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一つの仮説を立て、いやいやまさかと見ぬふりをして、だけどそれが気になって他がなにも手につかない状態が続いている。
部屋に帰りたくなくて脚が竦み、香坂の気配がないと心底ほっとする。
顔を合わせると上手に話せないし視線を合わせることもできない。
そんな日々がどれくらい続いただろう。
数えるのも馬鹿らしくなる。
慰めるような、慈しむような友愛のキスを受けたあの日からろくな会話もないまま、自分と香坂の距離は以前より遠く離れた。
折角近付いた関係性を自らばらばらに壊して少し勿体ないと思う。
だけどやっぱり逃げたくなって今日も楓ちゃんの部屋に避難した。
「薫ー」
ソファで腹這いになっていると背中に肘を入れられた。
「痛いんだけど」
「痛くしてんだよ。お前最近俺の部屋来るのがブームなの?」
「…いいじゃん別に」
「いいけどさ。前はそんなことなかったのに心配になるだろ。なんかあったのかなって」
「心配?香坂さんと会えないから厄介払いしたいだけでしょ」
「かわいくない。昔から弟を大事に大事に想っているいいお兄ちゃんなのに」
その発言には特に返事はせず、ふん、と顔を背け読みかけの本のページをぱらっと捲った。
折角集中していたのに、また頭の中が香坂でいっぱいになってしまい、うんざりしながら本を閉じた。
「……楓ちゃんさあ」
こちらに背を向ける兄に問う。
「なんで香坂さんを好きって思えたの」
「は?なに急に」
兄は思い切り嫌そうな顔をしながら振り返った。
「いや、なんとなく。だって楓ちゃん女の子大好きじゃん。テレビ見ながらあー、こんな子と付き合いてえなー!っていつも騒いでるし」
「俺を節操なしみたいに言うな」
「女の子が好きなんだよね?なのになんで香坂さんを受け入れたの?勘違いとか、嫌悪とか、そういうのなかったの?」
楓ちゃんは思案するように顎に指を添え、小さく笑いこちらを見た。
「……お前は?俺が香坂とつきあってるって知ったときも大して驚かなかったし受け入れたよな。なんで?」
「なんで、って……同性愛は人間に限ったことじゃないし、鳥類から海洋哺乳類までいろんな生物で見られることで、自分の兄がそうでも特に珍しいことじゃないと思ったから…」
「じゃあ同性愛が理解できないんじゃなくてなんで好きを認めたか気になるってこと?」
「……まあ」
「そりゃ、好きだと思ったからだよ」
「は?」
「だから、好きだと思ったから」
「そこに至るまでの過程とか葛藤とかあるじゃん!」
「だって好きだなって思ったらどうしたって好きじゃん。明日から急にチョコ嫌いになれるか?」
「……なれないけど…嫌いにならなきゃいけないなら努力するよ」
「嫌いになる努力?アホらし」
「アホとか言うな」
「俺なら上手くつきあう努力をする。食べすぎちゃだめっていうなら控えるし、砂糖がだめなら他の甘味料で作る。嫌いになんてなれないし、なる必要もない。香坂も同じ」
きっぱり言い切られ喉までせり上がった反論を呑み込んだ。
楓ちゃんなりにたくさん考えたのだと思う。兄は馬鹿だけど一時の感情がすべてな人間ではない。
その上で断言できる答えを見つけたのだ。
だからといって自分にもそれが当てはまるかと言われると少し違う気がする。
それぞれに答えがあっていいはずで、違う人間なのだから思考だって違う。
真っ直ぐ、これだという道を覚悟を持って進める楓ちゃんと、ぐちぐち寄り道しながら考えすぎる自分は正反対なのだから。
「人妻でも好きになったか?」
「は、そんな趣味ありませんけど」
「好きになるのは構わねえけど手出したらだめだぞ」
「それ楓ちゃんが好きなだけでしょ…」
「年上のお姉さんいいよな」
「やっぱり節操なしだ」
脚を三角に折り両手で抱えるようにした。
膝頭に顎を乗せ小さく吐息をつく。
楓ちゃんはにゅっと手を伸ばし、真っ直ぐ癖のない髪を左右にかき混ぜるようにした。
「まあ、俺も色々考えたけど、認めたほうが楽になったことだけは確かだ」
「……楽になる?でも例えば楓ちゃんの片想いだったら認めたほうが辛くなるじゃん」
「でも認めればいつか両想いになるかもしれないだろ。可能性がゼロなんてありえないし」
「ありえるよ…」
ぽそりと呟き瞳を伏せた。
認めたって認めなくたってなにも変わらない。
立場も、関係性も、香坂が想う人も。
兄弟から手を差し伸べられる兄を羨ましいと思った。香坂さんがいるんだから弟のほうを僕にくれたっていいじゃん。
稚拙で傲慢で最低な思考に反吐が出る。
あーあ、とソファに転がると楓ちゃんが腕を引っ張り上げた。
「俺香坂のとこ行くからお前も部屋帰れ」
「弟より恋人をとるのか薄情者ー」
「はいはい。どうせまた弟君と喧嘩してんだろ。さっさとごめんなさいしろよ」
「喧嘩なんてしてない!悪いこともしてない!」
「じゃあもう少し仲良くなれるように笑顔の一つもみせなさいよ」
仲良くなりたくないからこうして避難しているのに。
唇を噛み締め兄を睨むと頬を包まれぐにぐにと揉まれた。
「俺の弟はな、気に入らないことから逃げるほどダサい奴じゃねえんだよ」
ぱっと手を離され、そういう言い方はずるいなと思う。
拗ねて、いじける自分がひどく幼稚に感じる。
諦めて鞄を拾い上げた。
廊下で兄と別れ、自室の前で暫く考え込む。
この先に香坂がいるとは限らない。週末はいないことのほうが多いし、きっと今日もどこかに行ってるはず。
だから大丈夫。
深呼吸をし、ゆっくり扉を開けるとやはりもぬけの殻だった。
安堵と寂しさが半々に押し寄せ、矛盾する感情の真ん中で混乱に脚を引っ張られる。
感情に振り回されて精神的に疲れる。
精神的に疲れると肉体も元気がなくなる。
もう今日は勉強しないで眠ってしまおう。
何度目かわからない溜め息を吐きながらシャワーを浴び、早々にベッドに潜った。
眠っている間はなにも考えずに済む。だから早く眠りたい。
なのにどんなに目を閉じても頭の中で楓ちゃんの言葉が何度も何度も繰り返された。
好きだと思ったらしょうがない。認めたほうが楽。可能性はゼロじゃない。
「……そんなの綺麗事だし」
ごろんと体勢を変え、でも、だけど、認めるわけにはいかないんだと奥歯を噛み締めた。
そんな不毛な場所に自ら突っ込んで行くような勇気はない。
香坂は楓ちゃんが好き。楓ちゃんは香坂さんが好き。僕は……。
兄弟四人で歪な相関図を作ってしまい、なんでこんなことにと後悔ばかりが押し寄せる。
やはり僕は認める努力より嫌いになる努力のほうが馴染深い。
だってつい最近まで大嫌いだった。そのときの感情を思い出せばいいだけだ。
香坂の嫌いなところ。
優しくないし、粗暴だし、優しくないし――。
ループし、あれ、と首を捻る。
改めて考えると思い浮かばないものだ。
小さな理由はどうでもよくて、相性というものが最悪だったのだろう。とにかく気に入らず、後付けでたくさんの理由を追加していく。
そうやって漠然とした嫌いのレッテルを香坂に貼り、反射的に拒絶した。
だけど彼の為人を知るとがちがちに固めたレッテルにぱらぱらひびが入る。
その隙間から本当の彼自身が見え、そのときにはもう遅かった。
恋とはこんな突然、簡単に堕ちるようなものなのだろうか。
ぼんやりし、ふるふる頭を振った。
違う。堕ちてない。恋なんてしてない。あんな奴好きじゃない。
大嫌いな奴がほんの少し優しかったからギャップに驚いて恋と勘違いしただけ。
所謂ゲインロス効果というものだ。
そんなものには騙されない。一時の熱は放っておけばすぐに冷める。
でもあとどれくらい放っておけば以前のように戻れるだろう。
できれば早いほうがいい。明日とか、明後日とか、一週間後とか。
そうだ、もうすぐ夏休みだし、一ヵ月会わなければさすがに勘違いだったと笑えるはずだ。
ぐるぐると益体もないことを考え、時計の針は深夜二時を回った。
フル稼働させすぎて思考が散漫になってきた。ぼうっとするし、身体がだるい。
香坂のせいでこんな風になって、全部あいつのせいだ。なにもかも。
気休めの責任転換をしながらすっと意識を手放した。
目を開け、鼻の奥がちりちりするような痛みに眉を寄せた。
頭が重く、身体がだるくて熱い。恐らく心因性発熱。
車のオーバーヒートと同じ。部品の不具合を無視して酷使して大惨事。
慣れないことを延々と考えたせいだ。
布団をきゅっと握り、熱い息を吐き出す。
隣のベッドは彼が使用した形跡がない。
やはり帰ってこなかったんだ。どこに泊まったのだろう。
小さなことが気になりだし、起き抜けから香坂のことなんて考えたくないとぎゅうっと目を瞑った。
そのとき、開錠する音と彼の声が同時に聞こえ、慌てて背中を向けるようにした。
「――俺今部屋に帰ったばっかりだぞ。……あー、はいはい、わかったから吠えんなよ。着替えたら行く。じゃあな」
携帯を放り投げる音と、彼の小さい溜め息にますます瞳をきつく閉じた。
やめろ、考えるな、もういい加減終わらせないと。
早く何処にでも行ってしまえ。僕の前から姿を消して。
気配だけで心が千々に乱れる。こんな自分は嫌だ。僕は僕のままでいたい。
「……おい、月島」
緩く身体を揺すられ狸寝入りをきめたが、何度も何度も揺するものだから知らんふりも限界で、薄っすらと瞳を開けた。
「……なに」
「こんな時間まで寝てるなんて、具合でも悪いのか?」
「……別に」
ちらっと目覚まし時計に目をやるとお昼近かった。
寝すぎだろと自分に呆れる。
「でもちょっと顔赤くないか?お前季節の変わり目は必ず風邪ひくんだろ」
「そんなんじゃないから」
僕のことなど気にせず早くいなくなってほしい。
具合の悪い原因がそばにいたらひどくなる一方だ。
香坂に向けていた背中を強張らせ、布団の中に鼻先を突っ込むようにした。
ふいに額に手が触れ慌ててそれを振り払った。
「やっぱり熱あるだろ」
「ないってば」
「…楓さん呼ぶか?」
「うるさいなあ!僕のことは放っておいてよ!」
はっと我に返り、慌てて香坂を振り返った。
香坂は呆れ交じりの溜め息を吐き、首裏に手を当てた。面倒くさいという気持ちがありありと伝わり瞳を伏せた。
謝らなきゃ。折角気にかけてくれたのにこんな言い方はない。
「あ……」
だけどなにをどう言えばいい。ごめんの一言が出てこない。
口を開けては閉じを繰り返しているうちに香坂は鞄を拾い部屋から去った。
閉まった扉を茫然と眺め、諦念するように口角を上げる。
のっそりと身体を起こし、三角に折った膝に額を乗せた。
これでいいんだ。香坂は僕を嫌い、僕も少しずつこの気持ちを手放す。
そうやって来年には同室も解消され、二度と口を利かなくなる。
それが一番正しい道で、自分にとっても最善だ。
なのにどうして苦しくなるのだろう。
理性の上での最適解と感情が求める答えは正反対だ。
ゆらゆら、天秤の真ん中でどちらにも傾けず両手を引っ張られる。
もう嫌だ。人なんて好きになるものじゃない。
欠陥人間と詰られてもいいから恋なんて一生したくない。
なにかから逃げるように両耳を塞いだ。
こつんと頭に何かがぶつかった感覚ではっと顔を上げた。
「とりあえずスポーツドリンク買って来たから飲め」
なんで、なんで、なんで。
熱でまともに思考できず、もうぐちゃぐちゃに散らばった感情が暴風の中でもみくちゃになる。
「ほら」
香坂はキャップを開け、手に握らせ、ボトルの底を上げるようにして飲ませてくれた。
冷たいスポーツドリンクが喉を通った瞬間、首を絞められたように苦しくなる。
「……なんで戻ってきたの」
「病人放り投げるほど冷たくない」
「あんなこと言われて世話焼くなんてお人好しにもほどがある」
吐き捨てるように言うとくしゃりと髪を撫でられた。
「…やめてよ。お願いだから優しくしないで」
傲慢で粗暴なところが嫌いだった。
なのに優しくされたら折角かき集めた理由がなくなってしまうじゃないか。
僕は僕でいたい。
なのに彼の前ではどれが本当の自分かわからなくなる。
喉が熱い、痛い、苦しい。
じんわり涙が滲みそうになり、慌てて布団に顔を伏せた。
もうすべての感情を手放したくなる。
「甘ったれのくせに意地張りやがって」
やんわりと背中を摩られ、もう寝たほうがいいと横になるよう促される。
ベッド脇にしゃがんだ彼をぼんやり見上げた。
大丈夫と言う代わりにぽんぽんと布団の上から叩かれ、心地いいと思った瞬間、ごめんと小さな謝罪が口から零れた。
「ひどいこと言ってごめん…」
「いいから」
「よくない。僕は、僕は……」
「熱のせいで気が立ってただけだろ」
「……違うよ」
「違くない。熱だからしょうがないって思ってればいいんだよ」
香坂はだからもうなにも考えるなと言い立ち上がった。
「ど、どこ行くの?」
「コンビニ。なんか買って来る」
「でも……」
「ちゃんと戻ってくる。待ってろ」
「…うん」
先ほどとは違う感情で扉を眺めた。
優しくしないでと言ったくせに優しくされると嬉しくて。
誰もいいわけじゃない。香坂から与えてほしいんだ。
飢餓状態で与えられた小さな飴玉のように身体の隅々から心の輪郭までじんわりと解し、急速に吸収されていく。
恐ろしいと思うのにどこか甘酸っぱい。
こんな気持ちになるのに好きじゃないと突っぱねるほうがどうかしてる。
なのに認めた先にあるのもまた地獄。
同じ地獄なら開き直って過ごすしかないのかもしれない。
この先どれほど傷つき、どれほどの痛みを覚えるのか考えるととても怖い。
未知の領域に脚を突っ込んだばかりで、知らない感情に右往左往してみっともなく醜態を晒すのだろう。
月島薫の仮面がぱらぱら崩れ、面倒で手に余る無様な男に成り下がる。
悪寒がするほどぞっとする。
一人きりでいればやっぱり引き返そうと思えるのに、香坂の顔を見ると引き返した場所からすごい力で元の場所に戻される。
コンビニの袋を持って大人しくしてたかと嫌な笑みを浮かべるその憎たらしい顔すらも愛おしくなってしまう。
君の優しくないところが大嫌いだった。
だけど君は最初から優しかった。本当はわかってた。
むきになって反発して、もしかしたらこれからもその癖は直らないかもしれない。
だけど香坂。君に好きになってもらえるなんて期待はしない。
可能性はゼロじゃないなんて前向きには考えない。
「お前これ好きだろ?」
薄紅のゼリーが入ったプラスチックをゆらゆら揺らされ苦笑した。
「……好きだよ」
好きだよ、香坂。
地獄の門がゆっくりと開く音が聞こえた気がした。
END
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