僕らの関係は
帰り支度をし、席を立った瞬間担任に呼び止められた。
少し手伝ってくれと言われ、なぜ自分がと顔を顰めると日直だろともっともな理由を持ち出される。
日直の仕事に教師の手伝いは含まれていないだろと反論したくなったが、あとが面倒なので素直に頷いた。
数十分我慢すれば円滑な学園生活を送れると思えば安いものだ。
下手に目を付けられたくないし、子どもっぽい反抗心から説教をされるのもごめんだ。
上手に立ち回るため時には損も受け入れないと。
そうやって損得のバランスをとって聞き分けのいい子でいるほうが最終的には丸く収まる。
解放されたのは三十分後。
ありがとう、助かったと肩を叩かれ、いえ、と笑ってみせる。
廊下に出た瞬間一方の肩を回し、うんざりした溜め息を吐く。
部活には入ってないし、今日は課題もないし、帰ってもどうせやることもないのだけれど。
一旦教室へ戻るため、人気の少ない廊下を歩く。
開け放した窓の隙間からぬるい風と真琴の声が耳を撫で、窓から階下を眺めた。
真下は丁度中庭で、中庭をぐるりと囲むように建った校舎と体育館を結ぶ渡り廊下がある。
真琴は渡り廊下付近にいた三上に突進するように走り出し、三上は普段の様子からは想像もつかないほど俊敏な動きで渡り廊下と中庭を隔てる腰高の塀をひょいと乗り越え逃げだした。
そんな様子に思わず苦笑が浮かぶ。
以前のように燃えるような嫉妬は形を潜め、代わりにどこか安堵するようになった。
真琴が三上を追いかけるのも、三上がそれから逃げるのも、もう日常の一部だ。
できればもっと、真琴を世界一大事にしてほしいと願わないわけではないが、あれが彼らの形なのだろうと思う。
一見すると一方的だが三上の中には度がし難い真琴への感情が燻ってると思う。
甲斐田があれは救いようがないと困ったように笑いながら話すのを聞くせいもあるし、真琴に刻まれた牽制と執着の証を目にしたせいもある。
三上は三上なりに、わかりにくい形で真琴を愛し、真琴は真琴でわかりやすい形で三上を求める。
凹凸がぴたりと当てはまらない彼らの不器用なお付き合いは、はたから見るとはらはらするけれど。
今日は上手に三上を捕まえられるだろうか。
いつも逃げられると真琴が地団駄を踏むので、勝算があると嬉しいのだけど。
ふっと笑い、もう一度中庭に視線をやると別の人物もいたことに気付いた。
校舎の壁に背中を預け、胸の前で腕を組んだ櫻井先輩と、隣には柴田がいる。
柴田は先輩を覗き込むようにしながらなにかを話し、先輩が小さく頷いている。
あの二人に接点はあっただろうか。
櫻井先輩の交友関係は知らないことのほうが多いが、あまり人と一緒にいるところは見ない。後輩なんてもっての外。
だけど自分の知らないところで三上と繋がりがあったので、柴田と顔見知りでもおかしくない。おかしくはないのだけど。
自分は柴田と親しくない。
外部入学で強面でそれなりに不真面目な格好をし、よくない噂も多く、教師も手を焼いている。
三上と揃って問題児のレッテルを貼られているが、鼻つまみ者の三上と違い、人当たりは悪くないようで交友関係も広い。
同級生から先輩まで広く、浅く、波風立てない程度のお付き合いをし、深く関わるのは三上だけ。そんな印象。
櫻井先輩は話しかける柴田に顔を向け、一瞬だけ小さく笑った。
それに驚き、いや、先輩だって普通に笑うだろと思い直す。
柴田のような強面がくしゃっと破顔すると一気に親しみやすくなるのか、警戒心を解くのが余程上手なのか。
だけどいつか彼は素の櫻井紘輝は難しいと言っていた。
仕事ならどんなキャラクターも演じられるけど、仮面をとるとどうしていいのかわからないと。
確かに彼は喜怒哀楽が極端で、おまけに会話も下手くそだ。
よくよく考えてから物を言うので答えるまでにラグが生じる。
その癖を知らない人は無視をされたと感じたり、愛想のない奴と切り捨てるだろう。
だから柴田はそういう不器用な面を知れるほど彼と過ごしたということで。
一度、心臓が大きく跳ねた。
そこからじわじわ、ゆっくり昏いものが流れ出す。
何度も何度も経験して身に染みすぎた醜い感情。
それを向ける先はいつも三上だった。
なにを捨ててもほしかった真琴に求められる三上が憎くてしょうがなかった。
なのに今はその気持ちが柴田に向かっている。
いやいや、おかしいだろと自嘲気味な笑みが浮かぶ。
腕の中で育てた雛が他の親鳥についていったような感覚なのだろうか。
懐いているのは自分一人なんて驕ったつもりはなかったが、どこかでそう思っていたのかも。
柴田は両手でなにかを測るように輪っかを作ってみせ、次に先輩の腰にその輪っかのまま触れた。
されるがままの先輩は、ふるふる首を振り、ズボンからシャツを引き抜いてぺろんと捲った。
なにをしているんだと前のめりになったが手を伸ばしたところで届くはずもない。
そもそも止めようと思うのが間違いだ。
先輩がくすくすと笑う様子が珍しく、そんな顔、自分にも見せてくれないのにと思う。
このまま盗み見を続けると、どんどんよくない方向に感情が流れそうで慌てて踵を返した。
大股で教室へ戻り、乱暴に鞄を掴む。
昇降口に着く頃にはだいぶ冷静になり、なんで怒ってんだろと自失した。
先輩には先輩のつきあいがある。
誰となにを話しても、どこに行っても、どんな風にじゃれても関係ない。
関係ないことが悔しいと思った。
仕事でもっと際どいことをしているだろう。
女性の細い腰を抱き寄せ、愛を囁き恋人のように振る舞う。
なのにあんな場面を見たくらいでショックを受けるなんてどうかしてる。
なんだってんだと奥歯を噛み締めた。
もやもやと昏い感情が身体の末端までいきわたり、神経が焼き切れそうになる。
真琴に会いたい。
話して、笑顔を見て、心を落ち着かせたい。
だけど真琴は自分の体のいいセーブポイントじゃない。
今頃三上と一緒にいるかもしれないし、こちらの都合に合わせる筋合いは真琴にはない。
言えば恐らく三上を放って来てくれる。わかっているから頼れない。
部屋に帰る前に醜い顔をどうにかしないと。
きっと景吾になにかあったと心配そうに問われる。それになにもないよと笑顔で答えるのも疲れる。
自然と寄ってしまう眉間を親指の腹でぐりぐり押しながら校門を抜けたとき、背後から腕を引かれ振り返った。
今一番会いたくない櫻井先輩が息を切らすように立ち、少し後ろには柴田もいる。
仲良く一緒に下校ですか、ああ、そうですか。
手放そうとしていた苦しさを喉に詰め込まれたようになる。
「声、掛けたのに」
「……すみません。ぼんやりしてました」
俯きながら答えると、櫻井先輩は首を傾げるようにしたあとあの、と言い難そうに言葉を詰まらせた。
「……なにか」
すうっと息を吸い、目一杯の笑顔を貼り付けた。
さっさと終わらせて一人になりたい。
数分の我慢。
今までそうやって我慢に我慢を重ねながら真琴の隣にいた。こんなの慣れっこだと思うのに、どうしてだろう。今日は上手にできそうにない。
「…あの、外国のお土産もらったんだ。すごく美味しいお菓子らしくて。麻生甘いの嫌いじゃないだろ。よかったら一緒に……」
はにかむように俯きがちに話す先輩を冷めた目で見下ろした。
どんな気持ちかも知らないで。
詰るような八つ当たりをしそうになりくしゃりと髪に指を絡ませた。
ああ、全然だめだ。
どうして今日はこんなに感情が大暴れするのだろう。
抑え込んだり宥めたり、そういうのは得意だったはずなのに。
平坦に、なだらかに、真琴以外はどうだっていいやと半ばなげやりな気持ちで他人を放り投げてきたツケが廻ってきた気がした。
「……麻生?」
「……たまには俺以外も誘ってみたら?柴田とか。仲いいんでしょ?」
急にお鉢を回された柴田は俺?と僅かに目を見張った。
「……あ、うん。そうだな…」
沈黙が流れ、柴田が取り繕うように笑顔で先輩の肩をぽんと叩いた。
「俺じゃ嫌?」
「そういうわけじゃ……」
「じゃあほら、」
柴田は先輩の耳元でなにか囁くようにし、先輩もはっと顔を上げ大きく頷いた。
「…じゃあ麻生、またな」
遠慮がちに櫻井先輩が手を振り、柴田と去っていく。
なにやってんだと溜め息を吐き、額に手を添えた。
なんであんな試すようなこと言ったんだろう。
それでも麻生がいいと言ってほしかったのだろうか。
結果、彼は自分が言った通り柴田を誘うような形になり、だけど本当にそれを望んでいたわけじゃないのでしっかりダメージを喰らう。
なら最初から言わなきゃいいのに意地を張って。
自分の言葉や行動で先輩が傷ついたような顔をするととてもかわいそうで、なのにひどく安心する。
我ながら性根が腐ってる。
こんな嫌な人間だったんだ。
先輩といると知りたくない自分、見たくない自分を無理矢理見せられるようで居心地が悪い。
頭を抱え、ずるずるとその場にしゃがみ込みたくなる。
うんざりと溜め息を吐きながら俯きがちに首裏に手を当てる。
一歩踏み出すと背中に衝撃を感じ、振り返ると真琴が拳で軽く背中を殴ったようだった。
「学はっけーん」
えへへ、と笑う顔を見ると感情の水位が急激に下がっていくのを感じた。
「…真琴」
はぐれた親を見つけたような安心感が広がり、なんだか泣きたくなった。
「……三上は捕まえられなかった?」
「なんで知ってんの?」
「廊下から見えたから」
「これで何敗目かもわからないよ」
真琴はやれやれと首を左右に振りながら大袈裟に肩を落とした。
真琴の手に握られたコンビニの袋を覗き込み、やけ食い?と揶揄する。
苦笑した顔を見ながら、どうにかしなきゃと思わない自分を不思議に思った。
以前は真琴がこの顔をするたび思っていた。
どうにかしなきゃ。自分を見てくれ。俺ならもっと――。
今真琴にはどうにかしてくれる人がいる。
真琴が崖っぷちに追いやられたら必ず、周りも自分も顧みず真っ先に手を握ってくれる相手が。
あれこれ最善を考える間にほしいものが手をすり抜けてしまう自分と違い、三上は一瞬で覚悟を決め掴んだら二度と離さない。
その差が今の立場を決めた。
悔しいなと思う。自分にはできない思考、行動、言動。
やっかみに近い感情があるからなおさら三上にきつく当たってしまうのかもしれない。
本当はわかってる。細かい問題はたくさんあるが、三上陽介という男は信頼に値すると。
認めたくはないのだけど。
「学も食べる?」
小袋に入った幼児向けの菓子を渡されありがたくちょうだいした。
「久しぶりに食べた」
「たまに食べたくならない?」
「真琴これ好きだよな。昔もお小遣い握って真っ先にこれ買ってた」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
幼い頃から今まで、真琴と過ごした記憶は数えきれないほどあって、日常の生活の中、ふとした瞬間に思い出す。
真琴はこれが好きだった、これは嫌いだった、あのとき泣いたっけ、あの場所にも行ったっけ。
真琴自身ですら忘れているような、些末な出来事も覚えている。
自分を形作っているのはほぼ真琴で、そしてこれからそうなるのは三上だ。
真琴が消えた今、輪郭だけ残した透明人間のようになってしまった。
なにも今までの思い出や、これからのつきあいがなくなるわけじゃない。
真琴は変わらずそばにいるし、今までもこれからも友人なのだからなにも変わらないじゃないかと言われるかもしれないが、蓄積された感情すべてが無になった。
校門まで他愛ない話しをしながら歩き、シャツを引っ張られるまま東屋のベンチに腰掛けた。
「で、なんで学君はそんな深刻そうな顔をしているのかな?」
唐突に切り出され目を見張る。
「……バレてたか」
「何年一緒にいると思ってんだよー」
えい、えいと突いてくるのをやめろと制しながら小さく吐息をついた。
「…ひどいことを言ったんだ。思ってもないこと。自分がこんな嫌な人間だと思わなかった」
「……じゃあ謝らなきゃね」
なにがとか、誰にとか、余計な詮索はせず、真琴はふんわり笑った。
「間違ったと思ったら回収しなきゃ。そのままにするともっと嫌な人間になるかもよ?」
「それは困るな」
苦笑するとだけど、と真琴は続けた。
「学は嫌な人間なんかじゃないよ。学を一番知ってる僕が言うんだから間違いないんだ」
「……そうかな」
「そうだよ。そりゃ、完璧じゃないかもしれないけどさ」
「真琴のお墨付きじゃちょっと不安」
「なんでだよ!安心保証だろ!」
ぽかぽか叩かれけらけら笑った。
もたもたするのは自分の悪い癖。手酷い失敗で何度も悔やんだ。
なのにまた、考えるだけで行動に移そうとしなかった。
真琴に背中を押されないと簡単な解決策すら見失う。
「じゃあ謝りに行ってくるかな」
「うん。失敗したときのためにもう一つお菓子をあげよう」
ころんと小さなチョコレートを掌に乗せられくすりと笑った。
「真琴も、次は三上捕まえられるといいな」
「今から突撃するんだ」
「めげないなお前」
「後悔したくないからね」
さっぱりとした笑顔に強さを感じた。
三上に関することすべて、ああすればよかった、こうすればよかったと、ともすれば逃げになりそうな道を自ら潰していく。
精一杯やったんだから結果が振るわずとも仕方がないと思えるように。
そういうところ、自分なんかより余程男らしいと思う。
誰だって怖くて逃げ道を残しておきたくなるだろう。振り返ったとき分岐点を想像し、あちらに行っていればきっとうまくいったのにと。
そういう方法は恋愛において悪手らしい。身に染みてわかっている。
真琴も三上もそんな恋愛はしない。
じゃあ先輩はどうだろう。自分はどうなんだろう。
真琴にばかり傾いていた心は、大事な場所を守るように他の誰の侵入も許さず固く閉じたままだ。
上手くいくといいなと真琴の頭を撫で、先輩の部屋の前で立ち尽くした。
ノックをするため手を上げては下ろしを繰り返し、煮え切らない自分にイライラする。
自棄になったように扉を叩くと先輩ではなく柴田が顔を出した。
またお前かと苛立つと、よおと気さくに挨拶され、背後を振り返り櫻井先輩を呼んだ。
「……麻生?どうした」
「…ちょっと、話したいことがあって…」
靴先に視線を固定すると、柴田にぽんと肩を叩かれた。
「俺ら帰るから」
顔を上げると柴田のほかに高杉先輩もいた。
高杉先輩は美味しかった、ありがとうと言い残し柴田と部屋から去って行った。
「…ごめん、先客いたのに」
「いいよ。なにかあったか?深刻そうな顔してる」
真琴と同じことを言うんだなと思う。
恐らくそこまで顔には出ていない。隠すのはうまいほうだ。
なのにすぐに察することができるほど、彼は自分を見てきたということだ。
花が一瞬で開くような喜びが広がり、先輩の真っ直ぐな髪を一束すくいながらごめんと呟いた。
「……なにが?」
「嫌な態度とったから」
「……嫌な態度?」
「柴田誘えばって」
「ああ。気にしてない。いや、誘ったりするの迷惑なのかなって悲しくなったけど、麻生の言う通りだなと思ったから」
「……柴田誘ってよかった?」
「まあ…」
照れくさそうにはにかんだ表情をするのが気に入らず、ぎゅうっと胸にかき抱くようにした。
「嫌だ」
「……嫌?」
「うん。俺が馬鹿だった」
「……よく、わからない」
「俺もよくわかんない」
「なんだそれ」
ぽんぽんと背中を叩かれそっと身体を離す。
「泣きそうな顔」
指の背で目元を撫でられ、その手をとって頬に押し付けた。
「そんなに食べたかった?でももうないんだ」
「…いいよ。ほしいのはそれじゃないから」
先輩は困惑したように首を傾げたが、深くは追求しなかった。
彼にはこういう癖がある。
好きだと言う割に手前で引き返し、無理に奥まで触れようとしない。
恋愛遊戯が豊富ゆえの余裕なのか、それとも下手すぎて戸惑っているのか。
前者ならなんだかおもしろくないし、後者ならめちゃくちゃにかわいいと思う。
「…お菓子、美味しかった?」
「あんまり」
「じゃあ口直しにいいものあげる」
真琴に渡された小ぶりのチョコを彼の口にそっと押し込む。
「美味しい?」
「美味しい」
きゅっと口角を上げた表情に自分の頬も緩んだのを感じた。
意地悪してごめんね。
答えの見つからない、手に余る感情が頭をいっぱいにする。
どうしようと途方に暮れたような虚脱感に襲われるのに、小さな幸福に縋るような彼を見るとそんなの後回しでいいやと思う。
「もう少ししたら一緒に夕飯食べに行こうか」
「…麻生からそういうこと言うの珍しい」
「そうだっけ?」
「うん」
だってちゃんと鳥籠の扉を閉めておかないと先輩は飛び立って二度と戻って来ない。そんな予感がする。
それがどうしようもない焦燥感を引き寄せるのに、どうすればいいのかわからない。
よく知っているような、初めて感じるような気持ちは言葉に変えがたく、名前をつけないと落ち着かない。だけど今はまだ、もう少しだけこのままでいたいと思った。
END
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