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誰にでも怖いものの一つや二つ存在する。
それが他人より少し変わっていたって、本人が怖いと感じるなら尊重されるべきだ。
トラウマになる原因があったり、理由もなくざわりとしたり、きっかけはそれぞれ違うだろうが面白半分で揶揄するものじゃない。
暗所恐怖症や閉鎖恐怖症、高所恐怖症に先端恐怖症。
吉報恐怖症や長い単語恐怖症なんてものもある。
理解されない分、大袈裟だの、そんなものが怖いなんてと嘲笑され、その物体に対する恐れと周りの反応の恐れがダブルで圧し掛かる。
僕の場合は――。

「なあ、月島はペット飼ってる?」

五限が始まる前の数分、白石が席のそばにいるものだから他のクラスメイトも集まり、一つの塊で談笑していた。
自分は笑みを浮かべるだけで積極的に会話に参加しなかったが、こんな風に振られれば答えないわけにもいかない。

「飼ってないよ」

「そっか。残念」

白石は首を左右に振り、嘆かわしいとばかりに溜め息を吐いた。

「うち実家に犬いるぞ」

「大きい?」

「中型」

「大きいのがいいー」

「わがまま言うなよ」

自分の家は猫、ハムスター、兎、同級生の口から羅列される動物たちに、ペットが家族はまんざら嘘でもないらしいと知る。
生まれてこのかた動物を飼ったことがない。近所の野良猫や地域猫を少し離れた場所から眺める程度。
年子の男児がいる家庭はただでさえ動物園状態だし、両親も他の世話まで手が回らなかったのだろう。
それになんとなく、こういうのは女児がいる家のほうが積極的に飼ってるイメージだ。
世話を手伝いそうだし、細かい気配りも上手だろう。
我が家に猫でも犬でも小さなハムスターでもいてみろ。少し尻尾を踏む程度ならいいが体ごと潰してしまう可能性もある。考えただけでぞっとする。

「うちは爬虫類いるよ」

はい、と手を挙げたクラスメイトにみんな興味津々で喰いついた。

「なに飼ってんの」

「イグアナ」

「写真見たい」

スマホを操作してもらい、みんなで画面を覗き込む。

「おお、綺麗な緑だ」

「かわいいだろ」

「かわいい」

「他にも飼ってるよ。えっとー……」

スワイプし、突然画面に現れた物体に思わず席を立った。

「月島?」

「いや、ごめん、ちょっとびっくりしして…」

「はは、びっくりするよな。でも手に乗せても大丈夫だし結構かわいいよ」

毒は?噛まれない?とみんなが写真を見ている間、足先がすっと冷たくなった。
僕は蜘蛛が怖い。
爪先程度の小さな蜘蛛は勿論、家でアシダカグモなんて見た日には卒倒する。
同級生が飼っているらしいタランチュラなんてもっての外。
予鈴が鳴り、それぞれが席に戻ったあとも画像が瞼の裏にこびりつき授業どころじゃなかった。
ああ、これは夢に見そうだ。
巨大な蜘蛛が襲ってきたり、豆粒程度の蜘蛛が大群で追ってきたり。
昔、流行っていたファンタジー映画をなんとなしに見てそんな映像が流れたときはパニックを起こして大変だった。
家だったからよかったものの、映画館であれをやった迷惑極まりないので気軽に映画も見れやしない。
わけもなく怖いわけじゃない。
きちんと理由があるのだが、その理由を思い出しただけで具合が悪くなるのでなるべく記憶の奥底に追いやっている。
なのに人間、いい思い出はぽっと忘れるのに嫌な記憶ほどしつこく居座り続けるから嫌になる。
額に手を添え溜め息を吐いた。
もう授業の内容なんてまったく耳に入らなかった。

「…顔色悪くないか?」

HRが終わり帰り支度をしていると白石が顔を斜めにして覗き込んできた。

「そう?普通だと思うけど」

「いやー、真っ白だぞ」

「もともとだよ」

「元から白いけど更に青白い。少しは太陽の下で運動しろよ?あ、一緒にバスケする?」

「バスケは屋内スポーツだろ」

「まあまあ、汗掻くとすっきりするって」

「いいからさっさと部活行けよ」

白石を追い出すように腹を押す。
じゃあなーと笑顔で手を振る彼に応え、自分も部屋へ戻ったのだが、いつもはすんなり入れる部屋の中に入れない。
蜘蛛いないよな、と確かめたくなり、万が一見つけたらもう二度とこの部屋には戻れないのでそれも怖い。
なのに確かめずにいられない。
理性とは別個の部分で馬鹿馬鹿しい恐怖に襲われるから自分でもコントロールできない。
すぐ逃げれるよう扉を開けたまま、地べたに這うように床を眺めた。
いない。ような気がするが、ベッドの下とか、冷蔵庫の下とか、小さな蜘蛛が隠れる場所は山ほどあるので油断はできない。
そもそもこんな山の中に建っているのだ。いないわけがない。
学校や寮の敷地内に植えられた木に巣を作っているのも知ってる。見ないよう、近付かないように注意しているから。
比較的新しい校舎や寮は定期的に清掃業者が入るので使用されていない部屋でも蜘蛛の巣が張ることはない。
それでも都会のマンションの実家に比べると危険度は増すわけで。
なんでこんな山奥の学校に来てしまったのだろう。なぜそこまで考えなかったのだろう。
入学を決めた自分を呪い、目をこらす。

「……なにやってんだお前」

背後から聞こえた声に慌てて上半身を起こした。

「別に!」

「別にって体勢じゃねえだろ。なんか落とした?」

「いや、本当になんでもない……」

冷や汗を掻きながら俯き、先にどうぞと同室者を中に通した。
首を傾げながらもベッドに近付き鞄を放り投げる姿を眺める。

「あの、変なとこないよね」

「はい?」

「部屋、いつも通りだよね」

「……そうだと思うけど。誰かに入られた?」

「入られてはないと思うけど…」

鞄の持ち手をぎゅうっと両手で掴み、それならいいと誤魔化すように大股で室内に入る。
香坂はなに言ってんだお前という表情だが、知らん顔をし制服を脱いだ。
部屋着に着替えて勉強しよう。頭を他でいっぱいにすればこの馬鹿げた思考も霧散する。
しかしクローゼットが開けない。
開いた先にいたらどうしよう。大群で押し寄せたらどうしよう。
考えれば考えるほど身体が硬直してしまう。

「どうした」

「…あ、あの、クローゼット開けてくれない?」

「は?クローゼット?」

自分は扉のそばに陣取り、影から香坂を覗き見るようにした。

「開けましたけど」

「なにもない?普通?」

「普通だって。どうしたんだよ」

「…別に」

「だから、別にって反応じゃねえだろ」

言ったら絶対馬鹿にされる。
お前蜘蛛なんて怖いの?ふうん。とにたにた笑って弱味を握ったことを喜ぶに違いない。
こんな自分は楓ちゃんにしか見せたことがない。
できれば楓ちゃんにも知られたくなかった。
誰だって自分のウィークポイントは隠しておきたい。

「よ、洋服出して。適当できいから」

「…はあ」

ぽいぽいと放り投げられた服を更にばさばさ払い、何度も確認してから着る。
椅子に座る前も前後左右、抽斗の中まで異常なしと確認してから教科書を開いた。
香坂の訝しむような視線に、みなまで言うな、おかしいことは自分でもわかってると心の中で呟く。
香坂はベッドヘッドに背中を預けながらゲームを始め、自分も深呼吸をしてからペンを握った。
暫くそのまま過ごし、この調子ならあと数時間もすれば通常運転に戻れると安堵した瞬間、目の前の壁をよじよじよじ登る影が見え、机をばんと叩きながら立ち上がった。

「うわ、なんだよ急に」

逃げたいのに脚がコンクリートで固められたように動かない。
言葉がつっかえ出てこない代わりに震える指で影を指さした。

「……なんだそれ。虫?」

コンタクトを外し裸眼の香坂は目を限界まで細めるようにした。

「……殺して」

「お前を?」

「虫を!」

「なんだよそんな小さい虫。戦闘能力低すぎるだろ」

うるさい。うるさい。
他の虫ならどうとでもできるがこればっかりはだめなんだ。
がちがちに固まった脚をブリキの玩具のように動かし、香坂のベッドの上に避難した。
香坂は眼鏡をかけ、影を両手で包むようにして窓からぽいと放り投げた。

「ほら、どっかいったぞ」

「手!手洗ってこい!」

「お前そんな潔癖だったっけ?」

「いいから!」

洗面所から戻った香坂は、壁にへばりつくようにする僕のそばに座り、顔青いぞと言った。

「蟻嫌いなの?」

「蟻?蜘蛛じゃなくて?」

「蟻」

身体から一気に力が抜けたと思ったら今更震えが襲ってきた。
小さく身体を折り畳み、膝をぎゅうっと抱く。

「どうしたんだよ。笑わないから言ってみろ」

絶対言うもんか。硬く閉じた心で思うのと同時、香坂の柔らかい声に縋りたくなる。
促すように肩に手を置かれ、おずおずと顔を上げた。

「本当に笑うなよ」

「誓って」

宣誓するように右手を挙げたのを見て、小さく口を開いた。

「く、蜘蛛が…怖い……」

ぼそぼそ言うと沈黙が流れ、きっと笑っているに違いないと香坂を見るとそれで?と首を捻ったいた。

「だ、だから、他の人よりすごく怖くて…」

「蜘蛛ねえ……まあ、気持ち悪いと思う奴のほうが多いか」

「そういうレベルじゃない!もう、本当に無理なんだ!米粒程度の蜘蛛も無理。蜘蛛って単語を口にするのも嫌だ!」

わかったから落ち着けと背中を撫でられた瞬間、思わずその手を振り払った。
虚を突かれたような顔をする香坂にごめんと呟き、Tシャツの裾をぎゅうっと握った。

「触られたのが嫌なんじゃなくて、今は嫌っていうか、トラウマが蘇るというか…」

「なんか理由があって怖くなったのか?」

ぐっと下唇を噛み締めた。
今更隠してもしょうがないが、口に出すということは記憶の封印を解くということで。
もう思い出したくもないけどそれも今更だ。
昼間写真を見たときからちらちら思い出しては頭痛が響いていた。

「……小学生の頃いじめっ子の上級生にまあまあ大きい蜘蛛を背中に入れられて…」

「うわ……」

「服の中で背中を歩く感覚にパニック起こして……すぐ楓ちゃんが助けてくれたけど、それから見るのもだめになった…」

ちらっと上目で香坂を見ると、こちらに伸ばした手を引っ込めた。

「もう振り解かない。背中以外は平気だし」

「じゃあ手にするか」

がちがちに緊張していた手を解すように握った親指で甲を摩られ、今になって涙が浮かびそうになった。

「馬鹿にすると思った」

「そんなの誰でもトラウマになると思うけど。俺だっておばけ怖いし」

そうだったねとふっと笑った。
でもあの時は自分も怖いものがあるのに香坂を馬鹿にしたようににやにや笑った。
なのに香坂はこうして慰めてくれる。
自分が最低の人間に思えるし、香坂が神様のように思える。
香坂を上から目線で馬鹿にするけど、本当は彼のほうが人間的に優れているとわかっている。
勝てる部分は頭脳だけで、それを誇示しようと憎まれ口を叩いてしまうのだ。
トラウマに支配され精神がぐちゃぐちゃに弱っている。
マイナスへ、マイナスへ思考が流れて持ち直せない。
これは数日引き摺るかもしれない。ああ、本当に嫌だ。こんな癖直せるものなら直したい。

「…しばらくパニック起こすかもしれないけど放っておいていいから」

「そう言われてもな。どうやったらおさまんの」

「さあ。時間が経ったらかな」

「いつもは?」

「いつもは楓ちゃんがそばにいる」

「ふーん。じゃあ暫くは俺が一緒にいる」

「い、いいよそんなの」

「誰かが一緒にいたほうが安心なんだろ?」

頷きそうになってはっと首を左右に振った。
あまり情けないところは見せたくない。心が弱った挙句プライドもぼっきり折られてしまったらもう立ち直れない。
他の奴ならいい。だけど香坂にこれ以上格好悪い姿は見せられない。
なにが悲しくて惚れた相手に一番だめな部分を晒さなければいけないのだ。
虚勢を張る意味がなくなってしまうし、今後どんな顔で接すればいいのかもわからなくなる。

「いい。楓ちゃんか白石のとこ行く」

「なんで俺だと嫌なの」

指をきつく握られ目を忙しなく左右に動かした。

「い、嫌とかじゃなくて、その……」

言葉が出てこない。好きだからなんて言えないし、思考が散漫で適当な言い訳も思いつかない。

「嫌じゃないならいいだろ」

「え、いや、うん……」

押し切られる形で頷いてしまい、なにやってんだと頭を抱えたくなる。

「よし。じゃあ飯行くぞ」

「え、ちょっと待ってよ」

「待たない。考える隙与えるとごちゃごちゃ面倒くさいこと言い出すだろ」

腕を引っ張り上げられ、慌てて香坂の腕にしがみ付いた。

「…あ、いや、こういうことになるから楓ちゃんのとこに行くって言ったんだけど」

「肝試しのときと立場が逆になったな。あのときはお前が守ってくれたじゃん」

どちらかというと揶揄して愉しんでいたのだけど。

「大丈夫だから行くぞ。腹減って死にそう」

「…はい」

廊下を歩くときも、学食でも、ぎょろっとした目を忙しなく動かしながら異常なしと確認し、部屋へ戻ったときにはどっと疲れた。
さすがに風呂は別で大丈夫と断り、それでも目を開けたまま済ませ、香坂のベッドの上で小さくなった。
なんとなく、ここは安全な気がする。
風呂を済ませた香坂に寝ろと背中を押され、目を閉じるのが怖いと言った。

「起きてるほうがもっと怖いだろ」

「でも布団の中にいたらとか考えちゃって…」

「じゃあ他のこと考えれば?」

「できるならしてる」

香坂は顎に手を添え何かを考えるようにし、布団の中に引っ張り込んだ。

「一緒に寝てやる」

「じゃあ何か話して。他のこと考えられるように」

「お喋りならお前のほうが得意だろ」

「……話しがだめなら歌うたって」

「歌?なんで?」

「楓ちゃんが言ってた。香坂さんは歌が上手だって」

「だからって俺も上手ってことにはなんねえだろ」

「でも、音楽の才能はスポーツ以上に遺伝が左右するって研究結果もあるよ」

「ふーん。そんな才能はいらないから先祖代々のいい部分だけ遺伝してほしいもんだ」

「ランダムアソートメントだから無理。材料は同じでも色んな遺伝子の組み合わせで捨てるもの、拾うものが変わって一人一人違う人間が生まれる。だからどんな風に遺伝するかは神のみぞ知る。君たち兄弟は当たりのコマに止まったと思うけど」

「当たりねえ……」

「不満?」

「そりゃあ、誰だって自分が完璧なんて思わないだろ」

「そうだけど…」

その身長も顔も運動神経も僕がほしかったものだ。
頭脳は今のままでいいから他はそのまま交換してほしいくらい。
それを不満だなんて贅沢者め。隣の芝生は青く見えるのが人間の性とはいえ、なんだか悔しくなる。
口を尖らせぶつぶつ文句を言うと、香坂は少しは気が晴れた?とくすりと笑った。

「あ……そういえば忘れてた」

「お前はうんちく垂れてるときが一番生き生きしてるからな」

「知識ひけらかす嫌な奴みたいに言うな」

さらりと指を櫛にするように髪を撫でられ、ゆったり半分瞼を落とした。
誤魔化された気がするけど、見逃してやる。

「……香坂」

「んー」

「おばけ見たら言ってね。僕が守ってあげるから」

「お前除霊もできんのか」

くっと笑われ口をへの字にした。
そんなものできやしないけど、大丈夫だよと抱きしめるくらいはできる。
香坂に怖い想いはしてほしくないが、そのときは普段つんけんしてしまう分、目一杯甘やかしてやろう。
想像すると楽しくて、それが普通にできたならこんな自分でも好意を持ってくれる人が現れるのに、できない自分に少しがっかりした。
かわいげがないとか、生意気とか、性格悪いとか、言われ慣れてるしそれで問題ないと突っぱねてきた。
でも好きな人の前でくらい素直になってみたいのに、彼の前だと特に強硬な態度になってしまうのはなぜだろう。
自分を安心させてくれるのはいつも楓ちゃんだった。
お兄ちゃんがいるから大丈夫と、自分も震えているくせにぎゅっと腕に抱いてくれた。
あのときと似ているけれどまったく違う安心感に包まれ、不思議だなあと思う。
考えながらゆっくり眠りに落ちる刹那、僕にとって香坂と蜘蛛は似ていると思った。
それ以外考えられなくなり、身体と心の自由を奪っていく。
コントロールが効かず、憎らしく悔しいのに自分の力では脱却できない。
だから恋なんて碌な物じゃない。



END

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