21gの奈落






昇降口と校門の間に点在する東屋。八角形の屋根に腰高の壁、内側は壁に沿ってベンチが備え付けられている。
授業が終わったあと、ここに座ったのはなんとなくだった。
そのまま寮に戻ってもよかったが、どうせ帰ってもやることがない。
有馬にバイトは休めと釘を刺されてから毎日時間を持て余している。
昔からゲームとか、漫画とか、映画とか、娯楽と呼ばれるものに縁遠い生活を送ってきたせいで未だに趣味の一つもない。
なにかしてみよう、興味を持とうとは思う。
無料のスマホゲームから挑戦したが操作が難しくて放置。
漫画を読むと五分で眠くなってだめ。
それならアニメや映画はどうだと何本か見たが、登場人物に感情移入ができず、一生懸命理解しようとがんばる間に置いてけぼりにされいつの間にか終わっている。
結局趣味をみつけるための挑戦は、自分がいかにつまらない人間か再確認しただけで終わった。
ふわっと欠伸をして真っ青な空を見上げる。
夏休みが終わり、暑さもだいぶましになった。のんびり、静か。澄んだ空気に生徒たちの笑い声。余生を過ごすにはぴったりの環境ではないか。まだ高校生にして余生の心配をしている自分に呆れる。

「お前もそう思うだろ?」

隣を見下ろしながら小さく笑う。
少し前にどこからか野良猫がやってきて、太腿にぴたりとくっつくようにして瞳を閉じた。
昔から猫には好かれる性質だった。
ぼんやり、のっそりしているから暖をとるには丁度いいのだろう。
こちらからは特にかまわないし、来るもの拒まず去るもの追わずのスタンス。
風が吹くたび三角形の薄い耳が僅かに動く。
茶色の毛並は土埃が表面を覆い、決して綺麗とはいえない。家猫に比べて過酷な環境で生きているせいだろう。それでも丸っとしているのは恐らく生徒がこっそり餌を与えているから。孤高の生き物みたいな顔をしてそういうところはちゃっかりしている。

「お前も家がないんだなあ」

食べるために人を利用することを覚え、雨風を凌げる場所を探し、身体を小さくしながら病気や外敵から身を守る。
種族は違えど自分とこの猫は同じ生き方をしている。
もしかしたら自分にすり寄ってきたのもお腹が減っているからかもしれない。
だけど残念、鞄の中にもポケットの中にも食べ物の類はない。
そもそも人間の食べ物を与えていいものか。多分よくない。
なにも与えないのも愛情。だけどこの子はそんな愛情や優しさを欲してない。明日生きるのも精一杯の状態で、腹が膨れない気持ちなんて迷惑なだけだ。
優しさとか、親切とか、そういうものは余裕がある者じゃないと与えられないし受け止められない。
なあ、お前もそうだろ。
口を開こうとした瞬間、櫻井―と間延びした声が響いた。
急な大声に猫がぱちっと目を開ける。
声の主は片桐で、東屋の外側、背後からこちらを覗き込んだ。

「なにやってんの」

「……なにも。ぼうっとしてた」

片桐はぴったりくっつく猫に視線を移し、ふっと笑いながら猫と反対側の隣に座った。

「この猫知ってる。なーなー鳴いてみんなに餌強請るやつだ。お腹見せて甘えるくせに、なんかやると咥えてすぐどっか行くんだよな」

「さすが。世渡り上手だ」

「狡賢いけど猫だとそれも許せるわな」

「そういう生き物だしな」

片桐は手を伸ばして猫の小さな頭を撫でた。迷惑そうに睨む猫を見て不細工と笑う。
かまいすぎたのか猫が唸り、それでも片桐は笑ってちょっかいを出し続けた。
唸り声は段々低くなり、ついにはベンチから下りてどこかへ行ってしまった。
言葉は通じないが苛立ちを示すようにぶんぶん左右に振られる尻尾から怒りの感情を感じる。

「あー……。行っちゃった」

「片桐がかまうから」

「かまったほうが嬉しいんじゃねえの?」

「それは犬だろ」

「そっか。俺犬とばっか一緒にいるから猫もそうだと思ってた」

片桐と大型犬を並べて想像し、似合いすぎて噴き出しそうになった。

「実家で飼ってるとか?」

「いや、知り合いが飼ってる犬。見る?めちゃくちゃかわいいんだ」

スマホをすいすい操作しながら写真を見せられ、写真の片桐の笑顔につられてこちらも笑った。
想像していた大型犬ではなかったけど、写真がぶれるほど俊敏な動きを見せるこの小型犬は片桐が大好きでしょうがないらしい。

「麗子さんっていうんだ。会うたび尻尾切れるくらい振ってくれてさ。感情をわかりやすく表現してくれるからこっちも嬉しくなるよな」

「そういうもん?」

「そういうもん。櫻井は動物飼ったことない?」

「ない」

母と質素なアパート暮らしだった幼少期はそんな余裕はなかっただろうし、今の家に引き取られてからは希望や願望を気軽に口にできる環境ではなかった。

「一人暮らししたら飼えば?お前猫に好かれるみたいだし」

「飼わない。たまに触れ合う程度でいいよ」

「なんで?」

少しだけ口角を上げて答えをはぐらかした。
もう先に死なれるのも先に死ぬのもごめんだ。
命あるものはいつか死ぬ。生まれた瞬間決められた運命。死からは誰も逃れられない。わかっているからそういうものとは距離をとりたい。
大事じゃなければ明日いなくなったって平気だ。すべてのものと平気でいられるくらいの距離でいたい。

「……じゃあ今だけ俺がお前のペットになってやる!」

何言ってんの?と首を捻ると同時、片桐は膝に頭を乗せてきた。

「おい」

「バーチャルペットだ」

「バーチャルじゃねえだろ。俺よりでかいペットとか嫌だよ」

「いいから。ご主人様、お腹空いたわん」

「全然かわいくないんだけど」

「撫でろ」

「犬ってそんな横暴なの?」

イメージでは忠実で、謙虚で、いじらしくて……。今の片桐とは正反対なのだけど。
目を閉じて微笑む顔を見ると文句が喉で止まる。
夕日に照らされ片桐の赤い髪が燃えるように光る。
指を櫛のようにしながら撫でてやる。意外と指通りがいい。
たくさん開けられたピアスを避けるように耳をさすり、髪をかき上げるように撫で、そうしている間、片桐は気持ちよさそうにしていた。
かわいくないなんて言ったけれど、口を開かなければ大型犬と同程度の癒し効果があるかも。
誰かの重みや体温は自分をとても安心させる。バイトを休むようになってからこんな気持ちになるのは久しぶりだ。
無意識に撫で続けているといつの間にか寝息が聞こえた。

「うわ、寝たよ……」

どんな場所でも眠れるのは才能だ。
片桐の寝顔は初めて見たが、切れ長の涼しい目が伏せられ、眉が下がると一気に幼くなる。背が高いからそんな風に感じなかったが、顔だけなら恐らく童顔の部類なのだと思う。傍若無人な問題児のくせに。
眠ったあともなんとなしに髪を撫で、ベンチから身体が落ちないようそっと手で支えた。
さすがに陽が暮れたら起こさなければならないけど、もう少しだけ、温かい重さにくっつかれていたい。
片桐が言った今だけという言葉に遠慮なく甘えよう。
今だけなのだから怖がらなくていい。
今だけ、今夜だけ、一日だけ。そんな刹那的な言葉にとても安心する。そんな自分はとことん人付き合いに向いてない。
だって何があるのかわからない未来は怖い。
地続きの関係を結んだって、それが永遠に続かないことを知ってる。
誰かと手を繋いで薄氷の上を歩くような緊張感で毎日を過ごしたくない。
誰の手も握らずにいればそういう重荷とは無縁でいられる。
なのに最近の自分は自ら地雷原に脚を踏み入れようとしている。
学友とこうして過ごしたり、目が離せない後輩に懐かれたり、馬鹿みたいに恋をしたり。
恋をしたあとで本質の恐ろしさを知った。
だから麻生とどうこうなりたいなんて思わないようにしている。
ただ一方的に好きで、卒業まで短い片想いを抱えて過ごそうと決めている。
麻生の気持ちはわからないが、嫌いとか、鬱陶しいと言われないので友人枠には収まれたのだろう。
いくら麻生が優しくても嫌いならわざわざ訪ねて来ないし、声もかけない。多少なりとも人間として好意を持たれているなら満足だ。
なにも持たない、誇るべきものがない自分を麻生はいつも見つけてくれる。
彼の深く、優しい瞳に自分が映っているだけで満たされる。
片桐を見下ろしながらそんなことを考え、ぱっと顔を上げると今まさに思い描いていた人物と目があった。
麻生に控えめな笑顔でひらっと手をふられたので、こちらもぎこちなく手を振り返す。

「片桐先輩乗っかっとるやんー」

麻生の隣にいた子が言いながら笑い、こちらも苦笑した。
二人は東屋に近付き、片桐を覗き込んだ。

「外でこんな爆睡できるって才能やな」

わかる。勝手に頷く。

「重くないんですか?」

「重いけど、起こすのも可哀想だし」

なんていうのは言い訳で、本当はこの重さが嬉しいから好きにさせている。
とはいえ、脚が痺れてきたのも確かだ。だけどもう少しだけ。今だけ。

「……甲斐田、神谷先輩呼んで来い」

「なんで?」

「片桐先輩引き取ってもらう」

「わざわざ保護者呼ばなくていいよ。もう少ししたら起こす」

お気に入りの玩具を取り上げられるような切迫感。
片桐が今だけペットになってやると言ったのだから、これは今自分のものだ。
赤い髪を撫で、だから大丈夫と言うため顔を上げると、冷めた目を寄越す麻生がいた。

「甲斐田、行って来い」

「はいはい、おつかいしますよ」

友人が去ると麻生は少し距離を開けて隣に着いた。
麻生は穏やかで、優しくて、羽毛布団みたいな人だ。優しい羽根でみんなを包むし、滅多なことじゃ怒らないと泉も言っていた。なのに今は不機嫌を隠そうともしない。
こんなに感情がだだ漏れなのも珍しいなとまじまじと見てしまった。

「なんですか?」

にっこり微笑まれたが、作り物だとすぐにわかった。

「……なんか機嫌悪いなと思って」

「先輩が人の気持ちわかるなんて」

「悪かったないつもぼんやりしてて。それくらい麻生がわかりやすいってことだろ」

「……俺、わかりやすいですか?」

「顔に書いてる」

麻生はまいったなと苦々しい顔をした。
また三上と一悶着あったのだろうか。
この二人はいつも水面下で脚を蹴り合っている。派手な喧嘩はしないけど、ちくちく牽制し合っているらしい。間に挟まれる泉が可哀想だが、誰の味方にもなってやれない。

「んー……」

片桐は眉を寄せながら唸った次にはごろんと横を向いた。
腹に額を擦り付けるようにして、腰に手を回される。
誰と勘違いしているのか。いつも優しい彼女にこうしてもらっているのかもしれない。
確かにこれは、彼女の母性本能をくすぐるかも。自分ですら愛らしいなと思う。
いつもこんな風なら教師から追いかけ回されることもないのに。
くすりと笑い、片桐に手を伸ばすとその腕を握られた。

「……なに」

「あんまり触ると起きちゃいますよ」

「でもどのみち起こすんだろ?」

麻生は笑顔のままうんともすんとも言わずぎっちり腕を握り続けた。
変な奴。
たまに理解不能な行動に出るからこちらも対処に困る。
人の機微に疎いから理解できないだけで、普通の人ならわかるのだろう。そう思うといちいち理由を問うのも野暮な気がして、結局わからないまま放っている。

「和希迎えにきたよ」

ブロンドが視界で揺れ、神谷が微笑んだ。
神谷は柔和な雰囲気に似合わず、乱暴に片桐の肩を揺すった。

「和希!」

「……なんで翔がいんだよー」

「起きろ!櫻井が動けないだろ!」

「いいんだよ。俺櫻井の犬だから。首輪つけられてんの」

「なに言ってんの。和希に首輪なんて似合わないよ。ほら、起きた起きた」

腕を引っ張られ無理に身体を起こされた片桐は、不満げにうーだのあーだの言いながら頭を振った。

「気持ちよかったのによー」

「部屋に戻って寝なさい」

「誰かと一緒のほうがよく眠れるじゃん」

「涼みたいなこと言わない。ほら、帰るよ」

神谷は片桐の腕を握り、ずるずる引き摺るようにした。繊細そうに見えて雑だ。

「櫻井ごめんね。今度同じことがあったらたたき起こしていいからね」

「俺は大丈夫……」

「じゃあまた頼むわ。寝心地よかった」

小さく頷くとぎゃーぎゃー騒ぎながら去っていった。寝起きなのに元気だ。

「俺らも帰りますか」

「……そうだな」

「なにか用事ありました?」

「ないけど、帰っても暇だから」

言ったあとで後悔した。これじゃあ誘ってるみたいじゃないか。そんなつもりはないのだけど、面倒くさい駆け引きをしているみたいで嫌だ。
慌てて立ち上がり、放り投げていた鞄を掴んだ。

「ねえ先輩。部屋遊びに行っていい?」

「別に、そういう意味で言ったわけじゃ……」

「もともと言おうと思ってたんです」

麻生は優しい。
気に病まぬよう気遣いをくれる。そういう優しさがありがたく、それ以上に苦しくなる。
麻生を縛るような真似はしたくないし、可哀想なんて同情もされたくない。
どうしよう、と逡巡すると指先をきゅっと握られた。

「だめですか?」

年下らしい甘え方は卑怯だ。わざととわかっても許してしまう。

「い、いいよ」

「よかった」

ふわりと笑った顔を見て、機嫌が直ったのだろうと思った。
なのに、部屋に入った瞬間また不貞腐れたような顔でソファに座った。
あまりにも部屋が汚いから怒ったのだろうか。
麻生が何度片付けてくれても次の日には散らかしてしまう。
ソファに山になった洗濯済みの衣服を腕に抱え、ベッドの上に放り投げた。あとで片付けよう。そう決めても結局しまわず、山になった衣服の中から一枚一枚引っ張って着るのだけど。
リビングに戻ると脚に肘をついた麻生が床の一点をじっと見つめていた。
今日は重症らしい。三上と泉のキスシーンでも見てしまったのだろうか。
途中で買ったパックの牛乳をそっと置く。カルシウムはイライラに効くとか、効かないとか。どちらにせよ余分な栄養ではないからとって損はない。
隣に腰を下ろすと麻生が向き合うように座り直した。

「なんで片桐先輩が櫻井先輩の犬なの?」

急な問いかけに目を丸くした。馬鹿みたいな内容を真剣に言ってるのがおかしい。
先ほどの経緯をしどろもどろに話すと、麻生は長い溜め息のあと片桐と同じように膝に転がった。

「犬の代わりなら俺がしますよ」

「別にいらないけど」

「片桐先輩はいいのに?」

だってそういうの麻生には似合わない。
片桐は冗談の延長で気軽な接触も受け入れられるし、そういうキャラというか、まあ片桐だからと納得できるが麻生はそういうタイプじゃない。
それに片桐のほうがより犬っぽい。

「麻生にはペットじゃなくて人間として接してほしいんだけど」

「……そういう理由ならまあいいです」

なぜか上から目線で言われ、どうして自分が責められているのだろうと思う。
拗ねた様子がおもしろくて、案外子どもっぽいところがあると知る。
麻生はゆったり起き上がり、こちらの肩を引き寄せた。

「なんだよ。近いな」

「近いの嫌ですか」

嫌じゃないから困るのに、わかってやってるとしたらだいぶ性格が悪い。
そんな意地悪な男じゃない。天然で人との距離が近いのだろう。泉ともこんな風だ。異性にも同じような距離感で接したら勘違いさせる天才になってしまう。

「……こういうの、女の人にやるときはちゃんと相手を選ぶんだぞ?」

「やりませんよ」

「じゃあ男でもやるな」

「男にもしません」

「今してるだろ。泉にもする」

「二人は特別」

一瞬心臓が絞られたように痛み、すぐにそんなわけないと正気を取り戻す。
麻生は今でも勘違いさせる天才だ。
好きな相手に特別をもらって期待しない人間がいるのだろうか。
何も望まない、今の関係で充分と本心で思ってる。
これ以上は怖いから後ずさりたくなるし、これ以上があるなんて希望は持たない。
なのに麻生はいつも曖昧で優しい甘言で誘惑する。
決定的な言葉を避けるくせに、態度や仕草で気持ちを拘束する。
誰かに好かれる心地よさを味わっているのかもしれない。それでもいい。振り回されて疲れるときもあるけれど、そうやって麻生の失恋の痛手が癒されるならいくらでも振り回されてやろう。
溜め息を吐くと顔を覗きこまれた。

「なにに対しての溜め息ですか?」

「麻生に対して」

「俺なにかしました?」

「……麻生さあ、将来女の人に刺されそう」

「え!?」

見た目が派手な香坂や、女性の扱いが上手い柴田より麻生みたいなタイプが一番厄介だ。
自覚がないからまた怖い。この先修羅場をいくつも経験するんだろうなと思うと同情する。女性嫌いにならなきゃいいけど。

「俺女の人にひどいことしないですよ?」

「優しさは暴力よりダメージ与えることがあんだよ」

「櫻井先輩玄人っぽいです。恋愛初心者なのにね」

なにも言い返せない。
自分が経験したものは商売上の金銭の発生する疑似恋愛だ。それでも彼女たちの中には遊びと割り切れず本気になる人もいる。
切り時を見極め、上手にフェードアウトしないとその先に待っているのは地獄より恐ろしい場所だ。
刃傷沙汰になった過去を思い出しそうになり慌てて話題を切り替えた。

「機嫌悪いのは直ったか?また三上と喧嘩した?」

「してないです」

「そうか?あまり泉を困らせちゃだめだぞ」

泣きそうになる泉を想像し、微笑すると麻生は悔しそうに眉を寄せた。

「……先輩はすごいですね」

「なにが」

「俺のこと好きっていうけど、全然俺をほしがらないじゃないですか。真琴に嫉妬もしない」

「それは……」

嫉妬なら何度もした。
麻生を好きと自覚して、彼が自分のものであったならと願っていた頃。
今ももちろん好きだけど、叶わないことを前提としてもがくのをやめてしまった。
無駄に喚いても糸は複雑に絡まるばかりで自分の首を絞めていく。もういいやと力を抜いた瞬間、かなり楽になった。
だから自分はこういうのが合っているのだと思う。ほしいと手を伸ばさず、少し遠くから想い、幸せであれと願うだけ。

「……俺、真琴が三上に振られ続けてたとき、真琴が傷ついてるのにつけ込んで無理につきあってもらったんです。三上を忘れなくていい、自分のものになるなら絶対幸せにできるって。でも全然だめでした。自分をみてほしいとか、自分だけ好きになってほしいとか、早く三上を忘れてほしいとか、そんなんばっかりで結局すぐにだめになりました。俺はそういう恋愛しかしたことないから、先輩みたいに静かに人を好きになれるのがすごいなって思うし、だけど本当に俺のこと好きなのかなって心配になります」

そうか。自分が知らなかっただけで麻生は一度泉を手にしたのか。
それを自分の意志で手放す苦痛を想像すると胃がねじ切れそうそうになる。
ただ失恋しただけよりずっと痛くて苦しいだろう。だって僅かな間でも知ってしまったのだ。知ったら戻れなくなる。もう一度ほしくなるし、前よりずっと制御が利かなくなる。
麻生の傷は想像以上に深いのだろう。そりゃあ自分みたいな人間でも好意を伝えて全肯定するなら近くに置きたくなる。
卑怯だとは思わない。人間ってそんな綺麗なもんじゃない。誰かを傷つけてでも自分を守らなければいけないし、そうするのが正解だ。
自分の身は自分で守らないと、誰も責任をとっちゃくれないのだから。
俯く麻生の頭にぽんと手を乗せた。
弾かれたように顔を上げた彼の目を真っ直ぐ見つめる。

「俺は麻生のこと好きだよ」

自分がもてるありったけの言葉。きっとこれで少しは麻生も楽になる。そう思ったのに、彼はますます顔を歪めた。

「……すみません。俺、あのときすごく辛かったのに、今先輩を同じ状況にしてます。好意に甘えて利用するみたいな……」

「俺はー……。なんていうか、大丈夫だよ。麻生が泉を好きでも、他の誰かを好きになっても、幸せならそれでいい」

「達観してますね。それとも諦念かな?自分が幸せにしようとは思わないんですね」

「……そうかも。優しくて、温かくて、少し我儘で、そんな女性が麻生を幸せにしてくれたらいいなって思う」

「……なんですかそれ。なんでもっと欲しがってくれないんですか。いつもいつも引いた場所にいるばっかりじゃないですか。前はもっとぐいぐい来て考える隙も与えなかったくせに。先輩がブレーキかけるから俺も……」

麻生ははっとしたように口を掌で覆い、小さくごめんと呟いた。
なにに対しての謝罪なのかわからない。わからないけどいいよ、と返した。
緊張感のある重苦しい空気が流れ、どうにかしなきゃと思う。折角来てくれたのにつまらない人と呆れられたくない。
だけどこういうときどんな風に口を開けばいいのか、どうやって相手の心を軽くすればいいのかわからない。
重苦しい家でただ黙って言うことを聞いていただけの幼かった自分となにも変わっちゃいない。
組んだ手の指先を弄っていると、その手を麻生に両手で握られた。

「……夏休み、色々な場所に行って楽しかったですよね」

「え、ああ、うん」

急になんの話だろう。
麻生なりに気を遣っているのだと思うと茶化して流すのも失礼かと思い、馬鹿正直に頷いてしまった。

「また俺とどこか行きましょう」

優しいなと思うほど胸が痛くなる。
嬉しいはずなのに刃物で無理矢理傷を抉られている気になる。どうしてだろう。好きな人に優しくされたら無条件で喜ぶべきなのに。
微苦笑しながら俯くと、麻生は不安そうに顔を覗き込んだ。

「嫌ですか?」

「嫌じゃない。でもそんなに気遣わなくていい」

「気なんて遣ってません。先輩はバイトで色んなところ行くだろうけど……」

「ああ、バイトは卒業するまで休むことになったんだ」

「そんなの聞いてませんよ」

「言ってないからな」

そもそも麻生に報告義務があるとは思わないけど。
有馬のこと、オーナーに言われたことを話すと、麻生は頭が痛いといわんばかりに額に手を添え溜め息を吐いた。
本当は休みたくないけどしょうがない。
お金はいい。恐らくアパートを借りくくらいの金は貯まってるから。
問題は誰かのぬくもりなしに過ごさなければいけないことだ。
寂しさを誤魔化すには最適な仕事だったのに。
お気に入りの毛布をとりあげられた気分で、代わりを探そうとしている自分がいる。
そんな都合のいい人間、すぐに見つかるものではないけれど。

「……不満そうな顔してますね。仕事、続けたかったですか?」

「そりゃあ……」

「お金だけが理由じゃないですよね」

横目で麻生を見てから背中を丸くした。

「……バイトしてるとさみしくないし、誰かに必要って言われるとすごく安心する」

家庭環境を少しだけ話したせいで麻生相手に口が軽くなっている自覚はある。また馬鹿正直に心の内を吐露してしまった。
自分はかわいそうな人間じゃない。どちらかというと恵まれている。不倫の末の子どもなんて世間様から爪弾きにされるべきなのに、義母は自分を拾ってくれた。
普通の家庭とか、温かな家族とか、頼れる肉親とか、そういうものがなくたって生きていけるし、これ以上を望むのは欲張りだと思う。
あの猫と同じ。食べるものがあって、眠れる場所があって、それで充分。誰からも愛されれなくても生きていける。
そうやって思い込んでもふとしたときにどうしようもない寂しさに首を絞められる。
今日あった些細な出来事を話せる相手はいない。
実家からの差し入れなんて自分には届かない。
反抗期真っただ中で母親に鬱陶しいと軽口を言うこともできない。
泣きながら母と住んでいたアパートを片付けたあの日からなにも成長できてない。
身体ばかりが大きくなって、心は今でもあそこに置いてきたままだ。

「先輩、さみしいんですか?」

握られた手に力が込められる。
また失敗した。どうして自分は言葉を音にする前にきちんと考えないのか。
同情されたくないなんて言いながら、麻生の気を引くようなことばかり言ってる気がする。

「あ、いや、高校生にもなって変だよな。常にってわけじゃない。ただ、女の人のそばは心地いいというか……」

今度はむっと眉を寄せられた。
てんぱると余計なことを話してしまう。もう黙ったほうがよさそうだ。

「必要としてくれるなら誰でもいいんですか。梶本先輩ともそうだったって言ってましたよね。バイト休んでる間に寂しさ埋めてくれる人探すんですか。俺じゃだめって言ってたけど、やっぱり俺がいいと思います」

「なにをそんなむきに……」

「むきになりますよ。先輩ふわふわ、ぺらぺらの紙みたいですもん。ペーパーウェイト置かないと風に飛ばされてどっか行っちゃいそうじゃないですか」

「俺そんな体重軽くないけど?」

「例えです。俺にしません?呼んだらすぐに行きます。毎日だって一緒にいます。さみしいなんて絶対思わせないのに」

なに言ってんだよ。
用意した言葉が喉元で止まる。
そんな真剣な顔をしないでほしい。期待と不安が交じる目で見ないでほしい。
自分はこれ以上なんて望まない。望んだ瞬間不安で掻き回される。
幸せと不幸はカードの裏表で、特大の不幸を知った自分は大きな幸せを突っぱねたくなる。
怖い。もう大事なひとを作りたくない。どうして自分は恋なんてしてしまったのだろう。

「先輩」

急かすように手を軽く上下に振られ、そっとその手を放した。

「……そういうの、冗談でもきつい」

「冗談じゃないです。俺は――」

「麻生!」

それ以上は聞きたくなくて遮ると、それだけで麻生は意図を察してくれた。項垂れたようになり、どうして、とぽつりと呟いた。

「……先輩の気持ち、全然わかりません。好きなのにいらないなんて」

「……ごめんな。優しくしてくれてありがとう。でも俺はお前が思ってるほど弱くないよ。心配しなくてもちゃんと一人で暮らせる。まあ、部屋はこんな有様だけど」

だからこの話しはこれでお終い。
意図的に明るい声色で言うと、麻生はなにかを振り切るように立ち上がった。
多分、追いかけないほうがいいのだと思う。
鞄を掴んだ背中に向かってまたなと言ったが返事はなかった。
これでいい。これが正解。
麻生の優しさに縋っちゃだめだ。少しずつ足場を削られ、後ずさったら落っこちてしまう。
強いのと、強がるのは全然違う。
自分は強がるばかりの弱虫だ。
だけど強がるのをやめたら底がない場所に堕ち続けてしまう。だからどんなに自分に嘘をついても、誤魔化しても、平気な顔をしなくちゃいけない。
結局一口も飲まなかった牛乳パックにストローをさした。
生温い液体を流し込みながら誰かと関わりながら生きる難しさを知った。
一人のほうが断然楽だ。わずらわしくないし、感情が揺さぶられることもない。
つまらないけど安定していて、低い場所で定まってられる。
なのにどうして思ったそばから麻生のことばかり考えてしまうのだろう。
彼のような人が笑っておかえりと言ってくれたら、それ以上の幸せはないんだろうなと思った。
温かで、丸くて、とろみのある優しいなにか。
そういうもので包んでくれそうで、欠けた場所をぴったり埋めてくれそうで。
そういうところに惹かれたのに、今はそれがとても怖い。
幸せというものは上手に想像できないけど、失ったときの痛みはリアルに想像できる。
どうして麻生を好きになってしまったのだろう。
今日何度目かの問いをしながら野良猫を思い出す。
ぴったりくっついていたくせに、気に入らないことがあると後ろ髪を引かれずふいっと離れていった猫。
自分もああなりたい。ああならなければ。
理想が猫だなんておかしな人間だなあと口角を上げ、なぜかじんわり熱くなる目頭を指で抓んだ。
今で満足している。
だからあまり徒にかき回さないでほしい。
張りぼての城を何年もかけて築いた。とても大変で、泣きながら、それでも生きるために。
なのに麻生は簡単に城壁を壊そうとする。穏やかな笑みを浮かべながら詮無き事というように。
近くにいたらもっと壊され、卒業する頃にはばらばらになったそこで立ち尽くすのかもしれない。
だからといって離れようとは思わないけど、麻生を怒らせてしまったので彼のほうから離れてくれるかもしれない。
悲しいなと思うのと同じ場所で、よかったと安堵している。
それがいいことか、悪いことか、自分にはもうわからない。 


END

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