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泉をいじめるようになったのはそのすぐ後だ。
ゲイなんだと言われた瞬間、ノラを思い出した。
ノラへの恋しかった記憶はいつしか憎悪に変わり、ノラの代わりに復讐するように言葉や拳で痛めつけた。
へらへらした顔で三上を追いかけ、振り払われても立ち向かっていく姿にイライラした。以前の自分を見ているようで。
馬鹿じゃねえの。
そんな風にしたって三上は振り向かない。
鬱陶しい、気持ち悪い、重い。人はそうやって簡単に気持ちをぺしゃんこにする。
イライラする、イライラする。
馬鹿な泉。早く気付いてくれ。
いじめられて苦しい?辛い?
でもな、三上に切り捨てられたときの痛みはそんなもんじゃねえぞ。
自分で気付けないなら俺が壊してやる。
それからは泉を痛めつけることでぽっかり空いた隙間を埋めた。
ゲイだ、バイだ、もうたくさんだ。
好きだ、嫌いだ大騒ぎして、そんな感情吐き気がする。
なんだかすべてがどうでもよくて、ぼんやりしていると一日が終わっている。
いつしか笑い方も忘れ、ノラが吸っていた銘柄の煙草を吸うようになった。
泉が苦痛で顔を歪めるたび昔の自分自身を殴っているように感じた。
早く音を上げろ。もう無理、苦しい、助けてと言え。
そうじゃないと俺は殴るのを止められない。自分を殺すのをやめられない。自分もノラも赦してやれない。
馬鹿なことをしたとわかってる。
泉と三上がつきあってると知ったとき、自分の足場が崩れていくのを感じた。
なぜ。どうして。
三上は泉に振り向かない。絶対、絶対好きだと言い返さない。
傷つけられる前に自分が傷つけよう。今までそうしてきたのに。
泉と自分は同じじゃないのに、なぜか同じ道を辿るものだと信じていた。
三上に言われた言葉は図星だった。
泉と接するとむき出しの神経に直接触れられたようになる。
痛くて、苦しくて、なのに彼が傷ついた顔をすると放っておけない。
泉も自分と同じくらい苦しめたいのか、それとも自分と同じにならぬよう守りたいのか、もうわけがわからなくなっていた。
何度も嘘をつき、何度も傷つけ、それなのに泉はこんな自分を赦すと言う。
大馬鹿野郎だ。
汚い人間はごろごろいて、そういう奴らは泉のような人間に寄生し、甘い汁を吸おうとするのに。自分だってそうだ。
泉も重々承知だろう。幼い頃からいじめられていたと言っていた。
人の嫌な面ばかり見せられもうたくさんだと嘆きたいだろう。
それなのにどうしてだろう。泉は今まで傷つけてきた人すべてを赦している気がする。
どうして自分はそんな風になれないのだろう。
なんで今でもノラを思い出すのだろう。
机の奥底にしまっていた名刺を取り出した。
ノラはまだここで働いているだろうか。
決着をつけると泉に言ったけれど、具体的にどうすればいいかわからない。
ただ、放置してきた傷と向き合って、どんな方法でもいいから終わらせたかった。
言えなかった言葉がたくさんある。ノラの気持ちもちゃんと聞きたい。
そうすれば区切りをつけられる気がする。
また間違うかもしれない。子どもっぽい浅はかさで後悔することになるかも。
それでもいい。このままじゃ自分は夜の底に堕ちて這い上がれなくなってしまう。
昏いところと同化してしまう前にどうにかしないと。
折角泉が少し引っ張り上げてくれたのだ。
チャンスはこれきりだと思う。
意を決して電話をかけてみたが、現在使われておりませんと音声アナウンスが流れ、短く舌打ちした。
ネットで店の事務所を突き止め、身支度を整え記載された住所に向かった。
恐らくキャストは事務所に来ないだろうが、もう手掛かりはこれくらいしかない。
雑居ビルを見上げるようにし、ゆっくり階段を上った。
店名も書かれていない、普通のアパートの一室のような鉄製の扉。
この向こうにノラがいるかもしれない。
拳をきつく握り呼び鈴を鳴らした。
すぐに男が顔を出し、こちらを眺めて面接の予約あったっけ?と首を捻った。

「…いえ、面接じゃなくて」

柄の悪い男は訝しむようにし、とりあえずどうぞと扉を開け放した。
中には事務机と簡単な応接セット。
黒い革張りのソファには黒髪の男が座っていた。
柄の悪い男が椅子に座り、それで?と視線を投げる。

「ノラに会いたくて」

「ノラ?ああ、もしかしてあんたもノラに金貸した口?悪いけど、店では立替えてやれねえんだ」

「いえ、金は貸してません」

「じゃあー……デリヘルの客?ブラックリストでも入った?そういう奴とキャストを会わせるわけにはいかねえなあ」

「それも違くて」

それならなに?一体どんな用件で?
ますます視線を厳しくされ、これ以上粘ってもキャストを守る義務のある彼は口を割らないと判断した。
小さく頭を下げ、雑居ビルを出た。
こうなったらデリヘルの客として呼ぶしかない。
溜め息を吐きながらスマホを操作すると、なあ、と声を掛けられた。
顔を上げると、先ほどソファに座っていた男が立っていた。

「ノラ呼んでやる。会いたいんだろ」

「……え」

「会いたいの、会いたくないの」

「…会いたいけど……」

なぜ見ず知らずの男が手を貸すのか意味がわからない。
探るような視線を向けると、男は怪しい者じゃないよと小さく笑った。

「俺はノラの同僚」

「……同僚がなんで見ず知らずの俺を助けてくれんの」

「見ず知らずってわけでもないからかな」

「……どっかで会った?」

「あんたの話しはノラから聞いてたし、一緒にいるのを見たこともある」

「よく覚えてたな」

「目つき悪いガキと一緒にいんなと思ってたから」

この野郎、お前もそんなに歳変わんねえだろと思ったが、ここで彼に盾突くのは得策ではない。
ノラとの繋がりはこの男しかいないのだ。

「一応聞いとくけど、ノラと会ってどうすんの」

「さあ。なにも考えてない。でも会わないといけない気がする」

「……そうか。着いて来い」

男は背中を向け、電話を掛けながら近くのカラオケボックスに入る。
部屋に通されソファに着くと、その内来ると思うと言われた。

「……なあ、ノラはやめておけよ」

男は扉に背中を預け、一重の瞳を冷たくした。

「あれは……普通の感覚の人間が相手にできるような奴じゃない」

「…わかってる」

「ならいい。俺外にいるから」

電気も点けず一人になると途端に嫌な記憶が勝手に再生された。
ノラのためならなんだってする。
どんな気持ちであんなことを言ったのかもう思い出せない。
希望ばかりが詰め込まれた心は、今ではすかすかのスポンジのようになってしまった。
恋がどんなものかも忘れた。
痛くて、辛いばかりで、もう二度と人を好きになりたくないと思った。
誰かに心を明け渡すのは恐ろしい。受け取ってもらえなかったら半身が戻ってこなくなる。
両想いになれたら、相手の半身と自分の半身を交換して一つになれるのに。
そんな賭けにはでたくない。
半分になった心がどんなにすかすかでもいいから、それを大事に守って暮らしたい。
溜め息を吐くと、扉が開く音がし、ノラが顔を出した。
一年前となにも変わらない。
ノラだ。ノラがいる。
来るとわかっていたのに実物を目の前にするとまた思考も言葉も霧散した。

「……ノラ」

「うん。ノラだよ。サイに呼ばれたから来たんだけど君は誰?」

首を傾げる様子を唖然としながら眺めた。
覚えてない。
自分は忘れたことなんてなかった。一日だって。
毎日、毎日、首を絞められ、心臓を裂かれる思いで過ごしてきた。
忘れたい、恋しい、憎い。
繰り返し、繰り返し、ノラを想ってもがいてきた。
ノラにとって自分は明日忘れる程度の、街で擦れ違う人間程度の存在だったんだ。
空っぽの心に隙間風が流れ、なんだかおかしくて笑ってしまった。

「俺のこと、覚えてないか」

「ごめん。俺馬鹿だからさ」

「知ってる。棚からぼた餅は覚えた?」

「あ、その言葉知ってる」

ノラは向かいのソファに着き、それで、一体なんで自分はここに呼ばれたのかと首を捻った。

「ノラに会いたくて事務所行ったらあの人が呼んでくれるって言うから」

「サイの友達?」

「初めて会った」

「ふうん?なんかよくわかんねえけど、客になってくれるってこと?」

「いいや。ノラがどうしてるかなと思ったけど、なにも変わってないんだな」

「んー、そうだね。君といつ会ったのかわからないけど、俺はずっとこんな感じだよ」

懐っこい笑顔、軽い口調。本当になにも変わってない。
変わったのは、変えられたのは自分だけ。
心の底から笑うのをやめ、洞窟のような瞳をして、汚い言葉ばかりを吐くようになった。
ノラの人生において自分は一瞬でも心を揺さぶれなかった。
清々しいほどの完敗。
ここまで寒々しいと後悔も残らない。
一人で勝手に傷ついて、周りに当たり散らして、泉を潰そうとして、なにやってんだろ。
自暴自棄になっている間も、ノラは変わらずのびのび自由に暮らしていたのに。
馬鹿みたいだ。
瞳を伏せると、ノラが突然あ、と声を張り上げた。

「思い出したかも!目付きの悪い高校生!」

指をさされ、今更思い出されてもなあと思う。

「えー、もしかしてまだ俺のこと好きなの?勘弁してよ」

溜め息と一緒にぼやいた言葉に頭に血が上る。
ノラの胸倉を掴み無理矢理立たせた。

「なに。思い通りにならないと今度は暴力?これだからガキは……」

「俺は、俺は……!」

どんな言葉もノラには届かない。悔しくて下唇を噛んだ。

「おい!村上やめろ!」

外にいた男が慌てて間に入った。

「うるせえ!引っ込んでろ!」

突き飛ばすようにすると、男ははっと廊下に視線をやり傍を離れた。

「俺らの顔商品だよ?仕事休むはめになったらどうしてくれんの」

ノラの白っとした態度に奥歯を噛み締めた。
こんなことをしても意味はない。わかっている。
殴っても、痛めつけてもなにも解決しない。区切りにもならない。
だけど、お願いだから俺の痛みを知ってくれよ。
一瞬でいい。辛かったんだと、苦しかったんだと同情してくれ。
それすらくれないこの人に、自分は半身を持っていかれたままどこにも行けずにいるのに。

「お兄さんたちちょっとストップ!」

急に知らない男が胸倉を掴んでいた手を握った。
睨むと、男は東城の制服を着ていた。
誰だこいつと考えた瞬間力が抜けてしまい、そのまま無理に引き剥がされた。

「あーあ、サイの頼みだからわざわざ来たのに。来なきゃよかった」

衣服を整えるようにしたノラは、こちらを見ようともせず部屋から出ていった。
ずるずるとその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。

「……あの、大丈夫です?どこか痛いとか…?」

「……平気。いいから放っておいてくれ」

「そう言われてもなあ。あの人にお前東城だろ、先輩がピンチだ、お前のたっぱならどうにかなる、助けてやれって背中押されて……あれ、いなくなってる」

私服で来たのに、サイと呼ばれた男はなぜ東城だとわかったのだろう。
そういえばさっき自分の苗字を呼んだ。あの時はそれどころじゃなかったけど、どうして知っているのか。ノラも知らないのに。
見かけたことがあると言っていたが、もしかしたら初めてノラに会った日だったのかも。
あの日は制服を着ていて、ラブホには入れないからってノラが抱えている女の家に上げられて、それで、それで……。
芋蔓式に今までの恋しさが津波のように押し寄せ眉根を寄せた。
ぎりぎりと奥歯を噛み締め我慢しても涙が止められず、小さく震えながら嗚咽を堪えた。

「え!?やっぱどこか痛いんじゃないですか!?」

「うるせえ。どっか行け」

「いやいや、この状況ではい、そうですかって言えないでしょ」

小刻みに震える背中を摩られ、温かい掌にますます涙が溢れた。
畜生、なんでこんなことに。
情けない。どこの誰かも知らない奴に慰められるなんて。

「……白石ー、大丈夫か?」

この男の連れだろう。扉からひょっこり顔を出し、心配そうに眉を寄せている。

「ああ、うん。大丈夫だからみんなで先帰ってて」

「でも……」

「本当に大丈夫。な?」

「……わかった。鞄、置いとくな」

「サンキュー」

二人きりになるとそっと手を引かれ、ソファに座らせられた。
ずいとタオルを差し出され、引っ手繰るようにそれを奪って顔を覆う。

「未使用のタオルだから安心してください」

「あっそ」

もう悲しくて泣いているというよりも、今まで我慢してきたものが涙に代わって流れているような状態だ。
壊れた蛇口のように勝手に流れるものだから、無理に止めようとせず力を抜いて好きにさせた。
空っぽになるまで泣けばそのうち止まるだろう。

「水もらってきますね」

律儀な男だ。
敬語を使うということは一年だろうか。
同学年以外の顔はよく知らない。生徒数が多いし、部活動もしていないので覚える必要もない。

「どうぞ」

テーブルにガラスがぶつかる音がし、礼もせずに一気に半分飲んだ。
ちらりとネクタイの色を確認し、やはり一年と知る。
そのまま無言で涙が止まるまで待ち、やっと止まった頃にはタオルがぐっしょり濡れていた。
目が重く、頭も痛い。
こんなに泣いたのはノラに振られた日以来だ。

「……タオル、新しいの買って返す」

「いいですよ。洗濯すれば問題ないでしょ」

「きもくて使えねえだろ」

「そんなことないですよ」

「いいや、買って返す」

「…じゃあ、お言葉に甘えます」

ふんわり笑う顔と、温和な雰囲気に泉を思い出した。見た目は似ても似つかないのに。

「……悪かったな。面倒事に巻き込んじまって」

「いえ。何事もなくてよかったです」

「この歳でこんな泣くなんて。みっともないとこ見せた」

「大丈夫です。慣れてます。試合に負けると結構みんな大泣きするんで。俺もわんわん泣きますし」

でかい図体でわーん、わーんと泣いている場面を想像し、ふっと笑った。

「あ、笑いましたね?よかった」

年下に慰められる状況に耐えきれず、慌てて立ち上がった。

「帰る」

「待ってください。俺も帰ります。えっと、東城の先輩なんですよね?帰る場所一緒じゃないですか」

勘弁してくれ。
さんざん情けない場面を見せて、もう羞恥で顔も上げられない。
できれば自分のことは忘れてほしい。ああ、でも人間心配せずとも人の顔など覚えないのかも。ノラなんて全然思い出してくれなかった。
電車に揺られ、寮までの道すがら、後ろを歩く後輩を振り返った。

「お前、何部」

「バスケ部です」

「じゃあバスケ部のやつにタオル渡しておくから受け取って」

「えー、それはちょっと薄情じゃないですか?先輩が持ってきてくださいよ」

「お前図々しいな。先輩に向かって」

「いやいや、部活の先輩には絶対服従だからこそ、それ以外の先輩には甘えるんですよ」

歯を見せて笑う顔を睨み、ちっと舌打ちをした。
寮の門を抜け、すたすた歩くと、絶対ですよー、忘れないでくださいねー、と背中に声を掛けられた。
無視をして寮の入口をくぐると一気に疲れが押し寄せた。
定まらない焦点でぼんやりと靴先を眺める。
涙と一緒に色んなものが体内から消えてしまった。
もう指先を動かすのも億劫で、霞がかったような頭では上手に整理して考えられない。
区切りになったのだろうか。あんな最後でよかったのだろうか。
わからない。でもこれで泉に応えられる。
粉々になった心は修復できなくていい。
散らばった破片はそこら辺に放り投げたまま、戻って来なくて構わない。
ただ、泉に顔向けできるようになっただけでも無駄じゃなかったと思える。
週末は三上と一緒かもしれないから月曜日、彼とした約束を果たそう。
お昼一緒に食べよう。それが合図と泉は言った。
事情は説明できないが、すべて終わったと報告しよう。
土下座でもして謝りたいが、そうするといいんだよ、大丈夫と言わせてしまう。
そんなのはだめだ。
加害者は謝罪して気が晴れるかもしれないが、被害者は辛い思いを清算した挙句、加害者を慰めるはめになる。
泉は水に流そうと言った。
流せるわけなんてない。一生心の中で悪かったと謝罪して生きていく。
でも泉の前では努めて以前の自分でいようと思う。
ノラと会う前の自分はどんなだったっけ。もう思い出せもしないけど。


END

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