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目が覚めて一番に自分の頬をぎゅっと抓った。
きちんと覚醒していることを痛みでもって確認し、次にまだ眠っている香坂の頬にそっと触れる。
香坂は指先の感覚がくすぐったかったのか、眉を寄せごろんと背中を向けてしまった。
もったいないことをした。悪戯せずに寝顔を眺めていればよかった。
休日だろうが平日だろうが毎日同じ時間に起き、きちんと身支度を整えて勉強に励む。
だけど今日くらいは怠惰な朝を過ごしてもいいだろう。
香坂の背にそっと寄り添うようにし、額をつけた。
昨日彼は言った。
――お前が言いたいことはわかってる。
――お前がそうしたいなら構わない。
思い出して口端が持ち上がりそうになる。
まさかそう言ってもらえるなんて予想はしていなかった。
勝算ゼロで砕ける場面ばかりを想像し、せめて優しく振ってほしいと思っていたから。
僕は香坂が好きだった。
傍からは犬猿の仲に見えただろうが、恋心を上手に扱うことができず、好きと自覚したからといって急に態度を改められなかっただけで、本当は苦しいほど好きだった。
だけど香坂は態度や言葉通り自分を嫌っていたと思っていたし、気紛れな優しさも同室のよしみ以上のものはないとわかっていた。
少しだけ期待して、なにを馬鹿なと叱咤し、だけど笑顔や優しさを与えられるたびやっぱり期待して、それの繰り返し。
つまらないことで上がって、単純なことで下がって、短時間で忙しなく動く心が鬱陶しかった。
平坦で、凪いでいたいのに全然思い通りにならない。
恋がこんなに厄介だと知らなかった。
はち切れそうな心を持て余し、自棄になったようにもういいや、はっきりふられようと決めた。
どこかで決着をつけないと一生このままかもしれないと怖くなったから。
そうして昨晩格好のつかない告白をし、どうやら自分たちは恋人になったらしいのだ。
もう一度頬を抓る。
やっぱり痛い。
これは現実。
僕は香坂に受け入れてもらえた。
感情の水位がぐんとせり上がり、手足をじたばた動かしたくなる。
香坂を起こすので大人しくしていると、代わりに心臓がやけに早く鳴り始める。
手に入れば苦しさも忙しなさもなくなると思ったのに、前以上にひどくなってる。
もっと顔が見たい。もっと触れていたい。もっと、もっと。
香坂自体は昨日と同じ人間なのに、関係性が変わっただけでなにもかも違く見える。
溢れる愛おしさをどう発散していいのかわからない。
香坂もこんな気持ちなのだろうか。
今までの彼女たちにこんな気持ちを捧げ、世界で一番美しい宝石を包むようにその手に抱いてきたのだろうか。
考えてむかっとする。
過去に嫉妬するなんて自分に呆れる。
まあいいさ。今は僕のもの。僕だけの香坂。それだけで充分だ。
すりすり、背中に額を擦りつけると香坂がこちらを振り向いた。
「なんだ」
寝起きの掠れた声。たったそれだけで胸がぎゅっと締め付けられる。
「…なんでもないです」
香坂はまだ寝惚けた様子で背中に腕を回し、抱き枕のように身体を包んだ。
髪に鼻先を埋めるようにし、小さく楓さん、と呟いた。
その瞬間がばっと起き上がる。
信じられないものを見る目で見下ろすと、完全に目覚めた香坂が朝からなんだよと顔を顰めた。
「今!」
「…なに」
「僕のこと楓ちゃんと間違えた!」
「…は?間違えてねえよ」
「間違えてた!楓さんって言った!」
「言ってない。朝から騒ぐな」
心底鬱陶しそうに腕で顔を隠す。
僕がおかしいのか。こんなことで怒るなんて狭量なのか。
香坂はまだ楓ちゃんが好きなのか。形代にしてるだけなのか。
笑った顔が楓ちゃんに似ていると言われたけれど、そういう思惑があって告白を受けてくれたのか。
そんなはずはない。兄弟で一括りにされることを疎んでいるし、最低な真似を自らするような奴じゃない。
そう言い切れるほど知ってるのかと自問自答するが、僕が信じた香坂はそんな奴じゃないのだ。
きっと楓ちゃんの夢を見ていただけだ。
夢にまでケチをつけるなんて無茶な真似しない。
だから僕が引くしかないのだ。
しょんぼりしそうな気持ちを立て直し、再び隣にぽすんと転がる。
じっと見つめると、香坂はちらっと片目を開け、なに?と聞いた。
なんでもない。なんでもないってことはねえだろ。なんでもないよ。
益体のない会話を繰り返すと、香坂はふわっと欠伸をしながら腹減ったなと呟いた。
「なにか買いにいく?それともどこか食べにいく?」
わくわくしながら問うと、目を丸くされ、なにかおかしなことを言ったかなと不安になる。
「……どうしたお前」
「……なにが?」
「なにがって…」
香坂は言葉を区切り、髪の毛をかき回すようにしたあと身体を起こした。
机の上に放り投げていた眼鏡をかけ逃げるようにベッドから出ていく。
寂しさを感じ、でも今晩も一緒に眠れるし、こんな朝はこれから部屋替えをするまで何度も味わえるんだからと前向きに考えた。
順番に洗面所を使い、洋服に着替えると香坂が財布をズボンの尻ポケットにぎゅっと突っ込んだ。
「コンビニ?」
「ああ」
「僕も行く」
「マジで言ってんの?」
「…そんなに驚くこと?」
いや、うん。と歯切れの悪い返事に首を捻りながら身支度を整え香坂の隣に並んだ。
コンビニに行って帰るなんて、デートのうちに入らないお粗末なものだがそれでも嬉しかった。
本当はずっとこうしたかった。
恋人なんかじゃなくていい。友達という枠で充分だから隣に並んだり、笑って話したり、なんでもない休日を過ごしたり。
なのにかわいげない皮肉ばかりが口をつき、素直になれる材料がなければまともに目を合わせることもできなかった。
これからは思い切り甘えていいし、彼を独り占めしたいと言っていい。
だって僕たちは昨日と違う。恋人同士ってそういうものだろう。
部屋に戻り朝食を食べたあとは自由に過ごした。
香坂はゲームの続き、僕は勉強。
なにか会話を探したけれど少しも思いつかず、焦らずゆっくり関係を構築していこうと決めた。
春休みまであと十日ほど。
部屋替えの移動などを考えてもゆっくりできる時間は多くない。
二年になっても同じ部屋ならいいのに。
今同室でいられるのは意図的に仕組まれた結果だ。それならまた同じように裏から工作することが可能なのではないか。
思い立って勢いよく立ち上がった。
「ちょっと香坂さんのとこ行ってくる」
「…はあ、行ってらっしゃい」
一緒に行くかと誘おうとしたが結果は見えてるのでやめた。
兄から部屋に来ることはあっても弟からは決して近寄らない。それが香坂兄弟。
携帯と鍵だけを持ちずんずんと大股で香坂さんの部屋を目指す。
三年は卒業式のあと部屋の片付けを済ませた者から退寮する決まりだ。それぞれ事情があるため三月いっぱい猶予を与えられる。
香坂さんの場合いつでも実家に戻れるが、楓ちゃんとの時間を惜しむように粘っているらしい。
どうかいてくれますように。
願いながら扉をノックすると楓ちゃんが顔を出した。
「うわ、びっくりした。薫かよ」
「……楓ちゃんさあ…」
溜め息を吐くとなんだよと詰め寄られたが、なんでもないと誤魔化した。
ついさっきまでことに及んでいましたオーラが充満している。
リビングのソファに座っていた香坂さんなんて色気の大安売りだ。
上半身裸のまま、よお、珍しいなと気さくに手を挙げられ、もう少し焦ったらどうだと思う。
気まずいとか、そういう繊細な気持ちがこの人たちにはないのか。今更だけど。
温かいお茶を淹れてもらい、ソファに並んだ二人を眺めた。
過不足ない愛情と、余計な緊張もない穏やかでリラックスした空気。自分と香坂にはないもの。
一年恋人を続けたらこうなれるのだろうか。僕たちはそこまで続くのだろうか。
「で、なんの用だ?」
香坂さんに問われ単刀直入に二年も香坂と同室になりたいと言った。その瞬間二人は顔を見合わせ、同じタイミングで首を捻った。
夫婦は似てくると言うけれど、それは恋人も当てはまるらしい。
「…なんでまた。やっと別の部屋になれるって喜んでたじゃん」
「それはっ……」
言うべきか、言わないべきか。二人のことを彼と相談する前に吐露するのはルール違反かもしれない。
「……い、色々あって」
俯くと、楓ちゃんが腕組みしながら唸った。
「まあ、お前の性格を考えるとわからなくはない。弟君には猫被らなくていいし楽だもんな」
「そ、そう」
「でも部屋決めは終わってるだろうし、弟君ばっかりに甘えるのはよくないぞ」
「で、でも僕と香坂が同室になったのは香坂さんが裏から手を回したからでしょ?なら今年も…」
「俺じゃなくて仁な」
「弟君はなんて言ってんの」
「…香坂にはなにも言ってない。僕が勝手に…」
「一方の意見では決められねえだろ。もしかしたら弟くんは違う部屋がいいと思ってるかもしれないし」
「そんなことない!」
強い否定に二人は目をぱちくりさせた。
香坂だって僕と同室がいいはず。好き合っていれば離れ難いものだ。成績を鑑みるとクラスは絶対違うのだから、部屋くらい一緒がいい。
膝の上に置いた手をぎゅうっと握り締めると、二人はこそこそ耳打ちしながらなにか話した。
「…絶対とは約束できないけど仁に聞いてみる」
「本当?ありがとう!」
「もう動かせないって言われたら諦めろよ」
「…うん」
本当は諦めたくないけど。
決定権のある人物の弱味を握り強請ってでも同室にしてほしい。
香坂さんは早速スマホで一言、二言話し、今から仁の部屋に行ってくると言い部屋を去った。
「で、本当のところは?」
楓ちゃんに問われ身体を小さくした。
兄には昔から隠し事ができない。それだけ自分を見てくれている証拠だ。
そして楓ちゃんが内緒だよという言葉を守ってくれたこともない。
秘密にしてねと言っても次の日には両親に筒抜けなのだ。小学生の頃の話しだけど。
「……言いたくない」
「頼み事するならそっちの手の内を明かすのが礼儀ってもんじゃねえの」
ごもっともです。
でも香坂さんはなにも聞かずに頷いてくれた。
それができないのが楓ちゃんなのだけど。
白黒はっきりさせたがるし、道理に外れた理由なら速攻却下される。
指先をいじるようにすると、強い語調で名前を呼ばれた。
反射的に顔を上げると睥睨する兄と視線が合う。
説教の気配を感じ、ぼそぼそ理由を話した。
「……ぼ、僕は、香坂と一緒にがいい」
「なんで」
「一緒に、いたいから」
「嫌味ぶつけてストレス発散できるから?それでも弟君が甘やかしてくれるから?」
「違うよ!」
「じゃあなんだ」
「……す、好きだから…」
消え入りそうな声で告げ、ちらっと視線を上げると楓ちゃんは脱力するように額に手を添えた。
「ようやく言ったか」
「な、知ってたの!?」
「見てればわかんだよ」
そうか、自分はそんなにわかりやすかったのか。
昨晩香坂にも同じようなことを言われたのを覚えている。言葉にも態度にも出ていたと。
恋心を必死に後ろ手に隠していたつもりだったのは自分だけで周りには筒抜け。なんて間抜けなのだろう。自分が渦中にいると前後不覚になってしまう。
「…昨日、香坂に告白したらオーケーくれた」
「マジで!?」
「そうしたいならいいよって」
「マジで!?」
楓ちゃんは同じ言葉を二度繰り返し、口をぱくぱく開閉した。
「…すげえな弟君。いや、マジですげえわ。自ら地獄を選ぶとは…」
「それって僕が地獄ってこと?」
「だってお前の態度ひどいだろ。口を開けば嫌味ばっかり。馬鹿にして、見下して、殴らないだけ偉いと思ってたけど、まさかおつきあいを了承するとは…」
「ぼ、僕だって少しはかわいげがあるんだよ!」
「ふーん…」
じっとりとした視線はまったく信じてない証拠だ。
「それで同じ部屋になりたい、か。まあ、気持ちはわかるけどこんなぎりぎりじゃ期待しないほうがいいぞ。それに違う部屋のほうがいいこともある」
「例えば?」
「万が一二年の途中で別れたらどうする。そのあとも同室で平気な顔できるか?弟君は上手に振る舞えるだろうけどお前は絶対無理だ」
言い返したいのに言葉が喉に詰まる。
その可能性をまったく考えていなかった。浮かれてばかりで終末なんて来やしないと出何処不明の自信に溢れて。
これを恋愛脳というのだろう。脳内お花畑で結構なことだと見下してきた連中と同じ。
まさか自分がこんな風になるなんて。
がっくり項垂れ、恋は人を馬鹿にさせると知る。
「意地悪で言ってるわけじゃなくてな?」
「…わかってるよ」
「悪い。嫌なこと言ったな。別れたときのことなんて……。薫が恋をしただけですごいことだもんな」
「……たぶん、僕のほうが傾いてるんだと思う。今朝もあの野郎僕と楓ちゃん間違えやがった…」
思い出すと怒りがふつふつ沸き上がる。
「大丈夫だって。俺のことなんて綺麗さっぱり忘れてるから」
能天気に笑う兄が憎くなる。
香坂がどんな気持ちで楓ちゃんを忘れようと必死だったかも知らないで。
成就されたら困るけど、彼の苦労を蔑ろにされると文句を言いたくなる。
香坂の問題で、楓ちゃんは悪くない。
辛くとも傍にいたいと決めたのは香坂だし、楓ちゃんはそれをわかった上で弟のようにかわいがった。
兄が変に気を回したほうが拗れただろうし、兄の判断は間違いではない。
口ではどんな風に言っても、香坂の心の裏側を想像しないほど馬鹿な兄ではないと思う。
きっと僕を励ますために軽口を叩いているのだ。
香坂のことになるとすぐ頭に血が上り、目に見える情報だけに喰いついてしまう。
眉間に寄った皺を抓んだ。
冷静に、冷静に、いつもの自分を取り戻さなければ。
ぬるくなったお茶を啜ると香坂さんが戻ってきた。
「もう動かせないってよ」
言われた瞬間床に転がった。
「嫌だー!」
じたばた手足を動かし、香坂さんの足元にすり寄る。
「本当にもう無理?」
「かわいい顔しても無理」
「嫌だ!一緒がいい!」
「薫、我儘言って香坂を困らせるな」
「だって……」
苦しさ、寂しさ、不安、負の感情が胸を回転しながら速度を上げる。
仕方がない。だめ元だったし、結果が芳しくなくとも受け入れるしかない。
だけど、だけど。
「ちなみに香坂は誰と同室になる予定?」
「白石」
「今日ほど白石を恨んだことはない!」
「白石かー……まあ、弟君的にはラッキーかな?あいつ害ないし。それに白石部活で忙しいからほぼ弟君一人みたいなもんじゃん。気軽に遊びに行けばいい」
「……そうかもしれないけど。僕は誰と?」
「黒田君だそうだ」
聞き覚えがないということは他クラス。
猫を被ってまた一から関係を築き、可もなく不可もなく、ただの同室者という立場を演じなければいけない。
床に四つん這いになり頭を垂れた。ストレス値が天井突破しそう。
「やっぱり香坂がいいー!」
「あ、子ども返りした」
「どうすんだこれ」
「保護者を呼ぼう」
「お前が保護者だろ」
「もう違う」
楓ちゃんがスマホを取り出し、数分後に香坂が引き取りにきた。
仲良くするんだぞと楓ちゃんに耳元で囁かれ、力なく頷く。
ずるずる腕を引かれ自室に戻ったがまったく力が入らない。虚無だ。
もう嫌だ。世界を恨んでやる。
仕方がないと思う。人生思い通りになることのほうが少ない。
わかっているが、そんな理性的な部分とは関係なく、香坂がよかった、知らない人と一緒に暮らしたくない、白石の馬鹿と不満が渦巻く。
「今度はなにがあった」
「……部屋…二年になっても同じにならないかと思って……だめだった…」
「そりゃあだめだろ」
あっさりした反応に眉を吊り上げる。
「香坂は僕と一緒がいいとかないのか!」
「なんでお前と?」
「だ、だって……」
「なんでもいいよ部屋なんて。風呂入って寝るだけだろ」
興味なさそうな様子に悲しくなる。
一緒にいたいのは自分だけ。気持ちの大きさを見せつけられた気分だ。
それとも香坂はそういうさっぱりしたつきあいがお望みなのだろうか。
一人で空回ってる気がする。
自分がこう思うのだから香坂も同じはずと決めつけて。
香坂は今まで普通に恋人がいて、楽しさも苦しさも経験している。
それに比べて自分ときたらなにもかもが初めてで、呼吸の仕方をようやく覚えた赤子のようだ。
おつきあいの手順を確認するような関係はうんざりするのだろう。
じゃあ香坂に合わせて自分の気持ちを蔑ろにしていいかというとそれは違う。
僕には僕の感情があり、この寂しさも不安も半分持ってもらわないと困る。とても一人じゃ抱えきれそうにない。
頭が痛い。
ふっと溜め息を吐きベッドに横臥した。
ふて寝するように布団に包まると、髪をさらりと撫でられた。
目だけでそちらを見てむっつり口を真一文字に引き結ぶ。
「拗ねてもしょうがねえだろ」
「わかってるよ。でも僕は君と一緒がよかった…」
「なんで。離れたほうが喧嘩しなくて済むだろ」
「喧嘩は少なくなるかもしれないけど…」
好きな人とは理屈抜きで一緒にいたいと思うものではないのか。想いが通じたなら尚更。
もしかして僕うざいタイプの人間かも。
だとしたら少し控えなければいけない。
普通の高校なら同じ部屋で過ごせないのが当たり前。他校なら放課後や休日しか会えない。
それに比べれば随分優遇されている。そう思えば気休めになるけれど。
「……クソ白石」
完全な八つ当たりだが怒りの矛先を着地させたいので白石を恨むことにする。
課題見せてーと人当たりのいい笑顔を浮かべたとしても明日からは見せてやらない。
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