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兄が香坂さんがこの春から一人暮らしするマンションにいるのは知っていた。
短い春休みを利用し、引っ越しの手伝いという名目でいちゃいちゃしているのも。
なのに、どうして自分までここにいるのだろう。
エントランス前でマンションを見上げ長い溜め息を吐く。
昨晩香坂さんから電話があり、人足りないから手伝ってとぶりっこ口調で言われた。
そこまでする義理はないとぴしゃりと跳ねのけたが、京も来るという言葉にころっと態度を変えた。お互い実家に帰省し、もう三日も会ってない。
久しぶりに地元に戻れば香坂はそちらのつきあいがあるだろう。
かわいらしい女の子と接したら我に返ってしまうかも。どうかしてたと自分を嫌悪し、一ヵ月を待たずしてやっぱり無理と言われてしまう。
そうならぬよう、日々顔を合わせ今つきあっているのが誰なのか、今更さよならなんて言わないよねと彼の良心に語り掛ける必要がある。
適当に手伝ってるふりをして香坂に思い出させてやらなければ。
目的を再確認したのち、短く溜め息を吐くと背後から肩を叩かれた。
振り返れば見慣れたシルバーアッシュの髪色が更に白くなった香坂がいた。
「お前も呼び出されたの?」
「……あ、うん。久しぶり」
「久しぶりってほどじゃないだろ」
変な奴と笑われる。
たった三日。されど三日。
毎日顔を合わせていた自分にすれば三ヵ月にも値するけど、香坂はそうでないらしい。
恋しい、会いたい、声だけでも。そんな風には思ってくれなかったと知り少し落ち込む。
「……髪染めた?」
「根本黒くなってきたから」
「そんなにいじめたら将来ハゲそう」
「そのときはそのときで。こんな色、今しかできないし」
「うちの校則が緩くてよかったね」
「ほんとだな」
彼と違い一度も染められたことのない真っ黒な髪をくしゃりとされ、エントランスに進む背中を慌てて追いかけた。
久しぶりのスキンシップは心臓に悪い。
耐性が薄れてしまったから、今から触りますと一言添えてからにしてほしい。
乙女か。心の中で自分に言い、恋をする上で男女差などないと思い知る。
ただ男の場合表に出さず格好つけてるだけで、心の中は嵐だったりするものだ。だからこうなってしまう自分は悪くない。普通、標準、平均的。言い聞かせることで平静を保つ。
オートロックを解除してもらい、玄関扉のレバーに手をかけた瞬間、中からものすごい音が響いた。恐らくステンレス製の何かを落としてしまったのだろう。次には何か言い合うような声。もうそれだけで中に入るのが嫌になる。
「入りたくねえ……」
香坂も同じ感想らしい。
恐る恐る玄関を開けると、ステンレス製のボウルを抱えた兄が香坂さんを怒鳴っていた。香坂さんは髪に手を差し込みうんざりした表情だ。
廻れ右したい気持ちを抑え、折った指で壁をこんこん叩く。
「おー、薫」
香坂さんがひらりとこちらに近付き、耳元で助かったと囁いた。
楓ちゃんは口煩いからなあ。
香坂さんに同情しつつ、けれど多忙な両親に変わって僕の世話を焼き続けた結果でもあるため強く言えない。
楓ちゃんはつまらないことでよく怒るけど、怒り自体は持続させない。
さっぱりと気持ちを切り替えられるので、今も自分たちを見てすっかり笑顔だ。
「早速手伝いたまえよ弟たち!」
順番に背中を思い切り叩かれ、ぐえっと潰れた蛙のような声が出た。
リビングダイニングの他に寝室という標準的な1LDKの間取り。
立派な冷蔵庫やテレビを見ながらなんて贅沢なと嫌味を言いそうになる。
テーブルやテレビボードなどの大型家具はもう出来上がった状態で置かれており、蓋が開いた段ボールが転がっている。
細々としたものをしまうとなると、家主の香坂さんにお伺いを立てながらでないと進まない。
「なにすればいいんですか」
「珍しくやる気じゃん」
「香坂さんのことだから、すごいお駄賃くれるんだろうなあと思って」
「そうそう。すごいの用意してるからがんばれよ」
ぐいぐい背中を押され、辿り着いたのはバスルームだ。
「段ボールの中のもの適当にしまって、ついでに掃除もよろしく」
ぽつんと脱衣所に残され、仕方がないので積み重なる段ボールを漁る。
とりあえず出しておけば後で香坂さんか楓ちゃんがいい按配に配置するだろう。
細々したものを仕訳けるのは思ったより大変で、自分が引っ越すときはコンパクトにまとめようといい勉強になった。
新品のスポンジと洗剤でバスルームの床を擦る。
昔から皿洗いや掃除は自分の役割だったので慣れたものだ。
楓ちゃんは料理や洗濯などゼロから一にする係、自分は洗い物や畳む作業など一をゼロに戻す係。そうやって幼い兄弟二人でもそれなりに生活してきた。
両親からすれば手のかからない子どもだったかも。いつでも自活できる生活能力を得ることができたのだし。
楓ちゃんなんてすっかり料理の腕が上がり、香坂さんの胃袋も掴んだ。
自分も香坂の胃袋を掴めるよう練習すべきだろうか。
面倒の気持ちが勝ってしまい、結局楓ちゃん任せにしてしまうけど。
ピカピカになった浴室を見渡し、よしと頷く。
変なところで完璧主義なので、一度やり始めると止まらない。ここまでやれば文句はないだろう。
清々しい気持ちでリビングに戻ると、香坂さんと楓ちゃんがブルゾンを羽織っていた。
「買い出し行って来る。ついでにピザでも買ってくるから」
「僕ウインナーのやつ」
「わかってるよ」
くすりと笑った楓ちゃんは、昔から舌が成長しないと一言嫌味を付け加えた。
膨れっ面で二人を見送り、ソファに座る香坂の隣に着く。
開け放した吐き出し窓でミラーカーテンが翻る。隙間からほのかに花の香りがした。
「いい部屋だね」
「そうか?」
「お家賃いくらなのか聞くのが怖いけど」
「駅から離れてるしそこまで高くないって。ただ綾が大学の近くじゃないとどうせ行かなくなるだろうって」
「僕だったら実家から通えって言っちゃいそう。だって君の家から電車で一本じゃん」
「親元はさっさと離れろがうちの家訓。兄貴も一人暮らし望んでたし。それに親父帰って来るから邪魔者はいなくなってほしいんだろ」
「息子を邪魔者扱いなんてしないよ」
「うちの両親ならする。こっちだって親がいちゃいちゃしてんの見たくねえし」
「仲がいいのはいいことだよ。因みにどの程度?」
「おはよう、ただいま、いってきます、おやすみのキスは当たり前。世界一綺麗だの、綾と結婚できて幸せだの毎日飽きずに言いながら腰を抱く。最悪」
「洋画見てるみたい。でも香坂の両親なら絵になるし、嫌な気持ちにはならないかな。……ああ、だから香坂さんもあんな風なのか。それを見て育てばそりゃああなるよね」
香坂さんは楓ちゃんに対してスキンシップ過多。
本人は無自覚だろうが、隣に並べば腰に手を回し、背後に回れば抱きついて、向かい合えば距離が近い。
関係を知ってる自分はああ、またかと思えるが、あれを外でやったら随分仲がいいなとじろじろ見られそうだし、香坂パパとママにも勘繰られるのではないか。
楓ちゃんもそんな香坂さんにすっかり慣れてしまったのか、いちいち咎めず当たり前のように受け入れている。
いつか、どこかで墓穴を掘るに違いない。
それに比べ、弟のほうは恋人に対しても慎ましい。
もしかして僕相手だからであり、今までの彼女には同じようにしてきたのだろうか。
別に人前でくっつきたいわけじゃないし、時と場所を考えるのは当然だと思う。思うけど少し楓ちゃんを羨ましいと感じてしまう。
それくらいの熱量で思われれば不安なんて吹き飛ぶ。しかもモテ男まっしぐらの香坂さんが相手なら尚更。
拗れて虚勢を張ってむきになる楓ちゃんの性格を理解した上で、特別な人であると周りにも本人にもあえて示しているのかもしれない。
「……君はあんまりそういうのしないね…」
「俺は親を反面教師にまともな大人になろうって決めてるから」
「でも別に悪いことじゃないし、綾さんもおじさんもわかりやすく好意を示してくれてお互い幸せだと思う」
「そうか?」
「そうだよ。仲が悪いよりずっといいし、スキンシップは大事だと思う」
「そういう研究結果でもあんの」
科学的根拠があるか、ないかで物事を判断すると思われてるらしい。
間違ってはないけど、そういうのがなくたって触れ合うのが大事ということくらいわかる。夫婦や恋人に限った話しではなく、対子ども、対ペット、なんだってそうだ。
「人は肌を触れ合わせるとオキシトシンっていうホルモンが分泌される。日頃からオキシトシンを継続して分泌している夫婦は、お互いへの信頼も強いものになると科学的に証明されている」
「恋人も?」
「そうだね」
「じゃあ、はい」
香坂が両手を広げるようにした。何を意味しているのかわからず首を捻ると、腕を引っ張られ彼の上になだれ込むようになる。
脇の下に手を差し込まれ、向かい合って彼に跨るような格好になった。
「な、なに」
輪っかを作るように腰に腕を回され身体を捻じる。
「スキンシップで信頼関係が築けるんだろ?お前不安定期に入るとつまんないことでどん底まで落ち込むからそうなる前に対策しようと思って」
「すみませんね面倒くさくて!」
「面倒くさいけど放っておけないから」
真正面から言われると虚勢も皮肉も出てこない。
せめてもの抵抗で下唇を噛み締め、目線を斜め下に落とした。
「ぼ、僕だって面倒な部分は直したいけどどうすれば直るのかわからないから……」
「いいよ別に。お前がぴーぴー泣くたび俺が慰めればいいんだろ」
「ぴーぴーなんて泣いてない」
「泣いてる」
「泣いてない」
くだらない言い争いに決着は着かず、香坂はふっと笑って目元を指の背で撫でた。
「俺はお前の泣き顔嫌いじゃないから別に今のままでいいけど」
「そう言われると俄然泣きたくなくなるね」
「はいはい、精々がんばりなさいよ」
むかついたので彼の耳をぎゅっと引っ張った。するとお返しとばかりに頬を抓られる。
更にむかついて髪をぐしゃぐしゃにしてやると、脇や背中をくすぐってきた。
じたばたしながらやめろと騒ぐも手は止まらず、ソファに腹這いになりながら身体をおかしな方向に捻じった。
「おい弟たち、じゃれ合ってないで飯食うぞ」
突然降ってきた香坂さんの声で我に返る。
ぱっと起き上がり、呼吸を整えた。騒ぎすぎて額に薄っすら汗をかいている。
テーブルの上の物をすべて床に放り投げ、四人で遅い昼食を摂った。
ふわふわのピザを頬張ると単純な幸せを感じる。若い身体はこういう高カロリーなジャンクフードを欲するものだ。
マヨコーンだ、照り焼きチキンだ、マルゲリータだ、色んな味を食べ比べる。
ふと、隣に座っていた香坂がこちらを凝視し、口元を親指で拭った。
「トマトソースついてる」
そのままぺろっと親指を舐めたので、小さくありがとうと言いながら新しいピザに手を伸ばすと、正面にいた香坂さんと楓ちゃんがぽかんと口を開けてこちらを眺めていた。
「……なに」
「……随分仲良くなったもんだなあ、と……」
「顔を合わせりゃ五秒で喧嘩してた頃が懐かしいな」
最初は意味がわからなかったが、香坂とこういう関係になって改まって四人で会うのは初めてなので、兄たちのイメージはいがみ合っていた頃のままと理解した。
「犬猿の仲でおつきあいなんて無理だろって思ったけど案外相性いいんだな」
「京は我儘きくのも世話焼くのも得意だもんな」
「それ恋人っていうか、子育てじゃん」
楓ちゃんにけらけら笑われ、むっと眉を寄せた。だけどそんなことないと強く反論できない。
情緒不安定で喚き散らしてみたり、感情を言葉に変換できず不機嫌になったり、髪乾かしてだの、抱っこしてだの、思い返すと幼稚園児と同程度だ。
恋人失格というか、そもそもそういう土俵にすら上がれていないのでは。四つん這いになり項垂れたい。
「楓も人のこと言えないだろ。お前ら兄弟そっくりだぞ。一人で勝手に結論出して突っ走るのが兄で、大泣きして世界を呪うのが弟」
順番に指さされ、楓ちゃんと顔を見合わせ、同じタイミングで首を捻った。
「そんなことないよな?」
「うん。全然そんなことない」
胸を張ると香坂兄弟も同時に溜め息を吐いた。
含みをもったそれに突っかかりたくなったが、子育てじゃんと揶揄されたことを思い出し我慢した。冷静に、大人になろうじゃないか。
四枚のピザとポテトはあっという間に胃袋に消え、少し休憩したあとキッチンやリビング、寝室を掃除して終わったのは夕方六時過ぎ。外はすっかり暗い。
首をぐるりと回しながらリュックを背負う。
「楓ちゃんは泊まるの?」
「泊まる」
「了解」
楓ちゃんの作ったご飯が食べられないのは残念だがしょうがない。
「薫、あとで写真送るからスマホ確認しろよ」
玄関先でスニーカーを履いていると香坂さんが耳打ちした。
「今日のお駄賃だよ」
はあ、と返事をしたものの、写真がお駄賃なんて馬鹿にしてるのかと喰ってかかりたい。
だけど僕は大人なので無償労働もたまになら受け入れてやる。
そうでなくとも香坂さんには世話になってきた。それくらいの恩は感じている。
手を振る二人に応え、香坂と駅まで並んで歩く。
途中、スマホが連続で震えたので確認すると、香坂さんの言葉通り写真が送られてきた。どれも幼い頃の香坂兄弟だ。
わあ、と口走ると香坂が画面を覗き、げ、と顔を顰めた。
「君小さい頃かわいいね!髪が真っ黒だ!香坂さんは小さくても香坂さんだなあ。面影がある」
「なんだよその写真。兄貴どっから引っ張ってきやがった」
大きく笑う顔、思い切り泣く姿、大型犬とじゃれ合う様子、どれもこれも自然と笑みが浮かぶほどかわいらしい。
「そうかそうか。君にもこんな時期があったんだね」
にこにこと写真を眺めながら歩くと肩を引き寄せられた。
その瞬間、猛スピードで自転車が走っていく。
「よそ見しながら歩くな。また子育てって馬鹿にされるぞ」
「わ、わかってるよ!」
一旦スマホはブルゾンのポケットにしまった。写真は逃げないからあとでじっくり眺めよう。
「俺も楓さんにお前が小さい頃の話し聞いたことあるよ。楓さんがざっくり指切ったとき大騒ぎしたとか、道端でカラスと喧嘩したとか」
「なにそれ。全然覚えてないんだけど」
そんなことあったっけ。
楓ちゃんのエピソードならいくらでも話せるが、自分のことはあまり記憶にない。
多分、覚えていても無意味だからゴミ箱に分類し記憶から消去したのだろう。
駅に着いたので、パスケースを取り出した。
「お前家帰んの?」
「そりゃ帰るよ。折角都心まで出てきたけどさすがにデートしようって言う気力は残ってない」
「貧弱」
「うるさい」
「じゃあ俺ん家来る?家ならゆっくりできるだろ」
「……いいの?」
「いいよ」
でも、と考える素振りを見せると腕を引かれ、香坂が使う路線の地下入口まで引っ張られた。
長い階段とエスカレーターで地下深くまで降りていく。
ビッグターミナルなのでいくつもの路線が複雑に入り組み、入口からホームまでかなり歩かされる。利便性と不便さは紙一重だ。
はっと気づいたときにはホームで、隣の香坂をぼんやり見上げた。
香坂はがさつな男だけど無理強いをしたり、強引に物事を進める男ではない。だから少し意外だ。
いつも求めるのは自分ばかりで、時間を共有したいという意思を彼から感じることはなかったから。
気恥ずかしくなり、俯きながら母に香坂家に泊まるとラインを送る。すぐに了解、と書かれたスタンプが返ってきた。
兄と違い、品行方正な自分は全幅の信頼を得ている。いい子ちゃんはこういうところでも役に立つ。
やってきた電車に乗り込み、扉に凭れるようにした香坂のそばに立つ。
なんとなく顔を見れず、気恥ずかしさから逃げるように香坂さん贈呈の写真をしつこく眺めた。
「あんま見んなよ」
「かわいいからつい」
「なんかフェアじゃないから俺も今度楓さんに写真もらう」
「あ、僕全然変わってないから見てもつまらないよ」
香坂は想像したのか、それはそれで面白いと笑った。
香坂家の最寄り駅に降り立ち、家に辿り着いた頃には息が切れていた。いい運動になるが、もう少し駅から近くてもいいのに。
香坂の家に来るのは三回目だろうか。何度来ても周りの景色含めて圧倒される。
「高級住宅街なんて一生無縁だと思ってたのに」
「氷室家見るか?うちなんて犬小屋に思えるぞ」
「それはちょっと興味ある」
じゃあ明日明るいときにでも。悪戯の相談のように話しながら玄関扉を開けた。
「ただいま」
「おかえりー」
リビングから返事があり、そちらに顔を出す。
ソファに座りながらティーカップを持つ綾さんがにっこり笑った。
「あら、薫くんじゃない」
「突然すみません。お邪魔します」
「いつでもどうぞー。薫くんも涼の手伝いしてくれたの?」
「はい」
「ありがとうね」
ふわりと微笑まれ、ぎこちなく口端を持ち上げた。
香坂の部屋に入り、ベッドに腰かける。自然と疲労の溜め息が零れた。
「……疲れた?」
「疲れた。なんせ貧弱なものでね」
香坂は隣に座りながら顔を覗き込むようにした。
「家に帰ってゆっくりしたかったか?」
強引に連れてきたと悔いているのだろうか。
そんな勘違いしてほしくなくて、大袈裟なほど首を左右に振った。
「ならよかった」
甘い綿菓子のような空気に身体も心もそわそわ落ち着かない。寮の部屋、完全に守られた空間とは違うせいかもしれない。
以前この家に来たときはまだ香坂は楓ちゃんが好きで、自分は恋を自覚し苦しいとのた打ち回っていた。
あのときの感情は思い出したくないほど辛かったけど、そのおかげで幸福も一入というものだ。
浸っていると、階下から夕飯どうするー?と綾さんの声が響いた。
二人でリビングへ戻り、相談の結果夕飯は出前に決まった。
これが楓ちゃんなら俺が作りますよと言うところだが、生憎自分は料理ができないのでプロに頼る。
男子高校生は満腹まで食べても三時間で腹が減る。
出前の美味しい中華をぺろりと平らげると、綾さんが頬杖をつきながら嬉しそうに笑っていた。
「いっぱい食べてくれるとこっちまで幸せになるわ」
「こいつ普段は食べないから。今日は珍しく動いたから食べてるけど」
「楓ちゃんのご飯に慣れると舌が肥えるんだよ」
「楓くんの料理はどれも美味しいものねー。デザートまで作ってくれるんだから、本当にいい旦那さんになれるわ。私があと三十年若かったら……」
惜しいわ、と言う綾さんを眺めながら、楓ちゃんは香坂一家に好かれる魔法でもかけられているのかと思う。
兄、弟、果ては母。
しかし恋人の両親と距離を近付けすぎるのは危険な綱渡りだと思う。
男女の恋愛ではないのだ。親睦を深めればそだだけ、拒絶されたとき楓ちゃんは大きな傷を負うだろう。
楓ちゃんは綾さんを慕っているし、綾さんも息子同然にかわいがっている。いい関係なのだけど、僕的には非常に不安だ。
夕食後、ケーキまでご馳走になり、風呂を勧められたので一番風呂をいただいた。
入れ替わるように香坂が風呂へ向かった。
「薫くん、紅茶好き?それともコーヒー派?」
「紅茶派です」
「オッケー」
大皿に乗せられたクッキーやチョコレートとティーカップを差し出され、愛想笑いで受け取った。
ソファに着いて紅茶を啜ると、カップをソーサーに置いた綾さんが楓くんは元気?と言った。
「相変わらず元気です」
「そう。涼は一人暮らし始めたし、こっちには来てくれなくなるのかな。寂しいわ」
「呼び出せば喜んで来ると思いますよ」
綾さんはくすくす笑いながら、そういうところがかわいいと言う。
この人は兄と香坂さんのこと、どこまで勘付いているのだろう。
腹を探りたいが酸いも甘いも知る完成された女性と子どもの自分では勝負にならない。
せめて同性愛についての価値観とか、思想くらいは聞いてみたい。
肯定派でも否定派でもどちらでもいい。ただ、わかっていれば楓ちゃんにそれとなく伝え、対策を練ることが可能だ。
そういう計算をしないところが兄の長所なのだが、ただ自分は兄に傷ついてほしくない。
「薫くんは京と同室だったのよね?二年になったら別々なの?」
「……はい。別になります」
「そう。折角仲良くしてくれたのに残念。京が入寮してから誰かが家に遊びに来てくれること少なくなっちゃって寂しいのよね。前は友達とか彼女とかたくさん来てくれたのに。だから今日は久しぶりに人が来てくれて嬉しいわ」
ぴくりと反応してしまった。
彼女とか、たくさんだとー!?と問い詰めたいのを堪える。
わかっていたけど。彼女を家に招き、香坂さんと顔を合わせ、そして好意を寄せる対象を弟から兄に移す。それが一連の流れと聞いていた。
「そういえば最近京から彼女の気配がないわ。やっぱり出会いが少なくなっちゃったのかな?薫くん知ってる?」
「僕が知る限り半年以上いないと思います」
「あらまあ。友達と遊ぶのが楽しいお年頃かしら。薫くんは彼女いるの?」
口元に持ってきたカップをソーサーに戻す。
斜め向かいの綾さんに品定めするような視線をやった。
「いません。僕、あなたの息子さんが好きなんです」
さあどう出る香坂綾。
わくわくと高揚しながら第一声を待った。
人は恐怖を感じたとき、驚いたときに一番本性が出るという。
僕に対してどういう態度を示すかで楓ちゃんへの態度もある程度測れると踏んだ。
綾さんはソーサーをテーブルに置くと身体を屈め、口元に手をかざした。
一つ確認なんだけど……とトーンを落としたひそひそ声を受け、こちらも臨戦態勢に入る。
「どっちの息子かしら。涼?京?」
「京くんです」
はっきり怯まず答える。
綾さんはほっと息を吐き出すようにし、数回頷いた。
「よかった。涼って言われたら止めるところだったわ」
綾さんはソファから立ち上がり、ティーポットと追加のお菓子を持ってきた。
「恋バナ聞かせてー。私若い子の恋バナ大好き。ヒアルロン酸やボトックス打つより断然若返るのよ」
うふふ、と笑う顔を茫然と眺める。
こいつ、まったく腹が読めない。それは本心なのか、姦計なのか。
女狐ってこういう人を言うんだなあ。しみじみ思う。
「で、京のどういうところが好きなの?」
前のめりになられ、こちらは一歩引いてしまう。
「……め、面倒見がいいところとか……。なんだかんだいって困ってると放っておけない優しいところとか……」
「うんうん。あとは?」
「寛容なところ、とか?」
「やだー、京ったら格好つけてるのね。面白いわ」
にこにこ、にこにこ、まったく笑顔が崩れない。逆に怖い。この反応はまったく予想してなかった。
もう一歩踏み込んでみたいが、どれだけ戦っても敵う気がしない。
そういう相手には余計な思惑抜きにして真正面からぶつかるのが一番だ。
小さく息を吐き出し、改めて綾さんに向かい合った。
「そういう反応されると思ってませんでした。もっと嫌悪されるか、大袈裟なほど寛容的かどちらかなと」
「息子を好きって言われたら誰だって嬉しいと思うけど」
「でも僕の好きは友達としてじゃないし……」
「あの子のいいところ、ちゃんと見てくれてる。嫌われたり憎まれるよりずっといい」
伏し目がちに小さく微笑んだ顔は、雑誌やSNSに載る完璧にブランディングされた香坂綾ではなく、一人の母親としての香坂綾だった。
「京を選んだのね、あなたは」
それってどういう意味だろう。色んな解釈ができてしまう。
楓くんは涼を、あなたは京を選んだのね。もしくは、今までは涼を選ぶ女性が多かったけど、あなたはどちらも知った上で京を選んだのね。
前者なら背筋が凍るし、後者ならとりあえず安心。
水面下で探り合うのは得意だが、この人相手では歯が立たない。
綾さんはふっと笑うと私を試したのねと言いながらチョコレートを口に放り込んだ。
「インタビューでジェンダーについて色々語ってきたけど、薄っぺらい偽善か本心か見極めたかったのかしら?」
「いえ、そういうつもりはなかったんですけど……。でもまあ、どういう思想なのかは気になってました」
「そう。私は息子たちには誰よりも幸せになってほしいと願ってる普通の親よ」
親になった経験はないからよくわからないのだけど、そんな簡単な理屈で通るものなのだろうか。
もっとこう、真っ当な道をとか、孫の顔が見たいからとか、色々あるのでは。
親と一括りに言っても十人十色。ましてや綾さんは美容系の仕事でそれこそジェンダーに深く関わる仕事に就いてるから色んな人を見て、色んな経験をして、柔軟に対応できるのかもしれないけど。
「綾さんから見た息子さんってどんな感じですか?」
「そうねえ……。涼は大事なものにすごく臆病ね。辛い経験があるからしょうがないけど、少し過剰に反応するところがあるかも。その分一人の人間を長く、深く愛してあげる子よ。涼はパパ似なの」
パパも私のこと未だに大好きなのよー、と惚気が始まったので、これは確かに仲がいいと納得させられた。香坂のうんざり顔も一緒に思い出す。
「京はいい意味で隠し事が下手な子かな。昔から嬉しいことや幸福を共有しようとするの。百点とったとか、ラブレターもらったとか、先生に褒めてもらったとか、私やパパにすぐ報告するの。恋人ができたときもそう。必ず家に連れてきて紹介してくれるの。だから、そういうことよね?」
きょとんと眼を丸くする。
どういう意味ですか。聞こうとした瞬間、香坂がリビングに戻ってきた。
「まーた甘いもの食ってんのかよ。こんな時間に食うと老化が進むぞ綾」
「かわいくない言い方!いいのよ。薫くんと恋バナして五歳は若返ったから。ねー?薫くん」
「は、はあ……」
綾さんは今まで出会った人たちの中で一番掴めない。
悪意がないのは確かだが、かといって信頼を寄せるほど深い仲でもないし、どうしても穿った見方をしてしまう。人の母親に対して失礼だとわかっているけど。
「親父との惚気話し?それとも俺の文句?」
「どっちもかなー」
香坂はどうりで風呂に入ってるのに寒気がすると思った、と文句を交えながら水を二本とりだした。
隣に座りながらキャップを捻る姿を綾さんと二人で眺める。
「なんだよ」
「薫くんにあなたのこと話してたの。隠し事が下手で、恋人ができると毎回律儀に紹介してくれて、それが嬉しかったって」
「げ……」
「そういうところ、涼と違ってかいわげがあるわ。母親として信頼してくれてる証拠だもんね?」
香坂さんと綾さんは数秒無言で見つめ合い、香坂は吐息交じりに笑った。
「……そうだな」
「大事にしなさい」
「わかってる」
会話についていけず、二人の間で視線を泳がす。
色んな家族の形があるけど、香坂家の母子関係は親であり姉であり、友人でもあるような気軽さがある。
自分なら恥ずかしくて親に彼女を紹介なんて絶対しない。ましてや思春期に。
恥ずかしがることじゃないし、隠すような悪事でもないけど、なんとなく色恋事はそうっとしておいてほしい。
「上いくか」
香坂がソファから立ち上がったので慌てて自分も腰を浮かせた。
「御馳走様でした」
片付けをしようとするとそのままでいいと制される。
「薫くん、また色々お話ししようね」
「はい」
何重にも猫を被って今日一番の笑みを見せる。
綾さんはきっといい人だと思う。女性としても母親としても。だけど慎重に見極めてからじゃないと判断しかねる。
あの様子だと恐らく香坂さんと楓ちゃんの関係もバレてるだろう。
それでも楓ちゃんを悪く言わないだけありがたいと思ったほうがいいだろうか。ありがたいもなにも、親に恋愛事まで首を突っ込まれる筋合いはないけれど。
万が一自分の親が関係を知った上で香坂を罵る真似をしたらキレ散らかすと思う。
親であろうとも子どもの人生をコントロールしようとすることなかれ。それが僕の持論だ。誰を選び、誰と共に生きるか、幸せの形はそれぞれだと好きにさせてほしい。ましてや高校生の恋愛くらい放っておいてほしい。
自分の親がどんな反応をするのか見当もつかないので絶対知られたくないけど。
そういう割には香坂が好きだと綾さんに勝手に吐露したので、そこは謝罪しなければ。
ベッドに腹這いになってスマホを操作する香坂の隣に並び、服を引っ張った。
「綾さんに君のこと好きって言っちゃった」
ごめん、と謝ると、香坂は一度目を見張ったあとふうんと興味なさげに呟いた。
「……それだけ?怒らないの?」
「なんで怒んの。言いたきゃ言えよ」
「あ、でもつきあってるとは言ってないよ。好きだって言っただけ」
「綾は手強いからな。さすがのお前でも勝てないだろ」
「そうなんだよ。腹探ろうと思ったのに逆に探られて終わった。まいった」
あーあ、とごちると、香坂はあれに勝つには百年早いと愉快そうに笑った。まったくその通りと頷く。
まあ、そんな話は置いといて折角二人きりなのだから香坂不足を補おうじゃないか。
明日には実家に戻り、そのあとは寮の部屋替え作業。いよいよ香坂を独り占めできなくなる。
悔しくてぴたりとくっつき瞳を閉じる。
もっと色々話したいけど、気力も体力も限界だ。気合で持ち上げた瞼がどうしてもくっつきたがる。
「……限界。寝そう」
呟くと、さらさらと手櫛で髪を撫でられた。
「おやすみ」
こめかみ辺りにキスをされ、ふにゃりと口元が緩む。
笑われた気配がしたけど、もう言い返す力が残ってない。
スキンシップをしただけ絆が深く、強くなるのならいくらだってするから早送りで関係を深めさせてはくれないだろうか。
END
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