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大好きな人がいた。
泉の言葉を借りるなら彼のためならなにも惜しくないほど。
いつか自分が燃えてなくなるのではないかと思うほど焦がれた。
今では好きが詰め込まれていた場所は大きな傷になり、カサブタすらならずじゅくじゅくと化膿したまま放置されている。
傷は見ないようにしていた。
知らぬふりをして、記憶から消し去ろうともがいて、なのに全然消えてくれなくて、苦しくて苦しくて首に誰かの手がかかっているようだった。
呼吸の仕方を忘れ、こんなに苦しいならもう消えてなくなりたいと何度も思った。
三上のせいで傷の蓋がぱかっと開いた。
平気な顔で掻き回して大層楽しかっただろう。ナイフでめった刺しにされたような気分だった。
これが自業自得というものなのだろう。
ベッドに横臥し、腕を枕にしてゆっくり息を吸った。
瞳を閉じ、厳重に封をした傷にそっと触れるように古い記憶をなぞった。
彼と出会ったのは泉と話すようになる少し前。
彼女と何度目かの退屈なデートを欠伸を噛み殺しながら耐えた。
適当に返事をし、適当に笑顔を見せる。
早く帰りたい。
隣で楽しそうに笑う顔に心は一層冷えていった。
繁華街から少しだけ離れた公園のベンチに並んで座っていると、突然彼女に思い切り引っ叩かれた。
「最低!」
頬に手を添えぽかんとする。
彼女はずんずん大股で去って行き、わけがわからぬまま再び腰を下ろした。
適当に返事をしたのが悪かった。
なにかまずいことを言ったらしい。まったく話を聞いてなかった。
じゃあなにを考えていたかというと、ポアンカレ予想について。ミレニアム懸賞問題で唯一解決されている問題。
退屈なのだから楽しいことを考えたっていいだろう。
そもそも彼女とのデートが退屈という時点でおかしい。わかってる。
深く溜め息を吐くと、煙草の煙と一緒に笑い声が降ってきた。
「お兄さん、あんなこと言ったらそりゃ引っ叩かれるよ」
のろのろ顔を上げると若い男がふっと紫煙を吐き出した。
二十代前半くらいか。少し癖のある髪とさっぱりした顔立ち。
チャラそうというのが第一印象だったが、懐っこい笑顔は不思議と不快ではなかった。
「……俺、なんて言ってた?」
「えー、適当に言ってたの?」
「上の空で」
「あらまあ。彼女、もう許してくれないと思うよ?」
「だから、なんて言ってた?」
「今日家来ない?うん。親いないの。ふうん。もしかして私とそういうことしたくない?うん。なんで?私じゃ勃たない?うん。みたいな?」
一人二役をやってのけられ、額に手を添えながら溜め息を吐いた。
やっちまった。
だからといって惜しいとは思わないし、追いかけて誤解を解こうとも思わない。
昔からこうだ。性的な匂わせを感じた瞬間身を引いてしまう。
無理にがんばればどうにかなるが、がんばらないとどうにもできない程度には苦手。
「結構かわいい子だったのに、勿体ないねえ」
「いいよ、別に」
「最近の高校生は淡泊だなあ」
「淡泊っていうか……」
はっとして口を閉じた。
今会ったばかりの人になにを話そうとしているのか。
「なになに?悩みがあるなら聞いてあげるよ。ここで会ったのもなにかの縁だし、知らない人だから話せることもあるでしょ!」
男はへらっと笑いながら隣に腰を下ろした。
「思春期の悩める男子高校生の力になるのも大人の役目」
適度に力の抜けた話し方にこちらまで脱力する。
「暇なの?」
「実は暇なの。仕事だったんだけど、ドタキャンされちゃってさ。どうすっかなーって煙草吸ってたら面白い修羅場が目の前で繰り広げられてた」
「ホスト?」
「惜しい。デートクラブ。お金もらって女の人とデートするの。だから女性に関する悩みなら聞けると思うんだよね」
「それってセックス込み?」
「人による。表向きはダメだけど、金と引き換えにやってる奴もいるよ」
「あんたは?」
「俺は勿論するよ!セックス好きだしついでに小遣い稼ぎにもなる」
にかっと笑った顔に馬鹿っぽいと呆れ交じりの溜め息を吐いた。
「あ、なにその顔ー。見下されてる感?彼女に最低!って叩かれたくせにー」
「いや、セックス好きって羨ましいなと思って」
「なんで?君は嫌いなの?」
「嫌い……なのかな。苦痛」
言うと、信じられないとでも言いたげな表情でじっくり眺められた。
「なに」
「いや、最近の高校生はすごいなと思って。俺が高校の頃なんてもう盛った動物みたいに……あ、今もだった」
こいつ、本当に馬鹿だ。
馬鹿だけどとても自由だ。
背中に羽根が生えていて、何処へでも、誰とでも関わって、自分の好きなことを仕事にして、胸を張って生きている。
愛嬌のある笑顔は人好きするだろうし、話術で女性を退屈させることもなさそうだ。
「んー、じゃあ女がだめなら男と試してみたら?」
「……は?」
「だから、男。俺と試してみる?」
昼食に誘うかのような気軽さに一瞬言葉の意味を理解できなかった。
返事できずにいると、彼は首を捻りながらああ、と合点がいったように話し始めた。
「うちのオーナー、SMクラブとか男専門のデリヘルとか、まあ風俗関係を色々経営してんだけど、俺はデートクラブとデリヘルどっちにも在籍してんだ」
頭の中に無理に情報を流し込まれる不快さに眉を寄せる。
「俺も最初は女の子だけだったけど、ある日気付いたんだよね。男も相手にできたら二倍楽しめるじゃんって。我ながら天才だと思ったね。お尻開発すると女相手にするより気持ちいいっていうし、興味もあったし。性感マッサージのお姉さんに開発してもらって、今では立派にネコもできる身体になったというわけさ」
「ネ、ネコ……?」
「えっと、女性側っていうのかな?突っ込まれるほう!」
あっけらかんと言われ頭痛が響く。
世の中にこんな馬鹿が存在するとは思わなかった。
正気を保つため素数でも数えようとしたとき、彼がずいと顔を寄せてきた。
「世の中色んな人がいるからね。俺みたいにどっちもいける人も多いよ。女性寄りだけど男もいけるとか、その逆とか。君も自分で気付いてないだけでそういうタイプかも」
「そんなわけ…」
「はっきり言えるくらい試した?その可能性にも今気付いたでしょ?別に恥ずかしいことじゃないし、自分の性的嗜好に早い段階で気付けるっていいことだと思うけど?」
畳みかけるように言われ、そうなのかと嫌な汗が滲んだ。
「だからこそ試してみる?って言ったんだよ。まったく反応しなければ君は立派なヘテロセクシャル。ただ単にセックスに興味がないだけの男の子」
「もし俺があんたとできたら?」
「バイセクシャルかな。まあ、そこら辺の定義は細かく色々あるけど、どっちも愛せるお得な人間」
「お得って……」
「お得でしょ?」
「雌雄同体みたいなこと?」
「し、しゆ……?」
「あー、なんでもない」
同性愛に関して偏見はもっていないつもりだった。
所詮他人事で、そういう人もいるんですねー、くらいの軽い認識。
それが自分に降りかかった途端怖くなった。
怖いはずなのに、この男があっさり肯定しながら詮無き事という前提で話すものだから、もしかしたら大した問題じゃないかもなんて錯覚する。
「俺一応プロだし、適当に選んだ奴よりはお買い得だと思うんだよね。あ、性病とかはもってないから安心して。毎月ちゃーんと検査受けてるし」
「別にそんな心配は…」
「だめだめ。そこは大事だからね。セックスを楽しみたいなら性病を移さない、移されないようにすること!」
びしっと指をさされ、勢いに負けてはいと頷いた。
「特別にただでいいよ。高校生から金とれないし、俺も仕事なくなったから誰か探そうと思ってたし。お兄さん目つき悪いけど男前だし。目つき悪いけど」
「二回言うな」
「あ、でも高校生としたら淫行になる?まあいいか」
なんて適当な大人なんだ。
大人として迷える高校生を正しく導くという選択肢はないのか。
そもそも何故する前提で話しが進んでいるのだろう。誰も承諾していないのに。
「じゃあ行こうか」
「ちょっと待て、俺は……」
「お試しなんだからそんな硬くならないでよ。試食するのに迷う人いる?はいどうぞってさし出されたらどうもって受け取るでしょ」
「いや受け取らない」
「なんで?」
「食ったら買わなきゃいけないと思うから」
言うと、彼は一瞬ぽかんとしたあと腹を抱えて笑い出した。
「お兄さん見た目に反して真面目だねー。あー、おかしい」
彼は一通り笑ったあと、公園端の街灯を背にふんわり笑った。
「安心してよ。俺は食ったんだから買えなんて言わない。そういうの嫌いなんだ。君は悩みが解決される、俺は気持ちいいことができる。相互利益ってやつ」
「へえ。相互利益なんて言葉知ってんだ」
「あ、歳上を馬鹿にしたな。馬鹿なんだけどさ。でもセックスは上手だから安心してね」
「はあ……」
「ほら、行くぞー」
腕を引っ張られ強引に立たされた。
そのまま公園を抜け住宅街に進んでいくものだから慌てて背中に声を掛けた。
「ちょっと待てよ!」
「なにー?」
「やっぱり名前も知らない相手とそんなこと…」
「えー、そこ大事?まあいいけど。俺のことはノラって呼んでよ」
「ノラ…?」
「そー。オーナーがつけてくれた名前」
「本名は?」
「そんなの知らなくてもできるから大丈夫」
ノラと名乗った男はこちらの名前を聞き返すでもなく、腕を掴んだままアパートの前で立ち止まった。
「あんたの家?」
「違うよ」
じゃあ誰の家だ。
そのまま階段を上り、二階の端の部屋の扉を開けた。
鍵を持ってるのに自分の家じゃないとはこれいかに。
玄関を開けるとふわりとした柔らかな香りが広がった。
柔軟剤と、香水と、それから化粧品が混じった繊細で甘ったるい香り。
全体的に赤と白で整えられたワンルームはどうみても女性の部屋だ。
「どうぞ上がって」
「いや、あんたの家じゃないんだろ」
「うん。俺の家じゃないけど、いつでも来てって鍵くれたから。いつでもいいってことは今でもいいでしょ?」
そういうことではないと思う。
自分がいるときに来てほしいという期待で鍵をくれたのだろう。
それを一晩だけセックスするかもしれない相手とのラブホ代わりに使おうとするなんてクズすぎる。
まったく別世界の人間すぎて思考が交わらずいちいち驚く。
「制服だからラブホは無理だし、青姦は刺激が強いかなと。残るは家しかないから一番近いとこ選んだ!」
口ぶりからして他にもそういう家があるのだろう。
気紛れで寄ったり、寄らなかったり。そのとき一番都合のいい部屋へ行き望むものを頂戴する。ああ、だから野良なのか。
納得していると再び腕を引かれ、モヘアの真っ白なクッションの上に座らせられた。
「ここでやるのは無理」
「どうして?」
「倫理観ゼロ?罪悪感とかないの?」
「悪いことしてないのになんで?」
「だってここに住んでる人はあんたが好きだから鍵をくれたんだろ?そんな人の部屋で別の男とやるなんて…」
「なにがいけないの?」
「なにがって……」
「だって俺は好きだなんて一度も言ったことないよ。あっちが勝手に好きなだけで、それって俺に関係ある?」
本気でわからないのかと口をあんぐり開けた。
もはや宇宙人だ。
言葉は通じているのにまったく噛み合わない。言いようのない気持ち悪さに背筋が粟立つ。
理解できないものは否定したくなる。それと同じくらい知りたいと思ってしまう。
「余計な話しはいいよ。面白くないし。あ、家主は今の時間仕事中だから安心してね。じゃあちょっと準備してくるから逃げたらだめだよ」
返事をする前に携帯や財布をポケットからぽいと放り投げ、風呂場へ消えてしまった。
暫く自失し、はっと我に返る。
俺は一体なにをしているんだ。口車と強引さに乗せられこんな場所までほいほい着いて来て。
ふざけんなと腕を振り払うこともできたのにしなかった。
どこかおかしいのだろうと思い続けた疑問の答えが見つかるかもしれないなんて期待して。
自分がそうであるなんて考えたこともなかった。
体育の着替えやプールの授業、男の裸なんて見慣れたもので、勿論ときめいたこともない。
かといって女性の身体に興味があるかと聞かれても頷けない。
付き合おうと言われればいいよと答えてきた。長続きはしなかったし、セックスもつまらなかった。人を好きになるってこんなもんかと落胆もした。
今日、万が一彼とできたら今までの人生がぐるっと反転する。
怖いような、自分が当てはまるカテゴリーを知って安心したいような、感情が複雑に入り混じる。
胡坐を掻きながら頭を抱えるようにすると、ちゃんと待ってて偉いねと肩を叩かれた。
はっと顔を上げると、彼は出て行ったときと同じようにきちんと洋服を着ていた。
てっきり裸で出てくると思ったのに。
「じゃあ始めよっか。まずは尺してやろう」
「俺も風呂入ったほうが…」
「いやいや、若い高校生の汗の匂いとか興奮すんじゃん?」
「変態かよ」
「まあまあ、細かいことは気にしない。あんまりあれこれ考えると人生つまんなくなるよ?もっと適当に、楽しくいこうよ」
言うが早いかベルトを引き抜かれ、ズボンのボタンとジッパーを下げられた。
「ちょっと…」
「大丈夫大丈夫。お子様には真似できないテクニックを披露してやる」
ぱくっと口に含まれ、そのあとはなし崩し。
自信満々に言うだけあって、恐ろしい快感の波に頭から浸かった。
ノラは性的嗜好を確かめるためだからと、自分の身体を少しも隠さず、すべてを曝け出し、それでも萎えるどころか早く先に進みたいとがっつくように覆い被さった。
一度じゃ足りず、もう一回と強請り結局三回した頃ノラがギブアップと音を上げた。
「若さってすごいね。腰立たない」
ノラがベッドに腹這いになりながら言い、するりとこちらに手を伸ばした。
「確かめられた?」
「……どうだろな」
「こんだけしといてそりゃないでしょ」
「ノラがうまかったから反応しただけかも」
「それはない。完全なヘテロは好きでもない男の身体なんて抱けない。フェラに反応しても同じモノがついてるの見えた時点でしおしお元気なくなるよ」
「そういうもん?」
「そういうもん」
「じゃあ俺もあんたと同じでどっちもいけるってこと?」
「そう思うよ。よかったね、当たりだよ!人生二倍楽しめる!」
「お気楽だな」
「落ち込むことある?」
「そりゃあ、まあ、人と違うわけだし…」
ノラは狭い箱の中で生活してれば人と違うことに恐怖するものなのかなとくすりと笑った。
「世の中、君が想像するよりずっと特殊な人がいるよ。三者性愛とか、窃視性愛とか、ペドとか。それはもう犯罪だからそうじゃなかっただけよかったじゃん。誰にも迷惑かけないし、打ち首になるわけでもなし」
「……まあ、そうだけど」
心はすっきりと晴れず、小さく溜め息を吐くと思い切り背中を叩かれた。
「好きなだけ悩め少年!悩んだところでセクシャリティは変えられないから無駄だけどねー」
この人を見ていると真面目に考える自分が馬鹿らしくなる。
困ったように笑うと、ノラは少し寝るから十分したら起こしてと言い残し、次の瞬間には寝息を立てた。
最初から振り回されっ放しだ。
自由で、媚びず、直情的で欲望に忠実。
心の底から人生を楽しんでいるとわかる。
浅慮で呆れるところも多いが単純に羨ましい。
制服を着てスマホを眺めた。そろそろ十分経つ。
ふと、彼がテーブルに放り投げた財布から長方形の紙切れが覗いていた。
それを抜き取ると彼の名刺らしく、店名とノラという名前と仕事用の携帯番号が書かれていた。
「……んー、十分経ったー?」
「あ、ああ、経った」
名刺を慌ててポケットに突っ込む。
「んじゃ帰ろうかー。高校生、門限あるもんね」
「もう十一時回ってんのに門限もクソもない」
「まあねー。少年に悪い遊び教えちゃったな。いい記念になりそ」
ああ、本当にこの人はどうしようもない。
どうしようもないところも魅力的に映る奔放さに目を細めた。
駅前で別れ、電車に乗り込み勝手に盗んだ名刺を眺める。
ノラ。
また会えるだろうか。
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