エントロピーの法則




ベッドに横臥しスマホを眺めた。
ロック画面を解除し、連絡用アプリのアイコンを注視する。
何度見ても、何度確認しても新着連絡なし。細く、長い溜め息を零す。

「薫!飯!」

扉の向こうで叫ばれ、はーいと返事をしながらスマホをパーカーのポケットに突っ込む。
落ち込んだ気持ちを引きずるように、重い足取りでリビングの扉を開けた。
ダイニングテーブルに並ぶ昼食に少しだけ心が晴れる。
今日のメニューは新玉ねぎのオニオングラタンスープと春野菜のペペロンチーノ。
兄と向かい合って座り、丁寧に両手を合わせる。いただきますと小さく頭を下げてから口に含む。

「んまーい」

「当然」

兄はふん、と鼻で笑い、行儀悪く肘をついてパスタを啜った。
兄が香坂さんのマンションから実家に戻ったのは昨日。いい加減顔を見せに来いと母に叱られ渋々といった様子で帰省した。
以前なら二度と会えなくなるわけじゃあるまいし、と冷めた瞳で理解しかねると言っただろう。
だけど今なら楓ちゃんの気持ちが自分のことのようにわかる。
というか、自分も同じ状況なのだ。
自分と香坂は新学期が始まればまた以前と同じように顔が見られる。なのに数日離れただけで禁断症状に苦しむありさま。
香坂さんの手伝いをし、その後香坂の実家に一泊し、翌日ばいばいしたあと一切連絡がない。
会えないのは別にいい。物理的に離れているのだし。けどたった一度の連絡すらないってさすがに酷くないだろうか。
こちらは毎日毎日スマホを見てはがっかりする日々だ。
空白の時間が続けばどんどん嫌な妄想をしてしまう。
自分の知らない香坂の人間関係に嫉妬し、芸能人並みに美しい子がいたらどうしようとか、香坂が現実に引き戻されたらどうしようとか。
自分は彼女たちと対等に戦えるだけの武器を持ってない。
性別も、顔も、性格も。
スープをスプーンでぐるぐるかきまわす。

「早く食べないと冷めるぞ」

「あ、うん」

楓ちゃんのご飯が毎日食べられるから長期休みは大好きだったのに。
いつもなら目の前の料理に集中して美味しいと笑えたはずなのに。
ほんと、恋なんてろくなもんじゃない。
片付けは自分の仕事なので、おやつに手を伸ばす楓ちゃんのために甘いコーヒーを淹れてから食器を洗う。
自分の分のお茶を持ってソファへ近付くと、楓ちゃんのスマホが鳴った。
短い会話だけで相手は香坂さんとわかった。
数分話し、通話を終了させた兄は息を吐きながらスマホを放り投げた。

「……香坂さんのとこ戻らないの?」

「さあ。休み終わる前には戻るかもな」

「そうなんだ……」

湯呑を両手で包み、なんとなしに視線を落とす。

「……薫は?京と遊びに行かないのか?」

殊更明るい兄の声にぴくりとこめかみが反応する。

「知らない!連絡こないし!」

思い切り拗ねた反応をしてから、しまったと思ったがもう遅い。そもそも兄に取り繕う必要はないし、兄は自分がどうしようもない性格と百も承知だ。

「薫から連絡すればいいだろ」

「でも、なんか……」

一度してしまったらきりがなくなりそうで怖い。
決壊した壁は元に戻らない。すべてを流しつくすまで止まらないだろう。なら決壊せぬよう知らぬふりを続けたほうが絶対いい。
この面倒な性格は自分でもよくわかっている。最近は取り扱い方法がわからず、故障箇所を直せぬままどうにか誤魔化しているけれど。
そもそもこんな風になるのは香坂の前だけだ。
だから彼を遠ざければ不具合を起こさずすむのだろう。なのに感情は会いたくてしょうがない。理性と感情が一致しない気持ち悪さに発狂したくなる。

「あっちも薫から連絡くるの待ってるかもよ?」

「待ってないかもよ」

「薫ー。我慢したり強がったりは精神衛生によくないぞ。お前の性格わかった上でつきあってんだから大丈夫だよ」

「……そうかな」

「そうそう。香坂情報だと、京も結構嫉妬深くて束縛するらしいじゃん。似た者同士仲良くやりなさいよ」

「……ふうん。香坂はそういうタイプなんだ。僕には全然嫉妬もしないし束縛もしないけどね」

「あ……」

失言を悔やむ気持ちが思い切り顔に出ている。
へらっと笑われ、そんな顔で誤魔化されるものかと口を尖らせた。

「香坂は僕のこと好きじゃないんだよ。でもそんなこと最初からわかってるから別にいい」

「でもお前はそこで止まる奴じゃないだろ?京の気持ちを掴むためには行動あるのみ。なにもしないでいたら関係が悪化するだけだぞ」

「そうだけど……」

「薫自分でもよく言ってるじゃん。悲観的に計画し、楽観的に行動するべしって。だからかわいく会いたいって言ってこい」

「かわいいとかわからないし」

「おやつにパンケーキ作ってやろうと思ったけどやめようかなー」

「卑怯!」

「食いたかったらさっさと連絡しろ」

しっしと手を払われ、怒りを表すため足音を立てながら自室にこもった。
ぺたんと座り、両手で持ったスマホを見下ろす。
誰かと一緒かもしれないし、家族で過ごしたいのかもしれないし、春休みくらい解放してくれと思っているかもしれないし。
考えれば考えるほど実行できない理由ばかりを探してしまう。
緩く首を振り顔を上げた。
もっと前向きに考えよう。恋人同士なのだから気軽な連絡が許される立場だし、それに電話のほうが素直になれるかもしれない。
顔が見えない分、つい虚勢を張る癖が形を潜め、自分の心に向き合えるかも。
よし、と気合を入れ、通話アプリを起動する。
やけっぱちな気持ちで通話をタップしスマホを耳に寄せた。しかし一向に出てくれない。やっぱり僕とは違い予定がたくさんあるのかも。
ぱんぱんに膨らんだ風船が萎むように心も萎んでいく。
リビングに戻り楓ちゃんを指先でつついた。

「パンケーキ作って」

「お、ちゃんと言ったか?」

「出なかった。でも電話はしたからいいでしょ」

「えらいえらい」

楓ちゃんは大きな掌で頭を撫でてからキッチンに立った。
兄の助言を聞いたら現状が良くなると思ったのに、もやもやは電話する前より大きくなった。
見ないようにしていた寂しさを目の前に引き延ばされたみたいだ。
楓ちゃんは頑張ったご褒美と言いながら大量のホイップクリームと蜂蜜がかかったパンケーキを作ってくれた。
弟に甘すぎると呆れるが、だからこそ兄が大好きだ。

「楓ちゃん、死ぬまで一緒に住もう。毎日これ作って」

「薫は一人にしておけないからな」

「やったー。じゃあ香坂さんと、楓ちゃんと、三人ね」

「京は?」

「そこまで関係続くわけない」

「後ろ向き」

「後ろ向きじゃない。現実主義」

その時、ポケットに入れたままだったスマホが震えた。
慌てて取り出し、香坂京の名前にぴゃっと肩が跳ねる。その様子を見た兄にくすりと笑われ、居心地悪く自室に移動する。

「もしもし」

少し怒ったような声色になってしまったのは久しぶりでどうしていいのかわからなかったのと、浮足立つ心を抑え込むため。

『悪い、電話気付かなかった』

「いいよ別に。随分忙しいみたいだし」

嫌味を言ってからなんでこういう物言いをしてしまうかなあと自己嫌悪する。
嫌味が標準装備になっているので意識しないと直せない。本当に性格が悪いと再認識する。

『別に忙しいってわけじゃ……』

香坂はごほん、と一度咳をしてからそれで?と優しく問いかけた。

『何かあった?』

「なにも、ないけど……」

電話口で沈黙が流れ、じわじわ喉と胸を締められる。
やっぱりこういう普通の恋人みたいな真似はだめなんだ。もっと男同士、さっぱりしたお付き合いを御所望なのかも。
兄弟といえども性格は違う。香坂涼と、香坂京は別の人間なのだし当たり前。だけど兄たちを見ていると自分もあんな風になりたいと願わずにはいられなかったのだ。
自分ばっかり。いつだってそうだ。

「よ、用がなかったら連絡しちゃだめとか、そういうルール知らなかったし」

『そんなこと言ってない。いつでも連絡していい。ただお前はそういうの嫌いなのかと思ったから』

「そんなわけ……」

ないじゃん。僕のどこを見てるの?言おうとしてやめた。
月島薫は憎たらしい現実主義で、恋愛至上主義を小馬鹿にするような人間だ。香坂がそう思うのも当然で、だけど君には違うのだと伝える術がない。

「きょ、今日はなにしてた?」

気持ちを切り替えるようにすると、香坂はんー、と悩んだあとなにも、と短く答えた。

『お前は?』

「僕も特には……。勉強も終わってるし、楓ちゃんの作ったお昼とおやつ食べただけ」

『羨ましいな』

「こ、香坂も楓ちゃんのご飯食べたい?」

『うまいしな』

「じゃあ家に来たらいい!香坂も予定ないんでしょ?」

『予定はないけど……』

その先を濁されがっくり落ち込む。
予定がないにも関わらず僕には会いたくないと。そこまで求めてませんと。ああ、そうですか。わかってたけど本人からそういう空気を出されると地面にめり込むほど落ち込む。

『……俺に会いたい?』

いつもより掠れた声に、反射的に否定しようとした言葉を呑み込んだ。

「……まあ」

結局、こんなかわいげない答えになるのだけど。これでもがんばったほうだとわかってほしい。

『そんな答えじゃ行けねえなあ』

揶揄する口調と声色に眉が寄る。
こっちはいつも必死で、嵐の中でもがいてがんばってるのに香坂はいつもそうだ。両手足をばたつかせている自分を見下ろしにやりと笑って小馬鹿にする。
気持ちの差を見せつけては僕を不安にして振り回し、怒りと悲しみがない交ぜになってふくれっ面をすると子ども扱いで宥められる。
それを何度も繰り返し、ほとほと疲れたのにまた同じパターンで地団駄を踏むのだ。

「じゃあ来なくていい!」

『本当に?』

「嫌々来られたってお互い気分よくないでしょ!どうせ喧嘩になるんだし!」

『嫌々なんて言ってねえだろ』

「え……。本当?」

『本当』

「じゃあ、会いたい、かも」

『かも、ねえ。まあ、及第点だな』

「えらそうに!」

くっくと笑われ、ふくれっ面が止まらない。
香坂はもう一度咳をしてからマンションに着いたら連絡するから出てこいと言った。

「部屋に上がらないの?」

『顔見たら戻る』

「夜は予定があるの?」

『……とりあえず今から行く。じゃあな』

曖昧に濁され、一方的に切られた電話をぼんやり見た。
顔が見えないほうがいいかも、なんて思ったけど見えないほうが不安だ。それに声を聞いたら会いたくなる。会ったら触れたくなる。触れたら離したくなくなる。連鎖する欲に自制心が追い付かない。
こんなんじゃだめだ。
わかっているのに上手に立ち回れない。恋愛一年生と揶揄されるが、まったくその通りで生まれたての赤ちゃんのほうが賢いと思うほど、今の僕はだめだめだ。
少ししか会えないらしいので、嫌味な性格を極力押し込め、かわいい月島薫を演じよう。でもかわいいってなんだ。
あまりにも抽象的で人によって違う価値観を的確に表現するのは難しい。
香坂はたまに僕をかわいいと言うけれど、それも無理に言わせているようなもので。
そもそも男なのだからかわいくするのは気持ち悪いだろう。
結局いつも通りが一番と結論付け、香坂から連絡がくるまで昼寝をする兄の隣でテレビを眺めた。
電話を切ってから一時間半後、着いたというメッセージを見て慌ててエントランスへ向かう。
自動ドアをくぐり、スマホを眺める彼に駆け寄った。

「香坂」

「よお」

マスクで隠された顔に首を捻る。これじゃあ目しか見えない。

「花粉症?」

「ちょっとな」

電話のときからはぐらかされてばかりだ。僕に知られちゃまずいことでもあるのか。
むっと口をへの字にし、マスクに手を伸ばしたのにひょいとかわされた。

「ちょっと顔見せてくれてもいいじゃん!」

青あざでもあるのだろうか。地元に戻った途端喧嘩とか勘弁してくれと思うけど、こいつの沸点の低さや喧嘩っ早さを知ってるだけにしょうがないという諦めもある。

「喧嘩して青あざできたとかじゃないよね」

「してねえよ。大人しく家にいたし」

「じゃあなに」

「なんでもないって」

香坂は咳払いをし、喉にそっと触れた。そして堪えていたが我慢できないといった様子で顔を背け、数回咳き込んだ。

「……もしかして風邪ひいてる?」

「ひいてない」

「嘘だ。熱あるとか?」

手を伸ばしたが、その手を払われ一歩距離を置かれた。

「香坂!」

「うるせえ。頭に響く」

「やっぱり熱あるじゃん。なんで言ってくれなかったんだよ。僕はこんな無理をさせたかったわけじゃなくて……。とにかく、部屋行こう。寝たほうがいい」

「いいって。顔見たし帰るから」

「そんな状態で帰せない」

「うつるかもしれないだろ。お前のほうが身体弱いんだから」

「僕は平気だよ!」

「いや、マジで大丈夫。熱とかないし」

押し問答に決着はつかず、これは無理にでも引き摺るしかないかと思案すると、サンダルをひっかけた楓ちゃんがやってきた。

「京じゃん!薫に我儘言われたのか?そんなとこいないで部屋来いよ」

「この馬鹿風邪ひいてるのに来たんだよ」

「あらまあ。じゃあ尚更家来いよ」

「でも」

「いいから。な」

「……はい」

香坂はいつも僕が言ってもきかないくせに、楓ちゃんが言うことは素直に聞く。
鶴の一声なのだけど、こういう場面に出くわすたび心が摩耗していく。
今は落ち込んでいる場合じゃないので、コンビニへ行った楓ちゃんを見送り香坂の腕を引いた。
背中でごほごほと咳を続けるたび、可哀想で眉が下がる。
香坂を僕の部屋に押し込み、着替えさせ、ベッドに寝かせる。
しまった毛布を引っ張り出し、布団の上にかけてやる。
必要なものは楓ちゃんが買ってきてくれるだろう。
加湿器をベッドの傍におき、湿度計を確認する。
ベッドに肘をつき香坂を覗き込んだ。

「近付かないほうがいいぞ」

苦しむ君を前にしたら傍にいたくなるでしょう。そんなこともわからないのか。
香坂は過去たくさんの恋をしたくせに、肝心なところは抜けている。

「うつしたって怒られても責任とれねえぞ」

「そんなこと言わないよ。どんだけひどい人間だと思ってるの」

「そうか?」

真剣な顔で言われたので、本気でそう思っていたらしいと知る。
まあ、仕方がない。以前の僕なら確実に言った。
君のせいだ、どうしてくれる、呪ってやる。そうやって喚き散らし喧嘩になる。
恋人に関係が変化して日が浅い。互いの心境の変化をすべて把握しているわけじゃない。以前の自分たちしか知らなくて、好きな人だけに見せる顔とか、優しさとか、そういうのが想像できない。
ゆっくり知ってくれればいいなんて悠長なことは言えない。一ヵ月しかないのだし、出し惜しみせず想いを伝えなければいけないのだ。
香坂の髪を掌でかきあげるように撫でた。

「代わってあげたいよ」

「……嫌だよ」

「なんで」

「なんでも」

変な奴。代わってくれるの?ラッキーと言うべきなのに。
ゆっくり頭を撫で続けると、彼は次第に瞼を落としていった。

「起きたらご飯食べて薬飲もうね」

「……わかった」

玄関が開いた音がし、リビングへ向かった。
楓ちゃんがエコバッグから薬や経口補水液をとりだしている。

「京大人しくしてるか?」

「うん。さっき寝た。あとでお粥食べさせようと思って。楓ちゃん作ってくれる?」

「作るのはいいけど……。じゃあ薫も一緒に作ろう。教えてやるから」

「僕はいいよ。料理下手だし、美味しくできないから」

「やらなきゃ上達しねえぞ。今後のために覚えとけ。薫は頭いいからすぐ覚える」

「でも楓ちゃんのご飯が食べたいって言ってたから。彼もそのほうが嬉しいと思うし……」

「いいから、ほら、こっち来い」

シンクへ手招きされ、用意を始めた楓ちゃんを目で追った。
楓ちゃんに微熱で、鼻もつまってなさそうなので味覚は正常と告げる。兄はそれなら味気ないお粥より美味しさも考えなきゃなと呟いた。
冷蔵庫を開け、腕組みでうーん、と唸る兄の背中を眺める。
兄の背中は大きく、越えるには相当の努力が必要だ。弟から見ても魅力的なのだから他人の目にはきっときらきら光って見えるだろう。
だから香坂の気持ちを楓ちゃんから自分に向けさせるのは至難の業で、あれこれ企んでもすべて意味がないとわかっている。

「よし、作るか」

こちらを振り返る兄にはっとし、無理に笑みの形にした。
牛乳、ベーコン、玉ねぎ、バター、粉チーズ。
ずらりと並んだそれらを見ても味が想像できない。
別の食材を組み立て、一つにする作業はとても難しい。毎日献立を考えるだけでかなり脳のトレーニングになるという。
それを高校生の段階でできてしまう兄は末恐ろしい。
兄はカウンターからこちらを覗き込むようにし、あれや、これやと指示を出す。
米を洗って数十分水につけたままにする。その間に玉ねぎをみじん切りにし、ベーコンを切り、鍋にバターをひいて炒める。
この段階でもうへとへとだ。緊張で震えながら包丁を握ったせいで手が痛いし、玉ねぎのせいで目から涙が溢れるし。

「目が痛い」

「誰しもが通る道だ。がんばれ」

鍋に水気を切っておいた米と水、調味料を入れ蓋をする。一瞬も目を逸らさずにいると、そんなに緊張しなくても爆発しねえよと笑われた。
牛乳を追加し、鍋底が焦げないようゆっくり混ぜる。
料理って楽じゃない。お粥を作るだけでこんなに神経を使うのだから、同時進行で二品、三品作る兄は神様だ。
最後に粉チーズと黒コショウをふりかけ、パセリを散らしたらできあがり。らしい。

「味見したか?」

「してないけど、楓ちゃんの指示通りにやったから大丈夫でしょ」

「じゃあ少し食べてみな」

スプーンですくい、味を確認する。特別美味しいわけじゃないけどまずいというわけでもない。
何故だろう。楓ちゃんが作るとどれもこれも美味しいのに、自分で作ると途端に味気ない。これじゃあ香坂も満足できない。

「早く持っていってやりな。薬と水も一緒にな」

「……うん」

お盆にセットし、自室へ戻る。音でこちらに気付いた香坂が薄っすら瞳を開けた。

「……いい匂い」

「あ、これ、お粥……」

「楓さんが作ったのか?」

「うん」

咄嗟に嘘をついた。
味がいまいちでも楓ちゃん作と思えば美味しくなる魔法がかかる。きっとそうだ。
ゆっくり起き上がった香坂の腿にお盆を置いてやる。
蓋を開けると湯気がたちあがり、香坂はふっと笑った。

「うまそう」

香坂は蓮華を持つ手をとめ、こちらに差し出した。

「なに」

「風邪のときってあーんってやるじゃん」

「そこまで重症じゃないくせに」

「お前がやりたいかと思って」

は?と言いたいのを堪える。
確かに僕は大義名分がなければ彼を甘やかすこともできない意地っ張りだ。
彼の手から蓮華をひったくるようにし、少しずつ冷ましながら口に運ぶ。

「ど、どう?味する?」

「うん。うまい。味しないお粥好きじゃないからこういうほうがいい」

「そう……」

ほっと安堵したが、鍋底に近付くにつれ焦げを見つけた。
もしかしたら火の通ってないお米もあったかも。あんなにかきまぜたのに、それでも足りなかった?それとも火加減を間違ったか。料理って本当に難しい。細かい気配りが下手な人間には苦行だ。
焦げた部分を隠すようにそっと鍋に蓋をする。

「もう終わり?」

「お、終わり。またあとで何か作ってもらおう。薬飲んで、眠れるならもう一度眠って……。今日は泊まってね。ご実家には楓ちゃんから連絡してもらうから」

「ん」

抵抗されるかと思ったが、香坂は意外にもあっさり了承した。
一度身体を休めたら億劫になったのだろう。
そんな状態でわざわざ来ずとも電話で訳を話してくれればよかったのに。
そうしたら僕も会いたいなんて口が裂けても言わなかった。
困らせたくない。面倒だと思われたくない。なのにどうして、真逆なことばかり彼に押し付けてしまう。
計画は狂いまくりでこんなんじゃ全然だめだと落ち込む一方だ。
彼の中で自分への好意がどんどん目減りしている気がして、膝に置いた拳を握った。

「……なんでそんな顔してんだよ」

「そんな顔ってどんな顔」

「泣きそうな顔」

そうっと髪を耳にかけられ慌てて俯いた。

「わ、悪かったなと思っただけ。無理させたかったわけじゃないのに」

「……ほぼ治ってるから大丈夫だと思っただけ。お前のせいじゃない」

掌で頬を包まれ感情の水位が急激に上がっていく。何故か泣きそうになり下唇を噛んで耐えた。

「なあ、なんかお菓子食いたい」

湿っぽい空気を無理に払拭するように彼が言う。
僕が落ち込む前に対処しようとするそういう優しさも、与えられるほど情けなくなる。

「……楓ちゃんが作ったパンケーキ食べる?時間が経ったからぱさぱさしてるかもしれないけど……」

「食う」

「待っててね」

盆を持って部屋を出た瞬間、溜め息を吐きながら天を見上げた。
落ち込むのはあとにして、今は彼の世話だけ考えよう。
今までは自分が身体的にも精神的にもフォローされてきた。こういう時に与えられた分を返さないと。
鍋に水を張り、冷蔵庫から三段に重ねられたパンケーキをとりだす。
電子レンジで温めればいいのか、トースターがいいのか、はたまたフライパン?
楓ちゃんに助言を求めると、それならフレンチトーストにすれば、と言われた。

「またそうやって難しいこと言う。楓ちゃんはぱぱっとできるかもしれないけど僕はできないんだよ」

「じゃあ今度は俺がやるからお前は見てろ」

卵を片手で割ったり、牛乳を混ぜたり、兄の綺麗な指が淀みなく流れる。
兄はもともと器用で、髪を切ったり、アレンジしたり、工作などの細かい作業も得意だった。
幼い頃から魔法みたいと思っていたが、その認識は今も変わらない。

「ほい、完成」

「ありがと……」

見事なフレンチトーストを見下ろし、半分は僕が食べようと決めた。
先ほどと同じように小さく切った元パンケーキを香坂の口に運んで、三回に一回は自分が食べてを繰り返し、あっという間に三枚が消えた。
楓ちゃんは香坂の口に合うよう、甘さ控えめにしたので僕的には物足りなかったが、そういう調整が簡単にできるのも熟練の技といった感じだ。
僕も毎日作り続ければいつかあんな風にできるのだろうか。元々の器用さが違うので一生無理な気もする。
香坂はもぞもぞ布団に入り直し、こちらに顔を向け横臥した。

「一人で寝たい?」

「いや……」

「じゃあ寝るまでここにいていい?」

「うん」

「さっきは近付くなって言ったくせに。病気になると香坂も心細くなるんだね」

「そうだっけ?」

とぼける様子に苦笑し、とんとんとリズムをとって身体を叩いた。
自分がする看病の方法はすべて楓ちゃんがしてくれたことをなぞっている。
毎日喧嘩ばかりだったが、体調を崩したときだけ兄は優しかった。
今より上手くない料理を作り、泣き喚く僕を宥めながら薬を飲ませ、よくなったらこんなことしよう、あそこに行こうと希望を持たせ、眠るまで傍にいてくれた。
香坂は布団からそっと手を出し、ひらひらとさせた。意図を察し、いつもより少し熱い手に自分の手をそっと重ねる。

「風邪治ったらお前が行きたいとこ、どこでも連れてくから」

「そんな状態でなに言ってんの。それに行きたいところなんてないよ」

君の傍にいたい。望みはそれだけだ。とても簡単だろう。簡単すぎて叶わない。
苦い気持ちに蓋をし、寝息が聞こえるまでずっと彼の顔を眺めた。


香坂は夕飯時になっても眠り続けたので、無理に起こさぬよう部屋の照明を落として扉をしめた。
母には無理に来させるなんて、と叱られたが、その通りなので言い返さず黙って説教を受けた。
夕飯の片付けを済ませ、順番に風呂に入る。
リビングのソファでタブレットを眺めていると、風呂を済ませた楓ちゃんに次どうぞと促される。
タブレットを兄に手渡し、いつもより時間をかけず風呂を出た。
ドライヤーをかけぬまま洗面所を飛び出すと、母にあんたまで風邪ひくでしょと叱られ、渋々髪を乾かした。
今度こそ部屋に戻ろうとレバーに手をかけると、中から楓ちゃんと香坂の話し声が聞こえた。

「お粥とフレンチトースト美味しかったよ」

香坂のどこか甘い声に指先が冷えた。

「だろ?なんせお粥は薫が四苦八苦しながら作ったから」

「ああ、やっぱり。あいつは楓さんが作ったって言ったけど、なんとなく違うと思った」

「味変だったか?」

「いや、火の通りがまばらだったし焦げたとこ隠そうとしてたから」

「でも初心者にしては上出来だっただろ」

「うん。なのに完璧じゃないって隠そうとするんだからかわいいよな、月島って」

見透かされていたと知り、顔に熱が集まる。

「だろー。薫は知れば知るほどかわいい奴なんだよ」

香坂がふっと笑った気配があり、羞恥がすぎてリビングへ向かった。
水を一気に飲み、ぷはっと息を吐き出す。
どんな顔で戻ればいいんだ。必死に隠していた気持ちとか、行動とか、全部筒抜けなんてひどいじゃないか。
知らぬふりをしてくれた香坂を責めるわけにはいかないが、もっと完璧に演じなければと気合いを入れ直す。

「風呂あがってたんだ。京起きたぞ」

楓ちゃんにぽんと背中を叩かれ、水が入ったペットボトルを握り潰しそうになった。

「か、楓ちゃん、香坂に余計なこと言わないでね」

こそこそ耳打ちすると、楓ちゃんは口端を持ち上げ首を竦めた。

「わかった。余計じゃないことは逐一言っていいんだな」

「楓ちゃん!」

「はいはい、わかりましたよ」

絶対わかってない。ぐぬぬ、と睥睨したが、兄はけらけら笑うばかりだ。
もういいと背中を向けると、香坂が顔を出した。
随分顔色がよくなったし、背筋もしっかり伸びている。
香坂は母と父に礼をし、こちらに戻ると風呂入りたいと言った。
楓ちゃんのスウェットを貸してやりゆっくり温まるようにと添える。

「薫ー、今日は楓の部屋で寝なさいよ。京くん具合悪いんだからゆっくり寝させてあげなさい」

「わかってる」

口煩い母から逃げるように楓ちゃんの部屋に布団を敷いた。
だけど眠る前、少しだけなら話してもいいだろうか。
そうっと自室に戻りベッドに転がる。
彼の香水の匂いと、それから整髪剤の香り。
自分のベッドから香坂の匂いがするなんて不思議だ。きっと明日には消えてしまうのだろうけど、ずっとこの匂いが残れば彼に包まれたような心地で眠れるのに。
すうっと息を吸い込むと、香坂が戻ってきた。

「おねむか」

「違う!」

慌てて起き上がり、彼が首にかけていたタオルをひったくる。
治りかけのくせに髪も乾かさないで。思ってから口煩さは母譲りだと気付いてがっかりする。
ドライヤーで乾かしてやり、布団に入ることを勧めた。なのに香坂はベッドの上にあぐらをかき、背後の壁に背中を預けた。

「寝飽きた」

「夜更かしするとぶり返すよ」

「わかってる。月島」

伸ばされた手でおいでと示され少し逡巡したあと彼と向かい合うよう座った。
膝の上に置いていた手をとられ、ぎゅぎゅと握られる。

「月島のおかげで治った。ありがとな」

「僕が会いたいなんて我儘言ったせいでひどくなったんだし、これくらいするよ」

「我儘じゃないって」

「だって春休み明けたらすぐ会えるのに数日も待てないなんて……」

自嘲気味に笑うと背中に腕を回された。
撫でるように上下する手が気持ちよくて、身体を弛緩し凭れかかる。

「月島が望むこと、出来る範囲で叶えてやりたいし、月島にも叶えてほしい。それって普通だろ?明日会えるとしても今日会いたいと思ったら言えばいい」

「……うん」

色んなことで悩んで、色んな場面で不安になって、香坂の一言で落ち込んで、香坂の手で安心する。
目まぐるしい回転扉のような心を抱え、もうへとへとだ。
このまま彼にくっついて眠りに落ちたらどんなに幸せだろう。数拍考え、だめだと無理に身体を起こす。

「僕は楓ちゃんの部屋で寝るから」

早く切り上げたかったのに、香坂は握った腕を放さなかった。

「もう少し」

すっぽり包むように抱き締められる。香坂は僕を振り回すのがとても上手だ。
際限なく欲しがってしまわぬよう、自制心をかき集めブレーキを踏んでいるのに、そんな努力をこうして蹴散らしていく。なんだか癪だ。

「……香坂、おやすみのキスしてよ。風邪うつったら香坂に看病してもらうから。いいよね?」

「当然」

香坂は頬に手を滑らせ、暫く視線を合わせたあとゆっくり優しい口付けをくれた。

「こんなことしてるとまたおばさんに怒られるな」

「そ、そういう意地悪言わないでよ」

「かわいいと意地悪したくなんの」

かわいいと意地悪がイコールになるのか。よくわからない。
わからないが、香坂の意地悪が好意からくるものなら許してやろう。むかつくけど。

「じゃあたまになら意地悪してもいいよ」

毎回は困るし、優しいほうが好きだけどたまになら。喧嘩にならない範疇なら。
譲歩してやったぞ、と誇らしい気持ちになったが、香坂は長い溜め息を吐いた。

「お前って奴は本当に……」

呆れたような口調に視線を泳がせた。間違った箇所を探そうとしたが、性急に口を塞がれそれどころではなくなった。

「……楓さんのとこ行くなよ。俺と一緒にいて」

「……うん」

彼に抱きつき服をぎゅうっと握る。
ああ、でも一緒にいたらもっともっと求めてしまうからとても苦しくなるんだった。
自分で自分の首を絞める状況に身を置き、ゆるやかに流されていく。
こんなに意志薄弱だったっけ?
これも香坂の前だけの自分なのだろうか。
彼の目に自分がどう映っているのか確かめたくて香坂を覗き込むようにすると、彼は片方の眉を吊り上げた。

「……香坂、やっぱり少し夜更かししよう」

「お前の計算なのか天然なのかわからないとこマジで怖いわ」

「なに言って……」

「さすがにお前の家じゃこれ以上できないし、今日はもう大人しく寝てくれよ」

「僕は最初からそのつもりだよ」

「なんだ。誘ってんのかと思った」

「さ、誘うわけないだろ。病人相手に」

「じゃあ夜更かしってなにすんの」

「話したり、とか……」

僕が知らない数日を教えてほしかったのだけど、香坂はくっくと笑い子ども扱いするように頭を撫でた。

「お喋りね。はいはい」

「い、意思の疎通は大事なんだよ!僕たちお互い勘違いしてること多いし!そのせいでよく喧嘩になるし!」

「そうだな」

ふん、と鼻で嗤い羞恥を誤魔化す。身体を反転させ、彼に背中を預けた。

「じゃあ何から話す?」

「そうだな、とりあえず──」

些細なことでもいいから教えてよ。できればもっと、君の心の奥底も。だけど僕の気持ちはあまり聞かないでね。
彼に知ってほしいような、ずっと隠していたいような、不安定な天秤の真ん中で狼狽える。
もっと上手くやろう。何度も思うのに具体的にどうしたらいいのかわからぬまま毎日が終わってしまう。呑気にしてる暇はないのにな。


END

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