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考査期間中、学校が早く終わるのは勉強するためにある。
普段から計画的に勉強していれば前日に詰め込む必要はないし、こちらとしては普段通りで構わないが、自分にとっての当たり前ができない人間は多い。
翌日の科目を数時間でカバーしようと躍起になる生徒を冷めた目で見て無駄な努力をと鼻で嗤う。
HRが終わると同時、鞄を肩に掛けて席を立った。

「月島ー、遊びにいかねー?」

白石に声を掛けられ、彼の背後でにこにこするクラスメイトを一瞥する。
遊ぶために与えられた時間ではないと彼らも理解しているだろうが、普段部活動で忙しいのでこういう機会がないと遊べないのもわかる。

「折角だけど、ちょっと予定が」

外用の笑顔を貼り付け穏便に断ると、白石がえー、と眉を寄せて情けない声を出した。

「そっか。じゃあ今度俺らと遊びに行こうなー」

ぶんぶんと手を振られ、胸の前で小さく振り返す。
白石はクラスメイト数名と連れだって教室を後にし、あんな調子でテスト大丈夫かよと呆れた。後で泣きついてきても僕は知らないからな。
今度こそ鞄を持ち直し昇降口でスマホを眺める兄の背中をぽんと叩いた。

「お待たせ」

「おー、腹減ったからさっさと行こうぜ」

予定というのは兄との食事で、別に友人を優先してもいい程度のものだが、長時間猫を被るのは非常に疲れるので、気負わない関係の人としか食事はしたくない。
駅に向かいながら何処に行く?と顔を覗き込まれ、何処でもいいと適当に答える。
味のこだわりはなく、必要なカロリーを適切に摂取できれば構わない。
できれば楓ちゃんの手料理が食べたいが、それは夏休みに入らないと叶わない。ならばその他は一律どうでもいいのだ。
将来楓ちゃんと結婚する女の人は幸せだ。
リクエストすれば和洋中、なんでも作れるし、おまけに機嫌が良ければデザートまで拵えてくれる。
日曜日の朝、少し朝寝坊した彼女の代わりに目にも楽しいプレートを作ってあげるなんて朝飯前。
そこを全面に押し出せば高ポイントを狙えると思うのだが、兄は料理ができたってなんの得にもならないと言う。

「…今度僕も料理作ってみようかな」

「なに急に」

「別に…いずれ独り暮らしするんだろうし、今から最低限できるようになろうかなって。それに、料理は科学だって言うし、それなら僕でもできるかなって」

「とかなんとか言ってー。胃袋で落としたい女でもできたか?」

にやけた顔を向けられむっと眉を寄せた。
落としたい女じゃなくて男だよ。心の中で返事をし、すぐに訂正した。
別に落としたいわけじゃない。香坂とどうこうなれるなんて思ってないし、多分彼のことは好きだけど、だからといって恋人らしい自分たちを想像すると寒気がする。
ただ、素直じゃない自分でも料理という建前があれば感謝を伝えられる日もくるかもしれないと思った。
料理は手間暇がかかるし、愛情がなければ成立しない。
好きでもなければあんな面倒な作業してやりたいなんて思わない。
香坂さんも楓ちゃんの作るご飯が一番美味しいと言うけれど、それは味は勿論、気持ちがこもっていると理解しているから。
食とセックスは似ていると誰かが言ってたっけ。
自分が調理したものが相手の血になり、肉になるのは悪くない。振る舞えば振る舞うほど、別れた後もその人を縛り付ける呪いになるだろう。
穿った見方をしてしまうのは性分なので仕方がない。少女漫画のようにキラキラ、綺麗な気持ちだけで恋ができない自分は問題があるのだろう。
楓ちゃんは何を食べるか迷いに迷った挙句、何でも揃っているファミレスという平凡な答えに辿り着いたらしい。
席に座り、メニューを広げ魚にしようかな、と言うと肉にしろと止められた。

「じゃあハンバーグ」

「お前ハンバーグ好きな」

「誰だって好きでしょ。夏休み入ったら作って。中にチーズが入ってるやつ」

「はいはい」

「夏休みは毎日楓ちゃんのご飯が食べられる」

うきうきしながら言うと、楽しい夏休みに弟の飯係なんて嫌だと言われた。
どうせ香坂さんは受験勉強で忙しいのだし、地元の友人と適当に遊ぶしか予定がないくせに。
自分といえば、地元にも友人はいないので家から一歩も出ずに勉強という、大変学生らしい休暇になる予定だ。
注文を済ませ、他愛ない話しをしながら食事をし、勉強という現実と向き合いたくない楓ちゃんが帰りたくないと駄々を捏ねるのを宥めながら会計を済ませた。
外はうだるような暑さで、確かにこれは体力をつけないと乗り越えられないとうんざりした。

「…あれ、弟君じゃね?」

立ち止まった楓ちゃんが指差した先を視線で追うと、カフェの前で女性と話し込む香坂がいた。

「あらまあ、綺麗なお姉さん連れちゃって」

ずきん、ずきん、胃の辺りが痛くなってシャツをぎゅうっと掴んだ。
彼女、友人、知り合い、顔見知り、色んなパターンを想像し、どれであっても痛いことには変わりなく、どうこうなりたいなんて思わないと突っ撥ねた少し前の自分を殴りたくなる。
彼は女性に笑顔を見せ、影を選ぶように歩き出した。

「行くよ楓ちゃん!」

「は?ちょっと!」

兄の腕を握り、建物に隠れながら後を追う。

「……なんでこんなストーカーみたいなことしてんの?」

「うるさいなあ」

「弟君の女事情なんて興味ないんだけど」

「僕は興味あるんだよ」

「はあ、そうですか」

一定の距離を保ちながらこそこそとつける。彼は背が大きいので見失わずに済んだ。
路地裏を縫うように歩き、こんな人気がない場所に何の用だと痛みは苛立ちに変わっていった。
そんな権利自分にはないのに。つきあっているわけではないのだから彼の自由を阻害する理由は一つもない。
女性はメッシュレザーの鞄から鍵を取り出し、リモコンを操作してコインパーキングに止めていた車に乗り込んだ。
車で移動されるとこれ以上の追尾は無理だ。
半分諦めたが、香坂は運転席側に回り込み、窓を開けた彼女に一言、二言話し、彼女から小さなショッパーを受け取るとその場を離れるようにした。
彼らが短く手を振り合い、車が発進する。
こちらに向かってきた黒いSUVを眺め、ハンドルを握る女性を見た。
夏でも艶やかな黒髪とVネックのTシャツから覗くデコルテが綺麗だった。
女性の中でも特上であろうその人に劣等感を感じ、こんな感情はおかしいと下唇を噛み締める。

「…帰ろっか」

楓ちゃんのシャツをきゅっと掴み、しょんぼりと下を向いた。

「あー…」

煮え切らない反応に顔を上げると、背後からぽんと肩を叩かれ恐々振り返ると香坂がこちらを見下ろしていた。

「なにやってんの」

「…なにも」

「後つけてただろ」

バレた?とおどけた様子で楓ちゃんが言うと、香坂は兄を見てふっと笑った。
僕には見せない表情、僕には向かない心。
香坂はそれ以上の詮索はせず、兄と並んで駅に歩き出した。
二人の一歩後ろで彼の顔を盗み見て、突然輪の中から放り出されたような感覚に陥る。
兄をとられて寂しいのか、香坂をとられて苦しいのかわからない。
恐らくどちらもだ。
兄以外の人間がどうなっても構わないと思うくらい兄が大好きで、なのに香坂の視線も心も一瞬で奪う兄を憎たらしいと思ってしまった。
そんな自分に愕然とし、こんなに性格が悪い子は誰にも好かれるはずがないと自己嫌悪に陥る。
せめてもう少し兄と顔が似ていたら、香坂も自分に笑ってくれたかもしれないのに。
父似の兄と母似の自分は一発で兄弟とわかるほど似ていない。
それとも性格が似ていれば多少の希望が持てたのだろうか。
ぐるぐる考え、答えのないものを延々と悩むなんて馬鹿らしいと思う。なのにどうして止められないのだろう。
気付いたときには寮のエントランスで、じゃあなと手を振る兄の顔は見れず、俯きがちに手を振った。
香坂は兄が去った瞬間笑顔を消し、あからさまに不機嫌そうな雰囲気に変わった。
なんだよ。少しは僕にも気を遣ってくれてもいいじゃないか。
悲しみはすぐさま理不尽な怒りに変わり、ますます心を絞っていく。
自室に戻り、制服を着替えるふりをして彼に背中を向けた。
こんな日に限って一人にしてくれない。いつもそうだ。
ゆったりした動作で部屋着を纏い、ベッドに腰かけた彼に視線をやらないように椅子に座った。
勉強して、頭をぎゅうぎゅうにすれば考えずに済む。きっとそうだ。
教科書を机上に置くと、おい、と声を掛けられびくりと肩が揺れた。

「……なに」

「今日見たこと、兄貴に言うなよ」

ペンを握る手に力が篭った。
香坂さんに知られたくない理由を探し、恋人はいつも兄を好きになるとぼやいていた彼の言葉を思い出す。
今回の人はとられたくないのか。それだけ大事ということか。
そりゃそうだ。とても綺麗な人だった。年下の高校生なんて相手にせずとも、収入も見た目も完璧な男性がいくらでも寄ってきそうな。
何の間違いか、香坂は兄を好きだと言ったけれど、元々女性が好きなのだし、新しい恋を楽しんでいい。
勝ち目なんて微塵もなくて、惨めに思う方がどうかしてる。
彼女が香坂に手渡した、自分でも知っている有名ブランドのショッパーをちらりと眺め、あちらも本気なのだろうなと推測する。

「おい、聞いてるか?」

「……あ、うん。聞いてる」

「お前変だぞ。暑さにやられた?」

「そんなんじゃないよ」

もやしっ子と詰られると危惧し、ふんと顔を背けた。

「別にいつも通りだし」

慌てて教科書を開き、ペンを握り直した。

「あ、そ」

香坂はベッドから立ち上がり、何処に行くとも告げずに部屋を出た。
扉が閉まる音が聞こえた瞬間机に突っ伏し、あーあ、と心の中でごちる。
もう勉強する気力もない。明日もテストなのにどうしてくれるのだ。
勝手に尾行したくせに、すべて香坂のせい、と責任を押し付ける。
スマホにワイヤレスイヤホンを接続し、趣味じゃないパンクを流した。なんでもいいから脳味噌を情報過多な状態にしたい。
うるさい音楽だなあと眉を寄せ、それでも他に集中していると嫌悪を覚えずに済むので、こういうときに耳障りな音は力になる。
短く吐息を零し、こんな想いをするなんて恋というものはコスパが悪いと思う。
数字やデータで計れないから恋なのだろうが、やはり自分には向いていない。
じゃあやめます、とボタン一つでどうにかなればいいのに、理性とは別の部分が勝手に暴走して自分で止められない。
心は心臓にあるのか、脳にあるのか、そんな問いかけにそりゃ脳だろ、と思っていたが、今はそうと言いきれない。
脳が決めるなら理性で抑え込めるしコントロールができていいのに、逆に己が振り回される。
まるで別人格のように好き勝手に暴れ回るから厄介だ。
もうやだ、とぽつりと呟くと同時、耳に差していたイヤホンをすぽっと抜かれた。

「何がいやだって?」

スポーツドリンクを机上に置きながら香坂が首を傾けた。

「やっぱり具合悪いんだろ。俺に弱味見せたくないとかくだらない理由で強がるのやめろよ」

わかったら飲めとペットボトルを握らせられる。
なんで、なんでお前はそうなんだ。
こちらの気持ちは微塵も察しないくせに、間違った答えに辿り着いて気遣うような素振りをみせる。
そういうところが大嫌いだ。だから好きだと思ってしまう。
泣きたい気持ちになり誤魔化すようにスポーツドリンクを飲んだ。
べたつくような甘さに嫌気がし、どん、とペットボトルを乱暴に置く。

「寝た方いいぞ」

「だから、具合悪くないってば」

「はいはい」

「本当だよ!」

「そんな顔して言われても」

なんでわかってくれないんだ。
心の中すべてを吐露するわけにはいかず、言語化できない気持ちは身体中を急激に蝕んで感情の舵を奪ってしまう。
混乱を極めると自分の身体は涙を流して沈静化を図るらしい。
最近知った新しい事実だが、これが本当に厄介で、涙に変えて吐き出そうとする部分と、泣きたくないと突っ撥ねる部分がせめぎ合い、更に混乱の渦中に叩き落される。
下唇を噛み締めて俯いた。
じわじわと涙腺から溢れる水分は嫌だと言う心につれない態度でぽろり、ぽろりと零れ始める。

「うわ、なんだよ」

「……知らないよ」

「知らないわけねえだろ」

香坂は椅子の傍にしゃがみ込み、膝の上でズボンをぎゅうっと握る手を擦った。

「だから最初から具合悪いって言えばいいのに」

「違う」

「…じゃあなに」

言えない、と首を振る。
一度決壊した防波堤は枯れるまで止まらない。無表情で涙だけつらつら流す僕を香坂は妙なものを見るように覗き込んだ。

「…お前、たまにそうやって泣くよな。なんで?」

「ストレス発散」

「どんなストレス?」

「言わない」

「俺には言えないこと?」

「君に言えることの方が少ないし」

「まあ、そうか」

彼は小さく笑い、ベッドに腰掛けこっちに来いと言った。
熱が出たようにぼんやりする頭で隣に座ると、肩を抱き寄せられぎょっとした。

「ハグするとストレス減るらしいぞ」

「……ドーパミンとオキシトシンが分泌されるから」

「よくわかんねえけど、まあ、落ち着くならいいんじゃね」

「好きな人とのハグじゃないと意味ないし」

「あ、そう。じゃあいい」

ぱっと手を放されたので、慌てて彼にしがみ付いた。

「意味ないんじゃねえの?」

「……ないわけじゃないような気がしないでもない」

「面倒くさ」

呆れたような溜め息にぎゅうっと眉を寄せる。
自分が人一倍面倒な人間だと自覚している。恋を覚えたって素直に受け入れない。
ああだ、こうだと理由をつけて目を逸らし、けれど香坂が離れそうになると嫌だと叫びたくなって。
天邪鬼を極めすぎて苦しくなる。
あの女性は特別なことがなくともこんな風に彼に抱き締められる権利を有している。
体温も、身体つきの感触も、甘ったるい匂いも。
いいな。条件付きじゃないと構ってもらえない自分とは大違いだ。
でもごめん。今だけでも香坂を貸してほしい。

「……これは浮気にならないよね。男同士だし」

「…浮気?お前彼女できたの?」

「僕じゃなくて君だよ」

「…ああ、さっきのあれ。従姉妹だけど」

「い、とこ…?」

「そう。少し早いけど暇が今しかないから兄貴への誕生日プレゼント渡してくれって」

ショッパーを指差され、ぽかんと口をあけた。
ということはなんだ。自分は勝手に勘違いをし、無駄に悩み、無駄に苦しみ、無駄に涙を流したということか。
なんという愚かさ。

「…それならそうと言ってくれれば……」

「言ってくれれば?」

ひょいと顔を覗き込まれなんでもないと俯いた。

「俺に彼女できるのが悔しくて泣いてたの?」

恥ずかしい勘違いを知られたくなくて、無言でぎゅうっと彼のシャツを握った。
ぽんぽんと背中をリズムをつけて叩かれ、彼が欲しいなあと素直に思う。
自分のモノであったなら、苦しさも悲しさもきっと半分くらいになるのに。
ありえない想像をして慰めて、その後もっと虚しくなる。
すりっと胸に頬を寄せると未だに流れる涙を親指で拭われた。

「お前の涙って宝石みたいだな」

「……なに馬鹿なこと言ってんの」

「自分でも思った」

「涙の九十八%はただの水分だよ」

「でもほら、お前睫濃くて長いから涙で濡れるときらきらして綺麗だろ」

くすりと笑われ、なんでそんな優しそうに笑うのと、また涙が溢れる。
楓ちゃんにしか向けられない表情、楓ちゃんにしか向けられない感情、少しでも明け渡されるとますます苦しくなる。
こっちを見てほしいと望んだけど、自分と同じ気持ちじゃないなら嬉しさより悲しさが勝る。
やはり恋なんてろくでもない。
答えが二転三転して一向に定まらず、自分勝手な解釈の上どうにもならない事象を嘆くばかりだ。

「……頭が痛い」

ぐすりと鼻を啜ると、香坂は肩を抱え込んだままベッドに倒れ、ぺたりと彼の上に身体を重ねるようになった。
ぐすり、ぐすり、しゃくり上げるたび背中を撫でられ、心の水位が少しだけ速度を落とす。

「お前をそんな風にできる奴は大したもんだな」

君だよ馬鹿。
心の中で言い、恋愛経験があるはずなのに鈍感な彼が憎たらしくなる。
ああ、そうか。楓ちゃん以外のものに興味がないのだ。
この兄弟は本当に、普通の男である楓ちゃんにぶんぶん振り回されて、男前が形無しだ。

「…もう少しで止まるから、だからあと少しだけ…」

蚊の鳴くような声で言うと香坂が息だけで笑った。

「好きなだけどうぞ」

憎まれ口ばかり叩く自分が弱っている様はさぞかし愉しいだろう。
それ以外の理由がないことはわかっている。なのに都合よく勘違いしたくなる心を止める方法を教えてほしい。
ひどい男。
くだらないと一蹴していた流行りの歌姫の陳腐な失恋ソングが胸に刺さる日が来るなんて知りたくなかった。
背中に回されていた腕に力がこもった気がしたのも、きっと僕の勘違いなのだ。


END

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