僕の神さまは今日も不機嫌


何が悲しいかな、僕は今シャツを教室近くの手洗い場でじゃぶじゃぶ洗っている。
寮の門を抜け、学と共に学校に向かっている時までは順調だった。毎日変わりのない一日の始まりだったはずなのだ。
昨晩の大雨すごかったね、そろそろ梅雨入り間近かな、じめじめすると気分まで憂鬱になる、嫌だね。そんな会話を交わし学園の門を抜けたとき、背後からどん、と衝撃が走った拍子に顔からぬかるんだ地面に突っ込んだ。

「あ、やべ。すいません!」

朝からハイテンションな一年がいるなとは思っていたが、まさかじゃれ合った挙句こちらに突進してくるとは予想しなかった。

「あ、大丈夫大丈夫…」

むくりと起き上がると学がぷっと吹き出した。

「本当にすいません…」

「あー、いいよ。大丈夫だから先行きな」

上手く交わせない自分の代わりに学が後輩に優しく言った。
名前も知らない一年は最後まで申し訳なさそうにちらちらとこちらを窺っていたので、精一杯の笑顔で応えた。

「…僕は今どんな状態なのでしょう」

「ふ、泥、だらけっ…」

「笑うならちゃんと笑えばいいじゃん!」

「いや、ごめん。まさか受け身もとらず顔から突っ込むとは思わなくて…」

堪えきれなくなったのか、学は身体をくの字にして声を抑えて笑っている。
運動音痴はいつものことだ。十七年間そうやって生きてきたからもう不便とも感じない。こういう小さな不幸だってよく身に降りかかる。
神はさいを振らないらしいが、自分に限っては絶対"不幸"に振っていると思う。
起き上がって下半身についた砂埃を払い、被害具合を確認するため、シャツの腹部分を引っ張った。

「あーあ、これはクリーニング出してもだめだな」

早々に諦め、頭の中で所持金を思い浮かべる。大丈夫、シャツ一枚買うくらいのお金はある。

「すぐに洗ってクリーニングだせばどうにかなるかもよ。とりあえず急いだ方いい」

「だね」

ブレザーを腕に抱えていて助かった。ブレザーで泥に突っ込むのに比べばシャツとネクタイだけで済んでよかった。不幸の中にも些細な幸運を見出して納得させる。

「真琴ジャージ持って来てる?」

「あ…」

今日は体育がないのでジャージは部屋の洗濯篭の中だ。
一度寮に戻る手もあるが、その前にこのシャツを洗いたい。そうなるとタイムリミットだ。先生に訳を話せばどうにかなるだろうが、こんな格好で学校をうろうろするのも憚られる。

「俺一限から体育だからとりあえず俺のシャツ貸すよ」

「でも学今日一日ジャージになるよ?」

「別にいいよ。楽だし」

「うーん、じゃあお言葉に甘えようかな…」

他に借りられる友人もいないし、それしか解決策はなさそうなので彼の好意をありがたく受け取り、ワンサイズ大きい学のシャツを羽織って自分のシャツについた泥を落とす。
とほほ、と泣きたい気分になり、こんなの慣れっこだと前向きに考え、慣れてる自分が悲しくなる。
ぎゅうっと絞ってから広げてみたが、やはり真っ白綺麗とはいかず薄らと茶色が広がっている。クリーニングでなんとかなればいいけれど。
二年のネクタイはエンジ色なので多少染みがついてもあまり気にならないだろう。
教室のベランダに出てシャツをぱんぱんと伸ばす。
手摺に引っ掻け、雑巾を乾かすために使用されている洗濯バサミできっちり固定した。
今日は一日晴れと天気予報で言っていたし、数時間もすれば乾くだろう。
学校が終わったら寮に戻って、管理人さんにクリーニングをお願いして、だめなら新しいシャツを注文する。
袖部分にイニシャルを刺繍する作業があるため、注文してもすぐには届かない。洗濯サイクルが間に合わない場合は半そでシャツで耐えるしかない。今が冬でなくてよかった。
シミュレーションは完璧だ。だが、朝一番の不運に出鼻を挫かれ予定通りに事が運ぶか不安もある。
とりあえず席に座って小さく溜め息を吐いた。
その内蓮がやってきてあれ?と首を傾げる。

「真琴がネクタイしてないの珍しい」

「実はですね――」

ベランダではためくシャツを指差しながら経緯を話すと、彼は一しきり笑ったあと災難だったねと肩をぽんぽん叩いた。

「シャツってワンサイズしか違わなくても結構わかるものだね」

「ちょっとだぼつくよね。格好悪いなあ…」

「電話くれれば僕の予備のシャツ持ってきたのに」

「その手があったか!」

蓮と自分は体躯が似ているし、洋服のサイズも同じだ。だが学は自分たちよりワンサイズ大きく、肩の部分が少しずれるし袖も長い。
今日一日だけだし、自分の見目が悪いのはいつものことで、きっちり制服を着れなくとも大した違いはないだろう。
幸い、うちの学校は割と自由が許されるし、制服の体を保っていればあまりうるさく言われない。ネクタイをつける者もいればつけない者もいるし、ブレザーも然り。
授業すらきちんと受ければ後はご自由に、といった具合で大抵の教師は干渉しない。

「クリーニングで落ちるといいね」

「だね。その前に顔から転ぶのやめたい」

こちらは真剣なのに、蓮はもう一度苦しいと言いながら笑い出した。


四限が始まる前、珍しくメールが届き、授業の終了を知らせるチャイムと共に財布を持って教室から飛び出した。
戦争よろしい購買で腕を一生懸命伸ばして手に触れたパンを片っ端から腕に抱える。
会計を終え、第一体育館へ続く渡り廊下へ走った。少し先に目的の人物を見つけ、思わず笑顔になる。

「三上!」

"パン買って来い"彼からのメールはこれだけだったが、彼のクラスの時間割は完璧に頭に入っているので体育館まで迎えに来たのだ。三上の隣には皇矢もいる。
制服だけでなく、ジャージも学校指定でなくとも教師はうるさく言わない。
まあ、運動できる格好ならいいんじゃない?くらいの感覚なので、指定ジャージを着る人、部活動のジャージを着る人など様々だ。
三上は三本ラインが定番のスポーツメーカーの黒いジャージを着ている。
チャックは締めず、フードをすっぽり被って隣の皇矢と何やらお話し中だ。

「ご苦労、忠犬」

三上はこちらに気付き、労いの言葉と同時に抱えていたパンを数個取り上げた。
じゃあなと皇矢に手を振られ、小さく笑ってそれに応える。

「潤は一緒じゃないんだね」

きょろきょろと辺りを見渡したが潤の姿はない。

「授業終わってすぐどっか行った。片付けから逃げるために」

「ああ、想像できる…」

渡り廊下から上履きのまま中庭へ歩きだした彼の後を追う。ぽつぽつと備えられている丸太のような形のベンチに腰掛けたので、向かい合うように自分も腰を下ろし、ウッドテーブルの上に抱えていたパンをとさりと落とした。ズボンのポケットに入れていた紙パックの牛乳も。

「いただきます」

手を合わせて焼きそばパンの封を開けた。

「体育何やった?」

「バレー」

「いいなあ。同じクラスなら見れたのに」

「いや別に活躍してないし」

「それでも見たいよ。機敏に動く三上なんて滅多に見れないもんね。ハシビロコウみたい」

自分で言った発言に吹き出した。思い付きで言ってみたがとても似ている。
鋭い眼光や、獲物が顔を出すまでじっとりと動かず耐える屈強な精神、縄張り意識が強く単独行動を好み繁殖さえも難しい気難しい性格。どれもこれも同じではないか。もしかしたら彼の前世はハシビロコウだったのかもしれない。

「なに笑ってんだよ気持ち悪いな」

「だってそっくりすぎて…」

俯いてくくく、と笑うと頭頂部に手刀が落ちてきた。それでも笑い続けると呆れたような溜め息が聞こえた。
朝から泥だらけになり、今日の双子座は十二星座占いで最下位だったに違いないと思っていたが、三上と昼食を食べられるならチャラどころかおつりがつく。
二つ目のパンの半分くらいを食べた頃、ストローを吸っていた三上の視線が自分の手元に注がれていることに気付いた。
視線に首を捻りながらも彼の行動に一々疑問を持っていたら身が持たないので受け流すように食べ続けた。
彼は空の牛乳パックをテーブルに置くとパンを持っていた腕を自分の方へぐっと引き寄せた。

「な、なに」

彼は袖の辺りをじっと眺め、問いには答えてくれない。

「…麻生か」

ぽつりと呟いた声は地を這うように低かった。
彼が何を言いたいのか察し、袖に刺繍されたイニシャルを見ていたのだと気付く。

「うん。シャツ汚しちゃって学に借りたんだ」

「汚した…?」

眉間に皺を寄せた表情に慌てて言い訳をするように言葉を重ねた。

「登校するとき泥に突っ込んじゃって…」

情けない話しをなるべく丸く伝えようとあはは、と笑ってみせたが、彼は冷淡な視線を向けて腕を握ったまま立ち上がった。

「うわ、ちょっと」

食べかけのパンを落としそうになって慌てて持ち直す。
テーブルの上に置いていた牛乳に手を伸ばしたが間に合わなかった。さらば、僕の牛乳。後でゴミを回収に来なければいけない。
ずんずんと前を歩く彼の背中を眺め、今度は何が悪くてご機嫌を損ねたのだろうと考えた。ハシビロコウに似ていると笑ったからか。そこまで狭量な男ではないだろうから、泥に突っ込んだ自分の間抜けさだろうか。それも慣れっこだろうし、残るは学の存在だ。
学と三上は相変わらず仲が悪い。ばちばちと火花を散らすほど顔を合わせるわけではないが、お互い言葉の中に棘がある。
日頃から麻生は面倒な存在と三上は言い、学は三上に意地悪したくなると言う。
穏便に過ごしてほしい。どちらも自分にとっては唯一無二の存在だ。だけど現実は日が経つごとに険悪になっていくばかり。
どうしたものかなあ。腕を引かれるまま歩き、呑気に考えながらパンを齧る。
二年の教室が並ぶ階まで来ると、三上は空き教室に僕を放り投げ、待っていろと言った。
ぴしゃりと扉を閉める姿を見て、他人事のように苛々しているなあと思う。
彼の機嫌は自分が左右できるものではないので、自然と治まるまで待つしかない。八つ当たりされることも多々あるが、それで気が済むなら構わない。
食べかけのパンを全て平らげ、ビニール袋をゴミ箱にそっと投げ捨てると三上が戻ってきた。

「脱げ」

「は?」

「脱げ」

「…はい?」

意味がわからず呆然とすると、彼は痺れを切らしたようにこちらに近付き、シャツの釦を一つ一つ外し始めた。

「ちょ、ちょっと、なに!?」

慌てて三上の肩をやんわりと押し返したがそんなものではびくともせず、狼狽えている間に釦がすべて外され、シャツの襟を後ろから掴みぐいぐいと引き抜かれた。
いくら今が梅雨一歩手前とはいえ、いきなり上半身裸になれば寒い。
貧相な身体を彼に見られるのも嫌だ。鍛えている途中なので腹筋が六つに割れてからにしてほしかった。
三上は学のシャツとは別のシャツをこちらに投げた。慌てて掴み広げてみる。自分のシャツではない。袖を見るとY.Mの刺繍。

「これ三上の…?」

彼はその問いには答えてくれず、早く着ろとぶっきら棒に言い、教室の窓を開けて傍に会った机に座った。
袖を通すとふわりと彼の香水の香りが鼻腔を抜ける。釦を閉め、改めて袖口を鼻に近付けるとさり気ない残り香で身体が一杯になる。

「なに匂い嗅いでんだよ変態」

目ざとく見つかりへらりと笑う。変態なんて今更だ。
三上のシャツもワンサイズ大きいのでまったく身体には馴染まず、新調した制服のような違和感がある。だけどそんなことはどうでもよくて、余ってしまう袖も、太腿にかかる丈も、だぼつく身幅も愛おしくなる。
にやにやと笑ってしまい、思い切り引かれた顔をされた。
遠くで響く喧噪と、風が流れる囁きだけが響く教室。世界から隔離されたような箱にずっと二人でいたい。乙女の思考にどっぷりとはまりそうになった頃、予鈴が鳴ってしまった。短い逢瀬もこれで終了だ。
三上は机から降り、学のシャツを手に歩き出した。

「あ、僕返しておくよ」

「俺が行く」

また顔を合わせたら喧嘩になるのに。吹っ掛けるのはいつも学の方で、彼は何も悪くないけど。

「きょ、今日、学校終わったら部屋行っていい?」

扉を開けた背中に向かって言ったが返事がないまま彼は去ってしまった。
返事がないということは肯定ととってもいいだろうか。持前のポジティブを発揮して勝手に解釈する。
本鈴が鳴りはっと我に返って慌てて教室へ戻った。既に教卓に立っていた教師にちくりと叱られたが、にやけた面は戻らない。
随分ご機嫌だね。こっそり教科書で口元を隠した蓮に言われ、大きく頷いた。
席に座りベランダに視線を移すと、自分のシャツが爽やかな風と踊っている。恐らく乾ききっているだろうがそれには気付かぬふりをした。


END

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