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くそったれ。
叫び出したいのを堪えながら階段を上った。
だん、だん、と無駄に体重をかけてしまい擦れ違う同級生がびくりと肩を揺らす。
香坂さんの足元にも及ばない。
言われ慣れた言葉は、ああ、またかと思えるくらいには慣れたものだった。なのに月島の口から出たそれは身体を貫通せず心の中心に居座り続け、頭の神経を焼き切るくらいに苛立たせる。
月島は違うと思っていた。
兄と弟という括りで自分を測らず、香坂京ただ一人として対峙していると信じていた。
変に媚びた様子もなく、比較して嘲笑うこともない。
それを心地よく感じ始めたのはいつからだったか。
なのにやっぱり月島もその他大勢と同じ。香坂涼あっての香坂京。身長、容姿、成績、何かにつけて比較され、兄より下回ればまあ、当然よねと同情され、上回れば兄の影響が大きいせいねと囁かれるされる。
誰もが自分の近況を聞く前にお兄さんは元気?と聞く。
話題の中心はいつも兄で、笑えない悪戯をしたところでやんちゃなのねで済ませられる。
華があり、しゃしゃった様子がなくとも自然と人の中心にいるような人間。
兄に頼ればどうにかなるという安心感と、何かおもしろいことしてくれそうという期待でみんなわくわくした顔をする。
悪くはないけど兄と比べると一歩劣る弟というレッテルをいつしか受け入れ、劣等感や嫉妬心を抱く方が疲れると諦めていた。
なのに月島のせいで嫌な記憶が呼び戻され、頭の中が他人の声でいっぱいになる。
もううんざりだ。
醜い自分と対峙したくない。狭量な人間だと再認識したくない。
誰の目にも触れたくない。兄を誰一人知らない場所に行きたい。
何処に逃げても自分が兄の影を追っている限り逃れられない。周りが悪いわけじゃない。自分が卑屈になるせいだ。
心を立て直そうとして、月島の言葉がそれを阻む。
不機嫌を隠さずに席に座り頭を抱えた。
大丈夫と問う友人に仕種だけで応え、五限も六限もぼんやりしたまま過ごした。

「京ー、どっか行く?」

「あー…どうすっかな」

すいと窓の外に視線をやる。
部屋に戻りたくない。月島と顔を合わせたらどんな酷い喧嘩に発展するか。
別に月島は悪くないと思う。あれが素直な感想なのだろうし、それに苛立つ気持ちは自分で整理し彼に当たるべきじゃない。
頭でわかっているが、恐らく対峙すれば酷い態度をとるだろう。

「何か食いに行こう」

友人数人にくいっと制服を引っ張られ、気乗りはしなかったが鞄を持って立ち上がった。

「てかさ、俺らと遊んでていいの?彼女は?」

「今喧嘩中ー」

「またかよ。今月何回目?」

「んー…三回目?」

「どうせお前が悪いんだろ」

はしゃぐ友人たちの背中を眺めながら弾む会話をぼんやり聞き、重苦しい心に比例して足取りも重くなった。

「なあ京」

友人の一人がこそこそと耳打ちしてきたのでそちらに集中すると、お前の同室者昼間派手に兄弟喧嘩したらしいじゃん、と言われた。

「あー、まあ、男兄弟なんだし喧嘩もするだろ」

「そうなの?俺男兄弟いないからわかんねえなー。京も先輩と喧嘩する?」

「するよ、普通に」

「うわ、香坂先輩怒ったらめちゃくちゃ怖そう」

「さあ、普通だと思うけど」

「そもそもお前ら兄弟一緒にいるとこあんま見ないしな」

「あんま一緒にいねえからな」

「仲悪いの?」

「普通」

せめて友人といるときくらい兄の話しは勘弁してほしいが、皆兄の生態に興味津々で悪意なくなんやかんやと聞かれる。
いつもなら適当に流すのに、ささくれ立った心は余裕がなくすべてを正面から受け止めてしまう。

「どこ行くー?」

前を歩いていた二人がくるりとこちらを振り返ったおかげで兄の話しは流れ、それに安堵しながら靴を履き変えた。
ズボンに両手を突っ込み、俯きがちに昇降口を抜けると、隣にいた友人があ、と声を上げながらぴたりと止まった。

「月島ー」

ぎくりと肩を揺らしながらそちらを見ると、月島が締め切られた扉に背を預けてこちらを眺めていた。一瞬混じった視線を不自然に逸らす。

「どしたの?誰か待ってんの?」

先日ジュースを奢ってもらってから、この友人は月島と挨拶程度の会話を交わす仲になったらしい。

「おい、行くぞ」

「なんだよそんな急かさなくても…」

「……香坂を、待ってた…」

消え入りそうな声で言われ眉間に皺を寄せた。
わざわざこんな場所で待たずとも部屋に行けば会えるだろう。そもそも待たれる理由が見当たらない。
怒りが身体を支配する前に立ち去るのが吉と判断し、聞こえないふりで踵を返す。

「おい京!月島が――」

「うるせえな俺は用ねえんだよ」

ああ、だめだ。友人にまで当たってしまった。
この友人は平和主義者なので殺伐とした雰囲気が大嫌いだ。いつもにこにこ、楽しいことだけで周りを飾っていたい、そんな風に話していた。

「で、でもさあ…」

「なに、また月島と喧嘩か?」

「お前らも飽きないねー」

揶揄するような口調に苛立ち、片手で髪の毛を掻き回す。

「…悪い、俺パス」

「おい京!」

制止の声を背中で受けながら大きく一歩踏み出した。
態度が悪いのはわかっている。だけど今は一人になりたい。誰といても楽しく過ごせず顰蹙を買う態度や言葉を発しそうだ。
楓さんの顔が見たい。
唯一の拠り所のような、セーブポイントのような、不思議な人。
彼も自分より兄を選んだ一人だが、彼の場合は最初に兄と出逢っていたので選ばれなかったという感覚よりも、純粋に兄には勝てないと敗北を知った方が大きかった。
兄には恋人として、自分は可愛い弟分として、同じように屈託のない笑顔を見せてくれる。
一瞬でぱっとその場が明るくなるあの笑顔と口調が大好きだった。
少しお節介で、真っ直ぐ芯があり、向かい風でも毅然と立ち向かう簡単にぶれない強い心。
こんな人に想われたらさぞかし幸せだろうと思った。
実際兄は幸福にどっぷり浸かっていて、口を開けば楓、楓。
過去の兄を知っている身としては変化に驚きつつ、兄がそんな風に恋愛をできるようになってよかったとも思う。
もう不埒な欲望は抱かないから、たまにへこんだ時くらい彼を頼っても罰は当たらない。
なのにさっきから少し後ろを月島がついて来るのがわかる。
真っ直ぐ楓さんの部屋に行こうと思ったが、まずはこれをどうにかしないと。
寮の門を抜ける前にくるりと後ろを振り返った。

「…なに」

「別に、部屋に帰ろうと思って」

「あ、そ」

視線も合わせず悪態をつく態度にまた苛立ち、ロビーを抜け二年の寮棟の方へ向かおうとしたが、後ろからシャツを引っ張られた。

「どこ行くの」

「別に関係ねえだろ」

「…そうだけど」

「なんだよ」

離せと身体を捻ってみたが、月島はますます力を込めるばかりだ。
本当になんだってんだ。

「ま、真っ直ぐ部屋に戻ってほしい」

「はあ?」

なんで、と促しても月島はそれ以上口を割らない。
何か言葉を発しようと口を開いては閉じを繰り返し、その度こうべが垂れていく。
そんな風にしていると、擦れ違う生徒が訝しんでこちらに視線をやってくる。
面倒になり、舌打ちして月島の手を振り払って自室に進んだ。
相変わらず一歩後ろをついてきて、おまけにじめじめと陰鬱な態度になってきた。
月島のせいで気分がどん底なのに、なんでこちらが気を遣わなくてはいけないのだ。損ばかりしている気分になる。
なら大声で怒鳴って鬱陶しいんだよと言ってやることもできるのにそれもしない。
言えば彼がどんな風になるかわかっているから。
自分たちは憎み合い、罵り合ってるくせに最後の最後に心を砕く。
ここまではセーフと線引きしながら喧嘩をし、相手をずたぼろになるまでは傷つけない。
そんな暗黙の了解を月島は破った。
たまたま聞いてしまっただけなので、裏切られたと思う方が間違っているだろうけど。
あれが本音なんだろと思うと急に心が冷えていった。
部屋に入りベッドに腰掛けると、月島がそわそわした様子で扉の前に突っ立った。

「…で、なんだよ」

一刻も早くこの場を立ち去りたいのに、相変わらず口を開こうとしない。
はっきりしない態度に苛立ち、じくじくと怒りのボルテージが上がっていく。
もういいだろう。十分譲歩したし、我慢した方だと思う。
乱暴に鞄を拾い上げ、月島の隣を通り過ぎようとすると、二の腕をきつく握られた。

「なんなんだよ!用があるならはっきりしろ!」

「ごめん!」

月島は急かされるように言葉にし、握っていた手を力なく下ろした。

「……昼間のこと、謝りたかった…」

「は、そんなこと。別にいいよ。慣れてるし」

本音を醜くコーティングした虚勢で体裁を保つ。こんな術ばかり覚え、自分で自分を傷つけてばかりだ。
月島はぶんぶんと頭を左右に振り、か細い声でもう一度ごめんと呟いた。

「だからいいって」

「よくない!」

「謝られるとますます惨めになんだよ!」

もういいだろと身体を押しのけるようにしたが、待ってと懇願するように縋られた。

「…香坂さんに見透かされた気がして咄嗟にあんなこと言って…」

月島が何を言わんとしているのかわからない。
前後の会話はほとんど聞こえなかった。

「…だから、あれは強がった結果で」

「強がる?」

「…香坂さんが、楓ちゃんが君に心変わりしても納得するって言ってただろ。そんな風に思ってほしくなくて、だから…」

「ああ、大好きなお兄ちゃんが俺なんかとつきあったら嫌だって?」

「そ、そうじゃなくて…」

「安心しろよ。誰もお前の兄ちゃんとらねえよ」

「違う」

ほとんど息だけで言いながら月島は力なく首を左右に振った。

「君をとられると思った…」

何を言っているのか一瞬わからず、ぽかんと間抜けな顔をした。
自分は誰のモノでもないし、とるとか、とらないとか、そういう次元にないはずだ。

「……意味がわかんないんだけど」

「…そうだよね、僕もわかんないや。ごめん…」

言った本人も混乱している様子で、けれど適切な言葉が思い浮かばないようだった。
ただ、どん底だった気分が僅かに浮上したことだけは確かで、傷つけたのが月島なら、掬い上げるのもこいつなんだなあとぼんやりと思った。
馬鹿馬鹿しいと溜め息を吐き、その瞬間、怒りが抜けた身体にどっと疲労が押し寄せる。
ベッドヘッドに背中を預け、相変わらず突っ立ったままの月島にこっちに来いと手招きした。
彼は素直に従い、ベッド端にちょこんと腰を下ろした。

「…君は案外いい男なんだって香坂さんが言ってた。恋人にするなら君の方がいいだろうって。香坂さんが言うならそうなんだろうなと思ったし、楓ちゃんは君を可愛がるから…」

「弟みたいなもんなんだろ」

「き、君も楓ちゃんといるときは楽しそうだし」

「まあ、楽しいな」

「…僕と一緒にいるときは怒ってばっかりなのに…」

「お前が怒らせること言うからだろ」

「……そうだけど…」

ああ、面倒くさい。
お気に入りの玩具を横取りされる感覚なのだろうか。
男二人兄弟で歳が近いとくればその感情は理解できる。月島たちも幼い頃から何かと奪い合って育ってきたのだろう。
三つ子の魂百までというが、高校生になってもそのときの悔しさや敗北感は身に染みており、物から人までとるか、とられるかの物差しで測ってしまう。
兄に与えるなら自分にも当然与えられないと気が済まない。そんな感覚なのだろうが、月島が何を欲しているのかはわからない。
自分は何も楓さんに与えていないし、それと同じく月島にも与えていない。
どこに拗ねる要素があるのだろう。

「…俺は玩具じゃないけど」

「そんなことわかってる」

「なら楓さんにとられても構わないだろ。最初からいらないものなんだから」

「いらなくない!」

想像以上の強い否定にぎょっとする。
それは、ありがとうございますと喜んでいいのか、気持ち悪いと鳥肌を立てればいいのかわからない。

「…いらなくない…」

月島は項垂れるように膝についた手で頭を抱えた。
楓さんの言葉を思い出す。

「薫は本当は寂しがり屋で、賑やかな人たちを横目に見て拒絶される前に自分から孤独になろうとした挙句、悪態をついては虚勢を張るようなどうしようもない奴だ。人を怒らせてどこまで許すか試した後じゃないと自分の本音を言えない臆病者で。だから家族にしか甘えられなかったけど、京には家族と同じくらい甘えてる」

こういうことかと納得し、甘え方が下手くそすぎるだろうと呆れる。
どうして素直に友達になりたいといえないのか。幼稚園児の方がもう少しましな方法で友達をつくるというのに。
自分たちに友情とか、そういった言葉は酷く不釣り合いで、せいぜい喧嘩友達くらいにしかなれそうにない。
それでも、月島にとってそういう存在は必要なのだろう。
ゆっくりと背中を起こし、丸まった月島の背中を数回撫でた。

「…わかった」

「……わかった…?」

「ああ、わかった」

「本当に?」

「多分。でももう少しましな甘え方しろよ」

溜め息交じりに言うと、のっそりとベッドの上を這い、凭れるように上に重なった。
月島は落差が激しい。
子供のようにばーかばーかと悪態をついたかと思ったら、恋人のように触れ合おうとする。
中間というものがなく、それはきっと今まで友情を誰とも育めなかった弊害だろう。
友達というものがどういうものかまったくわかってない。
かといって自分が教える義理もない。
他の人間にも同じように接したら距離が近いとか、気味が悪いと言われるかもしれないけれど。
他の人間――。
そうか、月島は、例えば白石ともっと親しくなったら彼ともこんな風に接するのか。
考えた瞬間、急激に頭に血が上った。
自分もたいがい子供の頃のままで、奪ったり、奪われたりに固執しているようだ。
月島のシャツをぎゅうっと握っていたことに気付き、ぱっと手を放した。

「……どうして放すの」

「別に」

「…なんだかすごく疲れた」

「俺の方が疲れたわ」

「…そうだよね。でも、午後の授業中ずっとなんて謝ろうか考えてて……今度こそ君は許してくれないんじゃないかって怖かった…」

月島は微睡むように覚束無い様子で話し始め、聞いてるという代わりに後頭部をぽんぽんと撫でた。

「……本当に怖かった…」

これが月島の心の内なのだろうか。
何重にも扉を重ね、きつく縛って鍵をして、誰にも踏み込ませまいと高台からぎらぎら見張って、そんな風に隠していた本音。
犬猫に感じるような愛おしさに小さく笑った。
こんな複雑で面倒な人間はいなかった。今でも月島の考えていることはさっぱりわからない。ただ、彼にとって自分はお気に入りの玩具の一つだということはわかった。
考えながら無意識に頭を撫で続けていると、小さく寝息が聞こえた。
この状態で寝られても困る。ごろんと身体を反転させ、手前のベッドで寝ろと言ってやることもできるのに何故かそうしたくなかった。
自分の心も見失いそうで、それが心底怖いと思った。


END

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