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こんこん、こんこん、背後から聞こえた咳に身体をそちらに向けた。
向かい側のベッドをぼんやり眺め、苦しそうに揺れる背中を視界に映す。
寝起きではっきりとしない頭で上半身を起こし、ひたひたとそちらに近付いた。

「…どうしたの。風邪ひいた?」

ベッドサイドにしゃがみ、背中にぴたりと手を這わせると、咳の合間に多分、と返事があった。
最近は昼間は真夏のように暑く、夜になると急激に冷えるを繰り返していた。
けれど部屋の中は日中に篭った熱で熱く、タオルケット一枚を乱雑に被って寝ると夜中に寒くて起きるという悪循環だった。
風邪をひく生徒も増え始め、空気も乾燥していたので喉をやられる者もいた。
自分は季節の変わり目によく風邪をひくので、事前にあらゆる予防をとっていたが、彼は手洗いうがいなんて小学生でもあるまいしと突っ撥ねていた。その結果がこれだ。
馬鹿は風邪をひかない、なんて迷信を信じていたわけではないが、タフな彼もウィルスには勝てないんだなあと当たり前に少し安堵した。
苦しそうに背中を丸める様を見て、ゆっくりとさすってやる。

「…起きた方が楽だよ」

言うと、素直に上半身を起こして乾いた咳を繰り返した。
僕の言葉に従うなんて、相当しんどいのだろう。
彼は喉を包むように手を当てながら痛い、と呟いた。
可哀想に。咳のし過ぎで荒れているのだろう。弱った粘膜はウィルスにとっては天国なので早急に対処しなければ長引いてしまう。
よく風邪をひくからわかる。たかが風邪だと侮るなかれ。結構しんどいのだ。普段健康な人だと余計に辛い。
今は一時休戦で看病してやろう。別に、香坂によく思われようとか、そういう下心があるわけではなく。
とりあえず香坂のベッドの近くに小型の加湿器を置いた。
母から送られてきたものだが、役に立ったのでお節介に感謝する。

「温かい牛乳飲む?蜂蜜入れてあげる」

顔を覗き込むと、彼は眉間に皺を寄せ涙目になりながらこくりと頷いた。
かわいい。
目病み女に風邪引き男という言葉があるけれど、確かに風邪をひいた彼はかわいくて色っぽい。

「…待ってて」

不埒な感情を端に寄せながら簡易キッチンでミルクパンで牛乳を温めた。僕も男なんだなあと実感しながら。
具合の悪い状況につけ込んで押し倒したりなんて絶対にしないが、観賞して楽しむくらいは許されるだろう。
湯気が出たのを確認し、マグに牛乳を移して蜂蜜を垂らした。生姜もあればよかったが、生憎品切れなので今度買って来よう。
自分がよく風邪をひくものだから、母や兄にされた看病の知恵はあるし、道具も揃っている。
マグを彼に握らせ、蒸気を吸った方がいいと言った。

「熱いからふーふーするんだよ」

「…やって」

いつもよりずっとハスキーな声で言い、ずいとマグを差し出される。
しょうがないな、なんて悪態をつきながら可愛いかよと心の中で歓喜した。
調子が悪い時は甘えたくなるものだが、それは彼も例外ではないらしい。
膜を張る牛乳に息を吹きかけ、少し飲んで適温になっていることを確認してから彼に飲ませた。

「…甘くて美味い」

「…うん」

思わずよしよしと頭を撫でそうになり手に力を込めた。
空になったカップを受け取り、のど飴を食べさせる。先ほどよりは咳の頻度も落ち着いたようだが、頻りに喉を気にしているので相当痛めたのだろう。
もぞもぞとベッドに入り直したのでタオルケットの上から毛布を掛けてやる。

「何かあったら起こしてね」

「…ああ」

毛布にすっかり顔を隠した彼の背中をぽんぽんと叩き、自分ももう一度ベッドに入り直した。
いつだったか彼に看病してもらったことがあったなあ、と背中を眺めながら回顧する。
あの時はお互い今よりもいがみ合っていて、顔を合わせればゴングが鳴り、周りからよく飽きないねと呆れられるほど喧嘩をした。
散々な言葉を吐き散らし、時には物を投げたりして、それが今ではどうだ。
香坂は相変わらず僕を嫌っているだろうが、自分はすっかり心が彼に傾いている。
楓ちゃんに接する彼を見る度、自分もそれがほしいなんて。
兄と自分では戦う前から勝敗は決まっているので、夢なんて見ないけど心の端で小さく願うくらいはいいだろう。
彼の寝息が聞こえるまでじっと見つめ、朝日が昇る頃自分も再び眠りについた。


ぱっと目を覚まし時計を見ると十時を過ぎていた。
慌てて身体を起こし、休日だったことを思い出す。
隣を見ると、とろんと零れそうな瞳をした彼と視線が混じった。

「…起きてたんだ。調子どう」

「…だるい」

「…熱計ってみようか」

体温計を渡し、計測する間に歯と顔を洗い身支度を済ませた。
パジャマをランドリーボックスの中に突っ込み、どうだったと体温計を覗き込むと微熱程度だったので少しだけ安心する。

「よかった。熱はあまり高くないね」

毛布を鼻先まで押し上げた彼が怖い、とぽつりと言った。

「何が」

「…お前が優しいなんて怖い」

「はあ?失礼だな。伏せってる人にまで辛く当たりませんけど」

「お前にも一応人の心があったんだな」

感心するように言われ、こいつは僕をなんだと思ってんだと苛立つ。
ここで反論するとまた余計な喧嘩に発展しそうなので、渋々言葉を呑み込んだ。
一応彼は病人だ。微熱といえど声は昨晩と同じようにハスキーだし、身体がだるいのも事実だろう。
いつも迷惑をかけているのは自分の方だ。
体調を崩した時、ストレスが限界値を超え大泣きした時。
だから彼がしんどい時くらい力になろうと思ったが、僕が傍にいたら休まらないかもしれない。
本当に彼の力になりたいと思うなら、今すぐ楓ちゃんをここに呼び寄せた方が得策だろう。
兄は看病慣れしているし、長男気質で困った人を無条件で助けてやるような人間だ。

「……楓ちゃん呼んであげようか?」

顔を斜めにして視線を合わせると、思い切り眉を寄せられた。

「なんでそうなんだよ」

「その方が嬉しいかなって」

「いい。いらない」

「…そう?楓ちゃん喜んで看病してくれるよ?僕は香坂さんの部屋にでも行くから」

言った瞬間、毛布から手が伸びぎっちりと腕を握られた。

「なんで兄貴のとこなんだよ」

「…なんでって、特に理由はないけど、楽だから…?」

香坂さんに対しても然程猫を被らず済むし、恋人の弟として甘やかしてくれるので一緒にいると随分楽なのだ。香坂さんが弟慣れしているというのもある。
香坂は折角の申し入れも再度いらないと突っ撥ねたので、ならばできることはあまりないなと考えた。

「…まあ、君がいいならいいけど。じゃあ買い物にでも行くよ。リクエストは?」

「いらない」

「微熱だし、ちゃんと食べて免疫高めた方がいいよ」

「後でいい」

ぐいぐいと腕を引かれなすがまま布団に引き摺り込まれた。

「…ちょっと、僕に風邪うつるじゃん」

「寒い」

「なら羽毛布団でもかぶりなよ」

「これでいい」

胸に掻き抱くようにして、ぎゅうっと力を込められた。
なんだこの状況と混乱し、身体が硬直する。
つむじに彼が頬を擦り寄せたときには驚きすぎて変な声が出そうになった。
こういう時どうすればいいのかわからない。
恋愛漫画でも読んで勉強しておくべきだった。
身体はぴんと真っ直ぐに固まったまま緊張で心臓が煩いくらい鳴っている。
その内香坂の規則的な寝息が聞こえ、緊張しているのは自分だけかと思うと急に馬鹿馬鹿しくなった。
身体から力を抜き、彼の腕から逃げるようにすると背中を引き寄せられ、起きていたかと顔を見たがやはり眠っているようで。
抱き枕か大きなぬいぐるみか、別の誰かと間違えているのか。
それのどれだろうと逡巡し、三番目だったら死にたくなるなと思う。
恐らく香坂はまだ楓ちゃんが好きなのだ。彼の口からはっきり聞いたわけではないが、兄といるときの彼はとても自然体だ。
無理に力が入らず、声も表情も素で、心から信頼し安堵していると一目でわかるような。
そういえば香坂さんも楓ちゃんと話すときそんな表情をしている。
香坂兄弟を狂わせる我が兄の底知れぬ恐ろしさに呆れ、その魅力が同性にしか伝わらないことに同情した。
身じろぐように動き、顔を上げるとすぐ傍に彼の寝顔がある。
さらりと髪を撫で、僕の前ではいつも眉間に皺が寄っているもんなあと思う。
嫌われていると理解している。
悪態ばかりついて、口から出るのは可愛げない文句ばかり。
そりゃ、嫌いになる。僕だってそんな人間嫌だ。
彼に向ける感情が変わったからといって、すぐに態度を改められず、彼と対峙すると臨戦態勢に入ってしまうのはもう癖で、なかなか直らない。
そのくせ楓ちゃんみたいに接してほしいなんて望むから性質が悪い。
こんな自分じゃ友人とすら思ってもらえないのに。
どう頑張っても同性の自分じゃ望みなしと判断し、ならばこの関係のままでもいいかもしれないと思う。
変に近付いて友人関係におさまったらもっと苦しくなるし、付かず離れず、そうしていればいつの間にか妙な恋心も消えてくれるだろう。
そして次は女の子を好きになって、運がよかったら恋人になったりして。
想像し、現実感がなさすぎて溜め息を吐いた。
彼への気持ちに終止符を打つまではいい。でも僕はこの先同じように誰かを好きになれるのだろうか。
そんな普通の高校生みたいな振る舞いは縁遠すぎて、いまいちぴんとこない。
だから欠陥人間なのだろう。あーあ、と落ち込みそうになり、彼の鎖骨にぐりぐりと額を押し付けた。

「……なんだ」

「あ、ごめん、起こした」

「…いいよ。大丈夫……もっと、こっちに」

腰を引き寄せられひ、と引きつったような声が出た。

「……なに」

「な、なんでもない」

寝惚けているのだろう彼にまともな返事をするのも馬鹿らしいので、身体から力を抜き素直に寄り添うようにした。
耳に熱が集中して痛い。
本当に勘弁してほしい。
恋愛偏差値ゼロな自分はちょっとした接触で勘違いしそうになる。
さらりとした一つ一つの行動に意味を持たせ、天に昇ったり地にめり込むほど落ち込んだり。
これくらい、なんてことないのだろう。
慣れていない自分がおかしいのだから、同じように澄ました顔をしなければ。
それなのに僕は煩い心臓を宥める方法を知らない。なんて子供なのだろう。


いつの間にか一緒になって眠っていた。
目を擦るために身体を離すと背中に回っていた手に力が込められた。

「どこ行くんだよ」

「……どこにも行かないよ」

ならいい、とぶっきら棒に言われ、そんなに寒いのかと首を捻る。
人肌が安心する気持ちはわかるけど、苦しいときは一人で眠った方が楽ではないだろうか。

「…お腹空いた」

ぽつりと呟くと、彼は携帯を操作した後放り投げた。

「君はお腹空かない?」

「空かない」

「あ、そ。僕は空いたんだけど。朝から何も食べてないし、シャツもしわくちゃになっちゃったし、着替えるから一回離れて」

言葉はしっかり届いているだろうに、彼はうんともすんとも言わないし、回した腕を緩めてもくれない。

「聞いてる?」

「聞いてない」

「聞いてんじゃん」

もー、と嫌味を込めて呟いたが効果なし。
こんなに甘えん坊になるなんて、新しい発見に嬉しくなる反面、歴代彼女は大変だったのではないかと同情した。
咳は相変わらずで、背中を撫でながら夜はもっとしんどくなるぞと脅してやった。

「そしたらまた作って」

「牛乳温めたやつ?気に入った?」

「…風邪のときだけでいいけど」

「いいよ。辛いときは作ってあげる」

我ながら甘い。
だって彼がかわいいのがいけない。
すかすかの声色も、潤んだ瞳も、少し上気した頬も。
惚れた弱味というのもある。こんな僕に頼ってくれるなら応えなければ。牛乳を温める程度のものでも。
午後の穏やかな空気、カーテンをひいたままの部屋は薄ぼんやりとして、窓の外では雨が跳ねる音が聞こえる。
膜の中で守られているようで、彼の心臓の鼓動がとても心地良かった。
しゅわしゅわと鳴る加湿器の音がまた眠気を誘い、堕落した休日も悪くないなと思った瞬間、扉が開く音がし、香坂さんが顔を出した。

「買いに行ってやったぞ。わざわざ、このお兄様が」

「あー、そこら辺置いといて」

「置いといて?ありがとうございますは?」

「…しゃーす」

「お前…」

コンビニのビニール袋を机上に置きながら香坂さんがこちらを覗き込むようにした。

「今日は随分仲良しのようで」

はっとして彼の腕から逃げようとしたが、やはり逃がしてもらえなかった。

「違いますからね。これは香坂が寒いと言うので…」

「人肌で温めてあげるねって?その可愛らしさ楓にも分けといて」

「ち、違いますって。香坂が…!」

「はいはい、どっちでもいいけど飯はちゃんと食えよ。じゃあな」

「あ、ちょっと!」

ひらりと手を振る香坂さんに手を伸ばしたが掴めず、すたすたと出て行ってしまった。

「…誤解された気がする」

「兄貴に誤解されるとまずいことでもあんの」

「は?そりゃあ……」

色々と、と尻すぼみになる。
この感情を悟られたくないし、楓ちゃんに吹聴されたら揶揄されるに決まっている。
両肩を掴み、俺が男とつきあってるせいでお前に変な影響を与えたと落ち込むかもしれない。変なところで真面目な楓ちゃんならありえる。
もっと上手に隠せるようにしなきゃ。

「とりあえずご飯食べよう。そしたらもう一回寝よう」

「……わかった」

憮然とした言い草だったが彼は上半身を起こし、香坂さんが渡した袋からヨーグルトを取り出し味がしないと文句を言いながら平らげた。
自分もお弁当を食べ、彼を着替えさせ、自分も皺になったシャツを脱ぐ。
ついでにそのままシャワーを浴びて戻ると、香坂は虚ろな瞳でぼんやりしていた。
熱は夜になると高くなる。きっとまたしんどくなってきたのだろう。
ベッド脇に座り、無理矢理スポーツドリンクを飲ませ、明日も熱が下がらなかったら病院かなと言った。

「大袈裟」

「でも月曜日になったら昼間誰もいないんだよ」

「いいよ別に」

「本当に?随分甘えたな様子だったけど」

「それは……」

言葉を呑むようにしたので、続きを促すように顔を覗き込むとなんでもないと瞳を伏せた。
喉が痛むのにあまり喋らせるのも可哀想で、それ以上は追及せず、熱そうな頬を掌で包むとその手を上から握られた。

「…ほら、甘えたじゃん」

「優しいお前が珍しいから」

「はいはい、すいませんね、いつもきつくて」

「…いいよ。猫被ってない証拠だろ?」

「それは、まあ、そうだけど…」

「ならきつくてもいい…」

彼はうとうとと瞼を落とし、眠いと呟いた。
短い髪を撫でてやり、たくさん寝て早く治せと言ってやると、壁際に身体を移動し、布団を持ち上げ空洞を作るようにした。

「ん」

入れということなのだろう。
小さく溜め息を吐き、わかったよと潜り込む。図体ばかりでかい五歳児だなと呆れ、もし彼の同室者が別の誰かだったら、その人にも同じようにするのだろうかと想像して勝手にイラっとした。
こんな奴と同室など、なんてことしてくれたのだと憤っていたけれど、今は香坂さんに感謝している。
彼のTシャツをきゅっと掴むと頭上でくすりと笑った気配があった。

「…甘えたなのはお前の方だと思うけど」

「なに言ってんの」

「わかってないならいい」

「君の勘違い」

「はいはい、おやすみ」

宥めるように背中をさすられ、これじゃあ立場が逆ではないかと思う。
風邪をひいてる内にもっと、際限なく甘やかしてやりたかった。何か理由がなければできないから。
身体がしんどいんだからしょうがないとか、病人には優しくしなきゃとか、もっともな言い訳を並べなければ彼に微笑むことすらできない。
素直になれる薬があればいいのに。ブレーキを踏み過ぎた心は解除の方法を忘れてしまった。
香坂の寝顔を飽きることなく眺め、本人には悪いけど、あと一日くらい伏せってくれないだろうかと思った。


END

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