリビングの真ん中でペットボトル片手に笑い合っていた。
反射的にむっと眉を寄せる。
香坂のそんな顔、僕だって滅多に見たことない。友人期間がないので当たり前なのに面白くない。
白石と楓ちゃんは同じタイプだからきっと香坂と馬が合うと思っていた。だけど同じタイプということは好きになる可能性もあるのではないか。
感情において絶対なんてこの世にはない。
へらへら能天気に笑う白石に横から掻っ攫われたら黒魔術を会得するくらい憎んでしまう。

「京ー」

黒田くんが呼ぶと、漸く二人がこちらに気付いた。
黒田くんは二人の元へいき、白石の手を両手でぎゅっと握ると上下にぶんぶん振り回した。

「白石、京のことよろしく。不愛想だけど性格は悪くないから」

「こちらこそ、月島をよろしくな。愛想はいいけど性格は悪いから」

「おい!」

「あは、冗談だよ。月島はいい奴だ」

白石のいい奴の基準はガバガバだ。
こいつにかかれば世の中全員いい奴に分類されるのでは。
呆れた視線をやりながら香坂と白石の間にさりげなく身体をねじ込む。

「飯食った?」

香坂に問われ、小さく頭を振る。

「みんなで飯行くか」

その発言に香坂の服を引っ張った。
みんなで?ここは二人で、だろう。
黒田くん向けの愛想笑いを浮かべ続けるのは苦痛だし、かといって白石向けの横暴さを振りまいたら黒田くんに引かれる。
安心して仮面をとれるのは香坂の前だけなのに。少し休憩の意味を込めて二人きりになりたかったのだけど。

「さんせーい。どこ行く?コンビニか、ラーメンか、駅の向こう側の牛丼か、定食屋?」

「月島は味濃過ぎるのだめだから定食屋がいいかな?」

白石の言葉に力なく頷いた。
もうこれ香坂と二人がいいなんて言える空気じゃない。
せめて行き帰りの間だけでも香坂の隣にいたかったが、今度は黒田くんに彼の隣をとられてしまった。
その代わり自分の隣は白石だ。

「いい人と同室になれてよかったな月島」

「……そうだね」

「なんで不貞腐れてんの?」

「黒田くんはいい人だと思うよ。思うけど……」

僕は香坂がよかったんだよ。
望んでないくせに香坂の同室を勝ち取った白石が憎い。憎すぎる。

「大丈夫だって。月島は本当にいい奴だ。黒田もわかってくれるよ」

「そんなこと心配してない!」

「じゃあなに」

言葉を詰まらせる。香坂を恋愛として好きだと自覚した途端部屋替えで辛いなんて言えない。

「……せめて白石に早く彼女ができますように……」

そうしたら変な嫉妬や心配をしなくてすむ。

「なんで急に俺の幸せ願ってんの?」

「願ってないから」

「えー……」

定食屋で四人で飯を食ったあとは再び部屋の片付けだ。
以前なら同じ部屋に帰れたのに、今ではまた今度と手を振らなければいけない。
香坂と並ぶ白石の背中を限界まで睨む。白石は好きだけどそれとこれは別。
ぱぱっと終わらせようと笑顔を見せる黒田くんに頷き、各自部屋の整理に励む。
リビングは黒田くんに任せ、自分はトイレやバスルームを片付けた。
あらかた片付いた頃にはすっかり日が暮れていた。

「なあ月島。さっきの約束大きい紙に書いてどっかに貼ってくんね?」

「そこまで気にしなくても常識的な生活をしていれば大丈夫だよ」

「でも俺馬鹿だからさ。やらかしたら怒ってくれな」

大丈夫。香坂と同じクラスだった君に賢さは期待してない。
おバカな兄を持ったせいで扱いも心得ている。害のない人間を演じつつのお説教くらい問題なくこなせる。
ただ黒田くんに対する仮面がいつまでもつかだけが心配だ。
どこかでストレスが限界突破し毒を吐いて悪態をつきそう。考えただけでぞっとする。
がんばれ僕。平穏な高校生活のため、無害な草食動物を演じるんだ。
こっそり吐息を零した瞬間、ノックもなしに扉が開いた。

「やあやあ弟よ。片付けは済んだか」

「……楓ちゃん、弟の部屋とはいえ同室者がいるんだからノックくらいしなよ」

言うと、こんこんとノックをした。遅いっつーの。
楓ちゃんは二段に重なったピザの箱とコーラをテーブルに置き黒田くんに向き合った。

「薫と同室の子?」

「はい」

「手のかかる甘ったれだけどよろしくな」

「いえ、月島はしっかりしてるから。俺のほうが迷惑かけそうです」

「そう言ってられるのも今だけだぞ。こいつ猫被ってるからな。なんか不満があったら遠慮なく俺にチクっていいからな」

「はは、ありがとうございます」

楓ちゃんは言うだけ言って、それじゃあピザ食べよー、と蓋を開けた。
黒田くんは年上にも物怖じせず話し、終始にこやかに夕食の時間を過ごした。

「たまに生活指導の気紛れで先生が抜き打ちで部屋来ることあるから気を付けろよ」

「うわ。二年になるとそういうのあるんですか」

「滅多にないけど。あと生徒会と寮長はマスターキー持ってるから悪いことしちゃだめだぞ?」

「しませんよ多分」

多分かよ。何をしてもいいけれど、僕を巻き込むのはやめてほしい。
ピザを頬張りながら、そういえば去年は香坂さんが寮長だったことを思い出す。まともに職務をこなす姿は見たことがないし、お飾りの役職だと思うけど。
そもそも香坂さんに寮長やらせるって人選ミスにもほどがある。どういう経緯で決まったのだろう。

「香坂さんってなんで寮長やってたの?そういうの絶対嫌がるでしょ」

「生徒会長様のご指名だよ」

なるほど。有馬会長の嫌がらせというわけだ。
ということは、次の寮長は甲斐田会長が決めるということか。

「次は誰になるんだろう」

「秀吉が泉にやらせるって言ってた」

「それなら安心。泉先輩真面目だし」

「まあ真面目だけど理由はそれだけじゃないらしい。どうしても泉にマスターキー持たせたいんだってさ」

「なにそれ。お守り的な?」

「さあな」

楓ちゃんはペットボトルの蓋をきゅっとしめながら曖昧に笑った。
黒田くん食べてるか?と彼の皿にぽいぽいピザを乗せ、たくさん食べて大きくなーれと魔法のような言葉を口にする。

「楓さんは本当にいいお兄ちゃんって感じですね。あ、楓さんって言っちゃった。すみません、京がいつも楓さんがー、楓さんがー、って言うからうつっちゃって」

「呼び方なんてなんでもいいって」

へらりと笑う二人を見ながらぼんやりした。
いつも。そう。いつも楓ちゃんの話しするんだ。
香坂の頭の中はまだ楓ちゃんでいっぱいだ。
わかっているのに。何度も何度もそう感じる場面に出くわしているのに、どうしていちいち傷ついてしまうのだろう。
もういい加減慣れろと言い聞かせても無意味で、兄の背中がどんどん遠くなる。
僕と楓ちゃんは何が違う。どうしたら兄に近付ける。どんな方法を使えば僕を好きになってくれるの。
押しつけがましい感情が頭を横殴りし、くらくらする。

「そんじゃ、腹もいっぱいになったし帰るわ」

「またいつでも来てくださいね。ノックしなくても気にしないんで」

「黒田いい奴ー」

楓ちゃんは黒田くんの頭をぽんと撫でた。
扉まで兄を見送り、後ろから服を引っ張る。

「なに」

「楓ちゃん気付いてる?キスマ見えてるよ」

「げ、マジ?」

「天下のモテ男も恋人を一人寮に残すのは心配なんだね」

くすりと笑うと、兄は心配なのはこっちだわ、と悪態をついた。
相変わらず仲がよろしいことで結構だ。兄の性事情なんて知りたくないけど。
扉を閉め、しっかり施錠すると黒田くんが片付けを済ませてくれていた。

「片付けありがとう」

「全然。ご馳走になったし。楓さん見た目はきつそうだけど話すといい人だよな。俺もあんなお兄ちゃんほしかったな」

「熨しつけてあげるよ」

思ったより棘のある声色に自己嫌悪だ。
楓ちゃんは悪くない。悪くないどころかいいところばかりだから香坂兄弟も友人たちもみんな好きになる。
誰からも遠巻きにされ愛されない自分とは真逆な人間。
どこで間違えてこんな性格になってしまったのだろう。同じ環境で育ったのにな。
落ち込みそうになり、先お風呂入るねと断ってから頭から冷水を被った。
片付けでくたくたの身体を引きずり、早めにベッドに入る。
スマホを見たが香坂からの連絡はない。

"片付け終わった?"

送るとすぐに返信があった。

"ぼちぼち"

"手伝おうか?"

"明日には終わるから"

手伝わせろよ。部屋に行く理由がないと会えないじゃないか。
ああ、そうか。これからは理由を探さなければいけないのか。
今までみたいに帰る場所が同じで、自動的に顔を合わせられるわけじゃない。
クラスも部屋も違えば同学年でもまったく接点が持てない。
小さな理由はそのうち売り切れになって、素直に会いたいと言えない自分を憎む日がきそうだ。
空白を作りたくない。常に顔を合わせ、今は自分とつきあってると思い知ってほしい。
そうでないと香坂の気持ちはまた簡単に楓ちゃんに傾くに決まってる。
邪魔だった香坂さんがいなくなったのだし、勝負にでるなら今なのだ。
自分が香坂の立場なら楓ちゃんの寂しさにつけこむ。遠くの親類より近くの他人。
なにかあったとき、すぐにその手を握ってくれない恋人より、近くにいる僕のほうがいいでしょうと畳みかける。
考えだすと止まらなくなり、がばっと上半身を起こした。
素直になれないとか言ってる場合じゃない。怖い。今すぐ顔を見て大丈夫と言ってもらわないと眠れない。
カーディガンを羽織り、香坂の部屋を目指すと、部屋の前で香坂と楓ちゃんが楽しそうに話していた。
風呂に入ったあとなのだろう。香坂の髪はぺたりと垂れ、眼鏡をかけている。
手に持っていたスマホをぎゅっと握った。
どうしていい予感は当たらないくせに悪い予感ばかり的中するのだろう。
やめてよ。そんな風に笑わないでよ。愛おしいものを見るような目で楓ちゃんを見つめないで。
怒りはすぐに落胆に変わった。
性悪な自覚はあるが、兄にこんな感情向けたら本当に手の施しようのない人間になってしまう。
大好きな楓ちゃんを大好きなままでいたい。
なのに抑えつけるほど息苦しくなる。常に誰かの手が首に回っているような感覚。

「かーおる」

はっと顔を上げると楓ちゃんが大きく手を振りおやすみと声を張った。
手を振り返し、兄が背中を向けた瞬間だらんとその手を下ろした。
こんなぐちゃぐちゃな気持ちを抱えながら香坂と対峙できない。
かといって無視をして引き返すのもおかしい。

「自販機行くの?」

「あ……。うん。でもお金忘れちゃったから戻るよ」

咄嗟に嘘をつきそれじゃあと言おうとするより前に香坂が口を開いた。

「出すから行こう」

来い来いと手招きされ、苦笑しながら頷いた。
いつも飲んでいるお茶を手渡され、あとでお金返すねとぼそぼそ話した。
さっさと部屋に帰って眠ってしまおう。無理に目を閉じていればそのうち眠れるだろう。
香坂の部屋の前でじゃあねと呟くと、腕を引かれた。

「なんかあった?」

「な、なにも!」

こんな否定の仕方、そうですと言ってるようなものだ。
僕は咄嗟の出来事に弱い。

「黒田がなんかした?それともむかつくこと言われたか」

「されてない。黒田くんは優しいよ……」

「じゃあなに」

「大丈夫だから」

「お前の大丈夫はあてになんねえんだよ。溜め込んで大爆発するくらいなら小出しにしろ」

うるさい、うるさい。誰のせいで。
僕ばかりが必死で、僕ばかりが右往左往してる。
空振り続きで香坂はそんな僕を歯牙にもかけない。滑稽で惨めだ。
頭の隅がじりじり焼けた。
よくない兆候を感じ、喉を引きつらせる。また面倒なだけの悪癖がでそうだ。
香坂の前で大泣きして整合性のとれない言葉を並べるくらいなら一人で泣くほうがまし。
一時だけでいいから気持ちを落ち着かせる魔法がほしかった。

「……大丈夫って言って」

「なに?」

「なんでもいいから大丈夫って言って」

「……大丈夫」

鼻を啜って口の中で礼を言う。おやすみと腕を振り払うようにしたが、今度は肩を引かれた。

「そのまま帰せるわけねえだろ」

部屋の中に押し込まれ、わ、わ、と馬鹿みたいな声を出した。
白石はもう眠ったのか、リビングは暗い。
腕をぎっちり握られ二つある寝室のうち、扉から遠いほうに放り投げれられた。
部屋の中はまだ片付けの途中だが、ベッド周りだけは綺麗に整っている。

「こっち来い」

ベッド端に座った香坂がこちらに手を伸ばしたので、自然とその手を握ってしまった。
ああ、またやってしまった。きちんと考えてから行動しなきゃいけないのに、彼からの施しは素直に受け取ってしまう。
香坂はなにも言わず、暫くの間背中を摩ったり、髪の毛に唇を落とした。
ちくちく棘を持った心が徐々に丸くなっていく。
香坂は僕と過ごす時間が長くなるにつれ、扱いが格段に上手くなった。
顔を覗き込まれたので慌てて視線を落とす。

「黒田じゃないなら俺が原因?」

「君じゃない。自分の問題だから平気」

「俺は関係ない?」

「か、関係……なくもないけど……」

香坂に言われたことがある。二人の問題なら二人で話し合うべき。恋愛は一人でするものじゃないし、どちらか片方だけが悪いなんてことはない。
それを聞き、なるほど、恋愛ってそういうものなんだなあと納得した。
初心者な自分はなにもわからないが、経験者の香坂が言うならきっと正しいのだ。
だからこうなったらもだもだせず、さっさと話したほうが合理的。
だけど絶対、絶対口にするわけにはいかない。
秘めておくべき気持ちは必ずある。いつまでも兄に嫉妬し、香坂を信用できないなんて言えないし、どうせ仮の恋人関係だ。
香坂が本心で誰を想っていようと咎められる立場にない。
悲しい、苦しい。濁る感情をすべて吐き出してしまいたい。
だけどその道を選んだのは自分で、現実がどんなに無慈悲でも挫けず僅かな可能性に縋ると決めたんだ。
だから自分で咀嚼し、呑み込み、消化しなきゃ。

「……ちょっと今後の生活が不安になって。今まで君と一緒で楽だったからホームシックというか」

「……そっか。でも黒田は素を出しても大丈夫な相手だと思う。急には無理でも徐々に楽につきあえるようになるから」

「そうだね。君がそこまで言うなら本当にいい人なんだろうし」

「それだけ?」

「うん。楓ちゃんはなんで君の部屋に来たの?」

さりげなさを装ったがうまくいっただろうか。
香坂は苦い顔をしながら後頭部をかいた。

「楓さんが兄貴と電話してる最中、俺にかわれって言ったらしくてわざわざ来てくれたんだ。大事な用でもあるのかと思ったら俺がいないからって楓に手だしたらマジで殺すからなってしょーもない釘刺された」

「……君のお兄さんも大概だよね」

「楓さんのことになると一気に馬鹿になる。その気持ちもわかるけど」

くすりと笑う顔を見て、折角丸くなった心からまた棘が飛び出した。
確かに楓ちゃんを追い駆けていたときの香坂も呆れるほど真っ直ぐで、馬鹿で、打算というものを捨て去った。
ここまでくると呪いだ。香坂兄弟をおかしくさせる呪いが楓ちゃんにはかかってる。
その呪いが僕にもかかってほしいけど、お伽噺は現実にならない。夢は眠っている間だけにしましょう。見たくもない現実が遠慮なしに迫ってくる。

「楓ちゃんを追いかけてた君を知ってる人なら簡単に諦めないだろうって思うよ。だってあの時の君すごかったもん」

「そんなに?」

「そんなに」

納得しかねる様子だったが、自分じゃ自分の姿は見えないから正しく認識できないのだろう。
あのときの香坂といったら、兄弟で殺し合いが始まるのではないかと危惧するほどの剣幕だった。
僕の大事な兄を困らせる香坂が憎かったのに、今度は兄に嫉妬。なんてご都合主義な心。

「弟のほうで手一杯だって言ったら大笑いしてたけどな」

「な、そりゃ、君に迷惑かけてるし面倒なことも言うけど……!」

両手でズボンをぎゅうっと握る。
恋愛初心者だから背伸びは諦めた。
等身大でいないと見苦しさに拍車がかかると思ったから。
だからきっと香坂はこのつきあいが楽しくない。わかってるけど自分なりの精一杯で前進しようと思ってるのに。

「そういうとこが気に入ってるって意味だよ」

腰を引き寄せられ乱暴に髪をぐしゃぐしゃにされた。
面倒が好きなんて、香坂は本当に変わってる。
だから自分なんかとつきえるのだろうけど、それにも限度は存在する。かわいい面倒と、かわいくない面倒があるだろう。
かわいくない面倒は押し付けたくない。例えば今回のような嫉妬心とか。
香坂さんが目立つところにキスマークをつけた理由が少しだけわかった。
ちっぽけな、消えてしまう印だとしても、一瞬の証だとしてもそれが残っている間は確かに相手は自分のものなのだ。
嫉妬や独占欲、面倒で目に余る言葉を慎む代わりの精一杯の自己表現。
するっと香坂の首筋を撫でた。
香坂を誰にもとられたくない。
小さな気遣いやこちらの機微を察してくれるところも、乱暴な仕草や言葉も、もう全部を箱に入れ、おもちゃの鍵でいいからかけたくなる。
首筋にゆっくりと顔を近付け、彼の肌に唇で触れた。
意外と高い体温を感じ、誘われるように吸い付く。
顔を離し、彼を見上げる。香坂はぽかんとしたあとくっくと笑った。

「なに!なにがおかしいの!」

「いや、そういうことされたの初めてだなと思って」

「初めて?」

「したことはあってもされたことはなかったな」

「ふうん」

初めてか。悪くない響きだ。
にやにやしそうな顔を引き締めたが、どうしたって緩んでしまう。
カーディガンの袖で口元を隠すと、その腕をとられ噛み付くように口付けられた。
顎を挟むようにされ、酸素を求めて口を開けると湿った舌が侵入してきた。

「っ、ちょ、待って」

ざらりとした舌が上顎をなぞる。その瞬間、ぞくりと背筋に電流が走り筋肉が弛緩するのがわかった。
いき場のない舌を捉えられ、遠慮のない責めにだらしなく口を開けたままへたり込みそうになる。
座ってられず、後ろに倒れても放してくれなかった。
両腕をぎっちり握られたまま、頭からばりばり食べられるように好き勝手される。

「くるし、くるしい」

「鼻で息しろ」

「無理……」

情けない泣き言を漏らすと一度顔を離し、数回深呼吸したのを確認するとまた口付けられる。
僕がしてあげたいのに、どうしていつもこうなるのか。
圧倒的経験値不足。それ以外にないのだけど、これじゃあ香坂が満足するように抱けない。もっと知識が必要だ。知識だけでどうにかなるならこんな結果になってないけど。
酸素が足りず頭がぼんやりする。頼んでないのにぐんぐんせり上がる涙が眦を流れたのを見て、漸く解放してくれた。
胸を大きく上下させると、香坂は涙と涎でぐちゃぐちゃな顔を覗き込みふっと笑った。

「目がとろんとしてる」

「し、してない!」

「次は上手くやるって言ってなかったか?これじゃあいつまで経っても俺を抱けねえな」

「ぐ……。次こそは……!」

「はいはい。このまま泊まる?」

「泊まりたいけど今日は帰る……。初日から外泊は黒田くんに失礼だし」

「朝帰ればいい。どうせあいつ昼過ぎまで寝てるから」

「でも──」

「一緒にいたい」

懇願するような表情にきゅっと口を引き結んだ。
乱暴なキスをしたくせに今度はかわいくおねだりか。香坂は情緒を乱す天才だ。
かわいすぎて握り潰したくなる。

「そ、そこまで言うなら泊まってあげてもいい、かなあ……」

視線をうろうろさせるとまた笑われた。

「ありがとうございます、薫様」

茶化すように言いながら布団の中に押し込まれる。
春先とはいえまだ夜は寒い。香坂の体温がじんわり馴染む瞬間がたまらなく好きだ。
同室の頃は頼めば一緒に眠れたけれど、これからはそうはいかない。一つの夜を大事にしないと勿体ないので限界まで起きていたい。
なのに彼を包むようにすると、不安や焦燥が詰め込まれ、がちがちに固まった心が解れ、安堵からふわふわ浮遊したような心地になる。
香坂の首筋に残った鬱血痕が視界に入り指先でなぞった。

「お前がこういうことするって意外だな」

「そう?僕は嫉妬深い人間だよ」

「それで月島が安心するなら好きなだけつけたらいい」

「そうだね。今度は見えないところにでも」

内腿を掌で撫でると、それは楽しみと言いながら耳先を噛まれた。

「うー!」

耳を手で庇うとけらけら笑われた。
呆れ交じりの溜め息を吐き、彼の頭を抱え込むようにし、髪に鼻先を埋めた。


END

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